1、祝福、或いは呪いを受けた少女
暴力描写があります
フェリシティ・クルーガーの人生は、産まれる前からある程度決められていた。
国の侯爵家の末子として相応の教育を受けて相応の相手に嫁ぐ――その予定は、彼女が産まれてから瓦解した。
産まれた当初は父譲りの淡い金髪と琥珀色の瞳を持っていると認識されていたが、じきにその右目が宝石のように輝く異質なものであると周囲は気付いた。
這いずり、座り、立ち上がり、歩き出す――成長につれ、屋敷の家具や調度品にぶつかり、転ぶ姿も散見された。
長きに渡ってフェリシティを診察してきた医師は、右目の光を失っていることと右耳も聞こえていないことを両親に告げた。
家族は悲しみながらも彼女を愛し、侯爵令嬢の名に恥じない様に育てることを決意した。
物心ついた時より屋敷で教育を受け、天気のいい日は家族の誰かと手を繋いで庭を散策する……そんな姿が日常のものと化したある時。
「フェリシティお嬢様……その、あまり急いでは」
年若い侍女が後方から遠慮がちに声を掛けるが、彼女は気にせず屋敷内を歩いていた。
いつもよりも、少し歩みは早い。
「だって、おとーさまが帰って来たのでしょう? 早く会いたいの」
自分の本棚にある本を全て読みつくしたフェリシティは、周囲の者が読んでいる本に興味を持ちだしていた。
兄たちのちょっと残酷な場面もある冒険小説だったり、使用人たちの幼子には見せられない場面がある恋愛小説だったり。
不思議なことに、フェリシティには見つからないように隠されていたそれらの場所を、彼女は指さし自分も読ませてほしいとねだるのだ。
クルーガー侯爵夫妻は娯楽に寛容だったので、娘と同じぐらいの少女たちが読むような本を買ってくると約束した――『ちゃんと、お医者様の言う通り、休憩もとるんだよ』と言い含めながら。
そんな経緯があり、フェリシティは、今日のこの時を待ちわびていた。
幸いなことに――侍女にとっては不幸なことだが、今日は侯爵家の人間はフェリシティを除いて出払っているし、家令や家政婦長のようなフェリシティを諫めることのできる者が近くにいない。
侍女は、報せもないのに急に部屋を出たお嬢様に付いていくことしかできないでいた。
無論、クルーガー家の屋敷は、使用人一同が常に細心の注意を払っているので、フェリシティが出歩くのに何の問題はない。
フェリシティは揚々と屋敷の玄関扉へと向かい――ふと、歩みを止める。
侍女が慌てて彼女の数歩後ろで立ち止まった。
「……お嬢様?」
彼女は急に振り向くと、そっと侍女に抱き着いた。
「ど、どうされま――」
侍女の声を無視して、フェリシティは体を預けた――自分の胸にも届かぬ大きさではあるが、重みに負けて侍女の体が壁際に一歩下がる。
その直後――
「きゃああっ」
若い娘の悲鳴が響く。
侍女の目の前で、鈍い銀色の塊が飛んで行くのが見えた。
それは先ほどまでフェリシティが居たところに落ち――あたりに飛沫を散らした。
フェリシティの様子を確認すると、服の裾がわずかに濡れている。
「フェリシティ様っ! お怪我はございませんか」
侍女は慌ててフェリシティから離れ、彼女の後ろに回り込む。
「……助かったわ。ありがとう……あなたの言う通りね」
――当の本人は、侍女の様子など気に掛けずに、のんびりとした様子で話しているのだが。
「あ、あの……私」
そんな二人に、怯えた様子で声を掛ける者がいた。
顔は青ざめ、瞳に涙を浮かべた女中は今にも倒れかねない雰囲気を醸し出していた。
「申し訳……ありません……」
震えた声を絞り出し、頭を下げ続ける。
侍女は憮然とした表情で転がっていた桶を手に取り、女中に渡した。
「まずはここを片づけてください。それから、ティネッテさんの所へ」
女中の一人が騒動を起こしたとき、クルーガー家の家政婦長は料理人たちと食料保存庫にいた。
泣きながら駆け寄って来た女中から報告を聞いて頭を抱えたが、侍女が着替えさせていたフェリシティに怪我がないことを確認し、侍女と女中から話を聞き二人を自室に下がらせた。
両手いっぱいの本を抱え、娘の笑顔を楽しみに帰宅した侯爵を迎えたのは、沈痛な面持ちの家政婦長だった。
