13、幸せを願ったはずなのに
「はい……殿下とは、学友として親しくさせていただいていました」
質問にはこう答えるように――言いつけられた通りに言葉を紡いでいく。
「殿下がまさかあんな事をなさるとは思いませんでした。フェリシティ様が死んでしまう、と思ったら咄嗟に体が動いていて……」
フェリシティ様の事なんてどうでもよかった。ただ、ギルとの思い出を、殿下が踏みつけていたから……全部この人のせいなんだって思ったら、体が勝手に動いていた。
領地に帰りたい。早くギルに会って話をしたい――そう思っていたけど、父さんたちは私を連れて帰ってくれなかった。
クルーガー侯爵家の別邸から出られず、役人や騎士から話を聞かれる生活が、何日も続いた。
部屋の前には使用人がいて、衣食住に困ることはなかったが、私が質問しても何も教えてくれない。
置かれていた本に手も付かず、一人でいる時は窓から外を眺めるだけ。漠然とした不安だけが纏わりつく。
今まで贈られてきた服や装飾品は取り上げられてしまった。最低限の身嗜みは整えているけれど……もうギルに会えないんじゃないか、という諦めの気持ちが、鏡に向かうのを億劫にさせる。
鏡に映る自分の姿は辛気臭くて、婚約者から大事にされなかった女の人たちによく似ていた。
ある日の早朝、いつもなら誰も来ないような時間に、使用人が入って来た。
寝起きでぼんやりとしている私に、着替えるよう服を渡してくる。
地味な色で装飾のない服は、目の前の人が着ているものと同じように見える。
「いまからフェリシティ様がロッシュ領へ向かわれます」
どういうことかと首を傾げている私に、相手が囁く。
「貴方を侍女の一人として同行させようと考えておられます」
その言葉を聞いて、寝衣を脱ぎ始めた。
「本当に行くのですか?」
馬車の扉に手を掛けた姿勢のまま、壮年の執事が問う。
「ええ。必要な事だと思うの」
気遣わしげな相手の顔を見ながら、フェリシティは答えた。
上等な造りだが装飾も少なく一目で平民の所有と思わせる馬車は、クルーガー家の所有ではない。フェリシティが馴染みの商会に手配してもらった物だ。
宰相からある情報を聞きつけたフェリシティは、イザベラをロッシュ領に連れて行こうと企んでいた。両親に相談し、あくまでロッシュ領の者たちには内密に。
同行する使用人の男女はクルーガー家から。御者二人は商会から。全て、荒事にも長けている人間が用意された。
馬車に乗り込み、椅子の座り心地を確かめていると、扉が叩かれた。
「お待たせいたしました」
僅かに開いた隙間から、執事の顔が覗く。
「では、行きましょうか」
男が失礼しますと一声掛けて、フェリシティの向かいに座る。次いで、使用人の格好をしたイザベラがその隣に座った。
最後に、侍女がフェリシティの隣に座る。
扉が閉められた後、ゆっくりと馬車が動き出した。
ロッシュ領には昼までに着く予定だ。フェリシティの目的に間に合うはず。
不安げに馬車の中を見渡すイザベラに向けて、フェリシティは口を開いた。
「あちらの生活はどうかしら?」
「はい……皆さん、良くしてくれるので……」
イザベラは心にもない口ぶりで答える。
「あの、本当に、ロッシュ領に行くのですか?」
イザベラが上目遣いに此方を見て、おずおずと尋ねてきた。
「ええ、今日はパメラ・ロッシュさんが婚姻を結ばれるそうなの」
何気なく答えたフェリシティに、使用人の二人が顔を強張らせる。イザベラの反応を懸念しているのだろう。
しかし、当の本人は小さく溜め息を吐くだけだった。
「そうですか……姉さんが……本当に、ギルと結婚するんですね……」
俯くと、それっきり黙ってしまった。
車輪の音が響く。舗装されていない道を通っているようで、振動が大きくなった。
「貴女の今後の事だけど」
イザベラが僅かに顔をあげた。
