第16話 松嶋朧は柔和に笑う
「絶好球だオルァァァ!!」
練習試合の時とは違って、見当を付けるまでもなく、栄は明瞭にそう言葉を発した。左打席でフルスイングを放った彼を横目に、俺は後退する。
練習試合と違う点が、もう一つ。
ボールの行方。
今栄が打ち上げたその打球は俺のミットには収まらず、ホームベース後方の金網に衝突した。ガシャン、という音が響く。
夏の校内戦、1回戦第1試合。
初球はファールボールとなった。
『プレイボール早々に初球先頭打者ホームランってイッチバンかっけーだろ?音速だろ?俺さまらしいだろ?』と言わんばかりにE組側のベンチに向けられた栄の視線を辿る。『一度でも成功してから言えよ。アホ』というE組全体の空気を感じた。
「いけねーいけねー、ついやっちまったぜ。落ち着けー、オレさま。今日は本番、本番。しっかり見てこうぜ」
自分を落ち着かせるためなのだろうが、思考が全て筒抜けな栄であった。しっかり見ていくことを宣言した栄に、一色が2球目を放る。
「……はあっ!?」
ぽすん、と、俺のミットが優しい音を鳴らす。
ド真ん中へのスローボール。
速球にスローボールを混ぜるという攻め方は練習試合の時にも見せたはずだが、まるで初見のように驚いた顔をする栄。ポーカーフェイスの対極にいる奴である。
「おいおいおい!お前、なんちゅー球投げさすんだよ!?打っちゃうぞ!?」
「だって、『しっかり見ていく』って言うから」
打つ気がないのなら、そこに乗じないのはもったいない。もったいないお化けが出るレベルである。
「くそ、舐めやがって!次は打つかんな!?覚悟しとけ!」
「覚悟するよ」
打てるものなら__とは、口には出さない。
一色が投じた第3球が、俺のミットで豪快な音を鳴らす。遅い球を見せた後の一色のストレートは、やはりよく映える。
スローボールに目が慣れた相手にもう一度スローボールを投げてやるほど、俺はこの試合を捨ててはいない。
三球三振に倒れた栄がベンチに戻り、2番セカンドの暗持が右打席に立つ。栄とすれ違った時に見せた彼の表情はやはり憎々しげだったが、今回は栄の肩を叩かなかった。
「おう、暗持。久しぶりだな。元気か?」
「……試合中にぺらぺらとうるせえ奴だな」
眉間にしわを寄せ、不機嫌そうな面持ちの暗持がそう応える。前々から思っていたことだが、『あまり俺に無駄な話をするな』とでも言いたそうにぶすっとしているわりに、意外と返事をしてくれる奴だった。
「今日は栄をどつかないんだな」
暗持は気持ちを切り替えるかのように、大きく深呼吸をした。バットを短く構える。
「……あの野郎が三球も粘れりゃ大したもんだ」
いつも気難しい顔をしている暗持が言うと、皮肉もより一層嫌味を増す。当の栄はというと、そんなことを言われているとは知る由もなく、暗持にやかましい声援を送っていた。
「__チィッ!」
金属バットが空を裂く音。
ストレートを捕球する左手の感触。
8球を費やし、暗持を打ち取る。
この場に舌打ちを残した暗持と入れ替わりで、右打席に立つ3番バッターの松嶋。彼女は暗持とは対照的に、いつものように柔和な笑みを浮かべる。
「今日も絶好調ですねえ、一色さん」
「おかげさまでな」
「うふふ、頼もしいです」
これまたいつものように、左のこめかみ辺りから三つ編みを垂らし、赤くて大きな伊達眼鏡をきらめかせていた。
「今日も外さないんだな。その眼鏡」
一色が1球目を投じる。松嶋の膝元を通り、ストライクが宣告される。ボールを一色に投げ返した。
「この伊達眼鏡は、単なるオシャレ道具じゃないんですよ。まあ、ゲン担ぎのような物ですね。掛けていない方が、かえって調子が悪いぐらいです」
一色にサインを出す。彼女は投球モーションに入る。
