29話 赤い糸に吊られしピグマリオン
ハグたんの4人目の友達、マリー。
その本名は山城直江。
彼女は物心のついた時から、自分の父親に対し寝ても覚めても愛してやまないでいる。
だがその矢印を向ける先は血のつながった父だけであり、実の母だったり新しく義父になるかもしれない見知らぬ男達などでは決してない。
「このこと、あとそのこと……あとは、このお人形さんがほしい!」
とあるデパートに整然と陳列されている人形達。
華奢な西洋人形からおめかしした動物など選り取り見取りな中で、まだ大人の腰ほどの背丈しかない彼女は、在庫が有り余っているほどには地味で見窄らしい男性の人形を手に取った。
その傍らで、微笑ましげに見守っている親と見比べながら。
「珍しいね、もっと可愛いお人形さんが欲しかったんじゃなかったかい」
「ううん、これでいいの。だってこのお人形さん、パパとそっくりなんだもの!」
「そういうことか! 直江はパパ思いの優しい子だなぁ」
「えへへ、あたしだって、パパのことが大好きよ」
服装に無頓着でうだつの上がらない風貌であるが、そんな父でも幼い頃から懐いていた。
自分の好みに沿った人形や可愛らしい洋服を選んでくれる。それだけではなく、人形を着せ替えるための洋服まで揃えてくれるから。
「ねえパパ、きょうもあたしとお人形さんで遊んでくれる?」
「もちろんだとも! それじゃあどの役をやりたいかい?」
そうして毎日のように、一緒におままごとで楽しそうに遊んでくれるから。
理解者であり共感者でもある味方。それこそが彼女が何歳になってもパパと呼ぶ父親だ。
父の方も、そんな一人娘の自分に向ける笑顔を見るだけで仕事帰りの疲労も悩みもすっかり忘れられる。
この世のどんな娯楽よりもささやかで至福の時間は日課となったほど。
この娘にして子煩悩の父ありという、黙々と家事をするだけの母に目を瞑れば理想的な家族像であるだろう。
「けっこん、ってなあに?」
絵本で見た単語を示しながら、まだ覚えた盛りの幼稚園児である彼女は父に問いかける。
「それはだね、大好きな人とずっと一緒にいることだよ」
「えっ!? だったらあたしのだいすきなひとはパパだから……うん、パパとけっこんしたい! いいでしょパパ?」
「はっはっは……そうだなぁ、直江がもっと大きくなったら、結婚してパパのお嫁さんにしてあげようか」
「やったぁ! パパとずっといっしょなのね!」
そう小さく柔らかな体で、父の逞しい腕に抱きついて喜びを表現した。
父だからとうに結婚してるだの細かいことは追々にして、子供の冗談だと承知の上で父なりに融通を利かした答え。
なのだが、彼女にとっては人生の方向性を揺るがすほど重く纏わりつく言葉であることを、この時まだ誰も知らなかった。
「おおきくなったらパパとけっこんする……やくそくよ、ぜったいよ!」
家族愛睦まじく、何不自由なく健やかな生活。
この先もいつまでも、大きくなってもずっと、最愛のパパが側にいてくれるのだろうと彼女は信じ、すくすくと育っていった。
ところが、彼女が8歳になった時の頃。
「りこん……何よそれ」
「あら、そっちは教わってなかったのかしら? 離婚は結婚の反対、好きじゃなくなった人と離ればなれに暮らすことよ」
それはあまりにも唐突に、実の母から包み隠さず宣告された。
嫌な想像が働き、段々と鼓動が早くなってゆく。彼女が聞きたかったのは言葉の意味ではない、状況の意味だ。
「だったらパパはどこに……どうなっちゃったの。ねえママっ!」
「あのね、もう離婚してるからパパはこの家には住めないの。でも安心して、これからはママと2人きりで伸びやかに暮らせるのよ」
「ひっ……!」
これまで小さな存在だった母親の影が、一転して自身を覆い尽くすほどに肥大化していった。
母は、最近になって家族の預かり知らぬ所へと夜な夜な出かけるようになり、また娘の前でさえ亭主と言い争いになることも日増しになっていた。
離婚を決めた昨日など、口論で言われるがままであったパパに対してガラス片で切りつけていたほど。
彼女が今日まで知らなかったのも、パパがそんな不和をおくびにも出さなかったため。
娘に心配かけさせまいと黙っていたのだろうが、夫婦の綻びが陰で積み重なっていった結果、母に歪曲された代弁という形とされてしまったのだ。
泣き別れる場すら置かれず父は実家に送り返され、甘やかされて育った彼女にとってそこから孤独で過酷な人生が始まってしまった。
「ママ、おせんたくはいつするの……」
「洗濯? ママはね、お仕事疲れで起きれなくなってるの。そんなに洗濯が好きなら直江が代わりにやっといてちょうだい」
そうは言うものの、仕事というより遊び疲れているのが実情。