「ロッシュ子爵とお会いしたの」
“密約”を交わした翌日、クルーガー侯爵がロッシュ子爵夫妻を屋敷へと招いた。
クルーガー侯爵夫妻とフェリシティが迎え、子爵夫妻と同じ席に着いた。
「この度は……侯爵様方にもご迷惑をおかけしまして……」
何度も頭を下げる夫妻を、クルーガー侯爵は手で制する。
「王家の問題にお嬢さんを巻き込んでいたようで、こちらこそ申し訳ない。……それで、これからのことなのだが」
エミリー・レナーテが王子と婚約したことや、イザベラには十分な支援をさせてほしい旨を伝えた――王子とイザベラの間にあったことは、ロッシュ夫妻には教えない。
ロッシュ夫妻はゆっくりと頷き合っていたが、子爵の方が口を開いた。
「あの子は……修道院に入れようかと」
子爵が話すには、イザベラは産まれてから周囲の者たちに溺愛されていたという。
親戚、友人、使用人の中には必要以上に彼女を持ち上げ、言いなりになる者が居たらしい。
子爵夫妻としては姉妹を平等に愛し、育てたつもりでも、少しずつ差が産まれてしまう。
それは、姉の方が貴族令嬢としての適齢期を迎え、婚姻の相手を探すときに顕著となったという。
姉の婚約者が全て『妹の方が魅力的だ』と心変わりしてしまう事態に、両親は困惑した。
イザベラが誰かの申し出に頷けば、どこかで終わるはずだった。しかし、彼女には思い人がいたので全て拒否したという。
ロッシュ子爵家の古い友人の家の者で、子どもの頃から交流があった青年と、幼いころから結婚の約束をしていたという。
外聞は悪いが姉より先に婚約させてしまおうかと、ロッシュ子爵が打診し、二人は婚約者となった――しかし、その後もイザベラへ求愛する者は絶えなかった。成長するにつれその数は増え、あろうことか所帯を持つ者までが彼女を追いかけることも。
イザベラ本人がそれらを当然のように振る舞ったため、婚約者はイザベラに不信感を抱いたという。
しかし、ある日、親戚の子どもが呟いた――『イザベラの周りに霧がかかっている』と。
まさかと思い、領地で確認されている『垣根の上に立つもの』をイザベラと対面させると、その老婆は頷いた。確かに声が聞こえる、見目の良い者を呼び寄せているのだと。
どうすればという問いに、老婆は首を振った。
「生憎ですが、私は微かに声が聞こえるだけ……出ていけ、と言っても聞きますまい。妖精とは、本来欲望のままに生きるもの。“あの”フェリシティ・クルーガー様でもそこまでは……妖精を殺すことが出来れば、離れるやもしれませんが、どんな報いを受けるか……」
その言葉に両親は失望し、イザベラを領地から離すことにした。王都の学校に通う方々なら、間違いは起きるまいと信じて。
……まさか、王子が求婚するとは予想もしていなかっただろう。
「宰相様から連絡を受けた時はそんな大それたことを、と思いました。でも、この国で一番強い力を持つことになる御方のもとに収まれば、もう問題は起きないと思っていたのですが……」
子爵は項垂れる。
「領内では多くの者から恨みを買ってしまった……それなら、世俗から離れた方があの子も安寧に過ごせるはずかと……」
沈痛な面持ちで述べる子爵を見て、侯爵夫妻は困ったように顔を見合わせた。
「父さんたちが……そうですか……」
イザベラの表情にはさほど変化が無い。
「あなたの希望があるなら聞いてはおくと、父が言っているのだけれど」
「……ギルがいないのなら、私はどうでもいいんです」
彼女は投げやりに呟くと、自分の手に目線を向けた。手首に飾られているのは、白い毛糸の装飾品。
「私……あなたと殿下は本当に愛し合っていると思っていたわ」
その言葉に、イザベラは苦笑する。
「最初は偶然だったんです。私のハンカチが風に飛ばされて、殿下がそれを拾って下さったときに初めて言葉を交わしました」