「お守り、みたいなものですよ」
優しい声で、そんなことを呟く松嶋。眼鏡が映す彼女の視界は歪んでおらず、それが伊達であることは分かる。だから実際に視力が上がったわけではないだろうが、松嶋は外に外れるボール球を見逃した。その動体視力自体は、彼女自身が持つ能力だろう。
「今日も気持ちのいい音ですね。相変わらず、すごいストレートです。いやあ、さすがは一色さん。一筋縄ではいきそうもないです」
ミットに収まる白球を見て、松嶋は目を細めた。
「いけませんね。試合中だと言うのに、ついつい口が動いてしまいます。普段のお喋りも楽しいですが、孝太郎さんとこうして、対戦相手としてするお喋りも、また違う趣があります」
「そうだな。全くその通りだよ」
「こんな楽しい時間、簡単には終わらせたくないですねえ」
松嶋は、短く持ったバットをさらに拳一個分短く持った。
「この松嶋と、しばしご歓談をお楽しみ頂けたら幸いです」
◯
「桃山田さん、あんな感じだったっけ」
松嶋を相手に10球を投じた後の、1回裏の攻撃。スパァン、という勢いのある捕球音が響く。音の出所は、E組正捕手・松嶋のキャッチャーミット。
マウンド上、E組の先発は、桃姉こと桃山田。
第一打席、見逃し三振で凡退した鴬谷が、A組のベンチでそんなことを言った。
「あんな感じ、って?」
「練習試合の時と、印象が違うんだよね」
マウンド上の桃山田を眺めながら、鴬谷は続ける。
「私が思う桃山田さんって、持ち球と制球力を駆使して、一球一球を大事に積み上げるタイプって認識だったんだ。慎重にボール球で様子を見て、とにかく痛打を避けるやり方だと思ってた。でも今日は、なんと言うか…… 力技、みたいな感じ」
言われてみると、確かに今日の桃山田はいつもより投球テンポが早く、攻め急いでいる印象を受ける。
うちのクラスの一色と比較すれば一目瞭然だが、桃山田はあまり、感情を剥き出しにするタイプのピッチャーではない。栄とは対照的に、どんな状況でもあまり真顔は崩れない。
そんな今日の桃山田の顔は、どことなく__熱を帯びている気がする。
「なのに今日は、力のこもったボールで早々にストライクを取りに来て、勢いそのままにかっさらっていくような…… でも、投げやりとも力任せとも言えないかな…… 強いて言うなら」
開き直り__かも。
鴬谷がそう言ったところで、2番バッターの凛子が低めのストレートを打ち上げた。セカンドの暗持が捕球し、ツーアウトとなる。
入れ替わりで打席に立った晴沢の顔を見る。
俺たちA組が座る一塁側ベンチからは、彼女の得意げな顔がよく見える。晴沢はいつも、自信に満ちた顔をしていた。
鴬谷と凛子への、ストライクを先行させた配球とは打って変わって、晴沢へはボール球が先行した。鴬谷に『力技』と形容された桃山田ではなく、以前の練習試合の時のような配球だった。
ボールを慎重に見る鴬谷や凛子とは違い、晴沢は積極的な打者だった。少しでも甘い球が来たら積極的にバットを振り、確実に弾き返す。だから今日の桃山田でも、晴沢は力押しでは攻略出来ないと考えているのだろう。
ボール球を駆使し、カウントを整え、遅い内角球で外への意識を逸らす。
カウントフルカウントで投じられた次の球は、並みの打者なら対応出来ない、外角低めへのストレート。
しかし、晴沢は見逃さない。
球威に押されながらも、しっかりと打球を右に流す晴沢はさすがと言えた__しかしその快音を残したライト方向への打球は、長身のファースト・猿谷が伸ばしたグラブの中に収まる。
桃山田はいつもの表情のまま、大きく息を吐いた。
◯
違和感を感じていた。
2回表の守備。
結果から言えば、4番太丸から始まる重量打線は三者凡退ではあった。
