第17話 凛子の好きなもの
音が聞こえる。
とても、小さな音。
嫌な音だ。
しかしその小さな音は確実にこちらに向かってくる。
大きくなってくる。
すぐそこまで、迫ってくる。
逃げ出したい衝動に駆られる。
しかし、その音は現実のものではない。
頭の中で鳴る想像上のものだ。
そしてその音を発していたものが、ついに姿を現わす。
わずかな隙間を縫って流れ出てくる。
響く。
静かに響く。
しかし確実に__近づいてくる。
何かに例えるなら、それは徐々にダムが決壊し、物凄い勢いの水がそこから流れてくるかのようなイメージだった。
静かで。
激しい。
その音の正体を、俺は知っていた。
1年A組エースピッチャー。
一色彩花。
彼女が__瓦解する音。
◯
一色の球筋は、捉え始められていた。
まずは8番の築地。
向こうの戦術は変わらない__待球作戦。
ツーストライクに追い込まれるまで手は出さず、一色の球数を増やす戦法。
E組の目論見通り、一色は疲弊によって、コントロールが定まらなくなってきた。俺はやむなく要求する。『多少甘めでも、全力で投げ込め』と。
しかし、これが上手くいかなかった。
甘いコースに放たれる__すっぽ抜けたストレート。
築地は脇を締め、コンパクトにスイングをする。打球は三遊間を抜けてヒットとなった。
マウンド上の一色の、滑り止め用のロージンバッグで手に粉をまぶして地面に捨てる挙動は、苛立ちを隠せないでいる様子だった。
「絶ッッッ好球だうるぁぁぁ!!」
俺たちとの試合で通算三度目となる栄の叫びも、しかし前の二回ほど楽観的には聞けなかった。
栄の気合の入った一打は、この打席で始めてフェアグラウンド内に転がる。速度も角度も、ヒット性の打球だった。
しかし飛んだのは、ショートの凛子の守備範囲。
ショートへの深い打球を、凛子は体勢を崩しながらも、腕を伸ばして捕球する。そして素早く身体を反転させ、セカンドの晴沢に送球した。それを受けた晴沢が一塁に送球し、ダブルプレーを狙う。
「うらっしゃぁぁぁ!!」
しかし、ここでも栄は叫ぶ。
彼はそう雄叫びを上げながら、一塁ベースを駆け抜けた。結果はセーフとなり、ランナーが築地から栄に替わる形となる。
これでツーアウトとなったが、栄が足で揺さぶりを掛けに来た。初球から果敢に二塁を狙う栄。暗持の空振りによるアシストもあり、盗塁を決められてしまう。
そして、今まで一色のストレートを苦手としていた暗持にも待球の末に安打を打たれ、続く松嶋にも四球を与えてしまう。
ツーアウトながら満塁のピンチ。
打席にはE組の4番。
先ほどの打席で、先取点を奪った男。
太丸円。
彼が放ったその快音__しかし俺たちA組には、耳をつんざく不快な音だった。
きっとA組の全員が、嫌な感じに襲われたことだろう。
視界がぐにゃりとねじれるような。
身体の内側を掻き回されるような。
一色が投じた球は決して悪い球ではなかった。
並の打者なら対応出来ない、外角低めへの速球。それをものともしなかった太丸のバッティングを、完璧だと褒めるべきだろう。打球はセンター方向へとぐんぐん伸びてゆく。
しかし__天は俺たちを見放さなかった。
そう。
打球が飛んだのは、センター方向。
それに、4番の太丸を相手に、外野後退の守備シフトを敷いていたことが幸いした。
そしてその打球を追うのが、彼女。
大人しそうな顔をして、実際に大人しい彼女ではあるが、4月の体力測定の短距離走で、見ている連中全員の度肝を抜いた彼女。
俊足のセンター。
鴬谷美空。
『お手本のような』という言葉は、彼女が書く字だけではなく、その走法にこそふさわしい。鴬谷の走りには、一切の無駄がない。
