17回目 その2
クラスの廊下を歩いていると、ふわりが待っていたみたいに手を振ってきた。
「れーじくん、こっち~♡」
背の高い影が逆光の中でゆらり。文化祭の喧騒の中でも、あの声だけは妙に柔らかく耳に届く。
「どこ行くんだ?」
「“ふわり正室コース”にご案内~♡」
なんだよその名前。けど、腕を取られてゆるゆる歩かされてると、不思議と抵抗する気がなくなる。
たどり着いたのは家庭科室の裏手。いつの間にか、机の上にクッションやらブランケットやらが積んである。
「ふわりが準備してたの?」
「うん~。れーじくん、文化祭は楽しいけど、人多いでしょ? だから“休憩ブース”作ったの~」
半分強引に座らされ、ブランケットを肩にかけられる。
「……なんか俺、完全に介護されてない?」
「ちがうよ~。“正室専用おひざ枕”サービス、始まります♡」
どさっと座って、俺の頭を自然に膝へ誘導するふわり。あったかい布地越しに、ゆったりした体温が広がってきた。
「どう? 硬くない?」
「……いや。むしろ、柔らかすぎて逆に落ち着かない」
「えへへ~♡ れーじくん、可愛い」
指先がそっと前髪をすくい、額に触れる。撫でられるたび、眠気と安心感が溶け合っていく。
「ふわり、こういうの得意だな」
「うん。……れーじくんにだけは、いっぱい甘やかしたいの」
耳元に落ちてきた声が、やわらかいのに妙に心臓を揺らす。
ふと見上げると、ふわりがにこっと微笑んだ。
「ねぇ、れーじくん。高校最後の文化祭だよ? 今日のこと、ちゃんと記録しておこうねぇ~」
「記録?」
「そう、“王宮アルバム”。ほら~」
ふわりの鞄から出てきたのは、いつもの色画用紙に手書きのロゴ。《王宮アルバム・文化祭号》と書かれている。
「さっき杏奈ちゃんと抜け出したのも、ここに書いていい?」
「やめろっ」
「ふふ~♡ じゃあ、ふわりとの“おひざ枕休憩”は、記録確定だね」
シャーペンでさらさらと描き込む姿が、妙に楽しそうで――負けた気しかしない。
「れーじくん、次は“ご褒美メニュー”ねぇ~」
「まだあるのか……」
ふわりはそっとポケットから小さな包みを取り出す。中には、手作りの飴玉。
「わたし、頑張って作ったの。甘すぎないハチミツ味~。舐めながら歩くと、元気になるよぉ」
「……ありがとう」
受け取って口に入れると、ほんのりした甘さが舌に広がる。
「美味い」
「えへへ~♡ やっぱり、“れーじくんの『美味い』は最強”だね」
ふわりは満足そうにうなずき、また俺の髪をなぞる。
「……れーじくん、今日も真ん中にいてくれてありがとう」
「俺の台詞だろ、それ」
「そうかなぁ~? ……でもね、ふわりは、こうして寄りかかってもらえるのがいちばん嬉しいの」
その言葉が、妙に心に残る。文化祭の喧騒がどれだけ遠くても、この瞬間だけは“真ん中”にいる感覚が確かにあった。
「れーじくん、もう少し近く、おいで~」
ふわりの膝に頭を乗せてるはずなのに、さらに抱き寄せられる。俺の額がふわりの胸元に触れて、ほんのり柔らかい感触が広がった。
「お、おい……近すぎるって」
「えへへ~。でも、れーじくん、安心してる顔してるよ?」
そう言って、ふわりは俺の後ろ髪をやさしく梳く。撫でる指がゆったりすぎて、体の力がどんどん抜けていく。
「……確かに、落ち着く」
「でしょ~? わたしね、れーじくんの“安心所”でいたいの」
その声が胸越しに響いて、心臓に近い場所をじんわり掴まれる感じがする。
