4. 羞恥という名の代償
書庫に大急ぎで向かう。
一刻も早く、擬人術の詳細について確認する必要がある。
この神殿の魔力を食う設備は全て止めた。故に、エナがこれ以上減ることは無いのだけれど、それでも――
リンの体力は削られていく。
刻一刻と、目減りしていく。
ただでさえ、擬人をするにあたりなにか障害が見つかるかもしれない(たとえばエナが足りないとか。そうなったらまじで詰みが見えてくる)し、擬人が完了しても、そもそもすぐに狩りに出かけられる状態で擬人魔法が生まれるとは限らない。
書庫に駆け込む。目的の本は部屋の片隅にある読書用のテーブルの上に投げ出されたままになっていた。
息を整え、リンは脇の椅子に座る。そして本を開いた。
最初の一ページ目の冒頭にはプロローグと記されてある。
(プロローグ……?)
念のため背表紙で本の題名を確認する。
術書『擬人術』と間違いなく書いてある。
それでもう一度ページを開く。もしかするとこっちを見間違えていたのかとも思ったが、やはり間違いなくプロローグと記してあった。
(なんで術書にプロローグ?)
わけがわからなかったが、読み進めてみると理解ができた。
術書や魔法書という名称とその役割から、なんとなく前の世界の教科書や説明書みたいな様式のものを想像してしまっていたのだが、どうやら全くの別物であるらしい。
ストーリー仕立てなのだ。伝記なのである。
他の魔法書も念のため確かめてみたが同じだった。
どれもこれも、それぞれの由来となる壮大なるサーガがメインに記されており、そのところどころで該当の術や魔法についての説明が成されているかたちだ。
たとえばこの擬人術の術書で言えば、主人公(この術書の場合、それは神なのだが)が、初めて擬人を行おうとする――その際に、さながら物語で設定説明をするがごとくの筆致で、その時点の物語上に必要な情報量のみさりげに開示されている。
(斬新だな……)
そして非効率の極みである。前の世界でのテキストはまことに素晴らしいものであったのだと再確認できた。
なにが面倒くさいって、欲しい情報がどこに載っているのかまじでさっぱり分からない。ぱっと見で判別できない。
天使は索引を利用しろと言っていたが、それはおよそ索引と呼べる代物ではなく、むしろただの目次なので、お話をわける章の題名なので、しかもその章を開いても延々話が続いてその中のどこに術のことが書いてあるのか読み進めないといけないので、本当に面倒くさいことこの上ない。
あと、ガーネットがこの本を見た時、もの凄く嫌そうな表情を浮かべたのだけれど、その理由が実際に読んでみてハッキリと分かった。
術の性能が云々もそうなのかもしれないが、一番の理由はこの本のメインのプロットにあるのだと思う。
というのも、美少女をこよなく愛する神がありとあらゆる美少女天使たちをストーキングするところから話ははじまるのだけれど、追いかけ回しては見つかって、ありとあらゆるラッキースケベも経験して、その際の天使たちの下着の色だとか、むだ毛の処理具合だとか、ほくろの位置とか数だとか、肌の質だとか、お風呂ではどこから洗い出すのだとか、トイレットペーパーはどれくらい使うのだとか、そういう日々の観察データが実直に、そして赤裸々に、天使ごとに事細かに記されているのだ。
まあーじ、げんなりする。この人変態です。
これは伝記だ。たぶん全部実話でおしなべて実在する人物であるはずだ。
いやほんと、神ヤバくない? そりゃあキモハゲ云々言われるわけだ。むしろそれで済ましている天使たちの方が神に思えてくるレベル。
「このアパタイトさんという方に今後会う機会があったら、ぼくはいったいどんな顔して会えば良いんだろう……」
アパタイトさんの章を半ばまで読みながら、リンは震えた。とてもではないが、内容を描写できそうにない。死亡案件である。これ自分がアパタイトさんだったら恥ずかしすぎて死んでしまっている自信がある。
ちなみにガーネットの章も見つけたのだけれど、さすがに気が引けたので――というか今度あう時に本当に困りそうだったので、そっ閉じした。
本題に戻ろう。
擬人術使用にあたり必要なのは、
①擬人対象物の掌握
②相応の魔力
の二つという、とてもシンプルなものだった。
そしてこの①の条件がある以上、擬人化の対象物として魔法はかなり適していると言える。なぜなら魔法にはその全貌が記してある魔法書というものが必ず存在しているわけで、それを読むことが即ち①の達成になるというシンプルな構図が出来上がるからである。
つまり、読めばそれのすべてを理解できるテキストや図案が出回っているものというのは、擬人に向いている。だから設計図のある兵器とか、建造物とか、そうのなんかもできるだろう。
次に肝心要――②の条件だが、これはなんと、いったん擬人候補のものを完全掌握してみないことには分からないらしい。
なんでも、擬人術者が①の条件を満たした場合、自然と頭の中にその数値が浮かぶのだとか。
(……うーん、面倒くさいことになった)
リンは立ち上がり、棚の前で腕組みをしながら思案する。
棚に並んでいる魔法書たちは、どれもこれも分厚い。そう、分厚い。
(一冊読むのにどれくらいかかるかな……?)
