14、誰にも見えなくても
跪き、真摯に祈る姿を最初に見たのは、いつの時だったか――
エミリー・レナーテの後ろ姿を見つめながら、フェリシティは昔を思い出していた。
まだ少女と呼んで差し支えの無い頃の、悲壮感を漂わせた姿が脳裏に浮かぶが――振り返った今の彼女は、晴れ晴れとした、自信に満ちた表情を見せていた。
「ずっと、この想いは許されないものだと、自らを戒めて生きていました」
エミリーは教会の屋根を見上げる。
「でも、私は、教えに背いてでも守りたいものがあるから……もう、神に縋ることは出来ません」
学院を卒業してから、フェリシティの生活には変化が訪れていた。
正式に婚姻を結んだ長男夫婦に代わって離れに居を移した彼女は、机に向かい執筆に勤しんでいる。先日、世話になった商会から本を出す約束をしていた。
どこにいようと、家族や使用人たちがあれやこれやと世話を焼いてくれるので、不自由することは無い。
しかし、日を追う毎に、憂いを帯びた表情を見せるようになった。
食事も進まず、届いた手紙を読む気にもならず、集まりの誘いも断り、ぼんやりと花壇や池を眺めていることが多くなった。
王都は春の陽気に包まれ、通りを行き交う人々の表情も華やいで見える。
郊外の一角に、グレース伯爵夫妻が居を構える屋敷があった。
グレース伯爵はそこそこ由緒正しき血筋であり、そこそこの資産を持ち、そこそこ優秀な三人息子に恵まれた家庭である。一つ、悩みを挙げるなら、仕事や学問に夢中で私事には頓着しない三男坊の今後が心配なことぐらいか。
そんな彼は、突如訪ねてきた客人たちに困惑の表情を見せていた。遙かに格上の侯爵家当主。しかも一人は席にも着かず、窓から鳥を眺めている。
「はぁ……」
何度目か分からなくなった窓辺からの溜め息に、アルジェント侯爵が肩を竦める。
「いい加減に腹を括らんか」
叱責された相手は、窓辺から離れると伯爵の前に座る。ぎこちない手つきで一枚の書状を手渡した。
「失礼致します」
伯爵が目を通したそれには、とある令嬢の経歴や趣味、それに資産が詳細に記されている。
「……クルーガー侯爵家のお嬢様ですね?」
これは釣書に当たるのか、我が家で相手がいないのは三男ぐらいだが侯爵家の令嬢を迎え入れるなんて恐れ多い――先方の意図を読みかねて、伯爵は令嬢について確認するに留めた。
「そうだ。そちらの、レイモンド君に……娘を……うっ……」
「えぇ……」
いきなり啜り泣く侯爵に、伯爵は困惑する。
アルジェント侯爵が溜め息交じりに説明するところによれば――
フェリシティ・クルーガーという令嬢は、生まれ持った体質と本人の内面的な問題から、貴族社会でまともに生活出来る令嬢ではないらしい。かといって市井で野放しにするのは危険すぎる。なので、そこそこの地位と資産を持ちながらあまり権力の無いところに嫁がせるのが無難か――宰相とアルジェント侯爵で彼女の処遇を検討した結果らしい。
そして、長男に爵位を譲り、適当な所に妻とフェリシティで住む土地を買おうとしていたクルーガー侯爵を説得し今に至るらしい。
「そちらの息子さんも、彼女の事を悪くは思ってない筈だ。我々も出来る限りの支援をする。フェリシティ王国なんて造らせるわけにはいかんだろ、な?」
「はぁ……」
あまり王宮の執務に関わる立場になく、社交的でもないグレース伯爵は、息子がクルーガー侯爵家の令嬢と親しくしていることを、初めて知った。
親心と得られる利益と支払う代償と色々な面倒さを計算した結果、グレース伯爵が出した答えは――息子の意思に任せます、という無難なものだった。
翌日、クルーガー侯爵家を訪ねたグレース伯爵と三男坊のレイモンドは、侯爵夫妻と兄二人の歓待を受けることとなった。
「本当に、いいのかね?」
最後に未練がましく侯爵が尋ねるが、レイモンド・グレースの表情は真剣だった。
「はい、自分の身に余る光栄です」
彼はいかにフェリシティが魅力的か、自分がいかにフェリシティを愛しているか、自分の給金ならフェリシティに苦労はさせないことなどを滔々と述べた。
侯爵家は時間も忘れて聞き入り、昼食の時間を過ぎてもレイモンドの演説は続いた。
伯爵は扉の隙間から使用人が入れ替わり立ち替わり聞き耳を立てる姿を視界に収めながら、茶を飲んで過ごすしかなかった。
そうして対面を終えた侯爵家が出した結論は、当然ながら「フェリシティが良いなら」だった。
家族の許可を得たレイモンドは、さっそくフェリシティのもとに向かったのであった。
「フェリシティ」
