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1話 カツ丼の刃、そしてマンション高田

ジャンルの記載に困りました。


完結といいますか一区切りまで書き溜めております。それ以降も続くかは未定です。

とりあえず全7話を予定しております。


どうぞご付き合いくださいませ。

 幸せって何なんだろう。僕は最近、よく考える。ほとんどの事柄は突き詰めれば哲学みたいなもので、答えなんて個人によって異なる曖昧なものに行き着く。

 たとえば、チーズケーキが好きな人にその理由を問うと「甘いから」とか「チーズの風味が云々」などと答えるだろう。でも、そこを更にほじくると、つまりなぜ甘いと好きなのか、なぜチーズの風味が云々だと好きなのか、と問うと、たぶん「なんとなく」とかそんな感じの答えが返ってくるのだと思う。

 ただ、なんとなく、それが美味しいと感じるから。美味しく感じるから好きだとしか答えようがないわけで。

 結局は個人の感覚が判断基準となるわけで、感覚とは曖昧なわけで。

 幸せもそれと同じ。誰かがなんとなく幸せだと感じることが誰かの幸せなのであって、一定の解を持たないものだと理解はしている。理解はしているのだけれど、それについて考えられずにはいられない。

 この命題を取り上げるのには、それなりの理由というか、とあるキッカケがあったりする。

 あれは一月ほど前のこと。悲劇の始まりは、とても些細な出来事だった。


「ちょっとアナタ、またカツ丼のカツをべちゃべちゃにして……何度ワタクシに言わせる気ザマスか!」

「はあ? カツ丼のカツはただのトンカツじゃねぇ、そういうモンだ」

 時刻は午後の七時あたり。小奇麗な一軒家が並ぶ住宅地の一角、庭付き三階建ての邸宅でとある夫婦――まあ僕の両親なわけだけど――その怒声が衝突していた。それだけなら特に珍しいことではない。でもこの日はいつもと様子が違っていた。

 何があろうと互いに一歩も退かず、絶対に決着をつける、みたいな険悪な空気が二人の間に流れていた。たぶん決定的なキッカケみたいなものはなく、それぞれの色々な鬱憤が長年、溜まりに溜まった結果の爆発だったのだと思う。

「んまっ、なんザマしょ、その言い草は。せっかく揚げたカツのサクサク食感が台無しになっているというのに。これなら茹でただけの豚と大差ないザマス」

「衣はなァ、肉の旨味を閉じ込めてんだよ! それでいて卵とかダシの味を染み込ませてんだよ、クソが!」

「そんなものより食感が大事ザマス。ねぇ颯太ちゃん?」

 母さんが猫なで声で意見を求めたのは、隣で黙々と箸を進めていた僕の弟。まだ四歳の颯太は眠い目をこすり、幼さゆえの素直な意見を述べた。

「はあ、まぁ……べつにどっちでも良いけど、食べる本人がこう言っているんだからカツだけ後に乗せてやれよ。気遣いって言葉を知らないのか?」

 ……これが四歳児の発言か。将来を期待して良いのか、それとも心配した方が良いのか。

「親父に向かってテメェ!」

「ざまぁザマス、いい様ザマス」

「くっ……明日志ィ、オメェはどう思う」

 父さんの声で僕に注目が集まった。

 ここで何と答えれば正解だったのか、僕には今でもわからない。ただ、三対一になると父さんが可哀相だから、味方をしてあげたかったんだ。

「いやあの、サクサクなのを楽しむのはカツ単体で食べるとか……ほら、ソースカツ丼もあるじゃない。卵とじカツ丼はこれでいいんじゃないかな?」

 母さんに亀裂が走った、そう錯覚するほどショックを受けた顔をされた。

ガラスにヒビが入ったみたいにピシッと音を立て、眉一つ動かないくらいに固まってしまったのだった。

「よっしゃ、これで二対二だオラァ」

「ぐぬぬザマス」

「大体な、ウンコを頭に乗っけて食卓に着くんじゃねェよ」

 父さんが示しているのは、母さんの、茶髪をソフトクリームみたいに巻き巻きしたヘアースタイル。それは母さんがチャームポイントだと思っている、いわば母さんのお洒落のコアみたいな存在だ。

