6、どうして、どうしてと繰り返す
自分の人生は、産まれたときから不幸に満ちていた。
身分の低い女から生まれたのだからと自分を蔑み、侮る人間たち。
母についていた侍女たちは皆、貴族の生まれで、いつも母に辛く当たっていた。いつも澄ましていて愛想のない、偉そうに振る舞う女たち。
父は母に興味を無くしていて、公務と称して母から距離を取った。母が亡くなったとき、あいつのどこか安心したような顔を今でも覚えている。
そして、自分には身分の高い婚約者を押し付けて、機嫌を取れという。
高位貴族の娘というのは、本当に唾棄すべき存在だった。
エミリー・レナーテは貪欲で浅ましい女だった。あいつが望んでいたのは王妃の位で、自分と目を合わせようとせず、終始薄気味悪かった。最後に見たのは、あいつが苦しみもがく姿だったか。いい気味だ。
その次は、フェリシティ・クルーガー……顔も思い出したくない。愛されて当然、という顔で微笑む傲慢な化け物。あいつはあの気持ち悪い目で俺を嗤い、妖精どもを操る。俺がどんな扱いを受けようとも、周りの奴らは助けようともしない。
学院に入学しても、自分の環境はさほど変わらなかった。教師も、取り巻きも、自分を見下しあれやこれやと口を出す。
もっと勉学に励むように。フェリシティの所を訪ねなくていいのか。平民たちも見ているのだから礼節ある振る舞いを崩さないように――どうして自分だけが。全てはあの男のせいなのに。
鬱陶しくなって南棟を抜け出したとき、偶然平民の学生と出会った。
自分を王子と慕ってくれる彼らはとても付き合いやすかった。
取り巻きどもは、あまり馴れ馴れしくしないようにとうるさかったが。
ある日、東棟のそばで、空から何か降ってきた。頭に掛かったそれを見ると、白いハンカチだった。
「なんだ。妖精の仕業か?」
図々しくも学院に通いはじめ、西棟に隔離されている化け物を思い出し、少し気分が悪くなる。
「……あの、申し訳ありません……フォルス殿下」
振り返った先には、一人の学生がいた。……暫く、その輝く瞳から目を離せなかった。
名を聞けばイザベラ・ロッシュという子爵令嬢だという。柔らかい微笑みと美しい声が心地よかった。
それからというもの、彼女に会うためだけに東棟へ通うようになっていた。
ある日、イザベラと他の女子学生が一緒にいるところを見かけた。イザベラに詰め寄る姿はとても醜く見えた。そいつらの姿には見覚えがある。城の奴らが次の婚約者を決めるようにと寄越してきた貴族の娘どもの中にいたはず。同じ貴族令嬢のはずなのに、どうしてこうも違うのだろう。
そいつらを追い払った後、イザベラに事情を聞くと、「殿下には婚約者候補の方がいるのを知らないのかって言われて……」と困ったように笑っていた。
……忌々しい女だ。どうして俺からイザベラを離そうとするんだ。あいつを妃に迎えるつもりはないというのに。
「心配ない。何の問題もない」と言えば、彼女はいつもの微笑みを見せてくれた。
それから、俺の周りもうるさくなった。取り巻きどもは自分を南棟に縛り付けようとする。
誰かが知らせたのか、王宮の奴らも次々とやって来て、どういうつもりかと問う。
どうして、自分を放っておいてくれないのか。自分は、ただ彼女のそばにいたいだけなのに。
ある日、宰相が俺のもとに来た。いつも父親といることが多く、俺とは関わらないはずの男がどうして、と思ったが。
「いや、殿下がお困りと聞きましたからな」
殿下が本気なら手をお貸ししますが――と言われた。
「イザベラ嬢をお妃に考えられていると思いましたが」
曖昧な関係を続けているからいけないのか――その時に、自分は決意した。
この男は母が王妃になった際に後見人になった男だったか。同じようにイザベラを支援してくれるのだろう。
「殿下が真に愛する人を見つけられて何よりです」
この男だけは、俺の味方をしてくれた。
渋る父を説得し、「イザベラ嬢も望むなら」と当たり前の条件を出してきた。
……くだらないことを。お前と一緒にされてたまるか。
「この件はくれぐれもご内密に。余計なことを考える輩は多いですからな」
宰相の助言に従い、婚姻のことは誰にも言わなかった。
これからも自分のそばにいてほしい――イザベラにそう告げると、「嬉しいです。ありがとうございます」と笑ってくれた。
ある時、「そろそろ潮時ですかな」と宰相がイザベラの籍を南棟に移すように手配してくれた。彼女に嫉妬する者、邪な気持ちを抱く者が多くいる東棟にいては危険だという。
「私のような者がいいのですか? 頑張りますね」
彼女はいつも真面目に勉学に取り組んでいる。その姿を見るだけで、自分も努力できた。
しかし、取り巻きの奴らはイザベラを執拗に監視する。