その回に打席に立った太丸、浅間、猿谷はパワーのあるバッターだ。一発の危険性がある3人がフルスイングで空を切り裂く音を聞くと、小心者の俺は肝を冷やすばかりで、そのプレッシャーは尋常じゃない。
そんな、長打が売りの3人が、3人とも__バットを短く持っていた。
ボールを遠くに飛ばすことよりも、確実に当てることを重視するために。そして決まって、追い込まれるまでは手を出さなかった。
待球作戦。
その戦術自体は珍しいものではないだろう。
相手ピッチャーに多く球数を投げさせ、へばったところを打ち込む…… オーソドックスな戦法だ。
待球作戦への効果的な攻め方は、とにかくストライクを先行させること。
打つ気がない打者を相手に、ボール球を投げる意義は薄い。相手が待球してくれるというのなら、俺は早々にストライクを取りに行く手法を取る。
しかし、E組の主力が相手だと、そうもいかなかった__特に、太丸と浅間だ。
その飛距離もさることながら、彼らはバットコントロールにも長けた打者だ。そんな奴らが待球を念頭に置いていたとしても、安易にストライクを取りに行って、少しでも甘く入れば、痛打は避けられないだろう。
一色の球種はストレートのみ。
それそのものは抜群の武器だとしても、使い続ければ、相手バッターは目が慣れてしまう。
だから緩急をつけたスローボールの他に、効果的に使い分けなければならないものがある。
内角と外角。
高めと低め。
ストライクゾーンとボールゾーン。
その中で駆け引きを行うとなると、必然的にこちらの球数は多くなる。
加えて__今日の一色。
「ボール!」
先ほどの、松嶋の言葉が頭に浮かぶ。
『今日も絶好調ですねえ、一色さん』
さっきは強がって、「おかげさまで」なんて言い返したものの、正直今日の一色は、少なくとも練習試合の時よりも球がキレていない__立ち上がりから、意図せぬボール球の先行が目立つ。
普段の一色なら、まだまだ疲れる球数ではない。
しかしここで、さらに彼女に襲いかかるものがある。
7月の陽気。
容赦ない陽射しが、いつもより早いペースで一色の体力を多く奪う。
前回のE組との練習試合が6月初旬だ。その日だって全く暑くなかったわけではないが、やはり今日の気温とは比べるべくもなかった。
そして__E組。
学年一のチーム打力を誇る連中が、こぞってバットを短く持ち、球数を稼ぐことを第一に考えている。
そのプレッシャーたるや、マウンド上の一色には相当のものだろう。
だから勝つためには何としても、先制点が欲しい。
一色の力投に、俺たちで応えたい。
少しでも楽になるように。
僅かでも余力を持って。
俺はネクストバッターズサークルの中から、左打席に立つ雨地に祈りを飛ばす。
しかし、その願いは__叶わない。
「フォアボール!」
明らかに勝負を避けたその4球のストレートは、どれもストライクゾーンを大きく外れた。ぽすん、と松嶋のミットを鳴らす。
雨地が下手で投げたバットが、カラン、と渇いた音を立てて転がった。
敬遠だった。
2回裏、ノーアウト一塁。
一塁へと小走りをする雨地を横目に、俺は松嶋に目配せをした。
「気を悪くしないで下さいね」
視線に気付いた松嶋が、柔和にはにかむ。
「雨地さんのような方、まともにお相手すると考えるだけで、寒気がします。練習試合とは違い、トーナメント戦ですから。一度負けたら終わりです」
確かに、それはそうだった。
一敗も許されないトーナメント戦において、個人で得点を挙げられる雨地のような存在を警戒するのは当たり前のことだ。
「手に負えない相手から逃げることは、悪ではありません。立派な選択肢の一つだと松嶋は思います。大型怪獣が現れた街の中で、一般市民はあまりに無力です」