 当然の如く、母さんの怒りは加速する。

「まっ、ワタクシが毎朝一時間も掛けてセットしているスペシャル・エクセレントかつエレガントにしてファンタスチックでアーティスティックなヘアーを、よりにもよって、おウンコ呼ばわりするなんて……ザマス!」

「ザマスザマスうるせぇよ、うんこザマスばばぁ」

 これ以上ないほど母さんを一言で的確に、しかし悪意を染み込ませた形容を、父さんは躊躇いもなく言い放った。母さんから今度は、血管が引きちぎれた様な音が聞こえた。金縁の眼鏡が冷えた光を放っている。

 しばしの凍りついた沈黙を経て、ワナワナと震える母さんの口から、衝撃の言葉が漏れた。

「……離婚ザマス。ワタクシ、もうこんなお下品な下郎と一緒にいるなんて、我慢できませんザマスよ」

「上等だ、うんこザマスばばぁ。テメェなんざ、こっちから願い下げだってんだ。慰謝料はいくらだ?」

「あーら、アナタにそんなもの期待してませんザマスわよ」

「ほう、よく言った。だったらテメェには一銭たりともくれてやらねェからな!」

「結構ザマスよ。主夫のアナタがお金を持っているとは思えませんザマスし」

 協議は一瞬。驚きの速さで家庭が崩壊してしまった。

「あと、その卵とじカツ丼とソースカツ丼の存在意義の違いを理解できないおバカな子は、アナタが引き取ってくださいザマスね」

 僕のことですね。

「オウオウ、やってやんぜ。なぁ明日志。こっちから出ていってやろうぜ、こんな家」

 こうして四人が真っ二つに引き裂かれ、二人ずつに。届け出などは後日にまわし、まずは出て行けと、そういうことらしい。

 最低限の荷物を持って夜の寒空の下、強い風に晒されながら父は言った。

「男二人、豪快に暮らしてやろうぜ」

 僕は迷うことなく返した。

「いや、僕は来月から大学生なんで、どのみち地方で一人暮らしじゃないですか」

 これが僕にとって一つの終わりであり、一つの始まり。

 以来、平和や幸せについて割と真剣に考えている。家族という何より強固なはずの絆が、カツ丼一つで簡単に断ち切られるなんて思いもしなかった。カツ丼って、そんなにも強い存在なのかな。それとも僕たち家族の絆が弱かった?

 わからない。

 どうすれば平和に解決できて、それから先も幸せに過ごせたんだろう。

まだ正しい答えはわからないけれど、それは、これから探していくものだ。

 さて、この悲劇がもたらした問題は家庭崩壊だけではなかった。主夫だった父さんはもちろん仕事を始めたけれど、まだ文無しも同然。奨学金の申請をしていなかった僕には、学費という問題が重くのしかかった。それだけではなく、色々なゴタゴタから住居の決定が大きく遅れてしまったのだ。

 父方の祖父母や親戚の力を借り、前者の問題は一応どうにかなった。住居の方がどうなったのか、その結果は今日、知ることになっている。

 一週間前、父さんは僕に言った。

「下見する時間はねェ。インターネットで安いところを探して、適当に決めろ。大丈夫だ。どんな悪物件でも死にはしない」

 こうして巡り合う運命の物件。わかっているのは六畳でキッチン付き、風呂とトイレが共同で、家賃が一月八千円。それから住所と「マンション高田」という名前だけ。一緒に探してくれた父さんが勝手に決めたところだから、僕は写真も築年数も見ていない。

 なぜここまで安いのだろうか。正直なところ、これから始まるキャンパスライフよりも不安だ。

「次はラックス公園前ぇ、ラックス公園前ぇ」

 バスに揺られながら、何の特徴もない僕の顔が半透明で映る窓の外、移りゆく景色を見つめていると、最寄りの駅に着いた。

「ありがとうございました」

 料金箱に数枚の硬貨を落として、バッグを片手に新しい土地への第一歩を、緊張ながらに踏み出す。

 春の麗らかな日差しに照らされて、涼しい風に肌を撫でられた。心地良い。この街が歓迎してくれているのなら嬉しいな。

 この辺りは古くからある住宅地らしく、真新しい建物から古い建物まで、あちこちに見られる。道が狭いところもあり、細々とした印象を受けるけれど、そのうち慣れると思う。今まで暮らしていた家が、ちょっと豪華だっただけ。

