第18話 魔球ファントムボール
「んじゃあお望み通り、満塁ホームランといこーじゃねーの!」
左打席に立った栄がそんなことを言いながら、威圧的かつ挑発的に、バットをブンブンと振り回す。まるで自分が世界の中心、物語の主人公であると信じて疑わないといった顔付きだった。
その様子を眺めている凛子はしかし、『おー、元気いいなあ』ぐらいにしか思っていないことだろう。凛子は幼少期から、やけに肝の据わった性格だった。凛子ほど威圧や挑発が通じない相手もいない。
凛子は俺が示したサインに首肯し、セットポジションに入る。凛子の左足が上がる。何百回、何千回と見てきた双子の妹の狂いのない、リラックスした綺麗な投球フォーム。それに乗せて、しなやかな右腕からボールが放たれる。
「ボール!」
第1球、緩い球が高めに外れる。そして第2球、第3球とも、ストライクゾーンを大きく外れるボール球だった。ボールカウント、ノースリー。
「……なあ、西岐」
左打席でバットを構えたまま、首だけでこちらを覗く栄。その顔は、やや困惑の色を帯びていた。
「なんだ?」
「オレさまはよ、ド派手な満塁ホームランを打ちてえんだよ」
「そうか」
「そうか、って……」
いつも得意げで慌ただしい栄が、初めて心細そうな顔を見せる。
「いやいや!あいつ、コントロール悪過ぎだろ!?大口叩いたわりに、一球もストライク入ってねえぞ!?あんなに外れてちゃ、さすがのオレさまも打てねえよ!どうした!?ビビってんのか!?」
感情を爆発させるように、栄はそうまくし立てた。
「勘弁してくれよ!押し出しで1点追加なんて、地味過ぎるじゃねーか!あんな言い合いをした結末が、こんなのでいいのか!?」
「大丈夫だ。そうはならないよ」
そう__大丈夫。
俺はそれ以上、言葉を発さなかった。
そんな俺を見かねた栄は矛先を変え、マウンド上の凛子の方を向く。
「来いよ、絶好球…… 絶好球…… 絶好球……」
そんな呟きが、栄の口から漏れ出す。
そして放たれる__第4球。
「……絶好球!」
そう言いながら右足を踏み込んだ栄は、思い切りバットを振り抜いた。凛子が放ったその球は俺のミットに届くことはなく、大きな金属音を鳴らす。
誰もが目で行方を追ったそのボールは、しかしある地点から先へ進むことはなかった。
打球の先には、晴沢。
晴沢は定位置より少しホーム寄りの守備位置から一歩も動くことなく、真正面に飛んできたその打球をキャッチした。火を吹くようなその打球はセカンドライナーに終わる。ランナーは、あまりの打球の速さに反応が遅れてスタートしていない。
凛子が、ひゅう、と軽快に口笛を吹く。
「おー、すごい音だねー。焦った焦った。たまたま小夏の真正面に飛んだけど。いやいや、運が良かったよー」
「あー、くそっ!」
アウトが宣告され、ベンチへと下がっていく栄と入れ替わるように、2番の暗持がこちらへ向かってきた。
「……クソ単細胞野郎」
「わりーわりー、絶好球だったんだけどな」
すれ違いざまに栄の肩を拳で打つ暗持。「いてて、怒るなよ」と栄は打ち取られたことに対し、大して悪びれる様子もなく、暗持を軽くいなした。
「よう、暗持。今回は栄を叩くんだな」
「……毎度毎度、ことあるごとに馴れ馴れしく話しかけんじゃねえ。俺はお前のお友達になった覚えはねえぞ。このゴリラ野郎」
友達でもない相手に毒舌な暗持は、以前よりも強い『話しかけんなオーラ』を前面に押し出す。状況が状況だから無理からぬ話だ。
しかし俺は、話すのを止めない。
「お前はどう見る?ゴリラ野郎とは似ても似つかない、可憐な妹のボールを」
本当に、良い憎々しげな顔をする暗持だった。『喋り掛けるな』と言って、なお馴れ馴れしい俺に対し諦観する気持ちもあるのだろう、暗持は半ば呆れたように返答する。
