一番だから
ゆっくりと髪を梳かれる感覚に、ユリがゆっくりと目を開いた。
そのまま見慣れた艶やかな黒髪と紅い瞳を捉え、ぼんやりと微笑む。
ヴェルディーゼが行った命令による不都合な記憶の処理。
絶対にユリには抗えないそれを、しかしヴェルディーゼは警戒心を抱いて確かめる。
「ユリ」
「ふぁい……」
あくびを噛み殺しながらの、ぼやけた返事。
ぽやぽやと緩やかに幸せそうな笑みを浮かべるその口元と、半分落ちた瞼を優しくなぞりながらヴェルディーゼが軽く首を傾げた。
そして、愛おしげに瞳を細めながら問う。
「僕に、なにかしてほしいことはある? 今なら、なんでもしてあげる。例えば、そう……質問に答えてほしい、とか」
寝惚けてユリが自分の欲望を優先してしまわないよう、ヴェルディーゼが魔法で意識をしっかりと覚醒してやりながら問う。
そんな言葉を受けて、ユリは自分の顔をなぞるヴェルディーゼの手に擦り寄ってから、その顔を見上げた。
蜜のような甘い金色の瞳が、真っ直ぐにヴェルディーゼを見て――
「じゃあ、甘やかさせてほしいです」
「――え?」
ヴェルディーゼが、覚えていた時の想定とも、覚えていなかった時の想定とも違う願いに目を瞬かせた。
それを眺めながら、ユリは楽しそうにくすくすと微笑む。
そして、ヴェルディーゼの頬に手を伸ばして彼がしてくれたようになぞりながら、確かな声で告げた。
寝惚けた声などでは決してない、意思のはっきりとした声で。
「主様が何かをしようとしているのは、わかりますから。……ぽっかりと、記憶に穴が空いています。きっとそれは、主様が……私の記憶を消してしまったからで。不都合な、記憶だったんでしょう」
「……それがわかってるなら、どうして……」
「教えてくださいってお願いしたところで、願いを叶えるって言葉は履行されてもまた記憶消されるだけですし。今回は、冗談じゃない気がしたので。……どうしても知られたくなかったから、私の記憶があるのかどうか確かめたんでしょう?」
気遣わしげなユリの視線。
それにヴェルディーゼは居心地悪そうに身動ぎしながら、小さく溜息を吐いた。
そして、諦めたような顔をしながら続けて尋ねる。
「……じゃあ、僕を甘やかそうって思った理由は?」
「簡単です。主様は私を関わらせたくなくて、記憶を消しました。それは……悔しいですけど、しょうがないと、思います。私は……技術はあるのに、戦えなくて。血を見るのすら怖くて……関わらせようとしないのは、当然です。はっきり言って役立たずです。足手まといです。……なら、ならせめて……私は、私が今できることがしたい。……烏滸がましい、かも、しれませんけど……それでも」
ユリが身体を起こして、ゆっくりと息を吸った。
そして、慈愛に満ち溢れたその瞳が、真っ直ぐにヴェルディーゼを見つめる。
ヴェルディーゼはその瞳に、酷く不安げな自分の姿が映るのを見た。
「主様を一番癒やしてあげられるのは、私だから。主様が一番安らげるのは、私の傍だから。私が、主様の一番だから。だから、一番の私が、主様が今一番求めているものをあげるんです」
ヴェルディーゼが、くしゃりと顔を歪めた。
タイムリミットは一日だけ。
一日でヴェルディーゼは、クロイレを守り切って、ユリのことも守って、裏切り者を殺さなければならない。
それ自体は、ヴェルディーゼにとって造作もないことだ。
この城にいるクラシロエスに所属する存在は、たった一人しかいないのだから。
そう、ただそれを、殺すだけ。
そのはずなのに。
「……僕は……殺すことに、躊躇いなんてなくて。躊躇ったこともなくて……怖がったこともなくて。これまでも、簡単に命を奪ってきた」
「はい」
「……だけど……わざわざ苦しませるべきではないと、思うから……苦しませずに殺せるのなら、そうしてきた」
「はい」
「……な、のに」
ユリは、ヴェルディーゼの唇が震えるのを、初めて見た。
二人はまだ、長い付き合いというわけでもないのだから、当然ではあるのだが――ヴェルディーゼにとっても、それは予想外のものだったらしい。
ヴェルディーゼは戸惑うような表情で唇に触れ、一度目を閉じてから、またユリを見る。
ユリは変わらず、どこまでも優しい表情でヴェルディーゼを見つめていた。
「……ユリに干渉したあれを、許せない。……許せないんだ。身体を、精神を、魂を、全て……跡形もなく、ぐちゃぐちゃに壊して、殺してしまいたい」
「……はい」
僅かな沈黙のあとに、ユリが変わらない相槌を返す。
それを聞きながら、ヴェルディーゼはぎゅっとユリを抱き締めて、その耳元に掠れる声で囁いた。
「嫌われたくない」
「……」
「そんなことをして、軽蔑されたくない。拒絶されたくない。――怖い」
そんな言葉を聞き、ユリはついに相槌を止めた。
それにヴェルディーゼは震えながら、それでも言葉を続ける。
「嫌われたくない、のに……惨い手段で、あれを、殺してしまいたい。殺したいのに、それをしたら、ユリに……」
「なるほど、堂々巡りですね」
明瞭に聞こえたユリの声に、ヴェルディーゼがゆるりと顔を上げた。
そして、その口元に浮かんだ笑みに目を丸くする。
今の話のどこに笑うような場面があったのかと戸惑いながらヴェルディーゼがそれを見て、唐突にユリに頭を撫でられる。
「主様が、したいようにしてください」
「……ぇ……」
「私は、主様を嫌いませんから。だから、主様がしたいようにしてください。……それを冷静に考えるために、私は全力で主様を甘やかします。私には、それしかできないので」
「……え……ちょ、ちょっと、待って……ユリ……」
元気こそ無いが、幾分が顔色の良くなったヴェルディーゼにユリが笑う。
そして、安心させるように力強くヴェルディーゼを抱き締めて、
「私はもう、主様に毒されていますから。気にしなくていいんですよ」
笑って、落ち着いた声で言うのだった。