辺境伯の甥とかいう奴は、「迂闊なことをするな。彼女を調べた方がいい」と言いやがる。身分が低いというだけでどうしてこうも邪険にできるのだろう。
いつの間にか、取り巻きの奴らは居なくなっていた。宰相が気を利かせてくれたのだろう。イザベラが困らないようにと、使用人たちを置いてくれた。
さらに、さる伯爵家の支援を取り付けたという。
学院の卒業を待って、俺たちは婚約することができる。
卒業の日が待ち遠しい、と言うと「私もです」と笑ってくれる。
初めて、自分が幸せだと思える気がした。
インクが飛び散り、書類は散乱し、あちこちで菓子が食べ散らかされる。フェリシティ・クルーガーの蹂躙により、王宮の機能は停止していく。
そんな中、レイモンド・グレースは林檎のパイを差し出すことによりブラウン大臣の執務室を守ることに成功した。
「これは、なかなか……新しいわね」
卵白を泡立てた生地と林檎の甘煮を重ねたそれは、表面が少し香ばしく、中はしっとりとした食感。
彼女の今までの林檎パイの概念を覆すものだった。
「喜んでもらえてよかったよ」
そう言いながら茶を飲むレイモンドに、フェリシティは王宮へ来た目的を話す。
「イザベラ嬢ね……知っているよ。有名、だからね」
レイモンドは、苦笑しながら答える。
「見目麗しく、美しい声を持ち、まるで神話の女神のようだとか」
学生たちの意見だけどね、と肩を竦めて付け足した。
「南棟に移る前は一部の男子学生が追いかけていたし、女子学生とか教師にも崇拝している者がいるとか」
「先生も?」
咄嗟に口を挟んだフェリシティから、レイモンドは目を逸らす。
「僕は、どうだろうね……他に素晴らしい女性を知っているからね」
初めて見る、彼の後ろめたいような表情は、フェリシティに衝撃を与えた。
彼はそんなフェリシティに気付かず、「迎えが来たね」と微笑んでいた。
放置していた侍女が連絡を取ったのか、クルーガー家の家令が執務室を訪ねて来ていた。フェリシティはそのまま回収された。
料理長が市場で豚を買って来た時のように、フェリシティを肩に担ぎ上げ王宮を歩く家令。
すれ違う女官たちはくすくすと笑い、妖精たちはフェリシティの真似をしながら空を舞う。しかし、今のフェリシティには、そんなことなど気にならなかった。
――先生は好きな人がいるのね。どんな人なのかしら。先生は王宮にも学院にも外国にも行くのだから、色々な女性と出会っているものね。美人かしら。何歳なのかしら。女性とは限らないのかも……。
母からお説教を受け、夕食を摂り、湯あみをすませ、床につく――眠りにつくまで、ずっと同じことを繰り返し悩んでいた。
「あー疲れた」
「大変だったらしいね」
だらしなく椅子にもたれかかる父を、セドリック・アルジェントは労わっていた。
首の付け根を親指で押してやると、「あぁー」と聞くに堪えない声が漏れる。
「私は別に仕事が出来るわけでも好きでもないんだよ……そこそこの権力とそこそこのお金が欲しいだけなんだ……あーもっと揉んで」
「はいはい」
ねだる父の肩を揉んでやる。
領地から出てきていたアルジェント侯爵は、クルーガー家の令嬢によって王宮の機能が停止したにあたり、応援に駆り出されていた。
「まったく、馬鹿な奴らだよ……王子に女が出来た時点で、婚約者側に正直に話しとくべきだったんだ」
中途半端なことするから、痛い目に遭うんだよ……とぼやく侯爵。
「それに、フェリシティ嬢にもどうやら意中の相手がいるそうじゃないか」
噂になっとるぞ、と侯爵は笑った。
「ああ、レイモンド・グレース先生かな」
学院での様子を見る限り、互いに憎からず思っているんじゃないか、とは感じている。
「父さん怒られたんだぞぉ。お前の息子たちがフェリシティ嬢を監視してたんじゃないのかってなぁ」
「すまないね」
王子のようなあからさまな行動をとってないし、あくまで教師と学生の関係に留まる二人を咎めることが出来ようか……そう思う気持ちもあり、心のこもらない謝罪を返した。
「……しかしあの男、なかなか運がいい」
侯爵が語るには、レイモンドとイザベラを排除すれば、という意見も出るには出たらしい。
しかし、『あいつが居ないと仕事出来ないのになー』『出来ないのになー』と並んで囀るブラウン大臣と学院長や、『ほう、妖精の報復を恐れない勇敢なやつじゃ。蘇生ぐらいはしてやるぞ』とにやにや笑うヘイズ医師を前に意見を取り下げたという。
「まあ、これで二人の関係も終わりだ」
「じゃあ、あの令嬢が王子と? ロッシュ子爵家は大丈夫なの?」
王家に嫁ぐとなれば、相当の準備を要するはずだと思いながら尋ねる。
「どうだろうなぁ……ロッシュ家は今、困窮しているし……」
「どこかが支援するんじゃないの?」