池の前に佇む後ろ姿に声を掛ければ、彼女はくるりと振り返った。
「……先生?」
こちらの姿を認めると、小走りで駆け寄って来る。
「来ていらしたの?」
学院で、王宮で、会っていた頃のように、彼女は無邪気な笑顔を見せてくれる。
「朝からお邪魔していてね」
「そういえば……お昼になっても、義姉しか食堂にいなかったわ。みんな先生とお話ししていたのね」
――レイモンドの場所からは、軽食片手に皆が覗いている姿が見えるのだが。それは見ないふりをする。
「少し……痩せたかな? 体調でも悪いの?」
「体は何ともないわ……ちょっと、やる気がなかったのだけど」
少し俯いてから、ぱっと顔を上げる。そして満足そうに顔を綻ばせた。
「でも、先生の顔を見たら元気が出たわ」
「……そうか」
ここに来るまで、本当に自分でいいのか――と躊躇する気持ちが無かったわけではない。でも、彼女の笑顔が、自分にとって全てなのだとレイモンドは改めて自覚した。
フェリシティの前に膝を突く。彼女の手を取ると、周囲の草花がさわさわと揺れた。
微動だにしないのは、フェリシティだけ。きょとんと、触られた手を見つめている。
「今までは侯爵家の御令嬢だからと、教え子だからと……殿下の婚約者だからと、何も考えないようにしていた」
どうして、この人はこんな顔をするのだろう――レイモンドの辛そうな顔を見るだけで、フェリシティは悲しい気持ちになった。
「でも、卒業式典の時……君に、もしものことがあればと、それだけが気がかりだった」
彼の瞳と、目が合う。
「気まぐれで、自分本位で、飽き性で。僕から見たら本当に、妖精のようだけど……それでも、僕は君が好きだ」
その言葉を聞いただけで、きゅっと、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「君の明るさが、君の笑顔が好きだ。爵位もない身分だけれど、僕はこれからの生涯を君と過ごしたい……結婚してほしい」
暫くの時間、二人は静かに見つめ合っていた。
先に目を逸らしたのは、フェリシティの方。
「殿下が言っていたの……化け物が愛を語るのかって」
その言葉に、レイモンドは顔を顰めた。
「私、自分を愛してくれるのは家族だけなんだって思っていたわ……男の人を好きになるっていうことも良く分からなかった……でも……」
レイモンドと触れ合っていない方の手を、自分の胸に当てる。
「先生と一緒にいると、とても温かい気持ちになるし、先生がいないときは、とても寂しいの……それが、誰かを好きだということなのかしら?」
琥珀色の瞳が潤む。
「私には妖精しか見えないけれど、それでもいいの?」
レイモンドの指が、そっと涙を拭った。
「それで、いいんだよ。一人では見えないものを、一緒に見つけていくことが、愛し合うことなんだと思う」
「……そうね、先生と一緒なら、見つけられると思うわ」
そうして二人は笑い合う。それを祝福するかのように、花びらが舞い、池の水面は静かに揺れる。
かくして、クルーガー家の妖精さんの婚約の噂は、あっという間に王国中に広まった。
きっちりと隙間なく書かれた手紙には、辺境伯は本当に良くしてくれること、王都にいた頃には考えられないような境遇の人々がいること、子どもたちに読み書きや作法を教えて職にありつけるよう手伝っていきたいということが書かれ……そして、フェリシティ嬢が婚約したそうだがお祝いの品はどうすべきかという相談で締められていた。
「お前の結婚が先だろうに」
生真面目な長女の顔を思い浮かべ、宰相のエドゥアール・マクシミリアンは苦笑する。
貴族を裏切り、侯爵家を裏切り、娘を裏切った王家に憎しみを抱き始めたのはいつの頃だったか。
傷ついてもなお国王に尽くす娘に何もできない自分が歯がゆかった。
そんな折、東側の帝国がこちらの王家に干渉してきているとの情報を得た。
『王妃を亡き者にして自分たちの息のかかった者を国王に宛がおうとしているらしい……まあ、我々はもう関与する気はないがな』
一部の貴族たちは、それを察知しながらも、黙認すると宣言していた。
国をくれてやる気はないが、愚物どもを守る気もないため、ただ娘に一言告げた――「東側が王妃の座を狙っている。我々は何もしない。疑われる前に王宮を出ろ」
彼女は悩んだが、結局は言う通りにした。
王妃亡き後という面倒な時期に防諜の任務を押し付けられたクルーガー侯爵は、王妃の侍女達から帝国の間者を見つけ出し、処理してくれた。
