2、同族のふりをする
フェリシティ・クルーガーは伯爵家での騒ぎを機に、『垣根の上に立つもの』として人々に認知された。
彼女を危険視し社交界から追い出すべきだと主張する者、後学の為に話を聞きたいと希望する者……様々な人間がクルーガー家に接触を図ろうとした。
そんな騒ぎをよそに、クルーガー侯爵家の屋敷の中は、今までとさして変わらなかった。
家族にとっても、使用人にとっても、“よくしゃべり、よく笑う、可愛い末娘”であることに変わりはなかった。
ただ一人、母親だけが少し厳しくなった。
人には知られたくない秘密の一つや二つ持っているのだから、それを“お友達”から聞いてもむやみに話さないように――人差し指をたてて口元に寄せる夫人の姿が屋敷でよく見られるようになる。
そして、当のフェリシティ本人は――絵を描くことに夢中になっていた。
描くのは左目が映す風景と、“あちら側”の住人たち。
きっかけは、父の一言だった。
「フェリシティにはどんな“お友達”がいるんだい?」
そう聞かれた彼女は、父に絵を描いて見せた。
先日、伯爵家の花壇にいた薔薇やかすみ草の妖精たち。花びらのような髪と蝶の翅を持つ小さな少女のような姿かたちのかれらを見た父の表情を見て、フェリシティは気付いた――自分の見る世界と他の人々の見る世界、それの違いを確認する必要があると。
そこでフェリシティは絵を描いては屋敷の者たちに見せて回った。
「お嬢様……私なんかより、もっときれいな人を描いた方が……」
女中が、厨房の隅にいたフェリシティに声を掛ける。
立場としては料理人の下働きになるが、菓子作りに関しては認められていた彼女は、午後のお茶の準備をしていた。
「これで……できたわ。ねえ、どう見える?」
絵を描き上げたフェリシティは、女中の前に掲げる。
焼きあがったパイを取り出す女中と、菓子に群がる小人たち――それを見た女中は目を丸くした。
「はあ……私には、さっぱり……」
女中は困ったように辺りを見回す。
「そう……」
フェリシティはしょんぼりとした表情で絵を下げる。そのまま道具を片付け始めた。
「あ、あの……」
女中はその背中にためらいがちに声を掛けた。
「お嬢様、私にそれ、いただけませんか?」
「これ? いいわよ」
板に留めていた紙を女中の手に渡した。
頭を下げてお嬢様を見送った後、女中は改めて絵を眺める。
(妖精って甘いものが好きなのかな?)
傍らにあるパイを見やる――やはり、自分には誰かがいるなんて分からなかった。
しかし、この絵の中の妖精たちはとてもかわいらしいと思う。
(お休みの日に額縁を買おうかな。私のお給料で出来る限り上等なの)
皺にならないよう、部屋にしまっておこうと考え――改めて、林檎のパイを見つめなおす。
(そういえば、冷ましていると少し欠けたりするような……)
「それはお嬢様にお出しするのだから、先に食べてはだめ」
林檎のパイが、少し、揺れた気がした。
「……あら、いいわね」
侍女とすれ違いざまに、丸めた紙を手にした彼女に声を掛けられる。
彼女の視線は、女中の持つ紙に注がれていた。
「この絵が……どうかしましたか?」
「私なんて、これよ?」
侍女が手にしていた紙を開く――暖炉の上を片づける彼女と、暖炉から覗く、二つの光る目。しわがれた手が外に出ている。
女中はその不気味さに小さく悲鳴を上げた。
「これ、なんですか……?」
「お嬢様は、悪いひとじゃないのよっておっしゃるのだけど……」
冬場には出て行ってくれるのかしら、と侍女は肩を竦める。
「……本当に、妖精っているんですね……」
女中がしみじみと呟く。
孤児院生まれの彼女は、院長を始めとする大人たちからおとぎ話を聞いて育った。彼女にとっては、自然や物に感謝するための教訓としか思えなかったが……自分が料理人見習いになれたのも妖精の導きなのだろうか、と考えていると――
