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18/22

17、二人の距離

 それは、よく晴れた日の事。

 いつものようにクルーガー侯爵家の離れで婚約者を歓待していたフェリシティは、彼の発した言葉に首を傾げた。


「……お出掛け?」

 挨拶回りに視察や接待。彼と外出する機会は多くなった。

 今度は何処へ向かうのかと、言葉の続きを待つが。

「いや、仕事ではないんだ」

 レイモンドは軽く首を振る。

「住むところも決まったし、その辺を歩いてみるのもいいかと思ってね」

 それを聞くとフェリシティは僅かに目を見開き、満面の笑みを浮かべた。

「楽しそうね」


 侯爵令嬢であるフェリシティ・クルーガーは、産まれてからこの方、多くの使用人の世話を受けてきた。

 しかし、レイモンド・グレースと結婚し侯爵家を出るため、身の回りの支度を自分でするようになった。

 それをきっかけに、新たな問題が出現していた。


「フェリシティ様、どうか、お考え直しを」

「いーやー」

 侍女の懇願を受け、フェリシティは眉間に皺を寄せる。

 私室の中央、絹の肌着のみを纏った彼女は、紺色の服を胸に抱きしめていた。

 彼女を囲むのは、それぞれに違う色の服を手にした三人の侍女。

「その服は、前の外出の時も、その前の外出の時も、着たではありませんか」

「そうよ。レイモンド様も良く似合っているって」

「だからといって、同じ服ばかり着てはいけません」

 フェリシティは、レイモンドに褒められたら次もその服を選ぶ傾向がある。ただ、彼に婚約者を褒めないという選択肢はないので、レイモンドと出掛ける際には同じ格好という事態に陥りやすい。

 フェリシティの結婚にあたり、『なるべく手も口も出さない』と決めていた侍女たちも、流石に我慢の限界だったようだ。

「いいじゃない。侯爵令嬢じゃなくなるのだから、そんなに服もいらないわよ?」

「それでも、グレース氏の体面も考えないと……」

 時間が迫っているとあって、侍女達も実力行使に及んできた。

 侍女の一人が、フェリシティの持つ服の裾をやんわりと引く。二人で引っ張り合う形になり、妖精たちがその上で飛び跳ねる。


「……あらぁ」

 扉をそっと開いて顔を覗かせたのは、クルーガー家の長男と結婚し、本館に住んでいる兄嫁だった。

「フェリったら……まだ支度、出来ていないの?」

「モニカお義姉様……どうなさったの?」

「グレースさんが」

 彼女は、窓の方を見る。

「外で待ち惚けていたから、様子を見に来たの」

「もうそんな時間なのね? 早くしないと」

 選んだ服を取り返さんと、フェリシティの手に力がこもる。しかし、相手も離さない。

 兄嫁は室内をざっと見渡し、ふんふんと頷く――状況を理解したようだ。

「フェリ。ずっと同じ格好だと、殿方はねぇ……飽きるの」

「……そうなの?」

 フェリシティの動きが止まる。

「そうなの。だから、時々は、自分の印象を変えてみることも必要なのよ?」

 わざとらしくしかめっ面を作ってみた兄嫁は、侍女の一人が手にしていた淡い黄色の服を指し示す。

「最近は、グレースさんの付き添いで、落ち着いた色の物ばかり着ていたでしょう? こういう時は、華やかな色目を選ぶといいのじゃないかしら」

「そうね……そうするわ」

 フェリシティはあっさりと手を離し、紺色の服は侍女の手に収まった。遊んでいた妖精たちが方々に散る。

 侍女達が唖然としている間にフェリシティは着替えを済ませ、兄嫁の「今日は私的なお出掛けなのだから、きっちりしなくてもいいと思うわぁ」という助言に従い、髪も右耳の横で緩く結ぶだけにした。

