秋の追憶
自分で書いたにも関わらず内容を忘れてしまっていた本作品。でも、そのおかげで、読み終えたときには素敵なお話だった思えることができました。
皆様もぜひ、追憶にふけってみてはいかがでしょうか。
生きている意味って何だろうな。
自分はなぜこの世界に、宇宙に存在しているのだろう。
そんな普遍的で、哲学にも満たない、思慮の浅い白昼夢を見ながら、古宿の受付で若い女は頬杖を突いていた。
閑古鳥すら鳴かないような片田舎の寂しいログハウスは、隙間風の侵入を容易に許す。
冷気が肌を突き刺し、女は身震いして壁を睨みつけた。
いつのまにか季節は移り変わっていたらしい。
そういえば、外の落ち葉を片付けないといけない。
女はため息をついて、机の上に項垂れた。
彼女の若さでここまで活力がないのは、この国においてごく稀なことである。
この国は衣食住や社会福祉が充実しており、何一つ不自由のない理想の環境で生活を送ることができるため、誰もが自分のやりたいことを熱心に追求することができるのだ。
それなのに、彼女は閑散とした土地にポツリと建つ小さな宿で何もせず独りでいる。
いや、実際のところ、彼女も以前までは夢を追う若者だったわけだが、人よりも気づくのが早かったのだ。
結局自分はどこへも行けないのだという事実に。
自分が旅人だった頃を思い出しながら、女は奥から箒を持ってきて玄関口の掃除を始めた。
かつての友人は今何をしているのだろうか。
少なくとも、自分のような隠居同然の暮らしはしていないだろう。
願わくば、自分の現状は知られたくない。
そんな生産性もなければ痛みも感じない自虐を繰り返してかなりの日数が経つ。
旅の途中、偶然見つけたこの宿を安値で買い取ったことを後悔してはいない。
しかし、人間は停滞を続けていると、本当は後悔しているのではないかと身体が勝手に思い込もうとするから厄介だ。
自分の精神的思考と身体的機能は必ずしも一致しないのだ。
女は寒々しい地面を眺めながら、箒で力無く落ち葉を払い除けた。
すると、
「あの」
と声がして、見上げるといつの間にかそこには若い男が一人立っていた。
背が高く痩せ型。焦茶色のコートを着ており、灰がかったような長髪は野暮ったく木の枝のように伸びている。
まるで乾風に吹かれてここまで飛ばされてきたかのような風貌だ。
「ここって宿ですよね」
存外丁寧な声色で男が喋る。
「……はい。そうですよ。旅人さんですか」
ここの宿には、ほとんど旅人か物書きくらいしか泊まりにこない。
薄汚れた身なりから判断するに、彼は恐らく旅人なのだと判断するに至ったわけだ。
「ええ。まぁ、そんなところです」
男はどこか自信なさげに笑って、頭を掻いた。
旅人でなければ、放浪者か。
自分にとっては旅人にも放浪者にもあまり違いはないけれど。
少なくとも、目的もなく彷徨っていただけの自分は前者よりかは後者だっただろう。
女は見下すように冷笑的な態度で、男を中に入れた。
それから受付でペンと宿泊者名簿を取り出し、苛立ちを匂わせながら聞いた。
「お一人様、一泊でよろしかったですか」
目も合わせずに、女は返事を待った。
しかし、それがなぜだか中々返ってこない。
不思議に思い男の顔を見ると、彼はなんだかきまりが悪そうに言い淀んでいた。
「どうしたんですか」
「……あぁ、いや。その……どうだったっけなと思いまして……」
「どうだったとは」
「えぇっと……」
男は腕を組んで唸るように黙り込んでから、何かを思い出すのを諦めたかのように、パッと口を開いた。
「とりあえず一泊で」
「はぁ」
どういうつもりだか分からなかったが、女はとりあえず名簿を渡して名前と日付を記入してもらった。
「代金は一泊銅貨10枚で前払いです。食事などは特に出ませんので」
彼女がそう言うと、男は見窄らしい巾着袋から錆びた銅貨を取り出した。
膨らみから残金を想像するに、余裕がないわけではなさそうだ。
「ありがとうございます。チェックアウトはいつでもどうぞ。部屋は二階のどれを使っても構いません。鍵はかかっていませんが」
男は歯痒そうに「分かりました」とだけ呟くと、ゆっくりとした足取りで、受付横の階段を上り始めた。
古い木の板の軋む音がする。
一歩一歩進むたびに、酷く耳障りな雑音が頭に響いた。
——そうして、最後の一段を上がり切らないところで、突然男は「あっ!」と声を上げた。
女が突然の大声に驚いて固まっているうちに、彼が階段を駆け降りてきた。
一体どうしたのだろうか。
「あ、あの!」
「……は、はい」
頭に銃口でも突きつけられているかのように切羽詰まった顔をしていた。よほど大事な用らしい。
女はたじろぎながらも、今度は視線を離さなかった。
「こ、これ!」
そう言って男が差し出してきたのは、一枚の封筒だった。
宛名や宛先が書いてあるわけでもないし、厚みもない。