「……お嬢さん方」
廊下で向かい合っていた二人に、年老いた庭師が声を掛ける。厨房にお茶を貰いに来たのだろう。
「いいもん見せてやろうか」
二人が何をしているのか察した彼は、得意気に折りたたんだ紙を取り出す。
広げられた紙には、土を掘る庭師の後ろで踊る、長靴を履いた猫の姿。
『かわいい!』
外にまで聞こえる大声を出した二人は、このあと家政婦長に絞られることになる。
家族や使用人達は、フェリシティの描く、愛らしさや奇妙さを感じさせる“かれら”の姿に驚くばかりだった。
当の本人は、周囲の反応を見て“こちら側”との隔たりを強く感じていたのだが。
ある日侯爵夫妻は気付いた――娘はとても絵が上手じゃないか、と。
そこで、友人や学者に芸術家……比較的、“あちら側”に寛容な人達にその絵を見せて回った。
娘はとてつもなく可愛くて、賢くて、優しくて……繰り返される自慢話を聞き流しながら見る妖精の絵は、皆の興味を惹いた。
人づてに噂は広まり、ある日、とある商会が本にしないかと提案した。
「いや、侯爵様方もご存じでしょうがね……」
姿勢低く訪ねてきた中年の男は『とりあえず話だけ』と、侯爵夫妻に迎えられていた。
「この国を含め、大陸のあちこちで確認されとります『垣根の上に立つもの』は、妖精の姿が光のように見えたり、声が風のように聞こえたりすると申しておりまして……お嬢様のようにはっきりと妖精と意思疎通ができる人間などめったにおりませんよ」
『……』
フェリシティの希少性を述べる商人を前に、侯爵夫妻は顔を見合わせる。
気の乗らなそうな夫妻の表情を見て、商人は戦法を変えた。
「いや、この色使い、生き生きとした妖精の姿、本当に素晴らしい! お嬢様は絵の才能がおありのようで」
『そうでしょう、そうでしょう』
夫妻が前のめりに頷く。
「使用人たちの働いている表情を見てもわかります、皆さまから愛される素晴らしいお方だからこそ、このような絵を描けるのですな」
『そうでしょう、そうでしょう!』
扉の隙間から様子を覗いていたフェリシティは、思慮深く見え透いたお世辞など聞き流すはずの両親の変貌ぶりを見て呆気にとられた。
家令に小脇に抱えられながら、愛が深すぎると人はおかしくなるのではないか――と結論付けた。フェリシティは“こちら側”のことをまた一つ学んだ。
すっかり商人に乗せられた両親に困惑しながらも、フェリシティが出版に承諾したことで、『妖精図鑑』と名付けられた本は売り出され……とてつもなく売れた。
妖精たちがここまではっきりと描かれることは珍しく、人々の興味を引いたようだ。
『妖精図鑑』の評判は国外まで届き、こちらでも出版したいという申し出を受けるまでになる。
フェリシティの元には、お祝いの言葉や集まりへの誘いが書かれた手紙が届いた。
彼女は丁寧に返事を書き、誘いは全て断っていたが――受けざるを得ない手紙が来てしまった。
王宮で、高位貴族の子弟たちが茶会を開くという。わが国でただ一人の王子の将来のため、皆で交流を深めて欲しいという意図が込められた王の誘いに、フェリシティは躊躇した。
伯爵家での一件が尾を引いていると家族は察していたが、兄たちと一緒に参加することで話は纏まった。
フェリシティが望むなら外との関わりを絶って暮らすことも可能であるが、将来に向けて選択肢は広げてほしいと、家族は願っていた。
二人の兄は友人たちに根回しをし、侍女は肌や髪を手入れして、両親は娘の服に悩み――あれやこれやと準備をされて、いざ当日。
家政婦長が皆に『やりすぎない』と叱咤しながらも、フェリシティは着飾らされた。身分の高い者としてそれなりに、おそらく王子の婚約者候補と目されている女性がいるだろうから少し控えめに。
わが子が乗る馬車を見送る侯爵夫妻の声援は、近隣に響き渡った。
