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第19話 憑依の一打

 浅間は優れた選手だ。

 打者としても、投手としても。

 6回表に凛子がリリーフ登板して流れを変えなければ、きっと浅間はそのまま、どこまででも突き進んだだろう。雨地に対しては敗北を認めたとは言え、しかしその実力は、学年内でも間違いなく一級品だった。

 事実彼女は7番から始まる8回裏を、三者連続三振に打ち取る__前の回から数えて、5人連続の三振だった。荒れていると言えば聞こえは悪いが、より一層の凄みを増したことには変わりなかった。


「フォアボール!」


 試合はいよいよ最終回を迎える。

 9回表。

 マウンド上には先ほど、ライトからの見事なバックホームを見せて失点を防いだエース、一色。彼女は先頭打者である暗持を四球で歩かせてしまう。

 俺は一色の顔をじっと見る。しかし一色の表情は、十分に落ち着いたものだった。視線に気付いた一色が、俺にアイコンタクトを送る。


『大丈夫だよ』


 18.44メートル先にいる彼女は、表情で確かにそう語った。思えば今の四球だって、決してコントロールが定まらなかったわけではない。コースギリギリを狙った良いストレートだった。惜しかったのだ。おそらく暗持も、単に手が出なかったのだろう。

 結果的にボールになってしまった球。乱調し、不用意に与えたボール球ではない。

 一色の球威は、確実に上がっていた。


「恐らく、これが最後の打席になりますね」


 右打席に立つ、柔和な笑顔の彼女。

 松嶋朧。

 思えば彼女には今日、苦戦を強いられた__いや、以前の練習試合の時から、か。

「と言っても、こっちが延長戦まで持ち込んだ場合はその限りじゃないよな」

「うふふ。確かにそうなってしまうケースもありますよね。そうなったら、気まずそうです」

 そう言って松嶋は、楽しそうに目を細める。

「しかし、松嶋の直感はよく当たるので」

 一色の第1球。松嶋は外角へのストレートを積極的に振りにいく。振り遅れの打球は、俺の右側後方へと飛んでいく。

「コースもおおよそ、予測はついているんですけどね。また一段階威力を上げた、計算外のストレートなんて、松嶋の腕力ではどうしようもないです」

 一色の第2球、金属バットが鈍い音を奏でる。俺は数歩後退する。ふらふらと打ち上がった打球は、俺のミットの中に収まった。

「9回で全てが決まるとは思いますが、正直どちらの勝利で終わるのかまでは、分かりません」

 松嶋朧は、柔和な笑みを絶やさない。

「その時の勝者がE組であればいいと、それだけを願っています」

 どこまでも人が良さそうな表情のまま、去り際にそう言った。


「二度美味しい投手だ」


 球場が歓声に包まれて騒々しくなる中、4番の太丸は確かにそう呟いた。

「舌を巻くとは、まさにこのことだ…… 口の中で味が変わる料理など、誰が想像していただろう」

 ストレートによる第3球を見逃して三振に倒れたことに、悔しそうに下唇を噛む太丸。しかしそれ以上に、彼は満足げであった。腹をさすりながら一色の方を見る。

「さっきまであんなに辛そうだった一色が、この短時間でこうも自信を取り戻すと、誰が予測しただろう」

 そして俺の方を向き、太丸は手を合わせる。

「ごちそう、さまでした」

 そうお辞儀をして、太丸はベンチへ帰ってゆく。その後ろ姿は、どこか嬉しそうだった。


「けっ、とんでもねー奴だよ」


 9回表、ツーアウトランナー無し。

 右打席にはE組の番長、浅間。

 思えば今日の一色は浅間を相手に、散々だった。

 第一打席では待球されて球数を増やされた。第二、第三打席では二塁打を打たれている。打者としても、一色は浅間を相手に3三振を食らっている。

 一色は今日、浅間にしてやられっぱなしだった。