掃除中の女中が屋敷で躓き、洗い桶をぶちまけた。危うく侍女どころかフェリシティも巻き添えを食らう所だった――そう簡潔に報告を受けた侯爵は、同じく両手いっぱいに本を抱えた家令と顔を見合わせた。
フェリシティは父と家令を笑顔で迎え、中身の増えた本棚に手を叩いて喜んだ。
「ところで……」
さっそく、本棚に手を伸ばしたフェリシティをやんわりと制し、父は娘を抱き上げた。
「みんなから聞いたよ……怪我はないかい?」
「平気よ。服が濡れただけだもの」
「……それならいいんだよ。君に何かあったら、僕は生きていけないからね」
その言葉に、フェリシティはくすくすと笑う。
「おとーさまも同じことを言うのね」
「お母様の事かな? もちろんだよ。彼女だって君の事が……」
「違うわ、ヘンドラーさんのことよ」
娘の言葉に侯爵が首を傾げていると、「……出入りの商人のことでは?」と家令が口を出した。
「いつも言っているらしいのよ。エリーがいないと僕は生きていけないって」
無邪気な笑顔で、先程まで一緒にいた侍女の名前を出すフェリシティ。
侯爵はうーんと唸った後、フェリシティを下ろすと、ちょっとお話してくるよと彼女の頭を撫でた。
屋敷の主人から呼び出しを受け、ぎこちない表情で書斎に入った侍女は、侯爵から商人とのことを聞かれると、頬を赤らめた。
「はい……その……結婚の申し出を受けていまして……」
「フェリシティの言ったことは正しかったのか……」
侯爵の呟きに、侍女は目を見開く。
「お嬢様が? 私、屋敷の方には誰にも……」
「そうなのかい? まあ、たまたま誰かが見かけたのかな」
娘に色恋沙汰はまだ早い――そう考えていた侯爵は顔を顰める。
「申し訳ありません……本来なら、私がお嬢様をお守りしなければいけないのに……」
うなだれる女中に、侯爵は手を上げて制する。
「まあ、いいじゃないか。二人とも無事だったし。それより、これからの事を考えなければいけないね。君がその気なら、紹介状を出すよ? 身元ならうちで保証するし」
その言葉に、侍女は深く頭を下げた。
侍女を下がらせた後、侯爵は家政婦長と向かい合っていた。
「此度のことは、私の責任でございます」
頭を下げる家政婦長に、侯爵は苦笑で返す。
「まあ……怪我が無いからよかったけど。それより……」
そう言うと、目を閉じて唸る。件の女中の処遇をどうしたものか、と悩んでいた。
「あの娘のことですが……」
それは家政婦長も同じだったようで、深くため息を吐いてから口を開く。
「孤児院から雇い入れた者なのですが、どうにもそそっかしくて……」
彼女の話では、これが最初というわけではないらしい。
今までは折角紹介していただいたのだからと励んでいたが、流石に此度の事は本人も責任を感じているようだ。
「孤児院に戻ると申しているのです」
「そうか……」
本人がそう言うなら仕方ない――そう話が纏まったとき。
小さく戸を叩く音と、父を呼ぶ愛らしい声。
扉の向こうには、家令を従えたフェリシティが立っていた。
「フェリシティ、今はお話し中だからね……」
「だめよ、おとーさま。あの人を追い出したら」
いつになく不機嫌そうな表情を見せる彼女に、父は怪訝な反応を見せた。
「あの女中のことかい?」
「あの人はおいしい林檎のパイをつくれるわ」
鼻息荒く自らの大好物を述べるフェリシティに父は相好を崩す。
「君は本当にあれが好きだね。彼女は料理が上手なのかい?」
問われた家政婦は怪訝な表情を見せる。
「いえ……あの者は厨房に入ったことはない、はず、ですが……」
フェリシティの断言する姿に自信を無くしたのか、家政婦長の返答は歯切れの悪いものになる。
「……まあ、フェリシティがそう言うのなら、聞いてみようじゃないか」
部屋で私物を片づけていた女中は、家政婦長からの質問に首を傾げた。
「林檎のパイですか? ばあちゃんが生きてた時によく作ってたような……」
そして彼女は、『とりあえず試してみては』という侯爵の提案に恐縮しながら、厨房で働くこととなった。
最初に従事していた掃除や洗濯よりはこちらの方が性に合っていたようで、そつなく仕事をこなす姿に周囲は安堵した。
そして、本人も気づかなかったことだが、菓子作りの才能があった彼女は、屋敷の料理人の指導のもと腕を磨いていった。
彼女の手による林檎のパイを食べたフェリシティは、『本当だったわね』と満面の笑みを浮かべていた。