国王が平民だった王妃を見初めたとき、王家とも深い関わりを持つマクシミリアン侯爵家が養子にしたと聞いている。形式上、義姉となった令嬢が教育係兼付き人になったのだ。
セドリックはそのことも念頭に入れて質問したが。
「……いや、マクシミリアン家が苦労したのを見ているしなぁ。どの家も関わりたくないだろうよ」
「それ、いいの?」
王族の血を残すために貴族たちも必死になっていたはず――しかし、侯爵の声には焦る気持ちが感じられない。
「王家はもう求心力を失っている。役割を果たさず、こちらの忠誠に応えることもない奴らなど、皆どうでもいいんだ。今の体制がちょうどいいから守っているだけで、王家の存在が面倒になれば切られるさ」
セドリックは王子の顔を思い浮かべ――まあ、仕方ないかなと感じた。あの王子が将来、民を導けるのか不安でしかない。
「国の方は宰相がうまくやるさ。クルーガーに押し付けてもいいが……いや、あいつはまずい。『神聖フェリシティ王国』になりかねん」
慌ててかぶりを振る侯爵。
セドリックの脳内に『神聖フェリシティ王国』の光景が浮かび上がる。妖精たちが舞い踊る中、人々は林檎パイを献上すべく玉座の前に並ぶ――ちょっと楽しそう、という感想は、心の中に留めておいた。
「ま、これからどうなるか分からん。フェリシティ嬢の機嫌は取っとけ」
「はいはい」
頬を膨らませ出て行った令嬢の顔を思い出し、骨が折れるな、と思った。
翌日、セドリック・アルジェントは友人たちと学院でフェリシティ・クルーガーを出迎える。
しかし、機嫌を取る間もなく、彼の服の釦は全て弾け飛んだ。
フェリシティ・クルーガーの八つ当たりは絶賛継続中であった。
「皆さまひどいわ。……本当にひどい」
彼女は学院の敷地内を歩きながらぼやく。
「どうして、あんな素敵な方がいるなんて教えて下さらなかったの」
「フェリシティ様……『あなたの婚約者に女がいるぞ』とは、なかなか言いづらいもので……ひゃぁぁ」
ブレンダ・ヘイズの眼鏡が揺れ、二つのおさげがくるくると渦を巻く。
「こんなに近くで触られてるのに、どうして見えないんだろう……おじいちゃんは脳の問題じゃないかって言ってたけど……」
他の者たちも、乱れた服と髪を直しながら後に続く。
学院内には三つの棟以外に、行事などで使われる講堂や、身分を問わず利用できる売店と食堂がある。
フェリシティは普段行くことのない売店を目指していた。揚げた林檎のパイがあるらしいのだ。
普段はやんわりと行動を制限する教師や友人たちも、彼女を止められなかった。
東棟の前、整えられた芝生が広がる場所は、学生たちの憩いの場でもあった。
思い思いに座り、食事やおしゃべりを楽しんでいた学生たちは、侯爵令嬢と取り巻きを興味深そうに見ていた。
紳士の嗜みを放棄した侯爵子息を、一部の女子学生たちが頬を染めて凝視する。
あのお嬢様の様子がおかしい。周りの方々はさらにおかしい――ひそひそと囁く声は、突然静まり返る。
一人が南棟から向かってくる一団を見つけ、隣の者の肩を叩く。あちこちで同じことが行われ、全員がそちらに注目するのに、そう時間はかからなかった。
「今度、王宮に職人が来るんだ。イザベラ、君の髪飾りを作ってもらおうか」
「お気遣いありがとうございます。ですが、私はこの髪飾りで十分です」
「……随分と古い物のようだが」
「はい、昔に買ってもらったんです。領地ではいつも白詰草が咲く頃にお祭りがあるんですけど……」
女子学生と並ぶのは、赤みがかった金髪の男子学生。二人の後ろには、王宮の使用人たち。
最初に気付いたのは、女子学生――イザベラ・ロッシュの方だった。
あれやこれやと話しかける王子に笑みを湛えながら答えていたが、前方にいた一団の中心、フェリシティ・クルーガーの姿を見て、立ち止まった。
艶やかな銀色の髪に、紫の瞳。白い肌と細い手足。白い毛糸を丸めたような髪飾りが些か不格好で目を引くが、可憐な出で立ちの少女であった。
まさしく“お姫様”に似つかわしい姿に、周囲を飛び交う美しい妖精たち――そして、彼女を見る王子の優しい眼差し。
フェリシティは確信した。この方こそ、王子が真に愛することが出来る人だと。
「あなたは……フェリシティ・クルーガー様?」
イザベラが呼び掛けるのと、フェリシティが礼をとるのとはほぼ同時だった。
頭を深く下げ、膝も深く曲げて――婚約者などではなく、あくまで臣下であると知らしめるために。
それを見た後ろの者たちも慌てて礼をとる。
「……ああ、お前か」
興味の無い様子でフェリシティを見下ろすと、打って変わってイザベラに甘い声を掛ける。
「イザベラ、気にすることはない」
王子は此方を気に掛けることなく立ち去って行く。周囲の者に促されながら、イザベラもそれに続く。
「どうして……」
――どうして。
そう呟く声が、フェリシティの耳に届いた。