「……さあな。どっかの馬鹿が馬鹿みたいに打ちにいくせいで、見極められなかった」
それだけ言って、暗持はマウンドを向く。もうこれ以上話すことはない、という力強さを感じた。
「じゃあ、よく見てるといい。よく見せてやる。ゴリラ野郎の妹のとっておきを」
しかし俺は言う。
たとえ暗持本人に聞く気が無かったとしても、彼の耳に届く声量で__
「威力抜群の魔球を」
彼がこちらを向かざるを得ないことを言う。
目論見通り、暗持が再度俺の方を睨む。より一層訝しむ表情を強めていた。
「……魔球?お前、魔球って言ったか?」
「ああ、魔球」
「……試合中に寝ぼけたこと言ってんじゃねえ。起きとけ」
「バッチリ起きてるよ。寝言じゃないって」
「……何の冗談だ?」
「だから、冗談じゃないよ」
やはり暗持は栄とタイプこそ違うが、分かりやすい男だった。あんなに俺のことを突っぱねていたのに、魔球に興味津々である。
「冗談かどうかは自分の目で確かめるといい。暗持みたいなタイプは、自分の目で見た物じゃないと存在を信じないんじゃないか?それとも意外と、迷信とか信じる方なのか?」
「……」
押し黙った暗持から『余計なことを喋った』と言いたげな雰囲気を感じ取った。暗持は一度深呼吸をして、今度こそ凛子を見据える。俺ももう、それ以上は喋らない。
凛子が再び投球動作を始める。先ほどと寸分の狂いもないフォームで、腕を振り抜いた。
暗持が凛子を注視する。
その機微を分析しようと。
魔球の正体を解明しようと。
そして、最後まで見届ける__ミットに収まった、その球の軌道の全てを。
「な……」
ぽすん、と。
素手でも捕れそうな、ともすると小学生でも打てそうなスローボールは、緩やかな弧を描き、俺が低めに構えるミットに収まった。ふわっとしたその緩い球に釣られてほんの一瞬静まり返ったグラウンドが、主審によりストライクが宣告されたことで再び動き始める。
「……クソゴリラ」
俺は凛子にボールを投げ返す。
「まあ、そう焦るなよ。暗持が凛子の魔球に気を取られているものだから、裏をかかせてもらっただけだ」
「……」
「安心しろ。次は見れるよ。凛子の魔球」
「……テメーとは、もう喋らねえ」
ここまでの暗持の様子を見て、俺は『次も見送るだろう』という確信をする。神経質な暗持が、神経質だからこそ陥る今の心理状況は、凛子を相手には分が悪い。
「ストライーク!」
決して打ち急ぐことをしない慎重派の暗持は、やはりここでも打ち急ぐことはなく、2球目の何の変哲もないスローボールをあっけなく見逃した。先ほどと、全く同じコースであったにも関わらず。
「ツーストライクだ。悪いな、暗持」
先ほど『もう喋らない』と宣言した通り、暗持が口を開くことはなかった。口を開きも、こちらを向きもしなかったが、俺には暗持が思っていることや浮かべている表情が安易に想像出来る。
「ストライク!バッターアウト!!」
高めのボール球を空振った暗持が、苦虫を噛み潰したような顔で、心の中で『クソゴリラ』と呟いた様子は直接見るまでもなく、俺の頭の中でくっきりと再生された。
「打ち気ムンムンの栄くんを相手にノースリーを与えて動揺させたところで、ど真ん中から球一個分内に入るカットボールで打ち取って」
右打席に入った松嶋が、穏やかな顔で俺に語りかける。
「ゲッツーの危険性を考慮して、いつも以上に慎重になった暗持くんをあざ笑うかのようにスローボールを続けて追い込んだ後、高めのストレートで空振りを誘う…… いやはや、大胆不敵。よほどの確信がなければ行えない戦術…… さすがですね」
「お褒めに預かり光栄だよ、松嶋」
「何を言ったんですか?」
賞賛を受けて弛緩していた俺に、松嶋はそんな疑問を被せた。
「暗持くん、とても不愉快そうな顔をしていましたよ。彼に何を言ったんです?」