妙に勘の鋭く、独り言が多い――時々、不思議な所を見せながらも健やかに育ち、フェリシティは十歳になった。
好奇心旺盛でおしゃべりな気質は隠しきれないものの、教養と所作を身に着けた、“どこに出しても恥ずかしくない侯爵令嬢”と家族は思っていた。
末娘を社交の場に出すことを躊躇していた侯爵家も、そろそろと決断する。
まずはお披露目だけでも、と親しい伯爵家の茶会に同伴させることを侯爵は娘に告げた。
「伯爵家のお茶会?」
「ああ。ご自慢の薔薇を披露したいらしいよ」
「……私はどうしたらいいの?」
大勢の集まる場に出かけた経験のない彼女は、不安そうな表情を見せる。
侯爵はそんな彼女の頭を優しく撫でる。
「大丈夫。いつも通りのフェリシティでいいんだよ」
その言葉に、フェリシティは口元をほころばせた。
「……」
口数少なく、いつも凛とした表情を崩さない侯爵夫人は、ただ黙って愛娘を見つめている。
「お母さま、どうされたの?」
フェリシティは、わずかに寄せられた眉間の皺から母の異変を感じ取っていた。
「私には、どれも愛らしく見えるのです……」
フェリシティの傍には、袖を通した衣服が積まれていた。
娘が何を着ても『似合うよ』『可愛いよ』しか言わない夫には任せられないと、茶会で着る服を選んでいたのだが――結局は同類であった。
手伝っていた家政婦長は、これは駄目だと言わんばかりに首を振ると、流行りに詳しそうな使用人を呼びに部屋を出た。
そして、茶会の日――
家政婦長の“やりすぎない”を命題に着飾らせたフェリシティは、両親に連れられて伯爵家を訪れた。
伯爵家が親しくしている者たちを呼んだ会のようで、貴族や軍人、商人等の様々な立場の者たちが軽食片手に庭園で歓談している。
クルーガー侯爵家のようにわが子を同伴した者たちもちらほらと見える。
誰もが侯爵家の箱入り娘に興味を持ち、一目見ようと挨拶にやって来た。
最初はきらきらと光る右目に驚くものの、あちこちを見つめる琥珀色の瞳に、笑みを湛えた口元が印象に残る美しい少女を皆が褒めそやした。
客人の誰かが『薔薇の妖精のようだ』と世辞を言うくらいに。
「あら、あの方々はもっと美しいのよ。花びらがきらきらしていて」
さも当然のように話すフェリシティに、皆の口元が緩む。
「かわいらしいことを言うお嬢さんだ」
妖精たちは存在することは確認されていても、はっきりと姿を見た者はいない――それが当時の認識だった。
絵物語にでてくるそれらは、作家たちの想像の産物なのだ。
噂の少女も、なんてことはない“夢見がちなお嬢さん”だということが分かり、大人たちの興味は薄れた。
それからは、薔薇を用いた菓子を味わいながら、客人たちとの会話を楽しんだ。
両親の友人や年の近い少女たちとそつなく歓談する娘の姿に、侯爵夫妻は安堵した。
「……エミリーさんは来ていないようですね」
母の呟く声を聞いたフェリシティは、母が見つめている方向に目を向けた。
そこには、自らの両親と同じぐらいの年齢に見える男女が並んでいた。
二人ともうなだれ、悲痛な面持ちで佇んでいる。
向かいには、伯爵とクルーガー侯爵が困ったように顔を見合わせている姿も見える。
「お母さま」
フェリシティを一瞥した侯爵夫人の内心を察したらしい娘は、そっと母の手を取った。
「困っているようなら助けてさしあげて。私は一人でも平気よ」
「そうですか……」
母はフェリシティの髪が崩れないようにそっと頭を撫でると、彼らに近づいた。
五人が伯爵家の屋敷内に向かう姿を見送ると、フェリシティは庭園の隅に移動した。
伯爵の趣味なのだろう、赤い薔薇を中心に植えられた低めの生垣は、赤と緑の対比が美しい。
その薔薇を引き立てるように、かすみ草や淡い色の芍薬が控えめに植えられている。
「……あら、そんなに拗ねないで。あなたもとても綺麗よ」
フェリシティはそっと白い花びらに触れた。
最初にその姿を見つけたのは、軍人の子息であった。
走ってはいけない、大きな声を出してはいけない、植えられた花に触ってはいけない――まだ幼くやんちゃ盛りの彼には茶会は退屈なものであり、年の近いもの同士で『早く終わればいいのに』と不満を漏らしているときだった。
「私の屋敷? そうね……百合が多いわ。お母さまが好きなの」
