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19、祝福の日

 その日、クルーガー侯爵の屋敷は喧騒に包まれていた。

 侍女たちの声があちこちで飛び交い、いつもなら粛々と業務をこなす筈の使用人たちが駆け回る。

 厨房や庭にいる者は仕事が手に付かず、ちらちらとある方角を見ていた――侯爵家の別邸を。


「綺麗だよフェリシティ……本当に……」

 当主のバーナード・クルーガーと向かい合うのは、末娘のフェリシティ。

 彼女はこの日の為に誂えたドレスを纏い、穏やかに微笑んでいる。

『殿方に見せるものではありませんから』

 クルーガー侯爵夫人はこう言い放ち、娘のドレスの仕立てに侯爵を立ち入らせなかった。

 婚約者のレイモンドですら、フェリシティのドレスをまだ見ていない。

 この日初めて娘の花嫁姿を見た侯爵は、感涙にむせび泣いていた。


 本来なら教会にドレスを届ける予定だったが、末娘との別れを惜しんでいる使用人達にも披露すべきか――という侯爵夫妻の意図もあり、彼女は別邸で支度をしていた。

「お父様、ありがとう。じゃあ、みんなの所に行ってくるわね」

 ドレスの裾を持ち上げて駆け出すフェリシティを、家令が慌てて捕獲する。

 皆を呼んでくるので、くれぐれも、くれぐれも大人しく待つように――そう言い聞かされた彼女は、そっと椅子に座った。

 いつもより布をふんだんに使ったドレスが気になるのだろう、妖精たちが物珍しくあちこちを突いて回っている。そんなかれらを眺めていると、母の靴が視界に入った。

 見上げると、侯爵夫人が、いつもの凛とした表情を崩さず、ただ黙って愛娘を見つめている。

「……お母様?」

「いいですか、フェリシティ」

 僅かに眉間に皺を寄せた彼女が、口を開く。

「今日から、貴方はグレース夫人となるのです。貴方の振る舞いがレイモンドさんの評判を落とす可能性があることを忘れてはいけませんよ。貴方は考えなしに行動することが多いから、まずはレイモンドさんやセバスチャン達に相談なさい。それから……」

 淡々と告げる彼女の声が徐々に震えたものとなる。

「困ったことがあれば……私達を……」

 母の瞳から涙が零れ落ちる。フェリシティは母の目を拭うと、そっと抱きしめた。


「フェリシティ様、綺麗です」

「とうとうこの日が来てしまったのですね……」

 別邸の扉の前で、フェリシティは使用人たちに囲まれていた。あちこちからすすり泣く音が聞こえ出す。

 侯爵は、室内からその様子を眺めていた。

 生まれた時から数奇な運命を辿ってきた彼女であったが、家族だけでなく、周囲の人々に愛され、そして愛する人と巡り合えた。

 彼の胸には、寂しさと、満ち足りた気持ちがこみ上げていた。

 そんな侯爵の元へ、壮年の執事が駆け寄って来る。

「旦那様、此方を……」

 盆に載せられた手紙と花束に、侯爵は内心首を傾げた――祝いの品と手紙なら、セバスチャンたちが整理する手筈だが……。

 今日という日は、あらゆる些事を放棄して娘の姿を瞼に焼き付ける天命を自分に課していた侯爵だが、今日からこの屋敷の家令となる男が持ってきたのなら重要なことだろうと判断する。

「ジャルダン伯爵からです」

「先日、祝いの品が届いたばかりだが……」

 疑問を抱きながらも手紙を開いた。

 流麗な文字で、記念すべき日に手を煩わせて申し訳ない。しかし、これは今日届けなければいけないと感じたので使いを遣らせてもらった――手紙から視線を離し、再び執事を見ると、彼は普段浮かべないような笑みを見せている。