「ありがとう、お義姉様。行ってくるわね」

「気を付けるのよー」

 ゆるゆると手を振る兄嫁を、侍女たちが尊敬のまなざしで見つめる。

 そして、そんな彼女たちに『これからは貴女が頑張るのよ』と重圧をかけられた料理人のジュディは頭を抱えるのであった。


「レイモンド様、遅くなってごめんなさい」

 木に止まっていた鳥を見上げていたレイモンドは、フェリシティの声に、ゆっくりと此方を向いた。

「いや……大した時間じゃないよ」

 いつものように、穏やかな微笑みを見せて。

「ああ……今日はいつもと雰囲気が違うね。君は明るい色も良く似合うね」

 実は中に入ろうとしてフェリシティと侍女のやり取りを聞いてしまった――なんてことはおくびにも出さず、彼はそう言った。


「じゃあ、儂等はここで待ってますんでね。どうかお気をつけて」

 少し腹の出た初老の御者が、馬を撫でながら言う。

「ありがとう」

 王都の東、二人が住む予定となっている屋敷の前で、二人は馬車から降りた。

 フェリシティは基本的に馬車で王都を移動しているので、今回の散策は初めての試みだった。

 結婚してからは、馬車を自由に使える立場でもなくなるため、周辺の地理を把握しておくに越したことは無い。

 まだまだ過保護なクルーガー侯爵の意向で、侯爵家の屋敷までの送迎付きだが。

「さて……取りあえず、学院まで行ってみようか」

「そうね。何となく、方角は分かるわ」

 レイモンドが差し出した手を取り、二人はゆっくり歩き始めた。


 並木道の足元に芽吹く小さな草花や、露店から漂う焼き菓子の香り、雲を映す水溜り――馬車で通っている時には気付かなかったことが、どれも楽しい。

 きっと、絶えず自分の手を取り、何気ないおしゃべりにも真摯に耳を傾けてくれる婚約者がいるからだろう。

 レイモンドがいつも歩くよりもかなりゆっくりした速度で学院に到着した二人は、正門から建物を見上げていた。

「どうかな、これから通えそうかい?」

「ええ、問題ないわ」

 フェリシティは周囲を見渡す。

 書店に、雑貨屋、料理店――学院の周辺には、学生たちが気軽に入れるようなお店が多く並んでいる。

 二人の足は、自然と周辺へと向かった。


「……ああ、もう新刊が出たのか……」

 レイモンドが共和国の言語で書かれた本を手に取る。定期的に刊行されている情報誌のようだ。

 読書は好きだが集中力があまりないフェリシティと違い、彼は一度読みだすと止まらなくなるらしい。

 彼の横に並んで同じ本を手に取るが、フェリシティは数行読んで放棄した。義務としてこういった本は読むが、自分は物語の方が性に合う。

 自分が本を置いた後も、レイモンドは本から目を離さない。

 集中している時の顔も好きなので、暫く眺めていると――

「……ああ、すまないね」

 彼は少し恥ずかしそうに本を閉じると、いそいそと購入に向かっていった。


「あら……」

 フェリシティの表情に陰りがさす。

 彼女の視線の先には、色とりどりの季節の花が目を惹く台車があった。

「どうかしたの?」

 彼女の異変に気付いたレイモンドが覗き込む。

 フェリシティは僅かに首を振った。

「いいえ……少し、思い出しただけ」

 かすみ草に彩られた薔薇の花束を見て、レイモンドは察した。

「ジャルダン伯爵か……」

 フェリシティ・クルーガーが初めて衆目の前に出た日の騒動の事は、レイモンドも聞いている。

 かすみ草を踏み荒らした少年たちの家は、廃れたままだという。


「少し、どこかで休憩しようか」

「あのお店がいいわ」

 王都には高位貴族御用達の店もあるが、二人は目に付いた小さな喫茶店に入ることにした。

「あ……い、いらっしゃいませ」

 給仕がフェリシティの姿を見て僅かにたじろぐ。

 学院の教師になり、しかも侯爵家から離れることが決まっているフェリシティだが、世間的にはまだ侯爵令嬢としての扱いを受けている。

「あら、グレース先生よ……フェリシティ・クルーガー様も一緒」

「あの方もこんな所に入るのね……」

 僅かに漏れ聞こえる学生たちの囁き声を無視して、レイモンドは奥の席へと婚約者を導く。フェリシティは内装を見渡しながら歩いているので、机や椅子にぶつかりそうで危なっかしい。