 しかし、今は。

「一度折られた武器を__この試合中に、こんなに早く鍛え直すなんてよ」

 一色と浅間の顔を見比べたら、どちらが優位に立っているのかは明白だった。浅間は前の打席で雨地に向けた表情を、一色を相手にも見せる。

「一色が朧と円に投げたストレートを見て、アタシは思ったよ。『あ、こりゃアタシの手には負えねーな』って。ほんっとーに、マジでよ。今の一色の球を打てる気がしねえ」

 その回三振に倒れた浅間は、悔しそうな顔をしていた。雨地に続き、一色のストレートに対しても負けを認めた。

 しかしそれは決して、勝負を諦めたということではないだろう。個人での敗北はイコール、チームでの敗北ではない。

 浅間はそこで終わる奴じゃなかった。

 9回裏。

 復活した一色がE組打線を封じたところで、点差は1点。

 1点__ビハインド。

 依然E組のリードだった。こちらが1番からの好打順とはいえ、窮地なのは変わらない。

 そして。

 浅間個人として、雨地と一色に負けを認めた彼女も、まだ。


 E組のエースとしては__死んでいなかった。


「んー、無理だね。私には打てないや」

 三振に倒れた凛子が、バットをベンチ内備え付けのケースにしまいながら、そんなことを言った。カラン、と音が鳴る。

「さっきより迫力が増した気がするよ。浅間さん」

 敗北を認めたことで逆に冷静になったのか、浅間は落ち着きを取り戻していた。4回表に登板した時のような安定感で、鴬谷と凛子を連続三振に仕留める。

 9回裏、ツーアウト。

 ランナー無し。

 二列あるうちの前方左端のベンチに座る俺の右側後方に座り、一色は前の背もたれに体重を預けながら、歯がゆそうな表情を浮かべていた。

「心配?彩花ちゃん」

「え?あ…… んー、うん」

 凛子からの問いかけに、一色は戸惑いながら、不安そうに、歯切れ悪く言った。彼女の気持ちも分かる。はっきりとその言葉を口にしてしまうと、それが実現してしまいそうで怖いのだろう。

『敗北』の二文字。

 状況はまさしく、崖っぷちだった。

 一色以外の者からも、嫌でも感じてしまう。A組ベンチに漂う諦観の空気を。

「でもまあ、なんとかなるよ。ね?お兄ちゃん」

 凛子は軽い調子で俺にそんなことを言って、一色の右隣へと腰を下ろした。

「好きなものが一緒って、いいよね」

 なおも不安そうな一色に、凛子がぽつりと呟く。

「私はこのチーム、いいなって思ってるよ。大ピンチが好きなのって、私だけじゃないから。さっきの回の彩花ちゃんだってそうだし__小夏だって」

「……晴沢さん?」

 凛子は右打席に立つ晴沢を指差して、言った。

「小夏も相当だよ。小夏もまだ、何も諦めていない」

 3つの敬遠と痛烈な二塁打によって、長距離打者としての存在感を発揮し続ける雨地。

 しかしすごい打者と言うのなら、彼女も雨地に決して劣らない__晴沢小夏。彼女は浅間を相手に2本のヒットを放ち、打点も挙げている。

「小夏のバッティングは、もはや芸術だよ」

 チームメイトから期待を寄せられていることに気付いているであろう彼女は、しかしプレッシャーには押し潰されなかった。彼女が放つ強い打球が、投球後の浅間の足のわずかな隙間を抜け、センター前に転がる。球場とA組ベンチが湧いた。

 しかしここで、みんなは気付く。


 次の打者が__雨地が敬遠されるだろうと。


 浅間いつきは潔い。強い相手には敬意を払う。

 その敬意の形は、降伏。

 浅間は自分のチームを敗退させる危険性を高めてまで、自分の力が通じない相手に挑みはしないだろう。彼女は先ほども、雨地を敬遠していた。

 しかしそれは、浅間が努力を諦めるということにはならないはずだ。きっと彼女は強い相手に勝つために今後努力を重ね、今より何倍も力を付けて、リベンジすること自体を楽しむ性分だ。


