4、優しい時間
王子の婚約者“候補”となったフェリシティに対して、他の貴族令嬢は同情や哀れみの気持ちを示していた。
しかし、産まれたときから“あちら側”に触れてきた彼女にとって、王子の一人ぐらい増えてもさして困らないというのが本音なのだが。
性格の面からも、生真面目で物静かなエミリー・レナーテより、時々“あちら側”の住人のように気まぐれな面を見せる彼女の方が王子と付き合いやすいのだろうと、周囲は評した。令嬢らしいかどうかはさておき。
数少ない王家の血筋を守るためにも、『垣根の上に立つもの』は力になるのでは――そのような思惑もあり、国王をはじめ多くの重鎮たちが彼女を支持した。
「俺がお前を選ぶことは無いというのに」
義務付けられた茶の席で、王子は必ず毒づく。
どのような言葉を受けようが、フェリシティの表情は変わらない。
令嬢としての品位を保っているというのが半分、どうでもいいというのが半分。
「ただ、現状では私が妥当だった……それだけの事です」
今日も、王子の言葉に対して、穏やかに返す。彼女の意識の大半はスプーンに載せた角砂糖に向けられていた。紅茶に浸して柔らかくすると、妖精たちが集まるのだ。
「殿下が真に愛し合う方と出会えるまでです」
フェリシティの希望を、王子は鼻で笑う。
「化け物が愛を語るのか」
嘲るような目線も、フェリシティはさほど気にならない。勢い余って紅茶に顔を突っ込んだ妖精の救助にいそしんでいた。
「……王子様は化け物を退治して、お姫様と結ばれるのかしら」
ふと呟いた言葉は、少女たちが読む物語によくある結末。それを聞いた王子は笑い声をあげた。
「それは傑作だな」
彼は飲み干したカップを乱雑に置き、席を立った。
近付く侍女たちを手で追い払うと、早足で立ち去っていく。
「ごきげんよう、殿下」
フェリシティの声だけが、室内に響いた。
何度会話を重ねようと、二人の距離が近付くことは無い。
それでもフェリシティは、教育のため、交流のため、王宮に通った。
王子は時々、約束の時間に現れない。そんな時は、公務の合間を縫って国王がフェリシティの相手をすることもあった。
「その……すまないな。あいつは今、部屋に閉じこもって出ないつもりらしい」
額の汗をぬぐいながら、国王は頭を下げる。
「構いませんわ、陛下」
今日は林檎のパイが供されたので、それだけでも来た価値があったというものだ。
細かく切った林檎は甘さも控えめに煮詰められ、重ねた二種類の生地と間に挟まれたクリームによく合う。屋敷で食べるパイが一番だとは思っているが、贅を凝らして作られたこれも中々よい。林檎パイに貴賤は無いのだから。
遠慮なくパイを頬張るフェリシティを、国王は安心したように見つめる。
赤みがかった金髪に、整った顔立ち。肩幅の広くがっしりとした体つき。年齢はフェリシティの父よりは多少上くらい。さすがはあの王子の父なだけはある、と思わせる美丈夫であった。彼を題材に描かれた絵画は多くあり、どれもが勇壮さを感じさせるもののはず……とフェリシティは記憶している。
しかし、ここ数年は、王子に対して弱腰で、周囲に頭を下げて回る姿しか見ていない。“国王”と呼ぶには些か弱々しく、そして疲れた印象を与えていた。
疲れているのは仕方ないのかしら、とフェリシティは思う。王妃は不在で、王子は公務に関わらない。周囲の助けがあるとはいえ、彼の負担はかなりのものだろう。それに、お父様のあれもあるし――
王子とフェリシティの歪な関係も数年続き、クルーガー侯爵は国王に新たな攻勢を仕掛けている。
『お前の駄目な愚息じゃなくて、お前になら嫁いでもいいって女性ならすぐ見つかるぞ。そっちの愚息が駄目になる前にどうだろうか』という旨の内容を、極めて紳士的に進言する侯爵に、女官たちは頬を赤らめた。