「魔球だよ」
「……え?」
「威力抜群の魔球がある。そう言ったんだよ」
「……あはは、魔球ですか!」
俺の言葉に、おかしそうに笑い声を上げる松嶋。普段の柔和な笑顔については散々触れたが、思えば今のように思い切り笑う姿というのは、初めて見るかもしれない。
「それは面白いですね。暗持くんもあんな顔になるわけです」
「だろ?」
「見たところその魔球とやらは、先ほどは投げていなかったようですけれど。果たして松嶋は、その魔球を拝むことが出来るのでしょうか?」
「まあ、楽しみにしといてくれ」
◯
『やっと、いつきちゃんが輝けます』
松嶋は先ほどそう言った。
校内戦とは名前の通り、天望学園の生徒のみが参加する大会である。印象の大小はあるだろうが、要するに対戦相手は、みんな顔見知りである。
同学年であれば校内戦以前に各クラス同士で練習試合が組まれるし、練習試合が組まれない別学年にしたって、2・3年生であれば、過去の試合の結果を図書室で閲覧することが出来る。そこから精密な分析をするとなると各々の手腕が問われるが、データを集めることそれ自体は難しいことではない。
しかし当然ながら、1年生のデータは少ない。この学校内での試合数自体、2・3年生と比べて圧倒的に少ないからだ。
だから最初から、練習試合やお披露目会で全ての戦力を晒してしまうのは悪手とも言えるだろう。本番は年に二回、夏と冬にあるのだから。
だからこそE組はピッチャーとしての浅間を隠した。来たるべき日に備えて、浅間は自分の気持ちを抑えた。そんな浅間とずっと一緒にいた松嶋だ。浅間がようやく己を解放出来ることが、嬉しいのだろう。
凛子も自分の中で納得した上で、己の存在を隠した。
しかし凛子も、こんなことを言っていた。
『降りるのは、エースの座からって意味だよ』
決して目立つことが嫌いではない凛子が、一色にエースの座を譲る__それは凛子にとって、きっと大きなことだっただろう。
しかし凛子はショートへの転向を決めてからも、まだピッチャーを諦めてはいなかった。むしろここぞというタイミングで正体を明かし、周りを驚かせてやろうと息巻いていたほどだ。
「私、楽しみなんだよね」
校内戦開幕の数日前。凛子は俺の部屋に上がり込み、自由きままにゴロゴロしながら言った。
「優勝まで危なげなく進めるとは到底思えないから、私が登板する可能性も高いじゃん?」
「だろうな」
「それに、初戦からE組が相手だし。練習試合で大差で勝ったとはいえ、それで終わる人たちだとは思えないんだよねー。だからきっと、どこかで私は引っ張り出されると思うんだよ」
見ようによっては弱腰とも取れるそんな発言をする凛子は、しかし全く弱気な顔をしていなかった。肩を震わせ、笑いをこらえてさえいた。
「どうした?にやにやして」
「いや、ワクワクしてきてさ。またお兄ちゃんを相手に投げることが出来るかも、って」
「ああ、そうだな」
「……とか言って、お兄ちゃん?彩花ちゃんみたいにかわいー女の子に気を取られて、双子の妹ちゃんなんかのことはとっくに忘れちゃったんじゃないの?」
「とんでもない」
元々俺は、凛子の球を捕るためにこの学校に来たのだ。
いくら一色のストレートが素晴らしく、魅了されたとは言っても__キャッチャーとして凛子と向かい合う楽しさを、忘れたことはない。
俺も凛子と同じで、ワクワクしていた。
やっと凛子が輝ける。
そんな気持ちが、俺の中にだってある。
「ストライーク!」
栄は凛子のことを、『コントロール悪過ぎ』と評した。
しかし__それは逆。
凛子ほどコントロールの良い投手もいない。
コントロールが悪い投手がコントロールをよく見せるのは難しいが、コントロールが良い投手は球を散らすことで、コントロールを悪く見せることは出来る。大は小を兼ねる。少なくとも、栄は騙されていた。