ふわりの大きな影が、少し傾いて俺を覆った。
「ねぇ、れーじくん。……ちょっとだけ、こっち向いて?」
見上げると、すぐそこに彼女の顔。まつ毛が長くて、目の奥がやわらかく笑っている。
「ん……」
ふわりがそっと唇を重ねてきた。驚くほど軽いタッチなのに、温度だけは鮮明で。甘くて、ちょっと息苦しいくらい。
彼女は一度だけ離れて、またふわりと戻ってくる。
「れーじくん、好き~♡」
声と一緒に、もう一度。今度はほんの少しだけ長めに。
大きな手が俺の背を支えてくれる。抱きしめられる強さは、甘やかすためだけに調整されてるみたいで、逃げ場なんてない。けど――逃げたいなんて思わない。
「ふわり……俺も」
「うん~♡ 聞けて、嬉しい」
そう言うと、ふわりは俺の頬を包んで軽くつつき、「もう一回~」とおねだり。結局、三度、四度と触れるたびに、心臓の鼓動がやたら鮮明になっていった。
「れーじくん、文化祭、いっぱい楽しもうね。……でも、その前に、ちょっとだけ“充電”してもいい?」
「充電?」
「うん。……こうして、胸のとこに、れーじくんの重さを感じてると、すごく元気になるの」
ふわりが胸元を軽く押し当てながら笑う。俺の耳に、彼女の鼓動がゆっくりと伝わってくる。
「おい……それ、逆じゃないか?」
「えへへ~。お互いに“充電”ってことで」
そんなふわりの理屈に、思わず笑ってしまった。
「れーじくん、もっと……こっちに寄ってきていいよ~♡」
ふわりの声は、相変わらずゆったりしてるのに、吸い込まれるみたいに強い。気づけば、俺はもう彼女の胸にすっぽり包まれていた。
柔らかさと温かさが、耳も頬もぜんぶ埋めてしまう。心臓の音が、ふわりの鼓動と少しずつ重なって、混ざっていくのがわかる。
「お、おい……さすがに近すぎ――」
「だめ~♡ 今日は“ふわふわ充電の日”だから。れーじくん、がんばりすぎてるんだもん~」
彼女の胸に頬を押し当てられて、髪をなでられる。ゆっくり、ゆっくり。子守歌みたいなリズムで。
抵抗する気持ちは……ゼロだ。むしろ、心のどこかでずっと求めてた場所に帰ってきたみたいに落ち着く。
「ねぇ、れーじくん♡ ここ、安心するでしょ~?」
「……する。正直、めちゃくちゃ」
「えへへ~♡ やっぱり。……もっと甘えていいんだよ?」
その声が胸越しに震えて伝わってくる。耳の奥にまで甘さがしみ込んで、言葉が上手く返せない。
ふわりが顔を少し傾けて、俺の頭を支えながら囁く。
「……れーじくん、ちゅって、してもいい?」
「えっ……」
返事を待たず、ふわりの唇が俺のこめかみを優しく撫でる。軽く、けれど確実に。
「ちゅ♡ ……ふふ、れーじくん、赤くなってる~」
今度は頬。
「ちゅ♡ こっちも~」
そして、ためらいなく口元へ。
「ん……ちゅ~~♡」
柔らかさと温かさに包まれて、思考が全部、ふわふわに溶けていく。
「れーじくん……大好き♡ ぜんぶ包み込んであげたいの~」
ふわりの大きな腕が俺をすっぽり抱き込む。
胸の奥まで届く甘い圧力。声も呼吸も、彼女の中で響いているみたいだ。
「……ずるいな、ふわり」
「ずるくてもいいよ~♡ れーじくん、幸せそうな顔してるから。それが全部、わたしのご褒美だもん~」
もう、俺は完全に降参だ。
彼女の胸に顔を埋めたまま、目を閉じる。甘い匂いと、甘い温度と、甘い声。どこからどこまでが“俺”で、どこからが“ふわり”なのか、境目なんてなくなっていく。
