終章:垣根の上に立つもの
「さて、そろそろかのぅ」
そう呟くと、小柄な老人は棚の上に手を伸ばし――それっきり動かなくなってしまった。
「おやつぐらい、僕が取ってあげたのに……」
レイモンド・グレースは、担架に乗せられる老人の姿を見ながら呟いた。
腰を痛めたらしい老人は、少しでも体が動くと辛いのだろう。担架の上で身じろぎもせず、自分の部下に声を掛ける。
「グレース君、申し訳ないが……急ぎクルーガー侯爵家に連絡を……ん? ……いや、そうか……儂の代わりにフェリシティ様の講義を受け持ってくれないか?」
「フェリシティ様……フェリシティ・クルーガー嬢の? 僕が?」
“クルーガー侯爵家の妖精さん”と呼ばれる彼女は、王宮内でも有名だ。クルーガー侯爵家の末娘にして、『垣根の上に立つもの』として広く名前を知られている令嬢。そして、王子の婚約者“候補”。
王宮内で教育を受けており、自分の上司――ブラウン大臣も携わっていると、レイモンドも知っていたが、自分は直接の面識はない。様々な配慮から、若い男性をなるべく近付けないように手配されているからだ。
「白い棚の、一番上の地図を使いなさい……適当でいいぞ……それなりに優秀なお嬢様だし、さして厳しくする必要もないからの」
「……僕が代わりを務めては問題があると思うのですが」
年は少し離れているとはいえ、自分も、一応は、若い男の部類に入る。彼女と同席して咎められないか――王家よりも、親馬鹿で有名なクルーガー侯爵が恐ろしいのでレイモンドは辞退したかった。
「なに、どうせ侍女も一緒だから構わんよ。あの殿下も、フェリシティ様が誰といようが気にせんじゃろ」
ブラウン大臣は気にする素振りも見せてはいないが。
「任せたぞー」と声を発しながら運ばれていく大臣を見送りながら、レイモンドは途方に暮れる。
とりあえず、とりあえず、無難にやり過ごすしかない――急いで部屋を掃除し、茶の用意を始めた。
フェリシティ・クルーガーが執務室に来たのは、約束の時間を少し過ぎてからだった。
緩やかに波打つ淡い金色の髪と、琥珀色の瞳。右目は噂通り、虹彩も何も見えず宝石が填め込まれているかのよう。
最初こそは楚々とした令嬢らしく振る舞っていたが、ころころと表情を変え、絶えず誰かに話し掛ける姿は、レイモンドの心を引き付けた。それからも、フェリシティがブラウン大臣の執務室を訪ねる頃合いには自然と足を運んでいた。
まだ少女と言ってもいい年齢で、自分の勤める学院の生徒で、おまけに王子の婚約者“候補”。
自分の想いは胸深くにしまっておこう――そう、考えていたつもりだったが……周囲には割と露見していたようで、様々な介入を受けた気がする。そして、とうとう婚姻にまで至った。
運命とは不思議なものだ――と、ブラウン大臣が背伸びする姿を見て、レイモンドは感慨に耽っていた。
「お邪魔するよ」
扉を叩く音と共に入って来たのは、ジェイムズ・アルジェント侯爵。近頃は領地より王宮に滞在する時間が多い気がする、とぼやく姿が散見される。
「領地から帝国側との取引の履歴が届いたんでね。たまには報告書を出しておこうかと」
「それはどうも……今日はそろそろ終わりにしようと思っておりましてねぇ、侯爵様もいかかで?」
ブラウン大臣が取り出した酒の瓶に、侯爵は目を輝かせる。
「お、良いの持っているね大臣。最近は飲まんとやってられん事ばかりだからねぇ」
ほくそ笑む二人を見ないふりをして、レイモンドは書類を片付け始める。
「色男、一緒にどうだい?」
侯爵がグラスをレイモンドに差し出すが、それはふわりと宙を舞い、元あった棚に戻された。
それを見て、レイモンドは微笑む。
「申し訳ありませんが、僕は先に失礼します」
一礼すると、彼は部屋を後にする。何かに帰宅を急かされているかのように、髪や服を引っ張られながら。
「しかしねぇ……」
グラスを傾けながら、侯爵は呟く。
「我々で後押ししたとはいえ……悪い事、しちゃったかな?」
侯爵が別れ際に見た、レイモンド・グレースの顔――それが、“あちら側”に取り込まれた王太子と重なって見えた。
「“あちら側”に深入りすると、戻って来られなくなるんだろうねぇ」
あの“妖精さん”が王妃となっていたら、この国はどうなっていたか……背筋が冷える、思いがした。
「あいつも幸せそうだし、いいんじゃないんですかな」
空になったグラスに酒を注ぎながら、大臣が返す。
「ま、私には関係ないけどね……しかしねぇ」
侯爵はグラスを机に置いた。やや身を乗り出して、大臣の顔を見る。
平民の出でありながらいくつかの功績を上げ、そこそこの地位を得た彼を、周囲は『機会を逃さない、先見の明がある男』『運のいい男』と様々に評価する。
「フェリシティ嬢とレイモンド君と引き合わせたのは、結局の所、大臣なんだよねぇ……こうなるって、分かっていたのかい?」
「……私には昔からよき友人たちがおりましてな」
グラスの中身をちびちびと飲みながら、大臣は微笑む。
「『これはいい』『これは良くない』と、時々忠告をくれるのですよ」
大臣の自らの左耳を指差す仕草に、侯爵は唸る。どうやら、自分が思っていた以上に、『垣根の上に立つもの』は存在しているのかもしれない。
「儂が腰を痛めたあの日、『二人を合わせると面白いことになるぞ』と騒ぎよるので、それに乗っかっただけですよ」
大臣の笑い声が、物語に出てくるような悪戯好きの妖精のように聞こえて、侯爵は顔を顰めた。
茶色い煉瓦造りの壁に、赤い屋根。通りに面する庭に咲き誇る季節の花々。
妻と三人の使用人、そして沢山いるらしい妖精たちと共に住む邸宅は、いつしか“妖精屋敷”と呼ばれるようになっていた。
レイモンドが帰宅した時、丁度、身なりの良い壮年の男性が出て行くところだった。かなり慌てた様子を見るに、フェリシティが何か言ったのだろう。
『垣根の上に立つもの』に助けを求めたい者はそれなりにいるらしく、“妖精屋敷”には来客が絶えない。
結婚前とはずいぶん違う、賑やかな環境に身を置いてしまったが、それも悪くないと思う。
“あちら側”と“こちら側”。垣根の上から降りられず、曖昧な世界で生きる、彼女の隣にいたい――それだけが、レイモンドの願いだった。
門を開くと、庭で花を見るフェリシティの姿が視界に入る。
「ただいま、フェイ」
そして彼は、いつものように、そっと彼女の頬に触れた。