側近たちは見て見ぬふりをする――あれで仕事は出来るのだから困る、わが国の防衛を担っているはずなのに、等と呟きながら。
そんな少し精彩を欠いた国王を見て、フェリシティは気になることがあった。
「陛下、一つよろしいでしょうか?」
「なにかな?」
そんなに物欲しそうな顔に見えたのだろうか、彼は自分の前に置かれている林檎のパイの皿に指を掛けている。
「どうして、陛下は貴族から王妃を選ばなかったのですか?」
そう聞かれた国王の顔が固まる。暫くして、困ったように微笑んだ。
「そうだね……私にも、子どもの頃から婚約者候補はいたんだ」
フェリシティはそうでしょうね、という思いを込めて頷いた。
「皆、優秀で誠実な者たちだった。国がよくなることを第一に考えてくれていた。中には、どうせ想う相手とは結ばれないんだから国の為に死んでやると自棄になっていた者もいたがね」
国王の瞳が懐かしそうに遠くを見る。「親子は似るもの、か」と呟いた声に、フェリシティは首を傾げた。自分と母のことではないはず。
「でも、何となく、王妃になってほしいと思える者がいなかった。いつまでもそんな我儘を言っておられないので、私が学院を卒業する時期の情勢を鑑みて決めようかと漠然と考えていたんだが……式典の時、初めて彼女を見かけたんだ」
亡き王妃のことを語る国王の瞳は輝いて見えた。愛する人が見つかれば、殿下もこんな目をするのかしら――とフェリシティは思う。
「誰よりも光り輝いて見えた。彼女に私の隣に立ってほしい……あとは、体が勝手に動いてたんだよ」
深く吐いたため息に、何となく後悔する気持ちが込められているように感じる。しかし、彼の本心を尋ねるのは憚られた。
そんな二人のもとに、大臣の一人が近付く。彼の姿を見て、国王はゆっくりと立ち上がった。
「すまない……もう時間のようだ」
この後はどうするのか、と問う国王に、フェリシティはフリッツ伯爵の執務室を訪ねる予定であると返した。
婚約者“候補”となってからは、国の重鎮たちから講義を受けている。王妃にならなくても、将来の役に立つだろうと考えて。
講師に選ばれた者たちは、『辞退することのないように』厳しさとは無縁だった。
「いやはや、その通りでございます。さすがフェリシティ様」
「そこまで学ばれては、もう十分でございます」
「後は我々にお任せください」
同じ文言を繰り返す周囲に、彼女は少し、飽きていた。
「フェリシティ様、ブラウン大臣がお待ちですよ」
左後ろに控えていた侍女が声を掛ける。
今日は交易を学ぶ予定の日。大臣の待つ部屋に足が伸びず、フェリシティは画廊に寄り道をしていた。王族の肖像画を眺めながら、のんびり歩く。
「だって、今日も一緒よ。地図を見て、本を読んで、『いやぁ王家もこれで安泰ですなぁ』って言われるのよ」
鼻をつまみ物真似を始める主人に耐え切れず、侍女は口元を抑えて震え出す。
自らの戦果に満足したフェリシティは、突き当りに飾られた絵画の前で立ち止まり、大きくため息を吐く。
「あーあ。早く来ないかしら、お姫様」
そこには国王にティアラを差し出され、驚く簡素なドレスの女性と、周囲で手を叩く高貴な身分の女性たちが描かれていた。
「おや、妖精のお嬢さん」
しわがれた声に振り向くと、年老いた男が立っていた。立派な顎鬚とくたびれた白衣が目立つこの人物を、フェリシティは知っている。
「ヘイズ先生? お久しぶりね」
ロブ・ヘイズは王宮に勤める優秀な医者であり、クルーガー家の侍医の師にあたる人物だった。
フェリシティが『垣根の上に立つもの』と判明してから、侍医は自分の診察に間違いはないかヘイズ医師に相談を持ち掛けたのだ。
ヘイズ医師はフェリシティを診察すると頭を撫で、『他に問題はありゃしませんよ』と片目を瞑って笑って見せた。その笑みはなかなか魅力的で、もう少し若い時には彼に恋心を抱く貴族令嬢もいたらしいと噂になっている。
