7、執行の日まで
「今までの忠誠に感謝する、か」
国王の執務室を後にしたクルーガー侯爵は、ぽつりと呟いた。
王子がとある子爵令嬢と親しくしている――その噂を聞きつけた時点で、クルーガー侯爵家はフェリシティの婚約者“候補”としての立場を終了させるよう抗議していた。
王族が“また”位の低い者と婚姻を結ぶことに抵抗のある重鎮たちが取り成そうとしたが――先日の一件が決め手となった。『垣根の上に立つもの』を王妃に据えることの危険性を皆が思い知ったからだ。
クルーガー侯爵とフェリシティは王宮を訪れ、正式に婚約者“候補”の辞退を取り決めた所であった。
「すまなかったね、フェリシティ」
「……私こそ、ごめんなさい」
この数年、フェリシティはさして辛い思いをした記憶はなかった。
フェリシティが“お姫様”を待ち詫びている間、家族が自らの身を案じてくれていたことには、少し胸が痛んだ。
「……まあ、殿下のお相手も見つかったし。もう心配はないぞ」
侯爵は愛娘を抱きあげ、くるりと回った。
「お父様、私はもう子どもじゃないわよ」
笑いながら抗議する娘を気にせず、侯爵はもう一回り。
「お妃にならなくても、フェリシティは僕のお姫様だからね」
フェリシティの肩に掴まっていた小人が振り落とされ、翅の生えたものに抱えられていた。
「みんな、お茶の時間を楽しみにしているわ」
帰路についた二人は頭を下げる文官たちとすれ違いながら画廊へと差し掛かった。
「……おや」
突き当りの絵を見上げるように立つ男が一人。此方に気付いたのか振り返った。
小柄だが、肩幅の広い力強さを感じる体格の持ち主だった。髪には白い物が混じっている。
エドゥアール・マクシミリアン――王国で最も古い侯爵家の男で、長きに渡って宰相を務めていた。
「ああクルーガー君、聞いたぞ」
彼は眉尻を下げ、大きく両手を広げてみせた。
「殿下とご息女の婚約を取りやめたと……残念に思うよ」
その言葉を、クルーガー侯爵は鼻で笑う。
「思ってもないこと言っちゃって。フェリシティを王妃にする気はなかったんでしょう?」
そういえば、自分が婚約者“候補”になってから、宰相と関わることはなかった――とフェリシティは記憶している。
「……ふん。むしろここまで続くと思ってなかったさ」
彼は眉間に皺を寄せ、じろりとフェリシティを睨みつけた。
「それに、お嬢さんもお相手を見つけているらしいじゃないか」
母子揃って抜け目ないわ、と口の端を吊り上げる宰相。侯爵はそんな彼に迫り、両肩を掴む。
「……違うんだよ。フェリシティは、お兄ちゃんが結婚するから寂しいだけなんだ。だから年上のお兄さんにちょっと憧れちゃうんだよ。だから……お相手とか……そんな……」
「そ、そうか……すまんな」
涙と鼻水がにじむ男の顔が眼前に迫り、宰相は顔を背けた。
フェリシティはそんな会話など気にも留めず、宰相の肩を見つめていた。
ちょこんと座る、清流のように澄んだ瞳と髪を持つ妖精に見覚えがあった。
「イザベラさんの所にいた方ね」
「……なんのことかな?」
宰相が微かに顔を顰めた。
「ほう、例のお姫様かい?」
何かを察したように苦笑する侯爵。
「なるほど、早々に彼女に唾をつけてましたか。また養子にでも?」
「さあ、どうだろうな?」
懲りないねぇと呆れる侯爵に、宰相は肩を竦めて見せる。
「……あなた方の忠誠を、本当に理解してるんでしょうかね……陛下は」
侯爵が絵を見上げる。
「子爵でしたか、彼女。王妃になるつもりはあるんですかね?」
「殿下次第だよ、全て」
宰相も再び絵を見上げる――その眼差しには、憎しみが込められていた。