凛子にとって制球力は生命線だ。
浅間はストレートや曲がりの大きなカーブが派手で目立つが、そもそもそれを支える制球力はしっかりしているし、桃山田も敬遠以外では、そこまで四球が多いタイプではない。
しかし凛子は__それすらも凌駕するだろう。
恐らく的当てのような制球力を競うゲームで勝負した場合、凛子は負けない。その培われた制球力が、ショートの守備での正確な送球にも繋がっている。
現に今ツーストライクを取った球も、内角高めギリギリに決まっていた。俺は構えた場所から少しもミットを動かしていない。それほどまでに、正確なコントロールだった。
「なるほど…… 大まかですが、凛子さんのタイプが分かりました」
カウントをツースリーのフルカウントとしたところで、松嶋がそんなことを呟いた。
「卓越した制球力と、多彩な変化球…… カットボールやシュートなど、バットの芯を外す球種がお好きのようですね。でも、それ以上に怖いものがあります」
「なんだ?」
「常に平常心で、どんな時でもニュートラル__あんなに目立った後でも、決して揺らがない。あんな緩い球、並の神経のピッチャーには投げさせられませんよ」
松嶋はそう言って、苦笑した。
「いつきちゃんのように、強固なメンタルで正面から全てを迎え撃つというよりは、どんなものでも受け流す、まるで達人のような佇まい…… 一切の波も立たない、静寂に包まれた水面…… そんな印象を受けます」
凛子がこの回に投じたわずか12球ほどで凛子の投手としての性質を看破するのは、さすがと言うべきだろう。
「そして、魔球…… それが本当に存在するのか、まだ分かりません。まだ投げて頂いてませんし…… 松嶋では役者不足なのでしょうかね?ともかく、その不確定要素は迷いを生みます。そして彼女は、松嶋たちみたいなチームに強い__良くも悪くも、E組のメンバーは大半が単純なタイプですから。あんなに飄々さが堂に入っている凛子さんには、手玉に取られてしまうのも仕方のない話です。そして、それを支える孝太郎さん、ですか…… 本当に良いコンビですねえ。敵チームじゃなければ、もっと好きになれたのに」
「残念だよ。敵チームで」
凛子の左足が上がる。凛子の第8球、外角低めのストレートを松嶋は見逃す。コーナーギリギリいっぱいに決まる速球。
「本当に、素晴らしい双子ですよ」
嫌になるほど__と松嶋は眉をひそめた。
試合中に初めて、彼女の笑顔以外の表情を見た瞬間だった。
◯
「魔球?」
ベンチで水分補給をする凛子に手短に事のあらましを説明すると、彼女は心底おかしそうに笑って言った。
「なるほど…… さすがはお兄ちゃん。面白いこと考えるねー」
「だろ?」
そこで凛子は腕を組み、目をつむる。何やら思案しているようだった。数秒後に目を見開き、右手の人差し指を立てて言う。
「存在そのものが幻影の魔球…… さしずめ、『ファントムボール』ってところかな?」
どうやら、今日新たに誕生した魔球の名前を決めていたようだ。
ファントムボール。
「いかにも中学生が好みそうなネーミングだな」
「あははー。こういうの、好きなんだよねー。ちゅーにってやつ?やったぜ、これで私も魔球ピッチャーだ!」
燃えることも消えることもない上に、ピッチャーである当の凛子さえ存在を知らなかった魔球。
存在しない魔球。
こちらが要求した注文通りに、完璧に応えられる制球力を持つ凛子だから出来る芸当。口から出まかせの見せかけ。舌先三寸口八丁。
要するに__ハッタリである。
暗持に『冗談だろ』と言われ、『冗談かどうかは自分で確かめろ』と言ったにも関わらず、その実本当に冗談だった魔球であった。
◯
マウンド上には、変わらず浅間__しかし、絶望的とは思わなかった。いくら相手が浅間とは言え、A組の上位打線は負けていない。
