序章:曖昧な世界で
王都の東、王立学院がある区画には“妖精屋敷”と人々から呼ばれる住まいがある。
王国でも有数の学び舎を置く場所だけに、行き交う学生や学者達で賑わっている中、そこだけが静かで、どこか異質な空気を漂わせている。
茶色い煉瓦造りの壁に、赤い屋根。通りに面する庭に咲き誇る季節の花々。
人目を惹く庭には四阿があり、昼のお茶の時間は誰でも訪ねていいと言われている。
「ごきげんよう。どうぞお掛けになってください」
誰が来ようとも、女主人は穏やかな声で迎えてくれる。
空いている席に着き、自由に過ごしていいのだが……気を付けることが、一つ――テーブルの真ん中にあるトレイには、手を付けてはいけない。
それは客人に供されるものと同じ茶と菓子なのだが、食器が違う。
人の手で扱うにはとても小さく――まるで、子どもがお人形遊びに使う玩具のようなものだ。
しかも、それを眺めていると、誰かが触ってもいないのに勝手に動き、中の茶や菓子が消えていく。面白がって自分の手にした菓子をそのあたりに差し出してみると、少しずつ小さくなっていくことだってある。
“妖精屋敷”にくる客の大半は、これを目当てにしているのだ。
「今日は林檎をたくさん頂いたので、パイを作りました」
「マッケンジー先生の? 私も昔は教わりました」
「……最近、年配の女中が辞めたのかしら。みんなが付いて行ったみたいですね」
女主人はおしゃべりが好きなようで、時々声を掛ける――客人だったり、客人には何も見えない所だったり。
時々は客人が悩みを打ち明けに来ることもあるが、女主人はいつも的確に答えを出してくれる。――無くなった鍵の事、親に似ていない赤ん坊の事、自分の屋敷に起こる奇妙な事。
今日も、悩みを打ち明けに来た紳士が帰って行くところであった。
屋敷の門を開け慌ただしく走り去る客人を見送ると、女主人は席を立つ。
淡い金色の髪を軽く纏め、琥珀色の瞳を持つ若い女性だった。
背は高すぎず低すぎず。
ゆったりとした動作で茶器を片づけると、屋敷の厨房へと運んでいく。
「あなたはここに住むの? でも、みんな、自分の取り分には厳しいわよ……そうね、桜の木はあなたのお気に入りだものね」
作業を続けながらも、しきりに辺りを見回し、話しかける。
彼女の右目に映るのは、昆虫の翅を持つ幼子や長いひげを生やした老人などの容貌を持つ手のひらぐらいの生き物達。
先程の客が視認できなかった存在だ。
この世界のあらゆる所に住む、人々の目には見えない存在。
恩恵をもたらしてくれたり、とんでもない悪戯をしでかしたりする彼らは、昔から妖精と呼ばれて親しまれていた。
こちらから干渉できない妖精たちを見たり、声を聞いたりすることが出来る人間が、極まれにいる――それを、この国では『垣根の上に立つもの』と呼んでいた。
この屋敷に住む彼女も、そんな『垣根の上に立つもの』の一人だった。
彼女の右耳と、瞳孔が無く宝石のように光る右目は、妖精たちと意思疎通を図るための機能しか持っていない。
「花の蜜が好きな方は多いから、あなたの場所が残っているといいけど」
厨房を後にして、再び庭に出る。
花壇に咲き誇るひなげし、金鳳花、乙女椿……女主人の目には、その上で思い思いに過ごす妖精たちも見えている。
寝ころび、花びらを揺らし、中には新入りを睨みつけるものも。
しかし、新しい住人はそれらに目もくれず、女主人の足元に降りる。
石畳の隅に咲く、白詰草に頬擦りした。
「あら、それがよかったの?」
彼女はしゃがみ込むと、白詰草にそっと触れた。
「白詰草……懐かしいわね……」
寂しそうな笑みを漏らすと、周りにいたものたちが髪や手に纏わりつく。
――だいじょうぶ。
――あのこはげんき。
――おまえのほうがもんだい。
「ふふっ、ありがとう」
慰めに耳を傾けていると、不意にかれらが一斉に離れて行った。
門を開く音と、聞き慣れた足音。そちらの方に目を向けると、屋敷の主人が歩いてきていた。濃い茶色の髪の青年だった。温かい眼差しで、此方を見ている。
「ただいま、フェイ」
そう言って、立ち上がった彼女の頬に触れる。
「おかえりなさい」
フェイと呼ばれた女性は、その手に自らの手を重ねた。
“あちら側”のかれらと、“こちら側”の彼と。
彼女は垣根の上に立ちながら、今日も曖昧な世界に生きている。
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