 席に着くと、すぐさま給仕が品書きを渡しに来た。フェリシティはそれを一読して閉じる。

「お茶と林檎のパイが良いわ」

 迷いない判断に、レイモンドは微笑む。

「……じゃあ、僕も同じものを」


 些か手を震わせながら供された林檎のパイを、フェリシティはまず半分に分ける。彼女が美味しそうに食べる傍で、皿の残りも少しずつ減っていく。

 レイモンドが自分の分を差し出すと、そちらにも妖精は群がっているようだ。

 見慣れた光景であるが、周囲の者たちは目を見張っている。

 店内の囁き声に、自分も大分毒されてきたようだ――と、レイモンドは内心苦笑するが、フェリシティはさほど気にしていないようだ。

 幼いころから屋敷外の人間から奇異の目で見られる事に慣れてきた彼女は、周囲の目や声を気にしなくなっていた。彼女の右耳は“あちら側”の声を聞くためだけに存在しているのだから。

「いい出来だわ」と満足そうに、空になった皿を見ていた。


「ここはいい店ね。“みんな”も気に入ったみたいよ」

「それは良かった」

 ひたすら頭を下げる給仕を背に、二人は店を出る。

 すでに日は傾き、王都は夕焼けの色に染まっていた。

「ああ……もう、こんな時間か……」

 レイモンドは空を見上げると呟く。

「そろそろ戻らないと」

 フェリシティの手を取り、馬車へと向かうが――

「……フェイ?」

 彼女はその場から動かない。

「もう少し……一緒に居たいわ」

 レイモンドは微笑むと、そっとフェリシティの頬を撫でた。

「……僕もだよ」


 ゆっくりと歩き、馬車まで戻る。

 遅くなった事を御者に詫びると、彼はにやにや笑いながら手を振るだけだった。気恥ずかしくなったので、無言で馬車に乗る。

 走る馬車の中で、フェリシティは静かに外の風景を眺めていた。時々、指先を動かして見えない所を撫でている。

 物憂げな表情に見惚れている内に、馬車はクルーガー侯爵家に到着した。正門の前に控えていたらしい家令が、御者に声を掛けている。

「屋敷に着く前に、色々お話しなきゃって思っていたのに……何も言えなかったわ……」

 フェリシティは扉に手を掛けながらも、中々外に出ようとしない。

「フェイ……」

 レイモンドは、思わずフェリシティの頬に手を添えた。

 そのまま唇を寄せ――レイモンド・グレースの服の釦が全て弾け飛んだ。

「だ、駄目よ……レイモンド様……」

 レイモンドから僅かに距離を置いたフェリシティが声を絞り出す。

 耳まで真っ赤に染めた彼女は、ふるふると首を振り続けている。

「私達、まだ、駄目なの……」

 勢いよく扉を開けると、転がり落ちるようにして馬車から脱出し、そのまま屋敷へと戻って行った。


 フェリシティの様相に驚きつつ家令が馬車の中を確認すると、頭を抱えて絶望にくれるレイモンド・グレースの姿があった。

 あられもない格好を一瞥すると、家令は何かを察したように頷く。

「替えをお持ちしますので……」

 そう囁くと、小走りにフェリシティを追いかけて行った。

「申し訳ありません……」

 馬車の中に、レイモンドの声が空しく響く。


 フェリシティ・クルーガー、一九歳。

 他人の睦言は静観出来るが、自分が“そういう事”を致す点に関しては、考えが至らない少女であった。

 二人の距離は、近いようで遠い――。

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