彼女は打球から目を切り、全力で走る。その勢いが衰えることはない。落下予測地点がどこにあるか、彼女の頭の中には完璧に映し出されているのだろう。
後ろ髪で結った三つ編みをたなびかせながら、鴬谷は誰よりも早く地を駆ける。
そして右足を踏み込み__美しく空を飛ぶ。
ウグイスが羽ばたく。
鴬谷が伸ばした左手のグラブに、打球が収まった。
羽根がひらりと地面に落ちるように。
鴬谷は、優しく着地する。
軽い足取りで減速し、数歩進んだところで、鴬谷は利き手である右手で外野のフェンスを触り、動きを止めた。その華麗な所作に見惚れていたであろう観客たちが、時間差で歓声を上げた。
一色の球があとほんの少しでも浮いていれば、スタンドインは免れなかっただろう。鴬谷の走力と、一色の気迫が成したファインプレー。
5回表を無失点で切り抜ける。
しかし、そこまでだった。
5回裏のマウンドに立つ投手。
E組のエース、浅間。
目の前でそんなファインプレーを見せられて、彼女が瞳に炎を灯さないはずがなかった。
その回は圧巻だった。
最高球速こそ好調時の一色ほどではないが、重くてキレのあるストレート。
変化の大きなカーブ。
そのコンビネーションをもって、A組に力の差を見せつける。8番から始まるA組打線を全く寄せ付けない。
三者連続三振__わずか11球で、その回を終える。
そして6回表の守備。その浅間が右打席に入る。
「孝太郎。おめーらは、バカだよ。大バカもいいところだぜ」
「……辛辣だな」
「だってよ、練習試合の時にあんなに大暴れして、手の内晒してよ。そんな様を、朧に見られちゃおしまいだ」
あいつはすげーぞ、と浅間は続けた。
「人のこと、本当によく見てやがる__中学時代に伸び悩んでたアタシが、あいつの指摘で投打のフォームを改善したらよ、今までより段違いに成績が伸びたんだぜ」
面白そうにそう笑う。
懐かしそうに目を細める。
その表情はとにかく穏やかだった。
先ほど彼女が発していた威圧感が、今は全く感じられない。
今はただ、純粋に、友達を誇っているかのようだった。
「朧がいたからアタシはここまで来れたんだ。親友ながら、朧はすげえ奴だよ。そんな朧が調べた一色の性格、癖、配球パターン…… それだけじゃねえ。エースの一色だけじゃなく、どの打者がどのコースを好むか、嫌うかまで、徹底的にまとめてたぜ。見事の一言に尽きるぜ、ったくよお」
浅間はそこで穏やかな笑みを絶やし、マウンド上の一色を見やる。
「そんな朧が立てた策__見事に決まったと思うぜ。一色が疲れ切ってんのは明らかだ…… 練習試合の時の方が、よっぽど恐ろしいピッチャーだったよ、あいつは」
一色の第1球を、浅間は動くことなく見送る。ストレートが外に外れる。
「一色本人とは喋ったことねーけど、あいつ多分、中学時代までストレート一本でやってこれてたんじゃねーかな。練習試合の時も、自分のストレートに自信を持ってる顔してた。誇りであり、矜持であり、プライドでもある__何よりの武器だったんだろうよ」
一色の第2球。浅間はバットを振らない。
高めに外れるストレート。
「だが、それ以外は正直、お粗末と言わざるを得ねーよな?少なくとも、この学校で天下を取れるレベルじゃねー。認識する限り変化球も投げれねーし、コントロールにもムラがある。緩急を付けるためのスローボールも、どうせ覚えたてだろ?『スローボールを投げますよ』ってぎこちねえフォームしてるのが丸分かりだ」
確かに一色のスローボールは、彼女が俺と出会ってから習得したものだった。入学当初の一色は、ストレートで相手をねじ伏せることだけに固執していた。