「伯爵の屋敷で、今朝咲いたそうです。庭園と言わず、そこら中に……それで、是非フェリシティ様にと、思われたようで」

 盆の上で、白いリボンで束ねたかすみ草が咲き誇っていた。


 マーガレット・フリッツは、自分がこの場にいることの幸運を心から噛み締めていた。

 幼い頃に手にした『妖精図鑑』が、フェリシティ・クルーガーへ憧れを抱くきっかけだった。

 実際に出会ったフェリシティも可憐で、無邪気で、おとぎ話の妖精のように見えた。

 年の近い令嬢たちが嫌悪し、自分も何度罵倒を浴びせてやろうかと思った王子に対しても鷹揚に振る舞う姿には、感動すら覚えた。

 彼女が王立学院に入学する際には、是非、彼女の取り巻きに入りたいと両親に強請った――父が城で働いている関係で、王子のお目付け役集団にされかけたが、「あいつの尻を拭きたいならお前がやれ」と一蹴した。

 年を重ねても自由気ままな振る舞いは変わらないのに、それが見苦しく無く、魅力的に見える彼女を、マーガレットは学院を卒業してからも敬愛していた。

 残念なことに――喜ばしいことなのだが、彼女はレイモンド・グレース氏と婚約してしまった。

 フェリシティが爵位を持たぬ身分となれば、親しく付き合う事は憚られてしまう。

 彼女と同じく外交や教職へ進むことも考えたが、語学をそこそこの成績で修めた自分では難しい。

 悶々と悩んでいるときに、セドリック・アルジェントから受けた提案は救いの手のように感じた。

 フェリシティの花嫁姿を心に焼き付け、美しき思い出と共に、自分も未来へ進まなくては――と、彼女は自分に酔っているのか、酒に酔っているのか分からくなってきていた。

「マーガレットさん、顔赤いよ? 大丈夫?」

 ……どうやら、供された果実酒を飲み過ぎたようだ。婚約者が差し出した水入りのグラスをありがたく受け取ることにした。


 教会の庭園では、招かれた人々が、この日の主役の登場を心待ちにしていた。

 広く人々を受け入れる教会も、今日は固く門を閉ざし、王都の衛兵たちが周囲を見張っている。

 グレース伯爵家が取り仕切る、歓待の茶会に参加していたのは、自分達を除けばアルジェント侯爵夫妻と数人の平民のみ。

 クルーガー侯爵家の人々は、礼拝堂で諸々の手配をしている筈だ。

 身内と、少数の来客だけ――外の警護は物々しいが、内部を見れば、これが侯爵令嬢の結婚式か、と疑われるくらいの規模である。

 社交界でのフェリシティ・クルーガーの立ち位置や、国内情勢を鑑みた結果だ。


「……さあ、あの男がどんな顔をしてやってくるかねぇ」

 葡萄酒片手に、厭味ったらしい笑みを浮かべるアルジェント侯爵。

 あの男、とはバーナード・クルーガー侯爵の事だろう。娘への愛が深すぎることで有名なクルーガー侯爵家の当主――マーガレットも王宮で何度か見たことがある。