「れーじくん♡ これからも、ずっと甘やかしてあげるね~♡」
その言葉が、頭のてっぺんから足の先まで、ゆっくり染み込んでいった。
「れーじくん、まだ動かないでね~♡」
ふわりの胸にすっぽり埋もれたまま、俺は完全に身動きが封じられていた。けど、その封じられ方が――嫌どころか、もうこの上なく心地いい。
耳元で、彼女の鼓動が“とん、とん”と一定のリズムを刻んでいる。それがだんだん俺の鼓動と重なっていって、まるでふたりでひとつの拍動を作ってるみたいに感じる。
「……落ち着く?」
「……めちゃくちゃ」
「えへへ~♡ よかったぁ。れーじくんは、甘え上手なんだから」
大きな手が、俺の後頭部をゆっくり撫でる。髪の流れに沿って指が滑るたび、首筋がじんわり熱を持って、肩の力が抜けていく。
「ほら、力抜いて~♡ 全部わたしに預けちゃっていいの」
「……ほんとに、なんでも?」
「うん~♡ ぜんぶ~♡」
ふわりの声は囁きみたいに低いのに、甘さが濃くて、耳奥に直接とろけて落ちていく。
その言葉に誘われるように、俺の身体はさらに深く、ふわりの胸へ沈み込んでいった。
「れーじくん、ちょっと顔あげてみて~♡」
促されて顔を上げると、ふわりの微笑みが至近距離。195センチの影にすっぽり覆われて、俺の世界は彼女で満ちている。
そして、彼女はためらいもなく唇を寄せてきた。
「ちゅ……♡ ん……ちゅ~♡」
長い。ゆっくりで、余韻が長すぎる。
唇同士が重なるたびに、胸に溜めていた息が勝手に抜けて、体温が混ざり合う。
「れーじくん、唇、やわらか~い♡」
「お前のほうが、だろ……」
「ふふ~♡ じゃあ引き分けにしよ~♡」
勝ち負けとかどうでもよくなるくらい、ただ甘い。
ふわりが俺の頬を両手で包んで、もう一度胸元へ引き寄せる。
「ねぇ、れーじくん♡ ここ、安心するでしょ?」
「……正直、もう動きたくない」
「でしょでしょ~♡ 今日はずーっと、ここで甘やかしてあげるからね」
言葉どおり、彼女の胸の奥から響く声が、子守歌みたいに眠気を誘う。
髪を撫でられる。背中をなでられる。頬に軽くキスが落ちる。――その繰り返し。
意識がふわっと軽くなる瞬間ごとに、胸の奥から「れーじくん、大好き♡」って声が聞こえる。
……夢じゃない。全部現実。
「れーじくん、手……」
ふわりが俺の手を取って、自分の胸の上にそっと置かせる。
「ほら、あったかいでしょ~♡」
「……ああ」
「ぜんぶ、れーじくんの安心にしてね♡」
その瞬間、胸の奥まで一気に熱が流れ込んで、言葉が出なくなった。
ふわりはただ、やさしく微笑んで――俺の額に、唇を落とす。
「ちゅ♡ ……だいすき」
囁きに近いその声は、湯気の中で静かに溶けていった。
まるで大きな毛布にくるまれたみたいに、俺の体も心も、すっぽり包まれてしまう。
彼女の体温と甘い吐息が、鼓動のリズムと混ざって、もう何も考えられない。ただ「守られてる」って感覚が全身を満たしていく。
目を閉じると、そっと背を撫でるふわりの手の感触。髪を優しくすくう指先。……全部が安心で、全部がやわらかい。
「……ありがとな」
やっとの思いで言葉を搾り出すと、ふわりは「えへへ~♡」と幸せそうに笑った。
――その笑みが、俺の視界の最後に残った。
静かな余韻が流れて、部屋の空気までも甘く染まる。
気が付けば、心臓の早鐘も落ち着いていて……まるで夢の終わりに引き込まれていくようだった。