「そしてあいつは、打たれ弱え。無失点で、自分の力を発揮している内は、そりゃあ意気揚々としたもんだったぜ。それは練習試合で十分に分かった。でも今みたいに崩れつつあると、途端に覇気がなくなりやがる。さっきの回の、円へのストレートで、きっとあいつは力尽きた」
一色が投球フォームを始動させる。わずかではあるが、いつもよりフォームが縮こまってしまっていた。それに、ボールをリリースする時の一色の顔。
強張っていて__全く余裕がなかった。
「唯一の武器をへし折られた一色は、全然怖くねえよ」
金属バットが響く音。
浅間は内角球を強烈に引っ張り、レフト側のフェンス際まで打球を飛ばす。浅間は楽々と二塁へ到達した。
「ケ。あの一色ッて奴も、案外もろいンだな」
野性味を感じさせる独特なイントネーション。
E組6番の猿谷紀伊は、その長い腕を活かし、外角低めのストレートを捉える。打球は右に流れ、ライトの前方に落ちる。やや浅めな打球ではあったが、二塁ランナーの浅間は三塁を周り、ホームに突っ込む。ライトからのバックホームも虚しく、浅間はその走力をもって生還した。
3対0。
「やはり、今日の一色は不調なのです」
続く7番、湾野を歩かせる。
今度はベンチではなく、一塁に。
やはりここでも、湾野はバットを振らない。
しかし、一色も__ストライクが入らない。
四球。
「やほやほ、西岐ー。また会えて嬉しいよ」
たれ目の彼女は、気の抜けた声でそんなことを言った。
8番レフト、築地雉穂。
「俺もだよ。愉快で仕方がない」
築地も常に笑顔を浮かべるタイプだが、人の良さそうな松嶋の笑みとは少し異なり、彼女は気の抜けたような、全体的に緩んだ感じの笑顔をする。
「私の軽口に乗ってくれるのはありがたいけど、顔はあんまり愉快そうじゃないねー。て言っても、西岐はあんまり顔が変わんないタイプだから、なんとなくそー思うだけだけど」
「お前もあんまり、表情変わらないよな。ずっとそんな感じだ」
まあねー、と築地は笑い、一色が投じた1球目を見逃す。ストライクが宣告された。
「まあ西岐にしろ、一色ちゃんにしろ、そんな辛そうな顔してまで頑張らなくてもいいんじゃないのー?スポーツだよ、所詮はスポーツ。負けても死なないよー。それに在学中にまだ5回も大会はあるんだし、これが全てじゃないと思うよー」
「……俺たちの根幹を揺るがすようなこと、言うなよ」
「あちゃー、もしかして地雷だった?ごめんごめん。そいつは失敬」
築地はまるで他人事のように言うのだった。この学校で、この大会に参加している者なら、『所詮はスポーツ』と簡単に割り切れはしないだろう。
「いやー。それにしてもなんか、すごい盛り上がってるねえ。すごい熱気だー。さすがは私立てんぼーがくえん。あたみんにスカウトされてよかったなー、などと、ちーちゃんはしみじみ思うねー」
「……さっきから、他人事みたいに言うんだな」
「他人事だよ」
その一言は、やけに鮮明に聞こえた。
気の抜けるような声で、緩んだ感じの笑みのまま__しかしハッキリと、そう言った。
「私にとってはね、ぜーんぶ他人事。みんなが何で、そうまでして熱くなっているのか分かんない。本当に分かんない。だからこそ、知りたいって気持ちもあるんかねー」
「……お前は、何が言いたいんだ?」
「さあ?私の言ってることには意味があるかもしれないし、ないかもしれない。あると見せかけてないかもしれないし、ないと見せかけてあるかもしれない」
「どっちなんだよ」
「さあねー。それは私にも、分からないよん」
飄々と答える築地を前に、俺は暖簾に腕押ししているような感覚に陥る。