僕が住むマンション高田は、どんな建物なのかな。

 想像したって始まらない。どんな物件なのか、それは行けばわかること。まずは出迎えてくれるという親切な大家さんを探さなければ。

待ち合わせ場所はバス停の名前にもなり、すぐ目の前にある「ラックス公園」。小さな子供たちが走り回っても不自由ない児童公園で、遊具もブランコや鉄棒、すべり台や砂場、その他にも幾つかと、なかなかの充実ぶり。

 土曜日の昼間、公園は幼くて元気な声に溢れている。颯太くらいの歳の子たちが、鬼ごっこに興じていた。

 微笑ましい一方で、弟を思い出して切なくもなる。

「んーと……」

 公園の中に入って辺りを見回していると、手にした荷物や緊張を含む表情から僕がそれだと悟ったのか、中央付近から大きな柴犬を連れたお爺さんが近寄ってきた。小さくて白髪とお髭を蓄えた、いかにもお爺さんなお爺さん。優しそうでもあり厳しそうでもある、どこかミステリアスな雰囲気。

「こんにちは。今日から入居される加賀美さん?」

「はい、加賀美明日志と申します。よろしくお願いします。大家さんの……えっと、高田さんですか?」

「ワシャ源田だよ。大家には違いないがね」

「……あの、マンション高田ですよね。あ、どなたかから引き継いだとか、ですか?」

「いんや。高田はワシの……へへ、初恋の相手じゃ」

 あ、そうですか。

「なんじゃい、その顔は。何か文句でもあるんかい」

「いえ、特には」

「ちなみに、この犬の名前も初恋の相手から決めた。三代目チヨじゃ」

 そんなことを言われても、もの凄くリアクションに困るだけなんですけど。

「高田チヨちゃん、狂おしいほど可愛かったのぉ。艶やかな黒髪に眩しい笑顔。お淑やかで優しくて文武両道。いやー、今は何をしておるのか。もしもまだ独身なら、グフフフフ……じゅるり、まだワシにもチャンスがあるやも知れぬ。もうホント、彼女の圧倒的な魅力は留まることを知らず……」

 なんか変な長話が始まってしまった。そして、

「まさに大和撫子というに相応しく……」

 五分が経過し、

「慎ましやかなお胸が……」

 二〇分が経過し、

「すっかり魅了されたワシは、彼女の髪の毛を密かに集め……」

 ――ついには勢いのある口調に圧倒されるまま、一時間も経ってしまった。しかも、未だ終わる兆しが微塵も見えない。これはもう僕が積極的に話を終わらせないと、夕暮れまで付き合わされそうだ。

「あの、源田さん。そろそろ案内して欲しいのですが」

「もう時効だから言うが、その時に盗んだ下着は今でも……ん? おお、すっかり忘れておったわい。マンション高田はホレ、この公園の隣じゃ」

 示された方を見ると、デコピンで崩壊しそうな木造建築のアパートが。

「マンション……?」

 いや、わかってたけども。風呂やトイレが共同だったことから、察しはついていたけども。

「なんぞ文句でも?」

「いえいえ」

 安いんだ。安いんだから我慢しなくては。

「それにしても日当たりが悪いですね」

 ボロボロのアパートの向かいには綺麗な高層マンションが建っていて、非道なまでに陽の光をブロックしている。正面にあるだけでも格差を見せつけるというのに、更に実害を与えるなんて、ちょっと酷いと思う。

「ああ、五年前に建った『ローズ・リング』のせいじゃな。酷いもんじゃ。建設前には何度も抗議に行ったもんじゃがな……」

 源田さんは遠い目で、高く聳えるマンションを見上げた。懐かしさと哀愁が、年老いた眼から滲み出ている。

 好きな人の名前を付けるほど可愛がっていたアパートだ。それが日陰に追いやられる気持ちなんて、僕には想像することしかできない。でも、きっと僕が想像するよりも寂しくて、悔しいんだろうな。

