第二十五話 浮民の少女と黒猫の想い
月門の邑から徒歩で十刻(約2時間半)程の場所にその小邑はある。
田単の邑――人口百人にも満たない小さな農村だが、やはり居住区画は囲郭で覆われていた。
月門の台所を支える米処で、郭に沿って田畝が広がっている。今も郭外に出て青空の下で農民が野良仕事をしていた。
そんな長閑な田園風景を眺める小さな影があった。長い紺青の髪を一つに束ね、青紫の瞳に憂愁の色を浮かべる幼き少女。
「藍鈴、浮かない顔をしてるね」
いつ来たのか足元で小さな黒猫が金色の瞳で少女を見上げていた。
「大丈夫」
抑揚の無い声で答えた藍鈴は黒猫を掬い上げて抱き締めた。頬擦りをすれば柔らかい毛並みと猫の温もりが僅かながら藍鈴の傷付いた心を癒してくれる。
「珠真が傍に居てくれるから」
珠真と呼ばれた黒猫は当然だが只の猫ではない。人と意思疎通ができ、見れば尾が三つに分かれている。
仙狸――猫の化生である。長い歳月を掛けて仙術を身に付けた山猫で、美男美女に化けて人の精気を吸う。
「藍鈴が望むなら、あたいはずっと傍にいるよ」
「ありがとう」
仙狸にとって人間など餌でしかない。珠真はそんな化け猫であった。だが、不思議な事に彼女はこの憐れな少女に同情的であった。
「何シテル、早クヤレ」
そんな二人の頭上を旋回している黒い烏が急かす。烏の命令口調に苛立ち珠真は舌打ちした。
「煩いよバカ烏!」
こも人語を解す烏――金烏もやはり妖魔だ。
偵察から戦闘まで幅広く使える汎用性の高さから導士が好んで使い魔とする妖獣である。
「人に使役されるだけの低級の癖に!」
「オ前モ同ジダロ」
(忌々しい烏め!)
珠真は内心で毒付いた。だが、金烏の指摘通り珠真も使い魔に過ぎない。それも、この金烏と同じ方士のだ。その方士は残念ながら藍鈴ではない。
都邑の宮廷に仕える方士が真の主人だ。大した能力も無い癖に、矜持ばかり高い高慢ちきな方士の顔を思い出すと珠真は胸がむかむかする。金烏は忠実に従っているが、珠真はこの主人を殺してやりたいくらい憎んでいた。
珠真はかなり強い猫の精で、本来なら矮小な人間如きに使役される存在ではない。だが、とある事情で珠真はその方士に縛られていた。
「珠真、あまり反抗しては駄目」
「……」
感情を殺した声であったが、藍鈴は珠真を気遣っているのだ。この憎たらしい金烏を通して珠真の言動は主人に筒抜けなのだ。後で珠真が酷い目に合わないか藍鈴は心配してくれている。それが分かる珠真は口を噤むしかなかった。
ああ、この心優しい藍鈴が主人であったら!
珠真はそう願わずにはいられない。
それ程に珠真は藍鈴を愛していた。
もしかしたら、この想いは藍鈴の神賜術による影響かもしれない。
藍鈴の神賜術は霊鬼之護――霊獣、妖魔を従え、使い魔の能力を上げてくれる導士垂涎の能力である。
霊鬼之護は他にも霊獣、妖魔に好かれ易くなると聞く。だが、珠真は自分の藍鈴への愛情は本物だと信じたい。
(だって、藍鈴を想うとあたいの胸はこんなに温かくなるんだから)
だから、珠真は藍鈴の賜術が何であるかなど問題としなかった。ただ藍鈴を守ってあげたい。
だが、珠真に与えられた命は藍鈴の監視。藍鈴が叛かぬように、裏切れば直ぐ報せるよう付けられたお目付け役なのだ。
助けてたくても珠真にはどうにもできない。ただ許されているのは藍鈴に寄り添い慰める事だけ。
「窮奇」
藍鈴の呼び掛けに反応し、背後でぬっと影が起き上がった。
体長二十尺(約3.2m)をゆうに超える巨体、背中には大きな翼を生やし、全身は闇に溶け込みそうな黒色だが瞳だけは金色に輝いている。
窮奇――この獰猛そうな獣は日輪の国を守護する十二の聖獣の一柱である。
いや、であった、と言うべきだろうか。
今では人を害して堕ちてしまい、藍鈴の霊鬼之護によって使役される妖魔と成り果てていた。
「行こう」
少女の口から無機質な命令が下される。その声に珠真の胸は締め付けられた。本当は誰よりも優しい少女が自分の心を殺しているのが分かるから。
しかし、藍鈴は両親を人質に取られ珠真の主人に逆らえない。
堕ちた窮奇を言われるままに使役し、命じられるままに人々を襲う。彼女もまた珠真達と同様に縛られた存在だった。
(だけど、こいつは本当に堕ちてるのかね?)
闇そのもののような巨体の中で、唯一金色に輝く綺麗な瞳に理性のような色を見て取り珠真は首を傾げた。
(いや、考えるのはよそう。あたいがすべきは藍鈴を――)
小邑を囲む郭へと進む藍鈴の背中を見詰めながら珠真は誓った。
――たとえ我が身を引き換えにしても藍鈴はあたいが絶対に守る!