「にゃはは。でもちーちゃんは、楽しいことなら何でも好きだよー。だって、楽しいことは楽しいし。楽しくないより、『楽しい』は楽しい。楽しいがずっと続くなら、それでいいって思ってる」
そんでもって、今のこの状況はとっても楽しい__緩んだ笑顔のまま、彼女は言った。
「私は野球になんて興味はないけれど、このまま勝ち進むのはきっと、もっと楽しいのかもね」
彼女はコンパクトなスイングで、今日2本目のヒットを放つ。二塁上の猿谷が生還した。4対0。そして、続くE組の9番にも四球を与える。
終わらない__6回表。
「うはははは!もはや決まったな!」
ノーアウト満塁で、打順は1番に戻る。左打席に立つ栄が、右手で持つバットの先端部分をバックスクリーンに向けた。
「オレさまが、ヒカルさまが、今度こそお前らに引導を渡してやる!とどめを刺してやる!」
「……予告ホームランか?」
「そうよ!ここはド派手に、満塁ホームランといこうじゃねーの!今まであいつのストレートに振り回されっぱなしだったが、今度はそうはいかねえ!もう何にも怖くねえよ、おめーらなんか!」
「……そうか」
栄の大言壮語も、全てが虚勢というわけではないだろう。栄自身が言う通り、確かに今までこいつは、一色のストレートにやられっぱなしだった。
だが栄の能力は、走攻守ともにハイレベルだ。
本人の目立ちたがり屋精神によって、無理な初球打ち、無理なダイビングキャッチを敢行して、不用意にチャンスを潰したりピンチを広げたりで、E組の奴らに虐げられている場面もあった。
だから栄はプレイヤーとして、全てが洗練されているとは言い難いが、それでもいつまでも学ばない奴ではないだろう。
このままだと、一色の球は栄に打たれる。
引導を渡される。
とどめを刺される。
E組の連中がノリノリになるのも無理はなかった。
だが、俺は__このまま終わるとは思わない。
さっきから思っていたことがある。
どいつもこいつも言いたい放題だ、と。
まるでA組が、すでに機能停止したかのように言ってくれる。
昔から言うだろう__野球は9回裏ツーアウトまで分からない、って。
例え分かり切った雰囲気であっても、結果は出ていない。
決着は着いていない。
回はまだ6回表。
俺がそう思う根拠は、ただの希望的観測ではない__少なくとも、俺たちにはまだ不確定要素が残っている。
『このメイングラウンドに突然隕石が落ちてきて、試合そのものがうやむやに終わる』なんて妄言レベルの要素ではない。それに、仮に今ここに隕石が降ってきたとしても、そもそも試合はすでに5回を終えていて、大会の規定により現時点でリードしているE組のコールド勝ちが成立してしまうだろう。
だから__残っている。
ちゃんとした、不確定要素が。
「タイム!」
ベンチから出てきた湯沢先生が審判の元に歩み始める。内野陣がマウンドへと集まる。
「おつかれー、彩花ちゃん」
凛子が一色に、そう声を掛けた。
「向こうでちょっと休んでなよ」
「そんな…… わたし、まだ……下がるわけには……」
一色は揺れていた。
毅然とした口調ではあったが、少し触れてしまえば崩れてしまいそうな、そんな気配があった。エースとして、責任を感じているのだろう。
そして、分かっているのだろう。
E組を力でねじ伏せることが出来るのが自分だけだと。
A組の中で、E組と真っ向から勝負出来るのが自分だけで、それが自分の役目であると。
その表情を見て、俺は胸が苦しくなる。彼女の力を活かしきれないもどかしさと、無力感に。
「いやいや、彩花ちゃんが休むのは、ベンチじゃないよ。あそこ」
凛子が軽い調子で指を指したのは__ライト。
選手交代のアナウンスが響く。
「……えっ?」