……おそらく、妖精たちに仕組まれた出会いだったのだろう。
「とても厳しくて恐ろしいと噂に聞いておりましたので、優しくお声を掛けていただいた時は驚きました……やっぱり、私は特別なんだって」
彼女はそっと目を伏せる。
「それから殿下は私の所に来られることが増えてきて……最初は、周りも気にしてくれていた気がします。同じ子爵家の方々からは注意を受けたし、殿下に上申してくれた方もいたのに……いつの間にか、私の周りには位の高い方々が傍に着くようになっていたんです。私は、何もおかしいとは思いませんでした」
悲痛な面持ちで、大きく溜め息を吐いた。
「卒業式典のドレスをいただいた時も、そうでした。ギルが迎えに来てくれるってずっと思っていたから……あの手紙を見たとき、わけが分からなくなって……」
「逃げたのね」
フェリシティの言葉に、静かに頷いた。
「殿下と結婚するなんて、考えたことなかったんです」
休憩を挟みながら街や村をいくつか抜けて、太陽が高く上がる頃。
「帰ってきたのね……」
外の景色を見ていたイザベラが感慨深げに呟く。
馬車は白詰草が彩る草原を走る。遠くには、煉瓦造りの街並みが見えてきていた。
「子爵の住む街です。お嬢様、そろそろ」
ロッシュ領の者に見つからないよう、執事が窓に覆いを掛けた。
人々がまばらに歩く道を、ゆっくりと通り抜ける。
「……そうね、王都よりは静かなんじゃないかしら? 子ども達が白い髪飾りを?」
自分の膝に向かって話し掛けるフェリシティ。彼女の膝の上では、街の偵察を終えた妖精が寛いでいた。
「お祭りで売っていたからでしょうね」
イザベラの声は、心なしか弾んでいた。
馬車は街の喧騒から離れた場所で、ようやく動きを止めた。
侍女が先に降り、周囲を確認する。
降りるようにと促されたイザベラは、勢いよく馬車から外へ出る。
執事の手を借り、フェリシティはゆっくりと降りた。
そこは木々に囲まれた静かな場所だった。前方には小さな教会が見える。
「あの……どうして、こんなに静かなのでしょう?」
怪訝な面持ちで口を開くイザベラ。
「姉は子爵家を継ぐのだから、婚姻ならもっと大々的に……」
「ロッシュ家は余裕が無いもの。婚約や婚姻が破綻した方々への賠償で、財産をほとんど失っているわ」
事も無げに伝えるフェリシティ。
「自分たちがこうなったのだから、領民も婚姻を祝う気持ちなんてないみたいよ」
フェリシティ個人にイザベラを責める気持ちはなく、淡々と事実を述べていく。
「あと、ギルバートさんのご実家はロッシュ家と縁を切りたかったみたい。長男のギルバートさんはそれを反対して婿に入るのだから……向こうからの援助も無いでしょうね」
イザベラの顔がだんだんと青ざめていく。
「それは……私のせいで……?」
「こっそり覗けないかしら?」
フェリシティはイザベラの反応など気にもしないで、教会の壁に近付く。王都にある教会よりも小さく、花を一輪模しただけの色硝子が付いた窓を、妖精たちが物珍しそうに突いていた。
「お嬢さん方。話をつけてきましたので、此方に」
フェリシティ達を、御者の一人が裏手へと誘導した。
洗濯物がはためく庭を通り、裏口にたどり着く。扉の前には、年若い修道女が控えていた。
「……どうぞ」
彼女はイザベラをちらりと見ると、背を向けて歩き出す。
古いが掃除の行き届いた通路を抜けて、一つの部屋に入る。机と椅子以外は聖書や楽譜が収まった書棚があるだけの、小さな部屋だった。フェリシティ達が入って来た以外に扉が設けられている。質の良い木材でできており、色硝子で装飾された小窓が填め込まれていた。
「神父様の控室ですが、ここから中を見られますよ」
どうか静かに、と付け足しながら、修道女はその小窓を指し示す。フェリシティとイザベラは顔を寄せ、色の付いていない部分から覗き込む。