「聞き入れてもらえなかったんですか」

「それどころか奴ら、ワシに部屋を格安で提供してやる、とか抜かしおったわい。思わず笑っちまったよ」

「酷い人達ですね。そんなもので釣られるはずないじゃないですか」

「……え?」

「は?」

 僕と源田さんの目が合い、何度か瞬きを繰り返す。

「え、いや……笑って食い付いたけども」

「なんでですか! そこは男らしく断るところでしょう!」

「だってバリアフリーだし、オール電化だし、新築だし、デザインも綺麗だし。しかもペットも可で一階だから庭付きだし、両隣りに美人さんが越してくる予定だって言うし。こりゃもうね、行くっしょ、普通。行くしかないっしょ、普通」

 最低、まさに最低ですよ、この人は。自分のところの入居者をアッサリ裏切って平気な顔をしているなんて。

「ローズ・リングのお陰でマンション高田の日当たりが悪くなって、家賃が安くなったんじゃから、構わんじゃろ。だーれも損をしておらん」

 うっ……そういうことなら、僕は源田さんを責められない。何と言っても、その安さに助けられる身だから。

「さ、お前さんの部屋に案内しようかね。ついておいで」

 源田さんは鍵をチャラチャラいわせ、チヨを引き連れて歩き始める。通り過ぎる元気な男の子を見ては顔をしかめ、女の子を見ては綻ばせる。

 まあ、お年寄りだからって良い人だとは限らない。どんな世代にだって、色んな人がいるわけだから。

「それにしても、久しぶりに全部の部屋が埋まったわい。お前さんが数日前に入居したコみたいに可愛い娘さんなら、なお良かったんじゃがな。しかしまぁ、問題の二〇二号室に人が入っただけでも良しとするか。月一万でも借主がいなかったからの」

 へぇ、問題の二〇二号室に……って、それ僕のところですよね。問題って何ですか。僕、何も聞いていないんですけど。

「あのー、問題というのは?」

「ん? なぜかは知らんが誰もあそこを借りたがらんでの、困っておったんじゃ。なぁに、そんな顔をせんでも、十二年くらい前に見た時には妙な点なんぞ何も無かったから、心配は要らんじゃろ」

 要るかもしれないですよね! 十二年もあったら、どんな風にでも変わり果てるじゃないですか!

 ……とと、落ち着こう。何があったって、ここに住むしかないんだ。父さんの言葉を繰り返そう。

「どんな悪物件でも死にはしない。どんな悪物件でも死にはしない。どんな悪物件でも死にはしない。大丈夫、大丈夫」

 これで良し。なにも幽霊や化物が出るわけじゃあるまいし、現に両隣には人が住んでいるらしいし、生きていけない事はない……はず、だよね。うん。

「ここが玄関じゃ。右に回ると駐輪場、左に回ると洗濯機や洗い物を干す場所なんかがある」

 汚いコンクリートの塀に囲まれた敷地内に入ると、源田さんが説明してくれた。ところどころに雑草が生えていて、お世辞にも手入れが行き届いているとは言えない。玄関は防犯できるとは思えないボロボロの引き戸で、しかし泥棒よりも崩壊への不安の方が大きい。

 それなりに裕福な家庭で育った僕は、すでに心がへし折られそうだ。

「さ、中に入ろうかの。チヨちゃん、ちょっと待っててねぇ」

 源田さんはハッハッと呼吸している柴犬を玄関先に繋いでいる。その時、僕達の背後から足音と話し声が聞こえてきた。

「あっはは、マジで。そんで次の日アタシ以外の全員が病欠。あん時は震えが来たね、我が身の丈夫さに。そして震えが来たね、今日のバイトはアタシ一人かよ、って感じの戦慄と武者震いが。そしてそして、更に震えが来たね。やっぱアタシも風邪だったみたいで。まあバイト始まるくらいには気合で治してやったけどね」