打席には、凛子。
大口を叩き、場をかき乱し、そして宣言通り大ピンチをモノにした凛子。
凛子は何事においても器用な選手だ。それは、バッティングに関しても言えることだった。
そして何より__波に乗り始めると強い奴だった。
浅間の外角への速球を、逆らわず右に流す。打球はファースト・猿谷の頭上を越えてライト前に落ちた。
続くバッターは晴沢。
学年一の巧打者。
読んで字のごとく、巧みな打者だった。
凛子のことが大好きな晴沢が、凛子のこれまでの活躍を見て後に続かないわけがない。奮起しないはずがない。曲がりの大きいカーブにバットを合わせ、ヒットを放つ。打球はセンター前に転がった。
そして__雨地。
雨地が打席に立つ前…… いや、浅間が登板した時から、俺は思っていた。
雨地と浅間、どちらが選手として優れているのだろうかと。
事実、雨地との勝負を二打席分避けていたのは桃山田である。雨地と浅間が向かい合うのは、これが初めてだった。
松嶋は勝負を選んだ。自分が信頼する浅間が、雨地にだって負けないという自信があったのだろう。
松嶋が『怪獣』と称した二人の対決は、しかし一方的な幕切れとなる。
その打球に、誰もが息を飲む。
外野のフェンスが凹むんじゃないかと思わせるほど強烈な、弾丸ライナー。それは凛子と晴沢を、ゆうゆうホームへ生還させた。
大きな歓声の中、浅間も今日初めての表情を浮かべる__動揺。
それも無理はない話だ。こうも完璧に、痛打を食らっては。
一方の雨地が二塁上で浮かべていたのは、あの顔。
凍てつくような、《無》の無表情。
彼女はE組の秘密兵器・エース浅間に対しても全く感情を表さなかった。
その後の浅間は、結果的にはそれ以上の失点はなかったものの、二つの四球を出す。だが俺も含めた三人の打者が、力押しで三振に倒れる。その迫力に気圧される。
しかし、マウンド上で雄叫びを上げる浅間は、明らかに荒れていた。
「うわっと!」
投球だけでなく打撃においても、浅間が荒れていたのは顕著だった。力んだフォームで凛子のストレートを打ち返す。打球は凛子の真正面へ凄まじい勢いで飛んだ。
しかし、凛子のフィールディングは言わずもがな__最高であった。
顔面に迫る、火を吹くようなその打球を、凛子は難なく捕球する。4番から始まる7回表を、三者凡退に仕留めた。
「凛子ちゃん、すごいね」
ベンチに戻った際、一色が凛子にそう話しかけた。
「あははー、ありがとう」
凛子は嬉しそうに、そうお礼の言葉を言った。
「ほんとに、すごいね。わたしなんか、今日、全然だったのに」
「それは違うよ」
凛子は一色の背中に手を置いて、優しく言う。
「私には彩花ちゃんみたいな、飛び抜けた武器がないからさ。こうやって、持ってる道具を駆使するしかないんだよね」
一色はその時、何を思ったのだろう。どこまでも軽い調子でそんな言葉を残し、ネクストバッターズサークルに歩みを進める凛子。その背中を、一色はしばらく、じっと眺めていた。
◯
浅間はイラついていた。
思い通りにならない展開に。
1番の鴬谷に四球を与えたことを皮切りに、凛子が送りバントで鴬谷を進塁させ、晴沢がタイムリーヒットを放つ。
そして打席には、雨地__しかし今度は、その対決は行われなかった。
どこまでも勝気だった浅間が初めて見せた、悔しそうな顔。ギリ、という歯ぎしりの音が聞こえてきそうだった。
松嶋は立ち上がる。敬遠だった。桃山田が投げていた時にしていたような、座ったままの敬遠ではなかった。
回避。
逃避。
忌避。
とにかく少しでも、リスクから遠ざかりたいという強い気持ちを感じる。浅間は松嶋に従い、雨地のバットが届かないボールゾーンに4球スローボールを投げた。E組バッテリーが雨地に対し、敗北を認めた瞬間だった。