王宮に到着し、日当たりの良い一室に通されたフェリシティを迎えたのは、好奇心や怯えを隠すように笑みを取り繕う子どもたち――高位貴族の子弟だけあって、躾がなされているようだ。……中央のテーブルに座る王子からは、『お前が噂の化け物か』と吐き捨てられたが。
赤みがかった金髪に、切れ長の茶褐色の瞳。背も高めで瀟洒な衣服がよく似合う。目を細め、口元を歪める表情でなかったら物語の王子様そのものなのに……とフェリシティは残念に思った。
周囲の子息たちが、場の空気を変えようと『妖精図鑑』を褒めそやす。
彼らの気遣いに感謝しながら、フェリシティは身近にいる妖精の話で場を和ませた。
同族としてか異物としてかは知らないが、フェリシティの存在は受け入れられ、お茶の席は無難に過ぎていく――彼女の周囲だけなら。
皆が部屋の中央に神経を尖らせていてそれどころではなかった、と言うべきか。
終始黙り込み、嫌悪の表情を隠さない王子と、隣で俯き、静かに話を聞いている令嬢の存在が、場の空気を重くしていた。
フェリシティの視線に気づいたのか、長兄がそっと「エミリー・レナーテ嬢だよ」と囁く。
確かに、以前見かけたレナーテ侯爵夫人によく似ているとフェリシティは思った。親子みんなでしょんぼりしてるのね、とも。
「本当に辛気臭い奴だ。鬱陶しい」
王子が突然立ち上がり、部屋を出る。荒々しい足音が遠ざかると、残っていた皆がため息を吐いた。
「あの、申し訳ありません……私のせいで」
か細い声と共にエミリーが立ち上がり、皆に頭を下げる。
小さく纏めた茶色の髪に、装飾を省いた紺色のドレス――体を縮こまらせ、早足に立ち去る姿は、侯爵令嬢らしさが窺えなかった。
それからは、使用人たちの案内に従い王宮を辞したのだが、その間に噂話はいくつか聞けた。
どうやら、二人の相性が悪すぎて婚約を公表出来る状況ではないらしい。
この茶会をきっかけに、フェリシティは公の場に出る機会が増えたが、決まって同じ光景を目の当たりにする。
王子がレナーテ侯爵令嬢を詰り、嘲り、彼女は黙って耐える――周囲が働きかけても改善の兆しはないらしい。
愛する王妃を亡くしてから後釜を設けず、王はたった一人の息子を後継として育てざるを得ない。国内外の情勢を鑑みるに最適と思われた婚約者だが、良好な関係を築けないなら他の者を選ぶべきかとの意見も上がっているようだ。
――その日、彼女の姿を見つけたのは偶然だった。
孤児院での奉仕活動を終えた日の事、神父へ父からの言伝を託すために、併設する教会へと足を運ぶ。
「どうか……罪深い私を……」
教会には必死に祈っている少女が一人――慎ましやかな後ろ姿に見覚えがある。
振り返り、こちらを黒目がちの瞳で見つめるのは、エミリー・レナーテだった。
「あなたは……フェリシティ様?」
「お辛いのですか?」
挨拶もなしに不躾な物言いをするフェリシティに、彼女は俯く。
「……分かっています。殿下が私を好ましく思っていないことは……それでも、私は……」
悲壮さをにじませる顔で呟く。
その姿は、フェリシティの心を揺さぶった。
「みんな、あなたの事を案じています」
風がないのに髪が揺れ、頬をくすぐる何かを感じただろう――エミリーはくすりと笑う。
初めて見る彼女の笑顔だった。
それから、フェリシティは王子が参加する催しには積極的に出るようにした。
「だって、あの方は笑顔の方が素敵だもの」
両親から理由を問われた際に、彼女はそう答えていた。
さりげなくエミリーの好みそうな話題を振ったり、時には“あちら側”の住人たちに頼んで小さな悪戯をしてみたり。
それだけで、張り詰めたエミリーの顔が綻ぶ。
家族以外の、誰かの笑顔。
それは、彼女を“こちら側”に近づけたように感じさせてくれた。
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