「ふふふっ。遥さん、あまり笑わせないでください」

 どうやら女性の二人組みらしい。その声と靴音は、すぐ後ろで止まった。

「あら、源田さん。こんにちは」

「おおっ、彩那ちゃん!」

「どったのジジイ、こっちに来るなんて珍しい」

「……と、じゃじゃ馬ムスメか」

 彩那と呼ばれた清楚でおとなしい女性は、長い髪を後ろで纏めている。歳は僕と同じくらいだろうか。

 もう一人の明るく騒がしい方は、癖っ毛のショートカット。雰囲気も表情も子供っぽいけれど、顔のパーツ一つ一つを見ると年上に思える。

「じゃじゃ馬で結構。それよりジジイ、そっちの誰よ」

「新しい入居者じゃ。二〇二号室の」

「えっ、魔の二階に? へーえ、あんまり強そうには見えないけど、こんなひょろっちいので大丈夫なの?」

 ダンジョンか何かですか、ここ。

「お前さんは何を言っとるんじゃ?」

 どうやら、本当に源田さんは何も知らないらしい。

 一体どういうことなのか、僕も知りたいと思ったけれど、

「ま、アタシらには関係ないか。さーて、バイトまで一眠りっと。行くよ、彩那」

「えっ、でも新しい入居者さんにご挨拶とか……」

「いいって。どうせ明日か明後日には居なくなってるから」

 じゃじゃ馬さんは彩那さんの背を押し、先にアパートへ入って行った。

「彩那ちゃん、今度お茶でも……ちぃ、じゃじゃ馬め、さっさと行きよって」

「源田さん、ここ本当に大丈夫なんですか?」

 強さが必要なら、僕は真っ先にアウトだ。問題はアウトが何を示すのか、だけど。

「大丈夫じゃろ。どんな悪物件でも死にゃせんよ」

 そんな父さんと同じ理論を言われても……。どうしよう。だんだん不安になってきた。

「ていうか、大家さんって空き部屋の管理とかしないんですか?」

 掃除とか。十二年も足を踏み入れていないっていうのは、ちょっと妙な話だ。だって十二年前には入っていたって事なんだから。

「ああ、最近は全然しとらんの。いつぞやからか、なぜか一〇四号室にはお人好しなバカ……もとい、親切な働き者が住むという流れが出来上がっておって、掃除とかをタダで引き受けてもらっとるよ。本当なら今日の案内も任せるつもりだったんじゃが、あやつめ、バイトとか抜かしおった」

 うわぁ、もう本当にダメな人だな、この人。

「ま、お前さんも困ったら頼ると良い。あれでなかなか頼りになる奴じゃ」

 一〇四号室だっけ。覚えておこう。

「間違ってもワシのところには来るんじゃないぞ。美女以外はお断りじゃからな」

 ……一〇四号室は絶対に忘れちゃダメだな、うん。今日はバイトだそうだし、明日あたり挨拶に行こう。

 アパートの中に入ると、靴を脱ぐ場所があった。脇には窓の下に、老朽化して穴のあいた木製の下駄箱、それに置かれた黒いダイヤル式の電話。あと少し離れて、掃除用具のロッカーらしきものが設置されている。

 廊下に上がると、ギシリと床が軋んだ。

 そんな古さや庭の汚さとは裏腹に、ホコリはあまりない。庭の方は荒れていても健康を害することがないし、手間と利益を考慮して放置しているのかな。

 薄暗い廊下の側面には階段と五つの扉があり、最奥にこちら向きの扉が一つあった。

「階段の傍、一番手前のはトイレじゃ。次から一〇一号室で、四号まである。一番奥は男性用の浴室になっておる」

 件の一〇四号室は、あそこか。浴室の手前、よく覚えておこう。

「ちなみに浴室はワシの趣味で、たぶん一〇人くらいは入れる大浴場じゃ。使う時は、このワシへの感謝の気持ちを忘れぬように」

「へぇ、それは楽しみです」

 源田さん、風呂好きなんだ。人格が汚れているから、無意識に清潔を求めているのかな。

 なんにしても、僕も広い風呂は好きだし、こんな残念なアパートでも気に入りそうな点があるのは良い事だ。

 お次は二階。

 階段はやはりというか何というか、廊下以上にギシギシ鳴っている。軽く跳ねるだけで突き破ってしまいそうだ。

 狭いし、段差も急。源田さんも昇るだけでゼハゼハ言っている。

 二階の部屋の並びも、基本は一階と変わらなかった。ただし、一階でいえば玄関に相当する場所には、窓と空白のスペースがある。

「奥のが女性用の浴室……つまり聖域じゃ。入ったらチヨに喉笛を狙わせるから、そのつもりでな」

「言われなくても入りませんよ」

 源田さんじゃあるまいし。

「で、ここがお前さんの部屋じゃな。ワシの案内はここまでじゃ。あとは適当にやってくれ」

 僕に鍵を握らせ、源田さんは爽やかな笑みを向けてから踵を返した。

「決して」

 ん?