『運命』と題された、国王が王妃を見初める場面が描かれた絵画。二人を取り囲み、祝福するのは婚約者候補だった女性たち。その中にはフェリシティの見知った顔がいくつかある。
凛とした表情を崩さず手を叩くフェリシティの母や優しく微笑むエミリーの母。
そして、王の後ろに立つセリュー・マクシミリアン侯爵令嬢。王は彼女を選ぶだろう――誰もがそう思っていた女性だった。
クルーガー侯爵家に帰った二人を待っていたのは、手紙の束を抱えた家令であった。
婚約者“候補”の辞退を見込んで、フェリシティには手紙が殺到していた――婚約の申し込みや就職の打診に、果ては手記の出版の誘いまで。
「フェリシティはお姫様なんだから、屋敷にいればいいのに……」
「姫は降嫁か即位するものです。この家はいずれテオドール達が継ぐのですから、フェリシティの将来を考えないと」
渋々、といった表情の侯爵に、夫人は次々と手紙を開いて渡していく。
「俺は別に構わないけど」
「賑やかで楽しいしぃ」
開け放していた部屋の前で呟くのは、長兄と婚約者。西側の共和国で産まれた彼女は、結婚を控え屋敷の離れに滞在していた。
おっとりとした気質の女性で、フェリシティとも親しくしている。
「フェリは好きなだけいたらいいさ。この家は俺たちには広すぎるし」
「ねぇ」
にこにこと笑い合う長兄と婚約者。夫人は自覚が足りないとお説教を始め、取り成した侯爵も一緒に叱られる。
国王の婚約者候補だった母に父が見合いを申し込んで結ばれた両親と、共和国で偶然出会い恋に落ちた長兄たち。
きっかけは違えど、仲良くしている彼らの姿を見ていると、フェリシティは感じることがある。歩み寄り、互いに思いやり、支え合う態度が夫婦になることだと。
自分と王子は、それを怠った。彼にとって自分は“化け物”だし、自分にとって彼は“誰かの王子様”でしかなかった。
最初から、うまくいくはずがなかった関係なのだ。
彼が愛し合える相手を見つけられたことは僥倖なのだろう――フェリシティは、心からそう信じていた。
かくしてフェリシティの婚約者“候補”としての人生は終わった。使用人も含め、クルーガー侯爵家の全ての者が祝杯を挙げた。
王城に通う必要がなくなり、学院からも卒業証明書が届けられた。卒業式典までは来なくていい、という意味が込められているのだろうと判断した。
数年間続いていた習慣がなくなったことに、最初こそは戸惑った。しかし、家族や使用人、さらには妖精たちがあれやこれやと世話を焼いてくれるので時間を持て余すことは無かった。
そして、その合間を縫って訪ねてくる客人もあった――学院で行動を共にしていた友人や、婚約を申し込んできた貴族の令息たち。
幾人かの男性と会話してみたが、フェリシティはどうにも身が入らなかった。やはり、自分は誰かと結婚できる性質ではないのか、と彼女は落胆した。先生からの手紙は、一生懸命読めるのに……とも。
レイモンド・グレースは、よく手紙を寄越してくれた。面白い本や外国で見聞きしたことなどが書かれたそれを、フェリシティは何度も読み返し、時間をかけて返事を考えた。
彼女はそれなりに忙しい毎日を過ごし――学院の卒業式典の時期を迎えていた。
「他国からもお客様が来られるのね」
学院より届けられた手紙を読むと、フェリシティは向かいに座る両親にそれを渡した。
「王族の卒業なんて久しぶりだからね。規模が大きくなるな……担当は誰になるのか……」
警備のことを考えているのか、侯爵の顔が渋いものになる。
「殿下はイザベラ様に求婚されるのかしら?」
