5、妖精とお姫様
この国では成人になる前に学び舎へ通うことが推奨されており、各地に点在する施設は身分を問わず学べるように環境が整えられていた。
無論、王子も例外ではなく、王都の学院に通うことが決定された――専用の教室、専用の教師、専用の学友に囲まれて。
婚約者“候補”のフェリシティも同じ教室に籍を置くこととなったが、定期的な通学はほぼ免除された。『健康上の理由』を主たる理由にしているが、平民も通う場所で王子との不仲を見せるわけにいかないというのが重鎮たちの本心だろう。
それに、屋敷や王宮で教育を受けていたフェリシティには授業はさほど必要ない。学習を怠っている王子の方が問題だ。
“大人の装い”を諦め、侍女の選ぶ若草色の服を着たフェリシティは、学院の西棟にある一室で、出迎えを受けていた。
学生たちが主に授業を受ける東棟とも、王族が通う際に準備される南棟とも離れたここが、おそらく彼女の定位置になるのだろう。
「初めまして、フェリシティさん」
数人の学生が並ぶ中、一人の男子学生が前に出た。人当たりの良さそうな笑顔を見せている。
「僕はセドリック・アルジェント。これからよろしく」
王国の南端、鉱山を管理する侯爵家の子息――とフェリシティは記憶している。王子の入学に合わせて、領地から出てきたのだろう。
「お久しぶりです。フェリシティ様と学院に通うのを、楽しみにしてましたのよ」
リボンとフリルがひと際目立つ装いの彼女は、確かマーガレット・フリッツ伯爵令嬢だったか。フリッツ伯爵が王宮に勤めており、王子を囲む交流会で彼女を見たことがあった。
「よろしくお願いしますね」
一人ずつ顔を確認しながら声を掛け、最後に見たのは皆より数歩離れた場所に立つ女子学生。眼鏡をかけ、三つ編みを左右に垂らした彼女がブレンダ・ヘイズらしい。この中で唯一の平民であり、やや気後れした様子を見せている。
「ヘイズ先生には良くしていただいているの。会えて嬉しいわ」
フェリシティに手を取られ、目を白黒させるブレンダ。それを周囲の学生たちは微笑ましく見つめていた。
こうして、フェリシティの“ご友人”との対面はつつがなく終わった。
彼女は“ご友人”に付き添われながら、教師の部屋へ通って授業を受けることになる。
学院の配慮なのか、選ばれた教師に若い男性はほとんどいなかったが。
「はい、そこまで」
フェリシティの朗読を、教師が手を叩いて止める。
「三行目をもう一度。発音で意味が変わるので気を付けるように」
セリュー女史は短く切り揃えた髪と、極限まで露出を抑えた服が印象に残る女性だった。眉間の深い皺と固く結ばれた唇が表す通りの、厳格な人柄。
亡き王妃の教育係を務めた後、学院で教鞭を執っている彼女は、優秀な生徒を数多く輩出しているらしい。
「セリュー先生には僕も鍛えられたよ」
レイモンドが苦笑する。
授業を受けることはなくても、研究室を出入りする彼の姿はよく見かけた。
それだけで、フェリシティは西棟に通っていてよかったと思う。時間があればこうやっておしゃべりもできるし。
今日の話題はセリュー女史のことであった。
「そうね。発音に厳しいの。それに話すときの姿勢も。でも、いい人だわ」
おべっかばかり使う王宮の人間と違って、公正で親身で教育に熱心――フェリシティは学院の教師たちを気に入っていた。
「今度は東棟に行ってみようと思うの」
他の学生たちの授業を見てみたい――フェリシティの要望を学院側も快諾した。
真面目で優秀、そして危害を加える恐れのない生徒たちを選抜した。
木炭や絵筆が紙に触れる音が響く室内で、教師は眉を顰める。
屋内だというのに華美な外套と帽子を隙なく着こなす彼は、画家として名を馳せている人物だった。
学生たちが囲む林檎や檸檬と、一人の学生の作品を見比べて――
「私には妖精のことは分からないけど」
彼の視線の先には、檸檬の上で踊っている猫と大きな林檎のパイ。
「貴女にはそう見えているの? フェリシティさん」
木炭を握っていた学生は手を止め、悪びれずに言う。
「これはパイになる運命なのよ」
教師は溜め息を吐き、こめかみを抑える。
「……王宮にいい医者がいるわ。紹介しましょうか?」
「もう診てもらっているわ」
左に並んでいた令嬢が、そっと彼女の肩に触れた。