「決して、じゃじゃ馬ムスメの話を聞いて何となく怖くなったから入らないとか、そういう事では断じてないからの。勘違いするでないぞ」

「はぁ、そうですか」

「うむ。ここで始めるお前さんの新しい生活が、辛うじて恋人ができない程度の薄い幸で満ちる事を祈っておる。では達者でな」

 源田さんはそう言い残し、廊下を折れて階段へ向かっていった……と思ったら、顔だけをこちらに覗かせ、追加の一言。

「そうそう。面倒だから死なんでくれよ」

 不吉な一言を置き土産に、今度こそ源田さんは去って行った。階段や廊下の軋む音、玄関の戸の開閉音が聞こえる。

 さてと。

 ゴクリと僕の渇いた喉が鳴る。魔の二階と称されるなんて、一体どんな部屋なんだろう。鍵を持つ手が震える。

 いや、進むしかないんだ。臆してどうする。いざとなったら全力で走って逃げる、その心構えで突き進もう。

 鍵が噛み合わさり、ガチャリと開錠する。戸を押すと不快な金属の摩擦音が鳴った。

「……あれ?」

 真っ先に目に入ったのは畳と窓。入口付近には木の床と狭いキッチン。

意外と普通じゃないですか。確かにボロっちいし狭いけど、廊下と同様、ちゃんと掃除はされているみたいだし。

 窓からはラックス公園が見える。子供たちの元気な声も、まだ響いていた。今は向かいの高層マンションに阻まれているけれど、時間帯によっては日当たりも良くなりそうだ。バッグを置いて近寄ってみると、眼下に物干し竿と、風に揺られている洗濯物が見えた。

 荷物が届くのは明日だったかな。親戚様方が入学祝いに買ってくださった冷蔵庫や布団、その他、生活用品などが届く予定だ。ちょっと手続きが時間的な意味で難航したから、仕方ないね。だから今夜は畳の上に直で寝ることになるけど、それも仕方ないね。

 どちらかと言えば父さん似の性格で良かった。一気に生活水準が下がったけど、思ったよりも動揺がない。

 貧乏だって構わない。何かこう、怪奇的な事がなければ。

「…………」

 それにしても、すごく暇だ。持ってきた荷物の中に本の一冊でも忍ばせておけば良かった。

 あるものと言えば財布、大学や住居関係の資料の束、筆記用具と替えの下着。あとポケットティッシュくらいかな。大学の資料は記入したりするものもあるけれど、畳の上で直に作業するのは躊躇らわれる。机が届いてから手をつける予定だ。

 あ、そういえば引っ越しの挨拶用に、お菓子も持って来てたっけ。大家さんに渡すのをすっかり忘れていた。男の僕が家まで訪ねると疎まれそうだけど、後でちゃんと挨拶に行こう。

 よぉし、まずはアパートの住人に挨拶だ。

 ここを除けば七部屋しかないから、ささやかな品だけど全員分、用意してある。

 綺麗に包装した菓子を手に、僕は部屋を出た。

「まずは二〇一号室からかな」

 すぐ隣の部屋。トイレと僕の部屋の狭間に位置する部屋だ。

 コンコン、とノックを試みる。二回のノックはトイレを意味するとか、どうのこうのと言うけれど、こんなボロい戸を何度も叩くのは何となく気が引ける。まぁ、回数なんて誰も気にしないでしょう。