あの国王はなにも己を省みず、更生の余地もなく。愚かな両親に似た王子も期待できず。国王はエミリー・レナーテの好意を利用して王子の立場を確立しようとしたが、レナーテ侯爵がエミリーを強引に撤収させた。なおも縋ろうとした国王の姿には反吐を覚えた。
自分の孫娘と婚約を結ばせ、傀儡にする計画も考えたが……孫娘可愛さに躊躇している内にフェリシティ・クルーガーが婚約を了承したことには驚いた。まあ、彼女が時間を稼いでいる内に王子に宛がう娘を選べばいい――そう暢気に構えている内に、王子はイザベラ・ロッシュに出会った。
学院外にまで噂が広まる程にあからさまな醜態を見せる王子には呆れかえったが、ふと、企みを思いついた。
これをきっかけにして、王家の権威を失墜させてやればいいのでは、と。王家をあいつの代で終わらせてやることが出来れば、屈辱を晴らせるのではないかと。
イザベラ・ロッシュに極秘に接触してみれば、あの娘は貴族の義務も己の行動に伴う責任も考えず、ただ周囲が自分を幸せにするために生きていると考える愚か者であった。しかも、王子に好意を持っているわけでもない。
自分たちが愛し合っているという幻想に浸っていた王子を焚きつけて、イザベラと婚姻を結ぶように持ち掛けた。
マクルズ伯爵家が支援をしてくれるようですよ――そう告げると、王子は疑う素振りも見せなかった。関係の悪化している東の帝国、しかも爵位剥奪にあった家が何も出来るはずがないのに……。
存在しない伯爵家の支援を騙り、婚約者のいる令嬢に強引に結婚を迫る――式典で王子を貶め、王家存続の是非を問う算段であった。
話はこじれ、イザベラが王子を負傷させ、あげく、王子が“あちら側”に取り込まれるという、予想以上の末路を見せてくれた時は歓喜した。
これであの国王に引導を渡せる――そう思った時に、エミリー・レナーテが再び舞台にあがって来るとは予想していなかった。あの小娘は全てを投げ打ってでも国王の名誉を守ることを決意した。あの男にそれだけ尽くすエミリーも、今更娘の好きにさせようとするレナーテ侯爵も、自分には理解できなかった。
アルジェント侯爵に主導権を取られてしまい、腹の虫が収まらない自分を、フェリシティは脅迫してのけた。
「殿下はマクルズ伯爵が協力しているって……そう、宰相が言ったのね」
自分の左肩にいるらしい何かと話す彼女の顔は、絵で見る悪戯好きの妖精そのものだった。
人事不肖の王子や“あちら側”の証言など取るに足らないが……あの場で王子を謀っていたことを暴かれるのは、得策ではないと判断した。
結局は、エミリー・レナーテの情欲の深さに負けた形となった……母親似の情念だろう、と宰相は思っている。
どうにも煮え切らない思いを抱えたまま講堂に戻った自分を迎えたのは、取り乱した妻だった。
「セリューが、セリューが……」と息も絶え絶えに繰り返す妻に連れられて向かったのは、西棟の医務室だった。
寝台に腰掛ける娘と、傍らの椅子に座る男――辺境伯が、娘と結婚したいと言い出したので、思わず殴りかかる所だった。
「私には幸せになる資格などないのです」
辺境伯の言葉を遮るようにセリューは呟いた。
「私は罪を犯したのです。王妃様を憎むあまり、見殺しに……」
顔を覆い泣く娘を見て、やっと、自分の愚かさに気付いた。娘は、ずっと罪の意識に苛まれていたというのか……。
娘の告白を聞いても、辺境伯の意思は変わらなかった。
自分の勇気の無さがいけなかったのだと、彼は言った。妖精が後押ししてくれなかったら諦めていたとも。
あの、悪戯好きな妖精の顔が、脳裏に過ぎった。
ふと窓の外を見ると、王子と共に歩くエミリーの姿。仲睦まじい姿を周囲に見せつけているらしい。仕事熱心なことである。
結局は、こちらの利はほとんど得られない結果になってしまった。これから面倒ごとが山積みだ。
「『化け物』とは何か……それを、読み違えていたのですよ、殿下」
結局のところ、真に恐るべき化け物は、愛することや愛されることに躊躇のない小娘、ということだった。自分は娘にどちらも教えてやることができなかった。それが敗因なのだろう。
まあ、あのクルーガー家の妖精がそれをセリューに与えてくれたのなら。我々に見えなかったものを、見つけて拾い集めてくれたのなら……これぐらい、貸しにしてもいいだろう。
『あら、愛は拾うものじゃないわ。気が付いたら、そこにあるのよ』
あの娘なら、そう言って笑うだろうな――と、似合わない事を思いながら。
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