9、白詰草を踏み荒らして
暴力・流血描写があります
小さい頃から、自分が“特別”だと知っていた。
両親も、姉も、使用人も、みんなが私を大事にしてくれる。
自分は物語のお姫様なんだって思っていた。
ある日、幼馴染のギルバートが髪飾りを贈ってくれたの。白くてふわふわしたそれは、白詰草を模したお守り。春のお祭りの時に売り出される、永遠の愛の証。
ギルバートは優しくて、格好良くて、頭も良くて……女の子たちがみんな憧れる存在だったから、とても嬉しかった。
彼のお姫様になりたい――そう願ったときから、私はもっとみんなに愛されるようになった。
みんなが私を好きだって言って、贈り物をくれる。
ある時、誰かが髪飾りをくれた。それはきらきらしてとても綺麗で……欲しかったけど、髪飾りはギルバートのくれたものがあるから、いらないって言ったの。その人はとても悲しそうな顔をしたわ。
私はお姫様なんだから、誰かを悲しませてはいけないの。だから、みんなの好意はできるだけ受け取ることにした。
お父さんたちは断りなさいって言うけど、どうしてか分からなかった。
だって、私が『ありがとう。嬉しいわ』っていうだけで、みんなが喜んでくれるのに。
ギルバートも私に会うたびに好きだって言ってくれたわ。結婚しようって。私も早くそうしたかったけど、お姉ちゃんの結婚が先だってみんなが言うの。
お姉ちゃんは子爵家を継ぐ人と結婚しなきゃいけないから、お見合いをしていい人を探していたの。でも、お姉ちゃんと婚約しても、みんな私の方が好きだって言ってくれたわ。
私が誰かと結婚してロッシュ家を継げばいいって言う人もいたけど、私はギルバートの所にいくから断ったわ。
可哀想なお姉ちゃん。お姉ちゃんが愛されないせいで、私たちも幸せになれない。
領内には、他にも可哀想な女の人がいて、その人たちよりも私の方が好きってみんな言ってくれる。だって私はお姫様だから。
ある日、男の子が私を指さしたの。『きらきらしてる』って。こんな小さい子まで私のことを褒めてくれたのが嬉しかったけど、お父さんたちは驚いていたわ。
お姉ちゃんが『垣根の上に立つもの』って呼ばれているおばあさんを連れてきたの。そうしたら、私は妖精たちに囲まれてるって。急に王都の親戚の所に預けられたわ。
まあ、ギルバートと結婚してあちらの子爵家を継ぐために、どこかで勉強する必要があったから構わないのだけど。
王立学院には身分の高い方々がたくさんいて、この国の王子様も通っていたの。初めてお会いしたけど、殿下はとても良い方だったわ。気さくで、優しくて。
それからは殿下と一緒にいることが多くなったけど、他の子爵家の人たちが怒るの。殿下にはフェリシティ・クルーガー様という方がいるのにって。私はギルバートと結婚するから関係ないのに。殿下も『何の問題もない』って言っていたわ。
私の所に色々な方が話を聞きに来たけれど、王宮から宰相さんが来たのには驚いたわ。殿下との将来を考えているか、ですって。私はギルバートと結婚して臣下として支えるつもりだって答えたら、宰相さんも「これからもぜひ殿下と仲良くしてください」って言ってくれたわ。
宰相さんと学院長のおかげで私は南棟に移ることになったの。王族の方々が使う教室に入れるなんて光栄だったわ。やっぱり私は特別なのね。
フェリシティ・クルーガー様とは一度だけ、お会いしたわ。学院内の敷地ですれ違ったの。どうして、婚約者なのに殿下と仲良くなさそうなんだろうって思ったわ。お姉ちゃんみたい。フェリシティ様も愛されてないのかしら。可哀想ね。
宰相さんは卒業式典に家族とギルバートを呼ぶよう勧めてくれたわ。お二人が愛し合う姿を見れば、殿下も喜ばれるでしょうって。
