20、そして二人の距離は
※初夜ですよ
目が覚めたときに見る光景は、思い思いに過ごす妖精たちと、かつて婚約者だった男の姿。
「……おはよう、フェイ」
「レイモンド様、おはよう」
教会で式を挙げてから数日――
誓いの口づけを交わして暫くはレイモンドの顔をまともに見ることが出来なかったフェリシティだが、寝食を共にするようになって、以前と変わらないように接することが出来ていた。
夫婦二人と使用人三人、そしてどれだけいるかフェリシティも把握していない妖精たちの暮らしは概ね順調だった。
侯爵家の元家令と元家政婦長の手に掛かればこの規模の邸宅の管理は問題ないらしく、厨房を預かるジュディもそつなく仕事をこなしている。
フェリシティはこれまで通りレイモンドの付き添いで出かけたり、学院に出掛けたり、時にはドルック商会に要請されて執筆に取り組んだり……結婚前とほぼほぼ変わらない生活をしていた。
よくしゃべり、よく笑い、よく食べ、よく眠る――基本的には寝つきのいい体質をしており、横になって目を瞑れば、すぐ眠りに入る。
ある日フェリシティは気付いた――自分とレイモンドは、まだ、“深い仲”に至っていないのだと。
眉間の皺をほぐすように、小さな手が添えられる。
そんなに難しい本なのかと、妖精たちがフェリシティの元へ集まって来ていた。
彼女が手にしているのは、『夫人の心得』と題された一冊の本。
遙か昔――フェリシティの高祖母が令嬢だった頃ぐらいに出されたこの本は、結婚する女性の為に書かれた指南書だった。
婚姻後の服装や髪形、義両親や実家との付き合い方、使用人たちの管理、礼状等の書き方、催しを開く際の手順……王国の貴族女性の教科書として、永らく愛用されてきた本であるが、時代の移り変わりとともに『もう古い』と評価する向きもあり、売り上げは少なくなりつつあった。
しかし、貴族社会というものが廃れつつある共和国では、貴族令嬢という存在に憧れる若い娘たちが読んでいるらしい――義姉からその話を聞いたとき、母は「若い方の流行は良く分かりませんね……」と些か困惑していた。
ともあれ、歴史のあるクルーガー侯爵家に産まれたフェリシティは、レイモンドと婚約するにあたって、母から買い与えられていた。
一読したのちに本棚の隅に定住したそれを、フェリシティは引っ張り出して読み直している。
『夫人の心得』には、当然ながら、夫との付き合い方も記されている――外出する際の歩き方、主人への贈り物の選び方、主人が愛人を持った時の対応……無論、寝台を共にするときの作法も。
身を清めて寝室で待ち、夫の呼び掛けに従い床に就きましょう――要約すると、そんな内容だけ。そんな事なら、フェリシティだって毎日している。
夕食を終えた後、湯浴みをし、寝室でお茶を楽しみながらレイモンドと過ごす。おしゃべりしたり、本を読んだりしている内に眠くなってくる。すると、レイモンドが『そろそろ寝ようか』と言うので寝台で横になり、目を瞑る――気が付けば朝になっているが。
「どうしてかしら……」
今の生活に不満はないが、やや物足りない気がするのも事実。
結婚すれば自然とそういう行為に及ぶのだろうと漠然と考えていたフェリシティだったので、この状況をどうすればいいのかという答えは見いだせなかった。
誰かに相談すべきなのか……友人知人の顔を思い浮かべるが、さすがに声に出すのは憚られる。
なら周りの妖精たちは――と見渡すが、あんまりあてにならなさそうだったので、やめた。
――まあ仕方ないさ。子どもの頃からの付き合いだもの。付き合いが長すぎて、女性として見られないんじゃないかな?
窓枠に座る巻き毛の少年の姿をした妖精が、分け知り顔で言う。たちまち他の妖精によってこねくり回された。
「そう……なのかしら?」
レイモンドと出会って数年が経った。愛し愛されていると思っていたが、自分に女性としての魅力がないのかもしれない……という結論に至ったフェリシティ。
「どうすれば、女性として見られるのかしら?」
自分を心配してか、膝の上でおろおろしている妖精たちに聞いてみるが、皆が首を傾げるだけだった。
困ったねと顔を見合わせていると、窓をこつこつ鳴らす音がする。
窓枠で戯れていた彼等がレイモンドの帰宅を知らせてくれたようだ。
外を見ると、門を開けて入って来る夫の姿。
「あら、予定より早く帰れたのね」
フェリシティは『夫人の心得』を机に置くと、部屋を後にした。
「……今日は、少し、元気がないね?」
「あら、そうかしら?」
自分の魅力の無さに悩んでいる内に、気付けば就寝の時間となっていた。
「具合でも悪いのかい? それとも、侯爵家が恋しいとか……」
長椅子でぼんやりとしていたフェリシティの横に座り、そっと頭を撫でてくれる。
いつもなら嬉しい筈の行動も、今日は、少し、悲しかった。
「やっぱり、子どもにしか見られてないのかしら……」
俯き、しょんぼりするフェリシティ。慰めに来た妖精を手のひらに乗せる。
「フェイ……?」
そんな彼女にレイモンドは困惑していると――
突如、一冊の本が床に落ちた。ぺらぺらと、勝手に頁が捲れていく。
「フェイ、君に用事みたいだけど?」
妖精たちの仕業と判断したレイモンドに声を掛けられても、フェリシティは反応しない。
レイモンドは本を手に取り、内容を確認すると――眉間に皺を寄せた。
目を瞑り、その場から動かなくなる。
「……いや……式で疲れてるんじゃないか、とか、色々気になってしまって……機会がなかっただけで……」
筆が独りでに動き出し、本の内容を指し示す。レイモンドの服を脱がそうとしているのか、釦がぐらぐらと揺れる。
レイモンドは溜め息を吐くと、手にしていた『夫人の心得』を閉じた。ぱたん、という音が室内に響く。
「とりあえず……二人にしてくれるかな」
その言葉に、妖精たちが少しずつ部屋を出て行く。ある者は自発的に、ある者は誰かに連れられて。
「あら……」
最後に、フェリシティとおしゃべりしていた妖精が窓から飛び出す。
自分の膝、家具の上、部屋の隅……辺りを見渡しても、誰もいない。
「……妖精たちは?」
「誰も……いないわ」
レイモンドは扉や窓を閉めた後、フェリシティの隣に座る。少し不安げなフェリシティの頬に手を添えた。
目を合わせると恥ずかしいような、もっと見ていたいような……フェリシティの目線が彼方此方を彷徨う。
「フェイ……こういう事は、二人で考えるべきだと、思うんだけど」
「そう……よね……」
夫の顔が近付き、フェリシティは目を閉じた。
誰の姿も見えない。
誰の声も聞こえない。
傍にいるのはレイモンドだけ。
産まれたときから妖精たちと共に生きてきたフェリシティにとって、誰かと二人きりで過ごすというのは、初めての事だった。
翌日、やはり恥ずかしくなってレイモンドの顔を見られなくなったフェリシティは、様子を見に来た妖精たちに「男の人って……すごいのね」と囁いていた。
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