「あいつの事だ、“妖精さん”の結婚ともなれば派手にやりたかったろうに……」

「派手に……」

 侯爵の言葉を切っ掛けに、マーガレットは空想の世界へと旅立っていた。

 王国中が光り輝き、妖精が舞い踊り、人々は林檎のパイを持って礼拝堂の前に殺到する――

「貴方たち……」

 酒が止まらない侯爵を窘めていた夫人の顔が綻ぶ。

「似たような顔をして、何を考えているのですか?」

『えっ』

 隣に立つ婚約者、セドリックと顔を見合わせるが……気恥ずかしくなって、すぐ目を逸らした。

 ごまかすように辺りを見渡すと、派手な外套が目に付いた。

 王立学院の教師も務める画家のジュリィが、礼拝堂の周囲を歩き回っている。彼は飲食もそこそこに、自分の画架を配置する場所を探しているようだ。

「クルーガー侯爵が直々に依頼したらしいね」

 セドリックも同じ方角を見ていたらしく、横から呟く声がした。

「先生なら、きっと、素敵な絵を描かれるもの」

 ジュリィがこれまでに発表した絵画を思い出し、マーガレットは再び空想の世界へと旅立ち――

 唸り声によって、マーガレットの旅路が終了した。声の主、アルジェント侯爵を見ると、唖然とした顔で、庭園の隅を指差している。

 そこには、招待された平民たちの姿。ロブ・ヘイズ医師と、孫娘のブレンダ・ヘイズ。さらには――

「あの人って……」

「まさか……」

 セドリックとマーガレットは、自然と、彼らのいる場所へと、足を運んでいた。

 酒を堪能するヘイズ医師の横で、ブレンダは身を縮こまらせながら果実水を口に運んでいる。

「ヘイズ先生にブレンダさん、お久しぶりです」

「おう、聞いたぞ。婚約おめでとう」

 ヘイズ医師は鷹揚に手を振り、ブレンダは頭を下げる。

「ありがとうございます……あの、ところで……」

 セドリックの質問の意図に気付いたのだろう、ブレンダの後ろに立っていた人物が口を開く。

「私、救護係です。今日は先生の付き添いで参りました」

 年はブレンダと同じぐらい。小さく纏めた茶色の髪に、装飾を省いた紺色のドレス。分厚い眼鏡と化粧で隠した顔は――

「え、えみ――」

「私、救護係です。今日は先生の付き添いで参りました」

 マーガレットの言葉に被せるようにして、再び女性が口を開く。

 ブレンダが『何も聞かないでください』と言わんばかりに首を振り、ヘイズ医師は彼らのやり取りを面白そうに聞いている。


「さて、皆様方。そろそろ、礼拝堂の方に……」

 マーガレット達にとって、グレース伯爵の呼び掛けは、天からの救いのように思えた。なるべく、ヘイズ医師の付き添い――かつて、エミリー・レナーテと呼ばれていた女性を視界に入れないようにしてアルジェント侯爵夫妻と合流する。