「フェリシティ様、描き直したほうがよさそうですわ」
令嬢はてきぱきと画架の紙を取り替える。元の紙を、これは預かっておきますねと丁寧に包み始めた。
そんな彼女にありがとうと一声掛けると、フェリシティは再度、架台に向き直る。林檎の曲線が描かれたことに教師は安堵した。
彼女の周囲の学生は、そんな侯爵令嬢をちらちらと見たり、筆を落としたりと、まったく集中できていない。
――まあ、無理もないのかしら。
教師は心の中で呟く。
この侯爵令嬢が授業を受けに来ると聞いて、“クルーガー家の妖精さん”を一目見ようと多くの学生が参加を希望した。
身のこなしや装いは高貴な令嬢のそれなのに、おしゃべりで人懐っこい。不思議な右目も相まって、人を引き付ける愛らしさを持っていた。
しかし一部の生徒たちの視線には恐れの感情も含まれており、身分の高さや『垣根の上に立つもの』であることがそうさせるのだろう。彼女が幼少の際に伯爵家で起きた事件は、平民の間にも伝わっている。
彼女が王妃になれば面白くなるんじゃないか、と期待させる何かはある。
――まあ、その可能性は、低いのでしょうけど。
彼は、一日で授業を放棄した王子の不遜な態度を思い出す。それと、この“妖精さん”に惹かれつつある同僚の顔も。
「……どうかしましたか」
日も暮れたクルーガー侯爵家の一室。夫人は侍女から報告を受けていた。
末娘に付き添い学院へ通っている彼女は、深刻そうな顔を見せている。
「フェリシティ様は、どうやらレイモンド・グレース氏を気にしておられるようで……お嬢様のあのお顔は……」
よろしいのでしょうか? と問う侍女に、夫人は冷たい眼差しで答えた。
「言いたいことはそれだけですか?」
侍女は思わず身を竦める。
「貴方が報告するべきことは、その方が、あの王子よりましかどうか。それだけです」
「く、比べ物になりません!」
クルーガー家の使用人たちは不敬を極めつつあった。
王立学院の近くに、アルジェント侯爵家の屋敷があった。一族が王都に滞在するために建てられたもので、今は子息が利用している。
「父さん、あれは無理だね」
「そっかぁ」
父と子しかいない部屋は、緩んだ空気に包まれていた。侯爵家の中では最も歴史が浅く、普段は侮られぬよう隙なく振る舞うアルジェント侯爵だったが、今は椅子にもたれかかりくつろいだ表情を見せている。
領地と王都はかなり離れた位置にある。それでも王子と婚約者“候補”の動向を探りに、彼は時々息子の元を訪ねていた。
「王子はフェリシティ嬢のことを気にも掛けてない。ジークさんが……ほら、辺境伯の所の。いつもぼやいでるぜ。あの王子、南棟を抜け出すって」
辺境伯には妻子がおらず、甥が跡を継ぐ予定であった。彼も駆り出されていたな、と思い起こす。
王子は宛がわれた学友たちを、お気に召さないらしい。皆、彼の為に入学を早めたり卒業を遅らせたりしているというのに。
「ま、平民の前ではいい格好つけてるから、“親しみやすい王子”で通ってるみたいだけど」
フェリシティ様と会わないように調節するの面倒なんだよなぁ、とぼやく。
「すまんなぁ」
息子には家のために苦労をかけている。旨い物でも食わせてやろうか、それとも妻には内緒で……とぼんやりと考えていたが。
「……それにさ、ちょっと聞いたんだけど」
「お、どうした」
息子の目を細めた顔に異変を感じ取り、侯爵は背もたれから身を起こす。
「ロッシュ家って知ってる?」
周りの人間が王子と婚約者“候補”の動向を探り、あれやこれやと思案しているとき、フェリシティの耳にだって王子の噂は届いていた――“こちら側”からも、“あちら側”からも。
王子が相変わらず勉学を疎かにしていること。王子が東棟を我が物顔で歩いていること。王子がある女子学生に執心していること――
フェリシティが周囲に尋ねても、はぐらかすばかりであったが。
その日、フェリシティは学院の西棟で授業を受けていた。開け放たれた窓から入るそよ風が心地良い。
丸い机を囲み、回し読みするのは東側の帝国の言語で書かれた文献。なるべく早く、簡潔に、要点を掻い摘んで書き記す。マクルズ家の爵位剥奪、大規模な博覧会、廃坑の調査……。
セリュー女史が見張る中、皆が真剣に取り組んでいた。
フェリシティがちらりと窓の外を気にした。それを女史が見つけ、目を吊り上げる。