目を輝かせて問うフェリシティに、父は首を振る。
「あんなことは、そうそう出来ないよ」
「そうなの?」
「……あなた方の世代には、美談として伝わっているけど」
侯爵夫人は首を傾げる娘を見て口を開く。
「陛下が長きに渡り婚約者を定めないことで、多くの令嬢が婚約者“候補”として扱われ、行動を制限されてきました」
母の声はいつもより沈んでいるように、フェリシティは感じた。
「それなのに、陛下がいきなり平民の女性に求婚したのです。娘の苦労は何だったのか……多くの貴族たちの心が離れて行ったのです」
当時を思い出しているのか、両親の表情は硬い。
「陛下の婚姻が認められたのは、懇意にされていたセリュー様の尽力によるものです」
陛下は本当に理解しているのか疑わしいですが……と、母は呆れたように呟く。
「そして今の殿下は、周りの信頼を得ることを怠った」
父の言葉を聞いて、周囲をいつも冷たい眼差しで睨み、悪態をつく王子の姿が脳裏に過ぎる。周囲の者も、少しずつ離れて行った。
「学院を卒業してから、どう振る舞うのか……見極める必要がある。易々と手を貸してはいけないよ、フェリシティ」
「……ええ、そうね」
両親の真剣な眼差しを受けて、フェリシティは頷く。
王子が愛する人と出会い、どう変わるのか――彼女は期待していた。
「君にはこれが似合いそうだね」
「いいのですか? とても高価なんじゃ……」
「気にすることは無いさ」
庭園に仲睦まじい男女の声が響く。
通りがかった宰相が見つめる先には、四阿に集う人々の姿があった。仕立屋が広げる布地を前に、一組の男女が話し合っている。
学院の卒業式典を控え、王子はイザベラにドレスを贈るようだ。
「髪飾りは……」
「あ、それは大丈夫です」
イザベラは慌てて頭に手をやる。
「手紙を出したんです。式典に来てほしいって……この髪飾りをつけてるところ、見てほしいなって思うから……」
はにかむイザベラを見て、王子は微笑む。
「イザベラは家族思いなんだな」
「随分と、ご執心のようで」
王子の顔を見て、宰相は薄く笑う。その時、向かいから来る人影に気が付いた。
「あら……ごきげんよう、お爺様」
侍女を伴って歩く少女は、宰相の孫娘だった。つり目がちだが愛らしい顔立ちで、同年代の令嬢たちよりも聡明な子だと、宰相は思っている。
「王宮に来てたのか」
「ええ。書庫に用がありましたの。伯母様にためになる本を教えてもらいましたから」
少女の胸を張る姿を見て、宰相が目尻を下げる。
王子たちの笑い声が聞こえ、彼女はそちらに注目した。
「噂は聞いておりましたが……王宮にまで招待するなんて」
その声は、やや冷たい。
「殿下は彼女をお妃に、と考えておられるからな」
ふうん、と呟き少女は目を細めてイザベラを見つめる。
「“お姫様”って感じですわね。人が自分に尽くすのが当たり前っていう……まあ、フェリシティ・クルーガーよりはましですけど」
「ふふ、手厳しいな」
母や伯母を敬愛する彼女にとって、奔放に振る舞うフェリシティは受け入れられないらしい。
「当たり前です。聞けば、この前も王宮の執務を滞らせたとか。そんな女が王妃なんて務まるわけありません」
少女は眦を吊り上げ、鼻息も荒い。
「まだ、あの人の方が……」
イザベラの様子をしばし眺め、ふと首を傾げた。
「……本当に、王妃になるつもりなのかしら?」
「さて、どうだろうな」
宰相は、再び王子の顔を見る――脳裏に浮かぶのは、呆けた顔で平民に愛を乞う男と、青ざめた顔で立ち尽くす娘の姿。
「……繰り返しはさせんよ」
執行の日を、彼は待ち侘びていた。