殿下はドレスを贈ってくれたわ。薄い紫のとても綺麗なドレス。
そのドレスを着て、白詰草の髪飾りを付けた私は、ギルバートのお姫様に相応しい姿になれた。彼も喜んでくれるわよね。
卒業の日が待ち遠しいわ。
エドゥアール・マクシミリアンが卒業式典の会場から出たとき、目の前をイザベラ・ロッシュが走って行った。
傍らには、困ったように立ち尽くす、三人の人物。
「宰相……イザベラは……どうして逃げたんだろう……?」
王子の縋るような目線を受けて、微笑んで見せる。
「なに、イザベラ嬢は緊張しておられるのでしょう。殿下が迎えに行って差し上げてはどうですかな?」
「そ……そうか。わかった」
王子は頷くと、イザベラが走って行った方角へと向かう。
後を追おうとする騎士たちを、宰相は手で制した。
「会場の警備が最優先だ。若者たちに任せておこうじゃないか」
彼らは暫し逡巡した後、持ち場へと戻って行った。
「あの……」
宰相は残された二人――ロッシュ子爵夫妻を物陰に招き寄せる。
「あの子が……殿下と懇意にしているとは、本当なのでしょうか?」
不安げに口を開く子爵に、彼は眉尻を下げ、大きく両手を広げてみせた。
「いやぁ、殿下がご執心の様子だと聞いて、我々もイザベラ嬢のことを調べてみましてな。どうやら、結婚を控えたお相手がいるそうじゃないですか」
その言葉に、夫妻は顔を見合わせる。
「我々が申し上げても殿下は聞く耳を持たなくて……卒業式典で二人の姿を見れば殿下も目が覚めるのでは、と思いましたが……」
宰相の問うような視線を受け、子爵がおずおずと口を開く。
「イザベラからは、ぜひギルバート君も連れてきてほしいと手紙が来ていたのですが……相手方の家にも連絡があったようで……」
王子の取り巻きに、近しい家の者がいたな――と宰相は思い出す。
口止めをと考える前に、学院長が早々に取り巻きたちを卒業させていたことを彼は後悔した。
「イザベラの方もまんざらではなさそうだと……それを聞いて、ギルバート君が、身を引くと」
彼はためらいがちに、宰相へ手紙を渡す。
それを開くと、イザベラへ向けられた文面が目に入った。
「……姉に乗り換えたのか」
「ギルバートさんが屋敷に来て……本当に好きだったのはあの子の方だったと言っておりましたの。自分も妖精に誑かされていただけ――」
涙ぐみながら語っていた夫人は、慌てて口を噤む。
「……ほう?」
宰相が夫妻を睨みつける。二人は黙り込み、目を逸らした。
追及しようとしたとき、講堂の中から複数の叫び声が聞こえた。周囲を見張っていた騎士たちが急いで中へ入った。
「……何事だ」
宰相が出入り口の方を見ると、扉が静かに開く。フェリシティ・クルーガーが姿を見せた。
此方には気付かない様子で、ふらふらと立ち去って行く。
「……さて、どうなるか見物だな」
王子とイザベラ、そして元婚約者“候補”だった三人が向かった先を見つめ、彼は口元を歪めた。
いつも以上に重いドレスがもどかしい。
走るなんて行為とは無縁だったフェリシティは、よろめき、躓きながらも動きを止めない。
行き先は、“みんな”が教えてくれる。
手のひらの中のふわふわは、自らの懺悔を繰り返し呟き続ける。
愛されたいと願った少女のために、同族を呼び集めていたことを。
同族たちは己の欲求のままに人間を誑かしていたことを。
イザベラ自身が拒むことなく受け入れたため、同じ嗜好を持つものたちが増え続けていったことを。
王子様とお姫様の物語は幻想だったのか――フェリシティはそれを確かめたかった。
講堂を出て、庭園を進み、南棟へ。
行きついた場所は、最後まで入ることのなかった王族の教室だった。
「イザベラ、どうしたんだ」