母は用事も伝えず家を空ける頻度が高くなり、家にいる間はまるで独り身となった解放感を満喫するように酒浸りとなるため、掃除や家事といった雑用は必然的に娘の仕事にされる。
彼女にのしかかる苦労は、内だけでなく外でも同じ。
学校でも、片親という家庭環境は同級生達から奇異の目で見られがち。
何もしていなくとも陰口を叩かれたり露骨に無視をされたりと男女問わずいじめられ、それが遠因で彼女が洒落た洋服を着ようものなら必ずといっていいほど服に傷がつく出来事が起こるために、母のお下がりしか着れなくなった。
ただそんな学校生活でも、境遇を哀れに思った教師などが相談に乗ってくれこともあるし、何より母がいない環境であるためまだマシだ。
「ただいま……」
最も心を衰弱させるのは、2階建てのアパートの一室にある自宅に帰った後。
頼んでもいなければ趣味でもない、安物の値札付きのぬいぐるみが机に置かれ。
『新しいおもちゃ買っておいたから、部屋でいい子にしてなさい』
と、母の直筆の手紙が挟まれている日こそ、彼女が最も生きている心地のしなくなる夜の幕開けだ。
「ママ……きっとあたしのこと、もうどうでもよくなっているんだわ」
こうなると、彼女はその文面通りにぬいぐるみを片手に自室で籠るしかなくなる。
何故ならば、母がどこからか誘惑したのであろう見知らぬ男性を家に連れて帰ってくるのだから。
たとえ実の娘であれ、リビングでの逢瀬を邪魔してはならない。
一度でも自室の扉に手をかけようものなら、翌朝には途轍もない剣幕で怒鳴られる。
中でも「あんたのために買ってあげたのに!」という被害者ぶった説教が、理不尽極まりなさを感じた箇所だ。
もう彼女も昔ほど子供ではないし、人形遊び以外の趣味だって開拓している。
それでも抑圧の象徴たる母は理解しようともしない。
娘のことなど永遠に同じ姿形をする人形とでも思っているかのように、一方的で適当な愛情を押し付け、その見返りに尻尾を振って意を汲むよう強要させる。
「もう嫌……夢なら早く覚めて……」
来る日も来る日も、神経質なまでに物音を立てないようにしながら自室で怯え続ける。
どこまでも孤独、味方となる人間もこの家にいないため、過ぎし日にパパと遊んだ人形達を縋るように抱きしめる。
リビングにいる母がソファーの上で新たな人生設計を愉しんでいる裏で、彼女は山のように積み上がったぬいぐるみの中に潜んで眠れない夜を過ごすしかなかった。
いつしか彼女は小学6年生となり、一人で遠出も出来るほどには成長。
そこであることを思い立つ。
「パパ……そろそろ会いに行ってもいいわよね?」
悪夢のような日々を幼いながら辛抱出来たのも、この歳を待ちわびたため。
利口に徹して耐え凌いだ自分へのご褒美に、僅かな間だけでも夢の一時へ逃避したいと。
当時よりも見た目も雰囲気も変わった自分に気付けるよう、パパが最初に買ってくれた思い出深き人形を背負い、断片的な記憶を頼りにスマホで住所を調べ、自堕落な母が専らいびきをかいて寝ている休日の昼間を見計らい、誰にも内緒で裏戸で靴を履く。
まさに大人の階段の一歩を踏みだしたと彼女は高揚した。
新幹線に乗り、高速で移りゆく緑豊かな景色を眺めながら数時間もの長い道程を行く。
「でもやっぱり、こんなことしていいのかしら……」
それでも彼女には一抹の不安があった。
家族ではなくなった自分のことをパパは好きじゃなくなってしまったか、いきなり押しかけて迷惑ではないだろうかと。
引き返そうとすら思ったが、微かな小遣いを切り詰め安くはない通行費まで支払った手前、引くに引けない気持ちとなり、そうして辿り着いたパパの実家。
玄関のネームプレートには、彼女にとっては旧姓となったパパの苗字が書いてあるため間違いない。
それでも勇気を出せるまで暫し玄関口でおろおろとし、恐る恐るでインターホンを鳴らすと。
「はい、どちらさ……直江かい!?」
忘れるはずもない声。彼女の父親本人が思わぬ来客に驚愕。
顔立ちも成長していたにも関わらず、一目見ただけで自分の娘だと認識したのだ。
不清潔にも無精ひげを生やしてやつれていたせいで、むしろ自分の方こそパパだと気づくのに遅れたほど。
「そうよ、あたしよ! わふっ!」
「ごめん、ごめんな直江っ! パパが駄目だったせいで、直江を置いてきぼりにして!」
心の準備を出来るわけがないサプライズに、背が伸びても残る面影と懐かしさに、パパのこみ上げきったものがここに決壊する。
愛娘を抱きしめ、離婚による悔恨にひたすら謝り、顔を見られないようにしながら号泣に頬を濡らす。
彼女からすれば、どんな時でも慈愛に満ちた笑顔が印象的だったパパの見たこともない一面には、面食らうしかなかった。
「パパを……俺を殴ってくれっ!」