一日……? いや二日はかかるだろう。
その間、飲まず食わず。頑張って読了して、そこで頭に浮かんだ数値が、へたをすると使用できる魔水量である2.15 hclを超えている場合だってあるわけだ。
ダメだった場合は、別のものをまた読み始めなければならない。やはり二日――同じく飲まず食わずで。
二日はもっても、四日は……かなりきわどい。
精神的にも、肉体的にも。
食べ物はともかく、水は摂らざるを得なくなってくる。つまり使用できるエナを0.15更に減らすことになる。
(どの本を選ぶべきか……)
この選択は間違えるわけにはいかない。
吟味する。
どうやら魔法には位階というものがあるらしく、ザッと見た感じ全部で十五の位階に分れており、数が大きくなるほど高ランクの魔法ということらしい。
棚にはそれぞれ、
N(3~1)、S(6~4)、SS(10~8)、U(13~11)
というメモ書きがなされていることから、天使たちにはそのようなくくりでまとめていたのだろう。
どのランク帯から本を選ぶか。万全を期すならNになるのだと思う。
しかし――
リンは先ほどから、棚の中のとある一冊に、目を奪われてしまっていた。不思議な力がそこには働いていた。言うなれば一目惚れに等しい。
紅い微細な装飾の施されたその一冊をリンは手に取る。
『クトゥガ・ヴァレット』
そう書いてある。位階は5でSランク、オーソドックスな四大属性の一つである火炎魔法。その詳細な効果についてはこれから読み進めていかないとわからないが、名前からして中近距離射出系だろう。
エナのことを度外視すれば、最初の一冊としては程良いランク帯であると言える。
迷う。しかしやがてリンは――
「これにしよう」
決断した。理性よりも、自分の感性を信じた。クトゥガを選んだ。
クトゥガ・ヴァレットの術書の読解を始めてから、いくらかの時間が流れた。
窓から見える外はすっかり暗くなり、室内では読書に必要な明るさを維持できなくなった為に、リンはこの神殿のボス部屋である謁見の間に場所を移した。
この部屋には下層のダンジョンに続く巨大なエントランスがあって、そこから屋外に出ると、神殿を支える天空樹の上に出る。
巨大な枝葉の上で寝転び、空を見上げると満天の星空が広がっている。地上から眺めるより空が近い気がした。星により光量は十分で、むしろ眩しいくらいだった。
星明りのなか、読解を再開する。
経過はどうかというと、実は難航している。というのも、この本に記されている魔法使い言語――ルーンが本当に厄介なのだ。
複雑すぎ。
すべての名詞に三つの性別があったり、格変化が十一もあったり、隣接する品詞による変質したり、冠詞の有無でも変化したり――なんだかんだで一つの名詞のバリエーションが五百を超えている。
言語理解は就労特典で得ているのだけれど、脳の処理が追いつかない。ことあるごとに理解のためのラグが発生している。
とはいえ、知らない語彙自体は存在しないので、あとは慣れの問題のはずだ。しかし時間の解決を待つわけにはいかない。早急に適応させなくては。
夜が明けて、太陽が昇り、日が沈む。
まだリンは同じ場所にいた。
一日が経過して、さすがに空腹が耐えがたいレベルになってきた。喉も渇く。
更にもう一サイクルする。
まだリンはいる。
空腹は限界を超えて、訴えるのをやめてくれていた。しかし代わりにとてつもない虚脱感をもたらしてくれる。喉の渇きも思いのほか限界だ。思考能力も落ちてきている気がする。落ちていることに確信が持てないほどに、落ちてしまっている。
リンの当初の思惑では、二日が経過したこの時点で、既に一冊を読み終わっているはずだったが、しかし実際は未だ七割といった進捗だ。
当初の言語の不慣れによる遅れが、もろに響いてしまっている。
しかしもう一日あれば、さすがに読み終えられるはずだ。
そしてあと一日くらいなら、水を飲まなくても堪えられる。
そのはずだ。人間は水無しでも、三、四日は生きられると言われているのだから。
太陽が次のサイクルを終えた夜――
リンは満身創痍のなか、術書の解読を完了させた。
「必要エナ量――……ろ、60 hcl」
ウソだろ? ぜんぜん足りない。
読了と同時、頭の中にその数字が浮かんだ。
「60……」
クトゥガ・ヴァレットのランクは6だ。もしかすると必要量はランクの十倍ということなのではないか? だとすれば、詰んでいる。最低の第一位階の魔法でも、十は必要ということだ。
最初から、……詰んでいた?
絶望する。
とりあえず、水を飲みに行こうと思った。
もう、0.15をケチる意味合いも失った。そもそも渇きが限界に達していて、飲まないと今にも死にそうだ。
神殿に向かって天空樹の上で立ち上がり、歩く。
しかし最初の一歩で崩れ落ちた。
「ぼくは体力ないなあ……」
苦笑する。
かつてこんな限界ギリギリまで本を読み続けた男が他にいただろうか?