中には手を差し出す王子と、向かい合うイザベラの姿。
「早く戻ろう」
彼女は窓際から動かない。その顔は、夕日に照らされていてもなお、青ざめて見えた。
「わ……私には無理です、殿下」
逃げるように壁に背をつけ、しきりに首を振り続ける。
「私のような身分の者が、殿下と、なんて……考えてなかったんです」
「ああ、そんなことを気にしていたのか」
王子は優しく笑う。
「君を養子にすると、マクルズ伯爵家が名乗り出てくれたそうだ。もう、誰にも文句は言わせない」
「そんな……嘘……」
その言葉に、イザベラが座り込む。王子は彼女の隣に跪き、頭を撫でた。
「……俺たちを妨げるものは、何もないよ」
「どうして……?」
王子に触れられていることなど気にならない様子で、イザベラは呟く。やがて、何かに気付いたように頭をあげた。
「……フェリシティ様」
彼女の潤んだ瞳と、目が合う。
「違うんです。私は、あなたから殿下を奪おうなんて」
「何をしに来た」
イザベラとの間を遮るようにして、王子が立つ。
「……どうして、あの子は幸せになれないのって」
手を開き、白いふわふわを見せる。
王子はフェリシティをじっと見つめて――
「まさか……いや、違う……」
彼はイザベラに微笑んだ。
「この女の事を気にしていたんだね」
大丈夫だよ、と王子は腰に手を伸ばす――護身用の短剣を抜くとフェリシティに向き直った。
イザベラの息を呑む音が聞こえる。
「お前のせいなんだな……」
突き付けられた刃は夕日を受けて輝く。
危ない、逃げて、と親しい妖精たちがフェリシティの服を引く。けれど、多くの妖精たちはイザベラのそばでこちらを睨んでいた。
――わたしたちのおうじさまよ。
――あなたはいらない。早くいなくなって。
フェリシティの脳裏に過ぎるのは、踏み荒らされるかすみ草と囃し立てる少年たちの声。
――お前、魔女なんだろう。
――気味悪いんだよ。
――さっさと消えろ。
王子に突き飛ばされ、フェリシティはその場に尻餅をつく。
彼の足元で、違う、違うと白いふわふわの頭が揺れる。
「その子を傷つけては駄目よ……」
その言葉など聞こえないように、王子はそれを踏みつける。片手でフェリシティの髪を掴んだ。
王子と目が合う。怒り、悲しみ、憎しみ……彼の瞳から、様々な感情が窺えた。
彼はイザベラを本当に愛していたのか、妖精に心を奪われていたのか――フェリシティには、分からなかった。
「お前のせいなんだ……でなければ、イザベラが俺を拒むなんて……」
王子はゆっくりと、短剣を持つ手を振り上げた。
家族や使用人たち、友人たち、そしてレイモンドの顔が脳裏に浮かぶ。
「……どうして……?」
フェリシティの視界に、王子と背後に立つイザベラの姿が入る。
「お前がいなければ、俺とイザベラは幸せに……」
イザベラは椅子を振りかぶり――鈍い音が響いた。
「イ……イザベラ……?」
頭を押さえ振り返った王子の顔を、イザベラは殴り続ける。二度、三度、と。
王子が倒れ、動かなくなると、イザベラも糸が切れたように座り込んだ。
血が付いた頬に涙が流れる。
――あーあ、もうすめないや。
――きれいだったのに。
血を厭って、イザベラの周りにいた妖精たちが離れて行った。一部のものは、王子のそばに寄り添っている。
「お姉ちゃん……笑ってたじゃない……仕方ないって……みんなが私の方が好きだって言っても……どうして、ギルと結婚しちゃうの? ……私たちが約束したのに……大人になったら結婚しようって約束したのに……」
傍らに落ちていたものを手に取り、静かに泣き続ける。これまでの騒ぎで踏みつけられ、汚れた白い毛糸――彼女が身に着けていた髪飾りだった。