不信感に眉を顰めながら女は聞いた。
「何ですかこれ」
男が一息落ち着いて言う。
「……えっとですね、以前訪れた町——名前忘れてしまったんですけど——そこの朝市でとある女性に出会いまして……あ、いや、この女性の名前も覚えていないんですけど……」
何だかはっきりしない様子で、女は首を傾げながら続けて話を聞いた。
「その女性にですね、この宿に昔の友人がいるから手紙を渡してほしいと頼まれた……と思うんです。それで、僕は確かここを目指して歩いてきたわけでして」
「それって、本当に私に宛てたものなんですか。長期宿泊客とかではなく」
「……すみません。分からないです。でも、とりあえず中身だけ確認していただければと。何か、とても大事なことだった気がするので」
大事なことならそんなに曖昧に記憶しているものだろうか。
女は彼の矛盾を指摘するのも面倒だったので、とりあえず封を開けてみることにした。
自分宛てじゃなかったときのために、できるだけ後で綺麗に戻せるよう、丁寧に。
そうして、ゆっくりと時間をかけながら、封筒の中身を取り出すと、それは一枚のメモ用紙だった。
便箋にしたためられた綺麗な文章はなく、ほとんど殴り書きの文字列が一つ。
「……あぁ、少し思い出してきました。これ、朝市で出会った女性が、僕の旅の進行方向を聞いて、そうしたら慌ててそれを書いて、あなたに渡してほしいって言われて……」
男は蘇った記憶に嬉々として話し続けた。
「メモ用紙に書いたのはたった一言。それも僕じゃ理解できない言葉だったので、一体何なのだろうと、不思議に思ったのですが……」
しかし、女は男の話など聞いてはいなかった。
むしろ、聞く必要なんてなかった。
一目見た瞬間、それが誰からの手紙なのか分かったからだ。
川のような過去が彼女の脳内を流れ、巡る。
十数年前、当時の友人と合言葉を作ったことがある。
きっかけは些細な日常の会話だった。
友人がある言葉を言い間違えて、それの何が面白かったのか、その言い間違えが固有名詞として定着した。
そして、それを挨拶代わりに使ったりしていた。
おはようではなく、特別な合言葉。
誰かとそんな他愛もないことを共有できるのが嬉しかった。
「……どうかしましたか」
「いえ、ちょっと昔のことを思い出していただけです。今朝もちょうど、この手紙をくれた友人のことを考えていたので……」
そういえば、ここで宿を経営していることを、旧友はどうして知っていたのだろう。
故郷を出てから、一度も連絡を取ったことはなかったのに。
「じゃあ、渡したいものも渡せたので、僕は部屋に戻りますね」
男は満足気にはにかむと、また階段を上り始めた。
あの不愉快な音は、もう女には聞こえていなかった。
彼女は受付で手紙を見つめながら、頬杖を突いて、できるだけ鮮明に旧友との思い出を回顧しようとした。
風は静止して、窓辺から陽気が差し込んでいる。
生きている意味って何だろう。
女はその取り留めもない疑問の答えを見つけられそうな気がした。
しかし、何かが引っかかって落ちないような感覚があった。
……目を閉じて考える。
それは多分、大それたことじゃない。
世界とか、宇宙とか、そんなことは関係ない。
極めて個人的なこと。
しばらくそうしていると、うつらうつらとして、思考と現実の狭間が溶け合い、そのまま彼女は眠りについてしまった。
◆◆◆
夢を見た。
夢の中の旧友は子どもの頃のままだった。
それが少し嬉しかった。
現実で自分のことを覚えてくれていたのは、紛れもなくこの子と同一人物なんだと思えたから。
女はぼんやりと目を覚まし、背中を伸ばした。
もうすっかり陽が落ちて、外は暗い。
明かりを点けて、夕食の準備をしよう。
彼女が気怠そうに立ち上がり、台所に向かおうとすると、背後で玄関の扉の開く音がした。
「もう起きてたんですね」
どうやら男は女が寝ている間に外出していたらしい。
大きな麻袋を抱えている。
「それは……?」
「あぁ、この袋ですか。実はちょっと歩いたところで他の旅人さんから野菜と肉をいただきまして」
「え……それ、怪しくないですか。そんなにたくさん……」
「いえいえ。これは旅人さんからのお礼なんです」
「お礼?」
「はい。僕、実は魔法使いの家系でして。旅人さんの壊れた武器や道具やあれこれを魔法で組み立て直してたんです。そしたら、どうせ一人で食べきれないし持っていってくれと」
「はぁ」
昔友人と魔法使いの見世物を王宮見学で観たことがある。けれど、日常生活で出会うのはこれが初めてだ。
女はあまり大きな反応を見せなかったが、心の中では純粋に驚いていた。
魔法使いは地位が高く、ほとんどが王族に仕えているため、庶民の前には滅多に姿を現さないのだ。
もっとも、この男からは高潔な雰囲気など微塵も感じられないのだが。