 ……あれ、留守なのかな。

 もう一度、コンコンっと。

「すみませーん」

 声も掛けてみる。すると、中からガサガサと音が聞こえてきた。その直後、戸が開かれる。

「……誰だ、お前」

 面倒臭そうに顔を覗かせた隣人を見て、僕は言葉に詰まった。

 真珠のような肌に鮮やかな金髪がよく映えている。スッと通った鼻筋と鋭い眼光。信じられないくらいの美形さんだ。

 声から察するに男性らしいけど、美し過ぎて見た目からでは性別がわからなかった。

「あ、あの僕……えっと」

 どうしよう。緊張して上手く喋れない。

「おい、早く用件を言え。俺は暇じゃないんだ」

「あ、すみません。僕、隣に越してきた者でして……」

「そうか。しかし残念だが俺は三次元全般、とりわけ野郎には興味がない。例え隣人であろうとな」

 ほう……それは確かに残念ですね、色々。

 と、ここで突然、携帯電話の震える音が聞こえ――、

 スチャ、ピッ、タタタタタタンッ、パタン。

 ……なんですか今の神速の携帯捌きは。

「チッ、これだから三次元の女は……」

「興味ないのにメールするんですか?」

「仕事上な。酒を飲ませて薄汚いババア共から金をしこたま巻き上げるだけの面白くもない仕事だが、やらなければ生活できないし、何よりゲームとかアニメの円盤とかが買えん」

 酷い、酷過ぎるよ、この人。源田さんと同等のレベルだ。

「それはさておき、俺はこれからオンライン対戦に潜る忙しい身だ。挨拶だというのなら三つだけ言っておく。俺に迷惑を掛けるな。関わるな。さっさと帰れ」

「はぁ。あのコレ、引越しの御挨拶の品でして。一応もらっておいてください。あ、僕は加賀美明日志と申しまして……」

 バタン。

 お菓子袋をひったくられ、戸を勢いよく閉められた。自己紹介すら無しですか。まぁいいですけどね、表札があるんで。

 狭間さん、か。お隣だし、覚えておこう。

 お次はもう一人の隣人にしよう。僕の部屋の前を横切って二〇三号室へ足を向ける。初めての引っ越し挨拶がさっきの狭間さんだったものだから、なんだろう、緊張が増した。

 気を取り直していこう。

「あの、すみま……」

 ノックしながら声を掛けようとしたその時、二〇四号室からギュイィィィィィン、という激しい音が鳴った。

 僕が驚いている間に、目の前の戸が壊れそうな勢いで開かれる。

「うっせぇぞクソがァ!」

 ガラガラ声で怒鳴りながら現れたその人は、短く刈られた頭髪と口を囲むような髭を持つ、山の様な大男だった。身長は一八五くらいありそうで、なにより隆起した筋肉が凄い。ケツアゴも含めて、なんだか僕の父さんと似ている気がする。

 ケツアゴさんは僕に目もくれず、隣へ一直線に進撃する。出入り口の前に居た僕は、もちろんゴミの様に突き飛ばされた。

「テメェ、ギュインギュインすんなっつってんだろうがァ!」

 ケツアゴさんは激しいノックを打ち鳴らして、たぶんエレキギターのものと思われる音より大きな声で叫んでいる。

 程なくして演奏が止み、そこの家主が出てきたのだけれど、僕は彼女の姿を見て目を丸くした。

「うっせぇのはテメェもだろうが。四六時中、筋トレでハァハァ言いやがって!」

 威勢のいい声を放つシルエットには見覚えがある。あの天を目指す特徴的な巻き髪は……母さんとそっくりじゃないか。

 つまり言われる訳だ。

「せめてアンプに繋げるなっつってんだよ、ピンクうんこ!」

 そう。うんこ、って。

 母さんは茶髪だったけど、彼女はピンク色だった。顔は濃いアイシャドーが目立ち、左目の下に星、右目の下にしずくの絵が描かれている。

「これからライブなんだよ。ちょっと気分を乗せてるだけだ」

「普段も繋いでるだろうが」

 どことなく父さんと思わせる豪快な男性と、母さんを彷彿させる髪型の女性の言い争い。これで一月前の悲劇を思い出さないはずがない。

 どうして世界に争いが途絶えないのだろう。

 どうして皆で仲良く暮らせないのだろう。

 カツ丼一つで家庭すらも崩壊するんだ。赤の他人同士が些細な事でいがみ合ったとしても不思議じゃない。だけど、それで誰が得をするんだ? どちらも不快な思いしかしていない。