饒舌に言い訳をまくしたてている、という感じには聞こえなかった。松嶋は単に、事実を述べているだけだ。
「格の違い、なんて、生易しいものではありません__彼女は次元が違う。決して桃山田さんが非力なわけじゃない」
松嶋が送ったであろうサインに桃山田は首肯し、セットポジションに入る。
「雨地さんは、まるっきり異質です」
ややサイドスロー気味のスリークォーターの位置からリリースされた緩いカーブが、外角に決まる。
「先ほどの大型怪獣の例、気を悪くしないで下さいね」
続けて第2球も外角へと投じられた。ストレート、と球種を判断してバットを振りだしたが、ホームベース付近でわずかに外に逃げる変化をする。カットボールだった。
打球はゆるく打ち上がり、一塁側ファールゾーンへと転がる。あっという間に、ツーストライクに追い込まれた。
「怪獣相手には為す術がないとしても、同じ一般市民同士なら、勝負が出来る…… そして野球は、一人の怪獣だけが勝敗を分かつ要因ではありません」
雨地を早々に四球で歩かせた後に、俺には甘いコースで安々とツーストライクを取る。
その意味が、俺には分かる。
『雨地よりも低いレベル』__そう言われているようなものだ。
しかし俺は、そう暗に諭されたことに、憤りの感情など全く湧かなかった。それはむしろ、俺にとって常識の範囲内で、覆せない事実だからだ。
雨地とバッティング能力を比べるなんて、俺自身おこがましいとさえ思う。彼女の次の打順を任されているとはいえ、そこに雲泥の差があるのは、火を見るよりも明らかだ。
雨地よりもレベルの高い打者は、少なくとも俺が今まで出会った選手の中にはいない。
天才と凡人。
この言葉が__本当によく似合う。
「松嶋は、そう考えていますよ」
1年E組正捕手。
松嶋朧。
彼女はその柔和な顔付きと穏やかな口調の下で、俺たちA組を殺す算段を、確実に整えていた。
「今日の桃山田さん、なかなか調子がいいでしょう?一色さんに負けず劣らず、彼女も絶好調なんですよ」
「……ああ、そうだな。ピッチャーの力を引き出すコツがあるなら、ぜひ教えてもらいたいものだよ」
「特別なことは何も。ただ、一つだけ。『松嶋の構えた所に、全力で思い切り投げてください』、とだけ言いました」
桃山田が投球モーションに入り、ボールがリリースされる。ストレートを狙っていた所に投じられた緩いカーブだったが、体勢を崩しながらも何とかバットに当たり、後方へと飛んだ。
「いいですね。全力で思い切りのいい、緩いカーブです」
全力で思い切り、というワードに、無意識にストレートを意識させられてしまった。そして投じられた、第4球__外角低めに、速いストレートが決まる。バシィッ、という、キレのある音を鳴らした。
「うんうん、よく腕が振れています。やはり今日の桃山田さんはいいですね。どんなピッチャーだって、打たせない気で堂々とストライクゾーンに投げ込むことが出来れば、思ったよりも打たれないものです」
その後、後続の打者も凡退し、一塁の雨地は残塁となった。
◯
「ヌイッと参上!湾野縫ちゃん!なのです!」
「……それ、流行らせる気か?」
3回表。
この回の先頭バッターである7番・湾野が右打席に立つ。彼女を相手に、三つのボールカウントを先行させてしまう一色。
「さすがは縫ちゃん、ボールの見極めの達人なのです。縫ちゃんレベルともなれば、コースを見切るなど容易いことなのですよ」
「大口を叩くわりに、バットを振るそぶりさえ見せないな」
「その必要もないのです。今日の一色は不調だから、ここに立っていれば、勝手に歩かせてくれるのですよ」
「……どうかな」