 しかしそのリベンジは__今日の話ではない。


 ここで感情的になって、最後の最後に勝負を仕掛ける愚直さを、彼女は持っていないだろう。

 それはA組にとってもはや、終わりを意味していた。

 それでも嫌なキーワードを決して口にすることはなく、一色は縋るような顔で、なおもグラウンドを見ていた。

「心配しないで、彩花ちゃん。大丈夫だよ。きっとこの回で決まる」

 一色の背中をさすりながら、凛子は優しく言った。俺以外にこのベンチ内で雰囲気に飲まれていないのは、凛子だけだった。

「頼んだよ、お兄ちゃん」

 凛子は俺の側まで歩み寄り、ネクストバッターズサークルへ向かおうと立ち上がった俺の背中を押した。

「お兄ちゃんは、最後にはやってくれる男だから」


 ◯


 みんなの予想通り、雨地は敬遠された。

 浅間は若干悔しそうな顔を浮かべていたが、しかしチームでの勝利を優先した。それ自体に、悔いはないという顔付きだった。

 そして俺は迎える__最終打席。

 9回裏ツーアウト。

 ランナー、一・二塁。

 マウンド上の浅間が、不敵な笑みを浮かべる。彼女はきっと、こう思っていることだろう。


『お前には、打たせねーよ』


 俺は格下だ。

 浅間や雨地や一色などと比べて、間違いなく格下。

 一級品の才能を持つ彼女たちと比べてしまえば、明らかに実力は劣っているだろう。それは事実だ。

 しかし__だからと言って。

 それが負けてもいい理由にはならない。

 勝ちたい気持ちを、諦める理由にはならない。

「……ふぅー」

 バットを強く握り過ぎていたことに気付く。俺は一旦その手を緩め、大きく息を吐く。

 こんなことでいいのか、俺は。

 あんなに追い込まれていた一色が先ほどの回、見事復活を果たした。鴬谷は守備で魅せ、凛子はピッチングで球場を沸かせ、晴沢はヒットで繋いだ。

 みんなが回してくれた、サヨナラのチャンス。

 そんなチャンスを、今日のこの場で掴めないなんて__そんなの、嘘だよな。

 勝利の女神に良い顔を見せたいのは、栄だけではない。

 凛子だけではない。

 俺だって、同じことだ。


『頼んだよ、お兄ちゃん』


 ああ。

 その一言だけで、俺は。

 何でこうも__力が湧いてくるのだろう。

 胸が温かい気持ちに包まれる。

 格上の浅間を相手に、崖っぷちにまで追い込まれたと言うのに。

 凛子に背中を押されると、俺は、どこまででも行けるような気がする。

 マウンド上の浅間が、松嶋が出したサインに首肯する。浅間の左足が上がる。

 浅間いつき。

 1年E組の秘密兵器。

 お前は強い。

 お前たちは、強いよ。

 とにかくよく打つ、学年一のチーム打力を持つクラス。今日は、たくさん苦しめられたよな。今日の試合を通して学んだことがいっぱいあるよ。

 浅間の右腕から放たれた唸りを上げたストレートが、松嶋のミットをめがけ迫ってくる。

 お前は強い。

 お前たちは強い。

 何度でも言ってやる。嫌になるほど。

 だからこそ俺たちは、お前たちを越えていく。

 この試合で俺は強く思った。

 もっとみんなと、野球がしたいと。

 そのためにも、お前たちを越えていく。

 お前たちが。


 1年E組が__最初の壁でよかった。


 俺は左足を踏み込む。


 ◯


「よー、孝太郎。どうした?まどろむ柴犬みてーな顔しやがってよ」

 また一つ歓声を上げたメイングラウンドから少し離れたところにある自販機で買った炭酸の缶ジュースを飲みながら一息ついていると、首にスポーツタオルを掛けた浅間が現れた。彼女は握った小銭を自販機に投入し、俺と同じ缶ジュースのボタンを押す。

「いや、別に。疲れたな、と気を抜いてただけだよ」

 浅間は出てきた商品を取り出して、プルタブを開ける。ぷはぁうめー、と、缶ジュースが五臓六腑に染み渡る喜びを言い表した。

「はあーあ。にしても結局、6回投げて5失点かよ。おまけに敗戦投手だ。強キャラ感出しといてこのザマとは、アタシもまだまだだなー」

「ずいぶん自虐的じゃないか」

 自分ではそう言うが、今日俺たちは6回しか投げていない浅間を相手に、十個以上の三振を奪われている。こちらの5得点というのも、打線が上手く噛み合った結果である。

 たまたま勝てた、と言えば聞こえが悪いが、1年E組は十回対戦して全勝出来る相手ではない。もしもこれがリーグ戦のうちの一試合ならと『もしも』を考えると、結果はまた別のものになっていただろう。

「だってよ、まさかお前みたいな奴にまで打たれるなんて思ってなかったからよー」

「言ってくれるじゃないか」

 浅間は口を尖らせながら、勢いよく缶ジュースを流し込む。そんな勢いで炭酸飲料を飲んではゲップをしてしまうのでは、と心配になったが、そういえば浅間はそういうマナーに配慮出来る奴だったなと思い出す。