「よかったら、夕食ご一緒にどうですか。調味料があれば、この食材でシチューでも作りますよ」
女は返答に悩んだ。
誰かと向かい合って食事をすると大抵間が持たないし、次第に味よりも相手の顔色を気にしてしまうからだ。
しかし、手紙を持ってきてもらった上に、せっかくの誘いを断るのも、なんだか気が引けてしまう。
「……あなたがよければ、ぜひ」
女がそう言うと、男は柔らかく破顔した。
女が男に台所を貸して、食堂の長机——形だけで一切使われていなかったが——で待っていると、次第に食欲を刺激するにおいが立ち込めてきた。
どこか懐かしい、ホッとする感覚。
いつかの秋を思い出す、そんな暖かさ。
いつもは厭世的な女も思わず頬を緩めた。
そして、シチューが運ばれてくる。
「良いにおいですね」
「ありがとうございます。これだけはなぜか忘れないんです」
「これだけ、とは」
「あぁ、まだ伝えていませんでしたね。食事をしながら話しましょうか」
「……?」
魔法使いというだけで驚きだが、まだ何かあるのだろうかと、女は少し身構えて、スプーンを握る指先が湿った。
男は自分の分のシチューを運んでくると、女の正面ではなく、隣の席についた。
「それでは、いただきましょうか」
「ええ」
食事を始めると、スプーンを運ぶ音が重なって聞こえた。
それが随分久しぶりな気がして、女はまた子どもの頃を思い出していた。
「……それで、僕の話なんですけど」
スプーンを口に運ぶ手を止め、神妙な面持ちで男が語り始める。
「薄々気づいているとは思うんですけど、僕、あまり記憶力が良くないんです」
確かにそんな感じがしたな、と女はさほど意外性もない情報に安堵した。
しかし、次に男が口を開くと、その場の空気は一変した。
「というのも、僕は魔女に記憶を失う呪いをかけられているらしくて。いつからそうだったのかも分からないのですが、誰かにそう伝えられて、今日までその事実だけは忘れないように毎日思い出すようにしているんです」
魔女や呪いなんてものは、童話の世界でしか聞いたことがなかった。けれど、町でよくないことが起こった時は、そういうものが存在するのだという噂を耳にしたことがある。
加えて、魔法使いの事情はあまり世間に知られていない。
だから、この男が呪いにかけられていたとしても、あり得ないということはないだろう。
女が彼の目を見ると、どこか遠くを、もしくはどこも見つめていないような、虚な色を浮かべていた。
「……毎日の出来事を日記に書いたりはしていないんですか」
「もちろん、最初はそうしようと思いましたよ。でも、書こうとすると、手が動かなくなるんです。多分、これも呪いのせいかと」
男が申し訳なさそうに、長い前髪をかき分ける。
「このシチューの作り方はどうして覚えていたんですか」
「……多分、記憶できるものとできないものの分類があると思うんです。料理のように、直接五感や本能を刺激するようなことは覚えていられるんですが、それ以外はあまり……」
男の話を聞いて、女は昼間の追憶を思い返していた。
自分には振り返る過去も友人も故郷もある。
だけど、この男には……。
男が一通り話し終えると、部屋は静寂で満たされた。
「…………冷めちゃいますよ、シチュー」
「……はい」
男に促されて、女はスプーンを口に運ぶ。
彼にとって、この暖かさは単なる温度でしかなく、過去の何かを想起させることもないのかもしれない。
同じものを食べても、同じ気持ちになることはできないのかもしれない。
もしもそうならば、彼は一生どこへ行っても孤独なのではないだろうか。
そう考えて、女は心臓に流れる血液の温度が変わるのを感じた。
◆◆◆
翌朝、女が受付で本を読んでいると、男が二階から降りてきて言った。
「そろそろ出ますね」
女はその瞳を見て、今日の彼が昨日の彼とは幾らか異なる人間であることを直感した。
きっと、何かの記憶が抜け落ちたのだ。
しかし、一体何が忘却の彼方に消え去ってしまったのか、彼女は聞こうとしなかった。
「次はどこへ向かわれるんですか」
「……そうですね。特に行き先はないですが、とりあえず南へ向かおうと思います」
「……あなたは、どうして旅を続けるんですか」
女の問いかけに、男は指を口元に当てて考えると、徐に外を見遣って言った。
「……どこかの誰かが、覚えているかもしれないので」
——その瞬間、女は昨日の浅い哲学に対する答えを見つけられたような気がした。
何でもない惰性の日々を続けて、それでも自分が生きる意味は——
「……あの」
男が宿を出る直前、女は男に声をかけた。
「……私は、覚えていますよ」
すると、男はふっと笑い、何も言わずに小さく手を振りながら去っていった。
……その姿を見送った女は自室へ向かい、棚から便箋を取り出すと、旧友への返信をしたためるのであった。