「そんな、何言ってるのよパパ……」
「恨んでるからここに来たんだろう。許せと言わない、お前を守れなかった俺は、地獄に落ちる前に殴られなければ!」
「あっ……」
この言葉を聞いて、彼女は思い違いに気づく。
パパの方こそ苦しい思いを強いられていた。結果的に娘を裏切ってしまった罪悪感でどうにかなりそうだったと。
ドアの間から見えた廊下には、壁にはひっかき傷、床にはごみ袋や木片などが散乱しており、荒んだ暮らしをしていたことが痛いほど伝わった。
「……ふふん。パパを恨んでるわけないじゃない」
彼女の中で、何かが花開いた。
「パパが体を壊してないか心配でここに来たわけだけど、思った通りだったわけね」
「直江、こんなどうしようもない俺を、まだパパと呼んでくれるのかい」
「当然よ。だってこのあたしの、たった1人のパパなんだから」
とうに張り裂けている心を頑強に縫い直し、自信に満ちた言葉を吐けるコーディネートで舗装する。
自分の方こそ甘えたい愛されたいという気持ちで一杯一杯だったが、だからこそ自分よりも弱々しく苦しんでいる大切な人のためなら、どこまでも受け入れ気丈に演じられる。
「素敵なこと思いついたわ! このあたしが将来大人になったら、あんな家出ていってパパを迎えに行く。それで誰にも、たとえママでも冒せない、いつまでも一緒の素敵な家庭を築きましょう?」
「な……ええ? そんな、プロポーズのつもりかい?」
昔ならともかく恋人の1人はいるかもしれない年頃の愛娘から冗談じみた告白をされれば、涙が吹き飛ぶほど慌てふためいても無理はない。
でも彼女には、励ましになれるならば関係なかった。
「『ぜったいよ』って約束したでしょ? 大きくなったらパパと結婚する。ううん、新しく約束させて」
彼女の人柄が、ここに完成される。
「大きくなっても、パパと結婚するって!」
そう彼女は、自分がパパの娘として生まれ育った意味をここに誓った。
この切なくも禁断たる存在意義を頼りに、パパに自分より寂しい思いをさせまいとする宣言。
そして自分も、自分で吐いた言葉を裏切らないために実の父を守護する大人にいつかなると戒める。
それから彼女は、月に一度、小指を赤い操り糸で結ばれ愛し愛されるお人形さんとなってパパへ会いに行くようになった。
それだけを楽しみに思えば、たとえ母親の傀儡にされる苦悶の日々でも我を強くもって耐え忍べる。
パパと会えない間は、いかなる世界であれパパを模した人形を片時も離さずパパ本人と同等に接する。
親子だろうと関係ない。全てはパパを守るため。いつまでもパパと一緒にいるため。
自らに課したこの至上命題は、高校1年生になった現在でも欠かさず続いている。
○○○
「まずはマリーさんを私に引きつけてくれませんか!」
ハグたんが声を上げて作戦立案。
マサムネを超えるほど複雑で確実な全容だろうと幼馴染2人は思っていたが、これを聞いただけではどこをとっても変わらないではないか。
「ちょ、なにそのロマンスある自殺! というかほら、あの糸あと一本だけだし、これちょん切る方が手っ取り早いしお得だって」
「そんなことしたら、ずっと喧嘩したまんまになっちゃうじゃないですか!」
「うぐっ……」
ハグたんにしては力強い否定の怒声に、あの口煩いマサムネが思わず押し黙る。
マリーの真上には、一本の操り糸だけで頑張っているパパ人形の姿。その糸を断てば消滅してしまうものは人形だけでは済まされないと、ハグたんは直感していた。
「マサムネ、時には友達の決意を疑わずに汲んだらどうだ」
「うぅ、わかった! でもヤバそうだったらあいつ斬るからね?」
「斬らないで下さい!? じゃなくて、ええと、斬らせないように絶対に成功させます」
実質的な最後通牒のプレッシャーをハグたんははねのけ、暴走するマリーのいる正面を向いた。
「マリーさんは私の友達なんです。敗者に恨まれる勝者になったとしても、友達から恨まれるなんて絶対に嫌だ!」
そう大見得を切ったハグたんは、これまでマリーからくれた物を頭の中で数え始める。
生まれ変われるコーディネートを教えてくれた。
悲観にうち震える自分を気遣ってくれた。
大事な人形を犠牲にしてまで守ってくれた。
自分と友達になってくれた。
だから貰った分には程足りないかもしれないけれど、マリーが一人で困ってしまっている今こそ、これまで優しく接してくれたお返しがしたいと思い立った。
「悲しいのはもうやめにさせますから! 戻れ、神威!」
これからカムイを一切使わないと、ありのままの自分のお洒落した姿となる。
必要なものは勇気と友情、不要なものは小賢しさ。
マサムネによる合理性に突き抜けた作戦とは違う、ハグたんによる友達を慮る優しい作戦が始まる。