まあ、案外結構いるのかもしれない。
そのまま気を失った。
※※※
そして――
それからしばらく経ってから、リンのもとにひとりの長い金色の髪の少女が舞い降りた。
その少女は倒れているリンを見下ろすと、微笑み、近くに落ちていた魔法書を拾い上げる。
「ふむ……、クトゥガ・ヴァレットか。なかなか良いセンスじゃ。しかし魔水が如何せん足りんかったみたいじゃのう」
そう言って、優しくリンの頬を撫でた。
「個体差はあるが、基本的にSランクは位階を十倍した数値の魔水を消費すると憶えると良い。Nランクは等倍、SSは千倍じゃ。……つまり第二位階までの魔法ならば、この神殿に残された魔水でも擬人はできたというわけじゃな」
少女は切なげに眉をひそめる。
「……可哀想に。擬人術の仕様と、天使の杜撰さ、そしておのれの趣味嗜好――同情の余地があまりにもじゃな。特に最後の……合理性よりもおのれの嗜好を重視したところが、ひどくわし好みじゃ」
少女は立ち上がる。
そうして手刀を構えると、背中まで伸びる自身の長い金髪を、肩の上のあたりでばっさりと断ち切った。
斬られた頭髪が地にバサリと落ち、それを見下ろし、彼女は告げる。
「代償じゃ。神は地界の者のために動くことはない。もしそうしたいのならば、代償を差し出さねばならん。髪は女の命じゃ……、間接的にでもこやつの命を救おうというのじゃ、相応のものじゃろう?」
髪が風に吹かれ飛んでいき、代わりに彼女の身体に光が宿る。赦しを得た。
次になにかを唱え上げ、さながらキスをするように、神殿の方に息を吹きかけた。それに伴い、淡い光の奔流がなびき、建物の中に吸い込まれていく。
「わしからおぬしへの特別サービスじゃ。多すぎず、少なすぎず、ちょうどの量の魔水を魔力炉に入れておいた。60 hcl――それで、ぬしの命をかけたクトゥガ・ヴァレットを今度こそ生み出してやるが良いぞ。ふふ、どんな子が生まれてくるのか、楽しみじゃな」
彼女はそうとだけ告げると、優しく親愛の笑みを向け、立ち去ろうとする。
――が、
「おお、いかんいかん、そういえばおぬし、このままではそもそも目覚めぬのではないか?」
肝心要のことに思い至り、再び駆け寄った。
「水を……、ああいやしかし、魔水量は減らすわけにはいくまい。この神殿の設備は使えぬ。且つ、先ほどとは別にこやつをまた助けることになるわけじゃから、新たな代償も必要となる……」
彼女はしばし考えると、「ふむ」と手を打った。
※※※
「うわっ」
リンが気がつくと、口の上にドボドボと大量の水が落ちてきていた。
「おお、目覚めたか? いや、まだ意識がぼんやりとしているようじゃのう。ほれ、飲め飲め、まだまだたーんと飲むが良い」
言われたとおり、リンはそれを飲み込む。身体が水分を求めていた。むさぼるように飲み込み、身体全体に行き渡らせていく。
「あなたは……?」
身体が潤い、脳が動き出していた。もう少しで、意識もはっきりしてくるだろう。
かすむ視界に映る、金髪の美少女は、依然、彼に向かってコップを傾け、水を注ぎ込んでくれている。
誰だろう? ありがとう。助かった。
心なし、その子の背後に後光が差しているようにも見える。
「ふむ、もう大丈夫のようじゃな」
彼女は口をきいたリンをみて、満足げに頷くと、腰に手を当てた。
「わしの名前はYHという。どうじゃ、わしの水はうまかったか?」
「ワイエイチ……さん? はい、美味しかったです。ありがとうございます」
彼女は答えを聞くと、「そうか。なら甲斐はあったな」と顔を赤らめてモジモジとし、それから嬉しそうに喜んだ。
「じゃあ、わしはもう行く」
彼女は回れ右をした。
慌てて身体を起こそうとすると、彼女はそれを止めた。
「よいよい、まだ安静にしておれ、おぬし、ほんの今まで死にかけておったのじゃから」
YHの身体が光に包まれ、その姿が薄れていく。
「元気になったら、魔力炉に行くがよい。なに、失敗を気に病むことはない。そもそもこんな状態でたいした説明もせず丸投げしたガーネットの方に問題があるのじゃ。……むしろ、遅うなって悪かった。それじゃあ、元気でやっておくれ―― 」
そう言い終わる頃には完全に、彼女はその場から消えていた。
残されたリンは、首を傾げる。
聞き違いだろうか? 覚えのある呼ばれ方を最後にされた気がした。
それじゃあ元気にやっておくれ――我が同士よ。
「えーと」
まさか、キモハゲ……――
リンは数日前に流し読みした擬人術書のストーリーを思い出して首を振る。
いや、まさかね。