自分よりもやや年上の少女が花壇に向かって呟いている。
「私はすずらんも好きよ……そうね、白い花が好きなのかしら」
誰もいないのにくすくすと笑う姿は奇怪なものに見えた。
「なんだあいつ?」
「侯爵様の子だろ?」
「目が見えないらしいぞ」
他の少年たちも彼女に気付いたようで、口々に呟く。
ここからは少女の横顔しか見えないが、確かに目が自分たちのものとは違う。
「……試してみようぜ」
一人の提案に、暇を持て余していた少年たちは満面の笑みを浮かべた。
一人の少年が大人たちの輪の中に入り、焼き菓子の一つを持って戻って来る。
そして、“薔薇の匂いが鼻につくさしておいしくもない菓子”を少女の方へと投げつけた。
それはわずかに軌道をそれ、少女の目の前に咲いていたかすみ草の方へと向かい――急に少女がその前に立ちはだかる。
焼き菓子が肩にあたり、淡紅色のドレスに欠片が飛び散る。
しかし、少女は服の事など気にせず、かすみ草の方へと向き直った。
「大丈夫かしら?」
少年たちはその様子を呆気にとられたように見つめていたが、一人が『あいつ魔女だ……』と呟いたのをきっかけに、少女を取り囲む。
少年たちにとって、彼女の振る舞いはおとぎ話に出てくる不気味な魔女のように見えた。
邪悪を排除せんと、彼らの心は一つになっていた。
少女を突き飛ばし、無様に転んだ彼女を囃し立てる……その間、少女は花を傷つけないよう懇願し続けていた。
異変に気付いた大人たちが止めに入るものの、フェリシティの衣服は汚れ、辺りには無残に踏み荒らされたかすみ草が散っていた。
慌てて介抱する大人たちをよそに、彼女は何か手に包み呟いていた。
「お願い……」
わが子が侯爵家の令嬢に乱暴を働いたとあって、それぞれの家は大騒ぎとなった。
どう収拾をつけようかと周りが頭を抱えているとき――あっという間に彼らの家が廃れた。
草木は枯れ、水は尽き、建物は朽ちる。
文字通りに全員の家が廃れたことに、周囲は慄いた――これがクルーガー家の報復なのかと。
少年たちの家の者は慌てて謝罪に向かい、クルーガー家の屋敷は大騒ぎとなった。
仲裁役として派遣された伯爵から真相を問われた侯爵は首を傾げるばかりだった――まだ何もしていないのだが、と。
大人たちがあれやこれやと話し合う中、涙ながらに飛び込んできたのはフェリシティだった。
「ごめんなさい」
彼女が差し出したのは、折りたたまれた白いハンカチ。
何か包まれているのか、わずかに膨らみを帯びている。
「私のせいで……」
少女の手に乗るからそれを拾い上げた伯爵は、そっと包みを開く――中には、何も見えなかった。しかし、ハンカチだけではないわずかな重みも感じる。
伯爵は一つの可能性に行き当たり――背筋が凍りつくような感覚を覚えた。
「これは……」
妖精なのか……と絞り出すように出た言葉に、周囲がざわめく。
「妖精?」
「まさか、垣根に……」
“あちら側”を知ることが出来る存在――『垣根の上に立つもの』。
存在は知っている。しかし、今までの彼らとは違う、この娘はもっと“あちら側”に……必死に思いを巡らす伯爵の手のひらから、ふと、重みが消える。
その事実が、冷静さを取り戻してくれた。
「……妖精の命が失われたのだね?」
少女は静かに頷いた。
フェリシティ・クルーガーがいかに自分を責めようとも、妖精の命を奪ったのは少年たちである。
他の妖精は恐れ、逃げたのだ。
妖精のいない屋敷が荒廃した。ただそれだけ。
その事実に周囲の者は畏怖した。そして、『垣根の上に立つもの』として認められた彼女の事も。
「どうして黙っていた」
呻くようにして呟いた伯爵の声は、その場にいた皆の総意であった。
「気にしたこともなかったよ」
責められた侯爵は、彼らを見ることなく返す。彼の眼差しは、腕の中の娘にだけ注がれていた。
フェリシティの家族は、彼女を愛し、彼女のあるがままを受け入れるつもりであった。
だからこそ、彼女が“あちら側”に繋がっていることには頓着していなかった。
フェリシティは、自分が接してきた妖精たちが、他の人には見えていないこと、自分の存在が屋敷の外の人々にとって異質なものであるということを初めて知った。
彼女が“こちら側”の世界に隔たりを感じた瞬間であった。
11/26 誤字修正
8/31 一部修正