しかし敗北を認めたのは、雨地に対してのみ__俺に対しては変わらず猛威を振るう。登板時よりもコントロールを乱していたのは明らかだったが、それでも俺と後続を打ち取るには問題ない力だった。
しかし、この回。
4点差があったスコアも今や__1点差まで縮んでいた。
だがE組も、ピッチャー凛子にやられっぱなしではなかった。そこは学年一のチーム打力を持つクラスである。
8回表。
凛子の球は、スピード自体はE組の桃山田と同程度だ。一色や浅間のように、ストレートでバンバン空振りを取れるタイプではない。だから一定以上の腕を持つ相手には決して対応出来ない球ではないし、分かっていても対処のしようがないという類いの球ではなかった。
8番の築地が本日3本目のヒットを放ち、9番バッターがその築地を送りバントで二塁へ進める。
ツーアウト二塁のピンチ。
そして打席には、本日5度目のあの男。
「絶!好!球!だ!オルァァァ!!」
栄が叫ぶ。
フルスイングを放つ。
そして、打球が転がる__ライト前。
「っしゃあああ!!」
それは、凛子からヒットを放ったこと自体への雄叫びでもあっただろう。それに加え、凛子は言っていた__ライトには絶対に打たせない、と。
しかし栄は、凛子のそんな宣言を砕いた。見事打ち破った。
思えば練習試合の時だって、栄は凛子に苦汁を舐めさせられていた。栄のヒット性の打球を、凛子にファインプレーで阻まれたシーンもあった。今日だって6回表に、ノーアウト満塁の大チャンスをモノに出来ず、凡退に倒れたシーンもあった。
目立ちたがり屋の栄にとって、同じポジションであり守備の名手である凛子のことは、気に入らない存在だろう。
だからこそ彼は雄叫びを上げた。
だからこそ彼は得意げになった。
最後の最後で、してやったとガッツポーズを作った。
『絶対にライト方向には打たせない』という凛子の宣言を砕き、凛子に恥をかかせたことを喜んだ。
しかし、俺は知っている。
叩いた大口を砕かれたところで、凛子は折れない。
凛子は揺らがない。
松嶋の言葉を借りるなら、どんな時でもニュートラル。
それすらも計算のうち。
恥をかくことさえ戦略。
二塁ランナーの築地が三塁を回る。決して遅くない足を持つ築地がホームに突っ込む。転がる打球を、ライトが捕球する。
ライト。
右翼手。
そこにいるのは__小さな豪腕。
凛子は知っている。
凛子と一色は、休みの日に二人きりで遊びに行くようなレベルの仲良しではないが、それでも基本的に関係は良好だった。多少なりとも凛子は、一色の性格を知っている。
自分がE組と渡り合う場面を、一色が大人しく見物出来る性格ではないことぐらいは__知っている。
「教えてやれよ、一色。お前がここ一番の時に投げるストレートが、完膚なきまでに最高だってことを」
ライトから矢のような返球がホームに返ってくる。その返球は雄弁に語る。
『負けたくない』
『わたしが一番だ』
『敵だろうと味方だろうと__わたしのストレートは、誰にも劣らない』
そういった、一色の気持ちがこもった一投。先ほどまでの、不安な顔をしていた一色では投げられなかった一投。
絶対に捕りこぼしてたまるか。
俺はその球を捕球し、クロスプレーに突入する。
松嶋の柔和な笑顔。
浅間の勝気な笑顔。
凛子の余裕な笑顔。
この試合では色んな奴の、色んな笑顔を見てきた。
でもまだ今日、見れていない顔があるよな。
それを今ようやく、見ることができた。
「やっぱり一色は、最高のパートナーだよ」
一色彩花。
喜怒哀楽がころころ変わる、見てて飽きないA組のエース。
彼女にはやはり、この四字熟語が似合う。
天真爛漫。
夏の陽射しで輝いていたその笑顔を__俺は生涯、忘れることはないだろう。




