第十七話 翠の少女と愚かな少年
三年前――月門の邑近郊『常夜の森』
「ちょっと、森に入っちゃダメって言われてるでしょ!」
翠の瞳を怒らせて翠蓮は強引に手を引く赤髪の少年に怒鳴った。
「俺様が一緒なんだから問題ねぇって」
だが、嫌がる少女の手を握って離さない赤髪の少年に悪びれたところは無い。構わず木々が生い茂る森の奥へと進んで行く。
「大人達も敵わない妖魔がいっぱいいるんだよ!」
人を喰らう恐ろしき妖魔が蔓延る常夜の森。
森自体が意思を持って人を惑わせる魔の森。
そこは常人が入れば二度と出られず、屈強な武人でさえ尻込みする魔境。
曲がりくねった大木が天を覆い、陽の光が下りてこない暗い樹海を歩くのは不安でしかない。時折聞こえる獣の啼き声がいっそう翠蓮の不安を掻き立てた。
しかし、そんな森でも自然は豊かで、結界の外縁部でも実りを享受できる。翠蓮は病に伏せった母の為に好物の木苺を採取しようと訪れたのだ。
そこをこの赤髪の少年に捕まり森の中へ連れ込まれたのである。
「はん! 大人は臆病なだけさ。妖魔なんて俺様が一捻りにしてやる」
「だったら路干一人で行けばいいじゃない」
翠蓮は顔を険しくして少年を睨んだ。
赤髪の少年――路干は平民では稀有な神賜術『勇武之達』を授かり、幼い頃から威張り散らしていた。
十五になり邑の誰よりも強くなると、その増長が更に激しくなった。今も人を小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべている。
「なんだ怖いのか?」
「当たり前でしょ!」
「安心しろって、俺様が守ってやるからよ」
自信満々に拳で胸を打つ路干に端なくも翠蓮は舌打ちしたくなった。
まだ十三になったばかりの翠蓮であったが、しっかり者の愛らしい少女だ。しかも、邑の有力者丹頼の孫娘で裕福でもあるから、邑の男達は彼女の心を射止めようと必死だった。
路干もその一人である。
「俺様と一緒なら安心だぜ」
路干は他の男達と差をつけようと嫌がる翠蓮を引っ張って常夜の森へとやって来たのだ。ここで自分の強い所を見せる腹積もりなのだ。
だが、この行為は逆効果。
(ガキかこいつは!)
自分より二つも歳上の癖に、幼稚な行為で気を引こうとする路干への好感度はだだ下がりだ。もっとも乱暴で横柄な路干への好感度は最初から最底辺だったが。
ガサカサ――
「きゃっ!?」
突然、茂みから茶色兎とも鼠ともつかぬ頭が飛び出してきた。
「ていっ!」
真っ直ぐ翠蓮に襲い掛かったそれを路干が手に持つ棍で叩き落とす。
「ぎゃん!」
犬のような悲鳴を上げて地に転がる物体を見て路干は鼻で笑った。
「なんだ耳鼠かよ」
兎の如き頭、鹿のような広い耳のその獣は耳鼠という鼠の妖魔である。ふさふさの尻尾で宙を飛ぶすばしっこい妖魔だが単体ではさして強くはない。
路干は腰の剣を抜くと何の躊躇いも無く耳鼠を突き殺した。血が飛び散り耳鼠が悲鳴を上げ、翠蓮は顔を背けて眉根を寄せた。
「ちょっと、殺さずに追い払うだけで良かったじゃない!」
「妖魔に情けはいらねぇのさ」
路干は気障ったらしく笑った。翠蓮が耳鼠に同情したと勘違いして格好つけたようである。
「馬鹿なの!」
だが、翠蓮は路干の愚行に呆れただけだった。
「血の臭いを嗅ぎ付けて強い妖魔が寄って来るでしょ!」
妖魔、特に妖獣は血の臭いに敏感で、常夜の森での流血沙汰は自殺行為に等しい。武者修行の武人でもなければ常夜の森での戦闘はなるべく避けるのが常識である。
「望むところだ。俺様がどんな妖魔もぶっ倒してやる」
「馬鹿言ってないで早くこの場から離れるわよ!」
翠蓮は来た道を引き返そうと踵を返したが、路干に腕を掴まれ止められてしまった。
「離してよ!」
「まあ待てって」
「そんなに死にたいなら貴方一人で死んで!」
常夜の森に入って刻はそれ程過ぎていない。今なら走って戻ればまだ助かる。
「俺様が一緒なんだから大丈夫だって」
「大丈夫な訳ないでしょ!」
それなのに路干は根拠の無い自信を振り撒き余裕綽々で、翠蓮は焦りと苛立ちから大声で叫んでしまった。
「路干より強い人なんて都邑に行けば五万といるわ。その人達でさえ常夜の森を怖れ――ッ!?」
感情を爆発さた翠蓮が途中で凍り付いた。路干の肩越しにとんでもない怪物の姿を見てしまったからだった。
「か、玃猿!?」