「聞いとるぞ。あのひねくれ坊主の婚約者になったんだとな」
にやにやと笑うヘイズに、フェリシティは首を振る。
「ただの“候補”よ。そのうちお姫様が現れるわ」
ほう、とヘイズは絵画を見上げる。
「おとぎ話が必ず幸せになるとはかぎらんぞ?」と呟きながら、顎髭に手をやる。
「……そうそう、お嬢さんも来年には学校に通うのかな? 儂の孫も同じ年頃でな。お嬢さんの側付きに推薦しようかと思っとるんだが」
彼の提案に、フェリシティは両の手のひらを合わせる。
「うれしいわ。仲良くしてくださるといいけど」
「勉強熱心でな、医術も学んどる。お嬢さんの助けになるじゃろうて。ただ……頭は少し、固くてなぁ。何かあったらいつでも相談に来なさい。人間は、妖精よりも残酷なことができるからの」
痒かったのだろう、彼が顎を掻くと、髭に掴まっていた小人が滑り落ちた。
「……あら?」
約束の時間に少し遅れて部屋の前に到着し、扉を叩く。
「どうぞ」という声は、ブラウン大臣のものではなかった。
少し躊躇ってから、侍女が扉を開く。
部屋の中では、一人の青年が席から立ち上がった所だった。
背の高い、濃い茶色の髪の青年。淡い青い瞳が、眼鏡越しにこちらを見つめている――些か、物珍し気に。
青年は押し黙り、フェリシティと侍女も何と声を掛けたらいいか分からず、沈黙が広がる。
途中で彼が気付いたように、口を開いた。
「いや……“クルーガー家の妖精さん”の噂は本当だったようだね」
申し訳ない、と慌てて付け足す。
「僕はレイモンド・グレース。ブラウン大臣が腰を悪くしてしまってね。代わりに寄越されたんだよ」
「そうでしたの……よろしくお願いいたします」
フェリシティは頭を下げ、レイモンドの向かいに腰かける。
彼はその姿を呆けたように眺めていたが、フェリシティと目が合うと急いで地図を広げる。西側を頼まれたのだけど、と呟きながら。
「林檎が好きなのかい?」
レイモンドの説明を聞きながら地図を眺めていたフェリシティは、その言葉に顔をあげた。
「そう見えたのだけど、違ったかな?」
向かいの相手は少し口角をあげる――王子の嘲るような笑みや、王宮の者の憐れむような笑みとは違う、優しい微笑みであった。
「ええ、そうなんです」
その微笑みに、家族といるときのような気持ちを感じたフェリシティは、弾んだ声を出す。
「うちの料理人がつくる林檎のパイは素晴らしいの」
そうよね、と振り返り同意を求める彼女に、侍女は困ったような笑みで答えた。
今日の講義の時間はあっという間に過ぎていき、遅刻したことを、フェリシティは少し、後悔した。
次に部屋を訪れたときにはブラウン大臣が座っていたが、レイモンドは時々仕事のため王宮に訪れ、フェリシティと雑談に興じた――あくまで、王子の婚約者“候補”と大臣の部下として。
フェリシティとは六歳離れたレイモンドは伯爵家の三男坊として生まれた。語学に堪能で、学院を卒業してからは講師の傍ら外交にも関わっている優秀な男である――と周囲から評されているらしい。
フェリシティが学院に入学する歳になったとき、レイモンドは『授業が無い時はここにいるから。困ったことがあれば来て』と、彼女に紙片を渡した。
「駄目よ」
学院に通う日、フェリシティは初めて侍女に反抗した。
用意された、華やかな色味のドレスを拒否したのだ。
「私はもう十六なのよ。もっと大人に見える服がいいわ」
侍女たちはくすくすと笑い、主人の望み通りに身なりを整えた。
持っている中で一番簡素な紺色の服で、髪は小さく纏め、装飾も抑えめに――
鏡の中の自分は、母のような淑女とはかけ離れた地味な娘の姿で、フェリシティは何となくエミリー・レナーテを思い出した。