そこから見えるのは、教会の神父らしき男の背と、彼の前に立つ一組の男女。
イザベラの息を呑む音が聞こえる。
ややくすんだ色の古めかしいドレスに身を包んだ女性は、イザベラに顔立ちがよく似ていた。
「祖母と母が結婚するときに着ていたドレスです」
イザベラが囁く。
「もう古いから、姉さんが結婚するときには仕立て直すって聞いたけど……」
金銭的にも、時間的にも、ロッシュ家には余裕がなかったのだろう。
厳かな空気の中、誓いを立てる二人を見守るのは、ロッシュ子爵夫妻を含む数人だけ。夫人のすすり泣く声が微かに聞こえる。
「子爵夫妻と……パメラさんのご友人かしら」
イザベラが項垂れた様子で小窓から離れる。
「私、ギルと幸せになれると思ってた……みんなが祝福してくれると思ってた……なのに、ギルの幸せまで……私が……」
壁にもたれかかり、すすり泣く姿を、修道女が冷ややかな目で見つめている。
「……パメラさんと幸せになれるわ」
イザベラの責任を取って、両親は領地の管理から手を引き、パメラが跡を継ぐことで話が纏まったと聞いている。
これからも幾多の困難が待ち受けているだろうと予想される――それでも、見つめ合う二人の笑顔は輝いていた。
そそくさと教会を後にして、フェリシティ達は馬車に乗り込む。
白詰草の咲く草原で馬車を止め、昼食を摂ることにした。御者の分も含めて、侍女が用意してくれていた。
蒸し鶏と野菜を挟んだパンを堪能するフェリシティに対して、イザベラは食が進まないようだった。小さく開けた窓の隙間から、外で走り回る子どもたちを眺めている。
「私……昔から、みんなに大事にされていたから……自分は特別な存在なんだ、お姫様なんだって思ってたんです」
妖精のおかげだったのにね、と寂しく笑う。
「姉さんは、本当のお姫様は、優しくて思いやりがある人だって……ずっと言ってくれていたのに……私は、何もわかってなかった」
そう言うと、窓の外から目を逸らした。
「両親の言う通り、修道院に入ります」
白詰草の飾りに、そっと触れた。
「姉とギルバート……いえ、私が今まで傷つけてしまった人たちの分まで、罪を償わなきゃいけないから」
イザベラの瞳に、迷いは無さそうであった。
「ありがとう。本当に助かったわ」
「いえいえ、会頭の意向ですので……今後ともよしなに」
侯爵家の別邸に着くと、御者たちは深々と頭を下げてから去って行った。
迎えに来た侯爵家の馬車で屋敷に戻ったフェリシティは、両親にイザベラとのやり取りを告げた。
王子の醜聞をなかったことにすると決めた現状で、イザベラの処遇が問題となっていたが、彼女が世俗と離れるなら問題ないだろうとの結論がなされた。
イザベラは宰相と『ロッシュ家の騒動や王子への暴行を不問とする代わりに全てを口外しない』と約束し、東の帝国にある修道院へ送られる運びとなった。
国交を開いて十数年と結びつきがまだ弱く、自力では王国に戻って来られない程度の距離。さらには、院長の権力が強く帝国側も手を出しづらい――“訳あり”を送り込むのにはうってつけの場所であった。
「院長は寛大で慈悲深い人物だと聞いている。真面目に務めを果たす気があるなら、悪いようにはならないだろう」
帝国と話をつけたレナーテ侯爵の言葉に、イザベラは頷いた。
数日後、王国が用意した馬車に乗り、イザベラは旅立った。
立ち会ったのは、フェリシティと使用人だけ。ロッシュ家に連絡したが、丁寧に書かれた礼状とイザベラ宛の手紙が届いただけだった。
手紙を見た時のイザベラは泣きそうな顔をしていたが、こらえると深く頭を下げた。
イザベラを乗せた馬車を見送りながら、フェリシティが思い出したのは王子の言葉。
『化け物に愛が分かるのか』
自分も、そして王子も。愛が分からないまま、お姫様の物語は幕を閉じた。