「最近、レナーテの奴が顔を見せないと思っていたが……」

「胃痛で休んどるよ。そういえば、エドゥアールも顔色が優れなかったかのぅ」

「そうかそうか。今度見舞いにでも行ってやるかねぇ」

 侯爵とヘイズ医師のやり取りを聞いて、マーガレットは婚約者と顔を見合わせる。

 どうやら、彼女はこの日の為に、親と宰相を振り回したようだ。

 この厳重な警備も、王太子妃が来ているためと考えれば当然だろう。

 フェリシティ様も、罪なお方ねぇ――マーガレットは内心嘆息した。


 空は澄み、柔らかく陽光が降り注ぐ昼下がり。そよぐ風は穏やかに、胸元の花飾りをそっと揺らす。

 ――彼女といる時は、天候に悩まされることがないな。

 空を見上げながら、レイモンド・グレースはふと思った。

 教会の入り口、正門の傍で佇み、彼は婚約者の到着を待ちわびていた。

 胸元から時計を出し、時間を確認し、まだ早かったと嘆息し、また戻す。

 そんな行為を何十回と繰り返した頃――

 クルーガー家の家紋が入った馬車が姿を現した。開かれた門から、静かに中へと入って来る。

「レイモンド様っ」

 衛兵が馬車の扉を開けると、フェリシティが飛び出してきた。レイモンドは慌てて抱き留める。

「会いたかったわ」

 昨日も会った筈なのに、彼女はレイモンドの腕の中で眩い笑顔を見せている。

 上等な絹を使ったドレスは、宝石や刺繍などの装飾が控えめにされていた。首元や袖の部分が繊細なレースで作られており、優美な印象を与えている。

 髪は頭の高い位置で結い上げ、銀細工の髪飾りを留めている。髪飾りの脇にはかすみ草が添えられていた。

 今までで一番美しい姿である、とレイモンドは自信を持って言える――少し髪が乱れてしまっていても。

「あのね、今日、いいことがあったの」

「フェリシティ、皆様がお待ちなのですよ」

 侯爵夫人が、フェリシティを窘める。彼女の隣では、涙と鼻水を擦り過ぎて、見るに堪えない顔となった侯爵が衛兵たちに慰められていた。

「そうね、後で話すわ」

「そうしようか……これから、時間はたくさんあるのだから」

 彼女を降ろすと、髪を整える。この作業も、もう手慣れたものだ。

 せめて、礼拝堂までは――と、レイモンドが侯爵の方を見やると、意図を汲んだ衛兵たちがフェリシティの手を取るように促していた。


「お、来たか」

「あらぁ、フェリ、良く似合っているわね」

「他の方々は、全員中にいるよ」

 礼拝堂の前では、長兄夫妻と次兄が皆の到着を待っていた。

 義姉のモニカは長い箱を持った侍女たちを従えている。

「……お義母様、どうぞ」

「ありがとう」

 侯爵夫人は開けられた箱の中からベールを取り出した。

「フェリシティ……」

 暫し、娘の瞳を見つめて――そっと、ベールを掛けた。

「父さん、そろそろ……」

 息子たちの呼びかけに、侯爵は渋々と娘の手を離す。彼女はレイモンドと手を重ねた。

「じゃあ、行こうか」

 使用人の一人が、扉を開けようと近付く。しかし、先にフェリシティが扉に手を掛けた。

「お父様、お母様、お兄様たち」

 フェリシティは、自分の背を見守っている家族の方を、振り返る。

「私、困ったことも悲しかったこともいっぱいあったけど、不幸だったことは一度もなかったわ……今までも、きっとこれからも!」

 そして、彼女は扉を開けた。



 壁に金具を留め、額を飾る――それだけの作業を、何十回と繰り返させる男に、エドゥアール・マクシミリアンは辟易していた。

「……いい加減にせんか。私には、さして変わらんように見えるがね」

 使用人の腕を心配して、屋敷の主人に忠告する。

「やっと届いたんだ……完璧な状態で飾りたいじゃないか」

 屋敷の主人、バーナード・クルーガーは、心ここにあらずといった様子で額に納められた絵画を見つめている。

 ――それは、礼拝堂で向かい合う男女の姿が描かれたものだった。花婿が花嫁のベールを取り、穏やかに見つめ合う。特別な顔料を使ったのだろう、花嫁の瞳は、琥珀色にきらきらと輝いていた。

 頭上からは花びらが降り注ぎ、花嫁のベールやドレスは風に揺られたかのようにはためく。おとぎ話の一場面か、親馬鹿が娘可愛さに無理な注文をしたか――何も知らない人間なら、そのように感じてしまうだろう。

「私は見たままを描いただけ。特別なことはしていないわ」

 エドゥアールの気持ちを察したのだろう、後ろで自らの作品が飾られる様を見届けていたジュリィが口を開く。

「ふん……まあ、そうだろうな」

 肩を竦めると、彼は絵の中の“妖精さん”を見つめる。

 確かに、絵は悪くない。“こちら側”からも“あちら側”からも愛される、あの娘らしい――そんな感想は、口に出さず自らの内に留めておく。自分には似つかわしくない表現であると自覚していた。

「……ところで」

 ごまかすように、咳払いを一つ。

「表題はあるのか?」

 エドゥアールの問いかけに、ジュリィは笑みを浮かべる。

「勿論……この光景を見た時に、これしかない、と思ったもの」

「さぁ、この『この世の何よりも美しく尊きフェリシティ』を皆に披露しなくては」

 後ろの会話など聞いていないかのように、バーナードが駆け出す。

「……あいつは変わらんな」

「子離れ出来るのかしらねぇ」

『祝福』と隅に記された絵画を前に、二人は温かい目で彼の姿を見送っていた。


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