急に、窓際にいた学生が席を立った。
「少し風が強いのでしょうか……閉めておきますね」
物静かなブレンダにしては珍しく、慌てた様子で立ち上がる。窓枠に手を掛けたとき――
「……そうなの?」
フェリシティが席を立つ。隣の生徒とぶつかりながら、窓際へと駆け寄った。
「だめっ」
ブレンダが咄嗟に腕をとるが、彼女は気にせず窓に顔を近づける。
そこからは学院内を行き交う生徒たちが見えた。その中には、一際目立つ集団。
銀色の髪を持つ女子学生と、それを囲む男子学生たち。その中には、彼女の見知った姿――赤みがかった金髪を持つ婚約者もいた。
「フェリシティ様……」
「すごいわね、いっぱいいるわ」
触れられている左手のことなど気にせず、フェリシティはずっと右肩に向かって話し続ける。
王子と“彼女”を見つけた婚約者“候補”の異様な振る舞いに、女史と大半の学生達は呆気に取られて――物音と机の振動で我に返った。
侯爵子息と伯爵令嬢が、ほぼ同時に机に本を乗せたのだ。フェリシティが過去に描いた『妖精図鑑』を。
悲壮感を滲ませるブレンダの背を擦り席に着かせると、伯爵令嬢がその場所へ代わりに立った。
「フェリシティ様」
「なぁに?」
手を取り強めに声を掛けると、フェリシティは“こちら側”の存在を思い出したようだった。
「どなたかいるのですか? どうか私たちにも教えていただけないでしょうか」
「すごいのよ、あの方」
彼女は、いつも以上にはしゃいだ様子を見せた。
席に戻ると、置かれていた『妖精図鑑』を捲り、次々と指さしていく。どれもが美しい見た目をしていた。
「あんなに妖精に慕われる人、初めて見たわ」
そんな騒ぎの中、女史が手を叩く。
「貴方たちは自分の本分をお忘れですか?」
そう言われてしまっては、授業を再開するしかない。二冊の『妖精図鑑』を囲んでいた学生たちは渋々と席に戻った。
いつもより長めの授業が終わり、女史が立ち去った後。
例の学生のことを聞きたがるフェリシティに、皆は躊躇いながら答えた。
イザベラ・ロッシュという子爵家の次女で、王都の親戚のもとで生活しているという。
それ以上は教えてもらえないと分かると、フェリシティは西棟に滞在していた教師たちを訪ねて回った。
「申し訳ありませんが、王家のことは……」
緘口令が敷かれているのだろう、教師たちは目を逸らし同じことを言う。
ただ一人、セリュー女史だけが、あの王子はイザベラ・ロッシュにご執心でとうとう彼女の籍を南棟に移した、と淡々と答えた。イザベラは、現在、婚約者がいないとも。
「じゃあ、陛下も当然ご存じね」
いざ王宮に乗り込まんと女史の研究室を出ようとしたとき、フェリシティは引き留められた。
「あなたはイザベラ・ロッシュをどう思いますか」
「どう思う、ですか?」
質問の意図が分からず、首を傾げる。きっと素敵な人だろう、とは思うが。
「……王妃になるよう決められた人生を、自分が賭してきた全てを踏みにじられるのですよ」
声は震え、眉間の皺は一層深くなる。女史の様子からは怒りや悲しみの感情が見てとれた。
「愛、という一点だけで全てが奪われるのです。簡単に受け入れられるのですか」
その言葉に、そうねぇ、と呟く。
生憎と、女史に共感するには境遇が違い過ぎた。
「殿下の愛する人を見つけることが今の人生の目標ですもの」
終わったらまた考えるわ、とフェリシティは笑う。
「そう……」
女史の顔から、ふっと力が抜ける。
「……あなたは、そのようなことに縛られる方ではありませんでしたね」
女史の口元が、かすかに綻んだように見えた。
そんな彼女に見送られ、学院から王宮へ。フェリシティの頭の中から、学院で控えていた侍女のことはすっかり抜け落ちていた。
「正直に話さないとひどいことするわよ」
今まで関わって来た王宮の重鎮たちがイザベラ・ロッシュを知っていると認めた。それを理由にクルーガー家が婚約者“候補”の辞退に乗り出していることも。フェリシティとイザベラ、どちらを婚約者に据えるか意見が割れていることも。
フェリシティは激怒した。
「どうして教えてくれなかったの? 私が待ってたお姫様なのに」
彼女が知る限りの汚い言葉で重鎮たちを責めたてた。“あちら側”の住人たちもこれに便乗し、王宮は大いに乱れた。