「……なあ、孝太郎」

「ん?」

 浅間はそれまでの気安い空気を一変させ、表情をフラットに戻す。

 そして彼女は、俺に問う。


「お前は__何者だ?」


 何者、というその問いに、俺は即答出来ない。

「最後の打席、明らかにお前の顔付きは違った__そうだな、言い表すとすりゃまるで、何かが憑依したみたいだった」

 質問を受けてから、若干の間を空けて、俺は答えた。

「……何者、か。決まってるだろ。絶好の大ピンチが好きな奴の、頼れる兄貴だよ」

「……はっ。なんだよ、そりゃ」

 わけわかんねー、と言いながら、浅間は缶ジュースを飲み干す。まだ三口しか飲んでいないというのに、ずいぶんハイペースである。

「それよか、試合は見ねーのかよ?まだ終わってねーぜ。2年対3年の試合だぞ。学年が違うと、データもそんなに揃ってねーだろ」

「そうだけどな…… でもまあ、もう次の相手は大方決まってるだろう。それにそこら辺は、俺よりよっぽど優秀な偵察班に任せてある」

「かーっ、それでも見とけよ、バカ。朧を見習え。分析をしろ」

「それを言われちゃきついな」

「まあでも、次の相手がほぼほぼ決まってるってのは、確かだな」

「ああ。次もきっと、苦しい戦いになる」

「泣き言言ってるわりに、顔は嬉しそうだな。ドMか?」

「うるさいよ」

 ひゃひゃひゃ、と浅間は快活に笑う。それと同時に、金属音が響く。浅間は視線をそちらに移した。

「じゃあ、まあ…… 頑張れよ、2回戦」

「ありがとう、浅間」

「いーってことよ」

 スマートフォンの着信音が短く鳴った。聞き馴染みの深い、チャット式の連絡ツールアプリの着信音だった。

「おっと、朧からだ」

「ラブコールか?」

「まあな」

 浅間は数秒スマートフォンを操作して、松嶋のメッセージに返答していた。その間に浮かべていた優しげな笑みが、印象的だった。

「孝太郎。お前、まだ残るか?」

「ああ。もう少しだけ」

「そか。そろそろアタシは行くわ」

「ああ、またな」

「おう。つっても、大会期間中は試合観てっからよ。顔見たら声掛けてくれや」

 んじゃな、と浅間は踵を返し、勇ましく去っていく。その後ろ姿を眺めながら、俺は先ほど浅間から言われた言葉を思い出した。

「……憑依、か。確かにそんな感じかもな」

 先ほど浅間にたしなめられてしまった通り、少しでも情報収集をしなければならないことは確かだ。

 しかし今は。

 今だけは。

 一人でいたい__そう思う。

 自分の両手のひらを見ながら、閉じて、また開く。

 人のそれより、大きな両手。

 俺がこの力に気付いたのは、中学1年の夏。中等育成校に進学し、本格的に野球がメインの生活になってからだった。ある日の試合後に、凛子から指摘された。

「前から思ってたけど、お兄ちゃん、顔変わるよね」

「……顔?」

「正確には表情、かな」

 今日の、対1年E組戦の最終打席時のような状況になると、どんなに不利な状況でも力が湧いてくるということが、過去にもあった。そして凛子に背中を押されると、より一層その効果は増す気がする。

 どういう原理が働いてそうなるのかは、正直俺自身よく分かっていないが__

 キィン、という大きな音が響き、メイングラウンドから歓声が湧いた。1回戦第2試合もそろそろ終盤だ。きっとあの打者が、またホームランを放ったのだろう。俺はこの後の試合展開を予想する。

 その打者がホームランを放った裏の回、あの投手が相手打者を全く寄せ付けることなく、危なげなく勝ちを決めるだろう。俺が見ていたのは7回裏の途中までだったが、その時にはもう試合は一方的だった。

「……やることは、山積みだな」

 次の相手は、どちらに転んだとしても上級生。

 2回戦は、一週間後。

 焦っても仕方がない。やれることをやるだけだ。

 俺は浅間より多い回数で缶ジュースを飲み干す。カゴ型のゴミ箱に向かってそれを投げる。カコン、という小気味の良い音を鳴らしたことを確認して、俺はメイングラウンド方向に歩みを進めた。

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