「まだ彩花ちゃんには、活躍してもらわないとねー。もう少し後で」
E組を力でねじ伏せることが出来るピッチャーは、一色一人。
それは事実だった。
しかし先ほどの、松嶋の怪獣の例ではないが、力でねじ伏せることだけが全てに帰結するわけではない。
力でねじ伏せるわけではないが__しかし、この場面を切り抜ける力を持つ奴が、このチームにはいる。
「一色。今は休んでてくれ」
一色の力を活かしてやれなくて、本当に情けないと思う。
最後まで投げさせてやれなくて、本当に申し訳ないと思う。
今の俺に、今の一色を輝かせる術は思いつかない。
だが、このまま敗戦して、一色が今後も今日のことを引きずってしまうのだけは阻止したかった。
一色のストレートは。
彼女が天真爛漫である時ほど、威力を増すのだから。
「しばらく、俺たちに預けてくれ。大丈夫だから」
一色は必要不可欠だ。
その力だけではなく、彼女が元気に投げ込む姿は、A組にとってなくてはならないものだ。
ここで終わっていい奴じゃない。
ここで潰れていい奴じゃない。
どこまでだって、翔べる奴なんだ。
ただ、今は経験値が足りないだけ。
一色も、俺たちも。
だからみんなの力で勝ち進もう。
一色だけがそんなに全てを背負い込まなくていい。
みんなで勝って、みんなで成長して、笑える明日を迎えよう。
だから、今だけは__休んでてくれ。
「ハッハッハ!エース様の降板か!?案外あっけなかったな!いや、オレさまたちが強過ぎたか!?」
打席の外から、栄が身を乗り出してきた。奴の声も、距離など関係なくよく通る。
「4点差だ!無死満塁だ!さらに打順は、走攻守顔性格スター性、全てを兼ね備えた1番のオレさまからだ!この絶好の大チャンスを、オレさまが掴めないとでも思うか!?誰が来ようと同じことだぜ!ここで決定的な一打をオレさまは打つ!!」
栄の挑発は、外国の映画のような身振りで大変大げさなものではあったが、恐らくE組の他の奴らも、同じようなことを考えているだろう。
一色以外、取るに足らない投手だと。
その一色を松嶋は調べ上げた。
事実E組は一色を追い詰めた。
最も力を持つ一色に狙いを絞り、重点を置き、対策を練った__そのE組の努力が、今の状況だ。
だが、一点に注視していては、必ず死角が生まれる。
『私、かくれんぼって結構好きなんだよね。スリルがあってさ』
『あいつ』があの時に、あんなことを言っていた真意は、ここにあったのか。
アナウンスされた投手が、マウンドに立つ。
リリーフ投手としてコールされたその名前。
いつだって俺を安心させてくれたその名前。
真っ向から破壊する力ではなく。
技巧をもって、綻びを突く。
そんな投手。
そんな、妹。
◯
「みんなには言い忘れてたけど、凛子はもともと、ピッチャーとしてこの学校にスカウトされて来たんだよ」
「そこ忘れる!?」
一色と晴沢がそう声を合わせた。雨地も声こそ荒らげなかったが、眉が少し上がっていた。
凛子が元投手だということを知るのは、凛子と俺と、湯沢先生だけだった。
「まあまあ、みんな。昔話はいいじゃない。昔って言っても、3ヶ月前のことだけどね。今を生きよう、今を。6回表の守備、ノーアウト満塁、4点差。追いつき追い越すためには、もうこれ以上、1点もあげたくないところだよね?」
肩をすくめながら、凛子は楽しそうに言った。
「あっちに切り札があったように…… こっちにも、切り札はあるんだよねー。って、自分で言っちゃった」
「頼むぞ」
「ぶいぶい」
凛子の右肩に、俺は左手のキャッチャーミットをポンと当てた。身を翻して、ホームへ向かう。他のみんなも守備に就く__一色も、戸惑いながらもライトに向かった。