 手を取り合って笑えれば、皆が幸せなはずなのに。みんな、心の底ではそんな世界を望んでいるはずなのに。

 そんな世界の実現は確かに難しい。だからこそ皆、見て見ぬ振りをして生きているんだ。

そんな世の中、僕は認めたくない。そんなの、哀し過ぎるよ。

 だから、僕は二人の間に体を張って割り込んだ。

「やめてください!」

 今まで眼中になかったのだろう、いきなり視界に飛び込んできた僕を見た二人は嵐の様な口論を止めた。

「なんだ、テメェは」

「なんだ、テメェは」

 そしてハモった。さっきから思ってたけど、ピンクうんこさんは随分と男らしい口調で話すらしい。

「真似してんじゃねぇよ、ピンクうんこ」

「真似してんじゃねぇよ、クソゴリラ」

 また途中までハモった。本当は仲が良いんじゃなかろうか。

「だから、ケンカは止めてくださいって!」

 思わず僕まで声を荒げると、二人は渋々だけど黙ってくれた。

「僕は二〇二号室に引っ越してきた、加賀美明日志という者です」

「ほう、新入りか」

「その新参が何の用だ」

 あまり歓迎はされていないらしい。口調は冷ややかだ。どうして不和ばかり起こそうとするんだろう。ちょっと笑顔で「よろしく」くらい言えば、円満なままで済むというのに。

 よし、だったら僕が平和を創り出そう。まだ幸福が何かは見いだせないけれど、目の前の争いを見逃して、幸せな世界はあり得ない。

 僕から始めるんだ。

「ケツアゴさん、ピンクうんこさん。こんなの、例えば気をつけ合うとか、お互いが音を立てるのなら我慢し合うとか、話し合いや譲り合いで簡単に解決できる問題じゃないですか。どうして相手の行動ばっかり責め立てるんですか。来たばかりの僕は話から察するしかありませんけれど、騒音を立てているのはお互い様なんでしょう?」

 手加減はしてやらない。正論で一気に丸めこむ。

「誰がピンクうんこだァ?」

「テメェ、死にたいらしいな」

 おや、なぜ僕が睨まれているのでしょう。

「ケツアゴとか、ケンカ売ってんのか?」

「いや、だって名前とか知りませんもん」

 教えてもらってないし、表札を見る暇もなかったし。

「チッ、オレは銀島茂人だ」

「……佐熊一美だ。今度ピンクうんことか呼んだら、絞め殺すからな」

 そんな反吐が出そうな顔で名乗らなくても。笑顔が大事ですよ。

「えっと……ケツアゴさんが銀島さんで、ピンクうんこさんが佐熊さん、ですね。わかりました、覚えておきます」

 それから後のことは、ほとんど記憶にない。とんでもなく恐ろしい顔を見た気もするし、飛来する硬そうな拳を見た気もする。

 気がつくと僕は、古びた廊下に転がっていた。さすがに老朽化には抗えず、日が当たらない事もあってか、床はカビ臭かった。ジンジンと痛む頬やら腹部やらは、その床で良い感じに冷やされていた。

 遠く、階段あたりの床が、窓から差し込む明かりに照らし出されている。橙色の鮮やかな光だった。

 どれくらい時間が経ったのだろう。

 銀島さんと佐熊さんの姿は、もう廊下にはなかった。どうも僕の何かが、彼らの琴線に触れたらしい。

 正直なにが悪かったのかは全然わからないけれど、後で謝罪と引っ越しの挨拶を手紙で添えて、お菓子をポストに投じておこう。部屋の戸には郵便受けがないから、わざわざ表に出ることになるけれど、仕方ない。

 ある程度のクールダウンを挟まないと、顔が合っただけで殴られる、と僕の痛みが訴えている。まぁでも、どうやら争いは収まったみたいだし、世界平和に一歩は近付いたよね。僕の身一つで争いを抑えられたなら、安いものさ。

 ……それにしてもこの階……酷い人達ばかりだったな、狭間さんも含めて。

 これが魔の二階ってことなのかもしれない。

まだロリはいません。

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