ハンカチと謎の人物
それから屋敷に帰った二人はフィルス家の夫妻とシュエルにとても感謝され、出発は明日の昼まで遅らせることとなった。
大した違いはないのだが、それでもとリュールが望んだのである。
というわけで、リュール救出から時間が経ち、翌日の朝となった今。
朝食前の空き時間にリュールが二人の部屋に遊びに来ていた。
「えへへ。お姉ちゃんっ」
「はい。どうしたんですか、リュールちゃん?」
「あ、あのね。……ぬいぐるみ、取っちゃってごめんなさいの印にね。夜にね、お姉さまと一緒に刺繍を頑張ったの。時間がなかったから、模様はいっぱい付けられなかったんだけど、頑張ったから……受け取ってほしい、の」
「え、夜に……だ、大丈夫ですか? あんなことがあったその日なのに……体調は平気ですか? それに、早く寝ないと隈ができちゃいますよ。早く寝ないと大きくなれませんよ?」
「一日くらい大丈夫だもん」
リュールがそう言いながらぐいぐいとユリにハンカチを押し付ける。
それを困ったような表情で眺めながら、ユリはちらりとヴェルディーゼの方を見た。
その視線に、ヴェルディーゼはきょとんとした表情を見せる。
しかしリュールはヴェルディーゼに見向きもしなかった。
「……私でいいんですか? リュールちゃんとしては、主様に渡したいんじゃ……」
「お姉ちゃんの方が好き!」
「えぇ!?」
「お兄さんのことも、大好きだけど……っ。でも、お姉ちゃんのことも好き! 大好き! それに、これは……お姉ちゃんに、ごめんなさいの印として渡すものだから……だから、お姉ちゃんに受け取ってほしいの……」
そう言って、リュールが上目遣いでユリを見上げる。
その視線を受けたユリは一度蹲り、そっとハンカチを受け取った。
真っ白なハンカチだが、端には可愛らしい花の模様があしらわれている。
少しバランスが悪いが、それもリュールが頑張った証。
綺麗だけでないだけに余計に微笑ましく映り、ユリが小さく笑う。
そして、ゆっくりとリュールの頭を撫でて言った。
「ありがとうございます。大切にしますね。……にしても、今日はシュエルちゃんはいないんですね。……攫われてるとか、ありませんよね……」
「大丈夫だよ! 昨日の夜、私はお姉さまに先に寝てもいいからって言ったのに、最後まで付き合ってくれたの。だから、まだ寝ててね。でも、私は目が覚めちゃったから、お姉ちゃんとお兄さんのところに遊びに来たの」
「ああ……そうだったんですね。シュエルちゃんも凄く心配していましたから……傍で見守っていたかったのかもしれませんね。……あれ? ってことは、シュエルちゃんの傍にリュールちゃんがいないこの状況は不味いんじゃ……」
ユリが呟くと、リュールがハッとして肩を震わせた。
直後、少し遠くから悲鳴が聞こえてくる。
「――リュール!? リュール、どこにいるの!?」
「わ、わわ……! お姉ちゃん、どうしよう……!」
「あー……っと、とりあえず、シュエルちゃんにちゃんとここにいるって伝えに行きましょう! このままだと大騒ぎになっちゃいますよ!」
そう言って誤解を解くためにリュールの手を引いて部屋から去っていくユリを眺めつつ、黙っていたヴェルディーゼが溜息を吐いた。
そして、紅い瞳を鋭く細めながら一人呟く。
「生贄のためじゃ、ないだろうな」
そうして考えるのは、リュールが攫われた理由である。
兎人族という種族のフィルス家。
ヴェルディーゼの見立てでは、彼らを生贄にしたところで汚染はそう進まない。
兎人族などの獣人は、人とそう変わりがあるわけではないからだ。
この世界にとって、重要なのは吸血鬼。
よって、吸血鬼に近しいほど、その汚染が進んでいく。
しかしそれなのに、リュールはクラシロエスに攫われた。
その理由は。
「……どうして執拗にユリを狙うかな。僕を狙わないのは……強いから?」
ユリをおびき寄せるためだ。
そのために、リュールは攫われた。
それをユリに話してしまえば、ユリはリュールに対してとても申し訳なく思うだろう。
それは簡単に想像できたので、ヴェルディーゼが溜息を吐きながら話さないでおこうと決める。
そしてヴェルディーゼは、リュール救出の際の出来事を思い返す。
ユリは知り得ないことだ。
それは、ユリがいない間にあった出来事だから。
他より絢爛な白ローブを纏った細身の人物。
ちらりと覗いた耳は細長く、人ではないことが窺えた。
その人物は、ヴェルディーゼを一瞥して去っていき、それから姿を現すことはなかった。
「……クラシロエスは、吸血鬼だけが上に立つのはおかしいという思想の組織。だから、吸血鬼を嫌い……吸血鬼を近しい種族を嫌っている。……それなのに、あの耳は……」
耳が長い種族は、吸血鬼とエルフ、そして妖精と精霊だ。
その内、妖精と精霊はわかりやすい特徴を持っているので、例の人物はその二つの種族の内のどちらかではないのだろう。
となれば、その正体は吸血鬼かエルフということになるわけだが、吸血鬼はもちろん、エルフもクラシロエスに嫌われているであろう種族である。
エルフは、吸血鬼に近しい種族だ。
故に、クラシロエスがエルフを受け入れるはずがない。
「……考えても仕方ないか。そろそろ食事の時間……ユリを迎えに……いや、リュールとシュエルがいるなら大丈夫か。……気になることもあるし、二人きりになったらちょっと確かめないとなぁ」
ヴェルディーゼがそう呟き、部屋から出て歩いていった。