投球練習を始めた凛子の球を捕球しながら、俺は思いを巡らせる。
忘れるはずが、なかった。
『私、降りるから』
4月。
お披露目会が終わった後。
凛子の言葉に、俺は慌てふためいていた。
『もー、そんなに驚かないでよ。降りるっていうのはエースの座からってことで、ピッチャーまで諦めるつもりはないよ。ピッチャーを諦めるには、私は打者と向かい合う楽しみを知り過ぎたからねー。その時が来るまで、ピッチャーってことを隠しておくってのが正確な言い方かな。なんか、遅れてきたヒーローみたいでかっこいいじゃん?それに私、かくれんぼって結構好きなんだよね。スリルがあってさ』
凛子は今のような状況になることを見据えて、自らを秘匿していた。その利点を俺は今、痛感している。
「栄くーん!私の好きなもの、教えてあげよっか?」
打席に入った栄に、凛子がそう叫んだ。凛子は栄に右の手のひらを向ける。
「まずは、可愛い可愛い大親友の小夏でしょー。それと、A組のみんな。猫、特にアメリカンショートヘアー。少年漫画、バトル系ならなんでも。お母さんの卵焼き。それとね」
親指から順番に、指折り数えていく凛子。小指まで折り畳んだところで、出来上がった拳から人差し指と中指の二本を立てた。
「絶好の大ピンチでしょ」
不敵な笑みを浮かべ、ピースサインを開閉させながら、ふてぶてしくそう言い放つ。
「まさに、今みたいな状況かな?」
俺の知る、いつもの西岐凛子がそこにはいた。
栄は面食らったように、言葉を詰まらせる。呆気に取られているようでもあった。
「確かに今はノーアウト満塁。おまけに打者は、走攻守顔性格スター性、ひいては勝利の女神に愛された男の中の男、栄くん…… 勝つためには、状況は絶望的と言ってしまっても、決して過言ではないよねー」
凛子は肩をすくめ、首を左右に振った。『もうどうにもならないよー』とでも言いたげなアクションだった。
「でも、このチャンスをモノに出来なかった時…… 流れはどっちに向くのかな?勝利の女神ってね、チャンスごときも掴めない人には微笑まないらしいよ」
しかし本心では全く、『どうにもならない』とは思っていないことだろう。
凛子はそういう奴だった。
「……ハッハッハ!オレさまが!?あるわけねーだろうが!この舞台で、このチャンスで、このヒカルさまが輝かねーわけがねーだろうが!」
我に帰った栄が、いつもの調子で凛子に言い返す。
「だろうねー。いやいや、栄くんが活躍するのは自明の理。掛け値なく明白。胸をお借りして挑ませてもらうしかないなー。でもでも万が一、そんな私がこの場面を切り抜けちゃったりしたら、驚きのあまり勝利の女神も思わずこっちを向いちゃうんじゃないかなー」
栄の挑発に、凛子は全く動じない。
凛子は栄のように、分かりやすい性格の相手に滅法強かった。
「そんな可能性さえあるんだから、私は大ピンチが好きなんだよねー」
凛子は、ライトで心細そうに立ち尽くす一色の方を見る。陽気に手を振りながら、凛子は声を上げた。
「彩花ちゃーん、そこで休んでてよー!休息は大事だよー!」
どこまでも軽い調子の凛子に、一色は戸惑ったように返事をする。
「でも、わたし…… ライトなんて、やったことないよ!」
「大丈夫大丈夫!心配いらないよー!彩花ちゃんのところには打たせないからー!」
「な……」
打席の栄だけではなく、E組のベンチにもちゃんと聞こえるよう、凛子は一層声を張って言った。
それを受け、E組の奴らは皆一様に難色を示す。
彼女だけが、いつものように。
涼しげな余裕たっぷりの顔で。
西岐凛子らしく__言った。
「絶対にね」