その後、一色にストレートを要求する。『多少甘くてもいいから、思い切り投げ込め』と。一色はそのサインに首肯し、思い切りのいいストレートを2球、ストライクゾーンへと投げ込んだ。
「よう、湾野。追い込んだぞ」
「心配する必要はないのです。今日の一色は不調ですから」
なおも得意げに、湾野は打席でふんぞり返ってそう言った。
待球の狙いもあるだろうが、しかし、一色が投じた2球のストレートは甘いコースだったにも関わらず振らなかったことから、単に手が出せなかっただけの可能性も高い。
しかし、相手がそこまで積極的なバッターではない湾野にしたってもちろん、ここで「じゃあ四球を出さないように、甘く入ってもいいから確実にストライクを取ろう」と楽観するわけにはいかない。
人の目には『慣れ』がある。
湾野を相手に、いかに威力のある直球で攻めたとしても、三球も真ん中付近に投げていては打たれる危険性も高まるだろう。
だからどこかで、コースギリギリを突く必要がある。
こちらが点を取れそうにない今、無為な四球で球数を増やし、E組にチャンスを作ってはいけない。
一色の第6球。
「見切ったのです!」
トルネード投法から繰り出された唸りを上げた直球が、俺のミットに吸い込まれる。湾野は動かなかった。
豪快な捕球音の後、ストライクのコールが場内に響く。
外角低めギリギリに決まる、完璧なストレートだった。
やはり一色は、ここ一番に強い。
「ほら湾野、歩いていいぞ。お前たち側のベンチにな」
「……ゴリラはいじわるなのです」
今の一球で、確信めいたものが生まれる。
E組の誰もが、完璧に一色のストレートを攻略出来ているわけではない。
特に下位打線が相手なら、真っ向からぶつかっても勝機はある。
負けているとは思わない__俺ももちろんだし、マウンド上の一色だってそうだろう。
その後、築地と桃山田を相手に15球を費やすも、結果的に見たら、一色はE組打線を一巡、シャットアウトしたのだった。
◯
「るぁぁ!!!」
歓声が上がった。
3回裏の攻撃中のことだった__だがそれは、こちらが得点したことで、ではなかった。
ヒットで出塁したA組の8番バッターを二塁に置き、ツーアウトながらも、初の得点圏にランナーがいる状態。
バッターの凛子は、桃山田が投じた緩いカーブを引っ張り、強い打球が三遊間めがけて転がる。
しかし彼女__サードの浅間が、それを阻む。
打球に飛びつき捕球をすると、素早く体勢を立て直し、無駄のない動作で一塁へ送球する。バッターランナーの凛子は、A組では鴬谷に次ぐ俊足ではあったが、浅間の強肩を前にアウトとなった。
浅間の咆哮に、会場が湧く。
俺たちA組にとって、嫌らしい空気を感じずにはいられなかった。
そして4回表の守備。
栄、暗持を抑え、打席には再び、3番の松嶋。
「それにしても、今日は暑いですねえ」
「そうだな」
「ですが、嫌な暑さではありません。もっともっと、こうして、この状況に身を浸していたいぐらいです…… なんせ、現状こちらのペースに傾きつつありますから」
「……そうだな」
とは言ったものの、俺には嫌な暑さだった。頭が回らず、的外れな返答をしてしまう。
「この流れに持ち込めたのは、松嶋たちE組が、一色さんを褒めて、讃えて、賞賛した結果です」
「賞賛?」
「『豚もおだてりゃ木に登る』…… と言うと、あまり聞こえが良くないですね。さすがにそこまでは言いません。そこまでA組の皆さんを侮る愚か者は、少なくともこのチームにはいません」
すみません、と松嶋は申し訳なさそうに言った。
「侮ってはいません。むしろ、松嶋たちの最大の壁になると踏んで、執拗に一色さんを分析させて頂きました。そして、ある作戦を実行しました。前回の練習試合…… 松嶋たちのチーム、妙に思い切りが良かったと思いませんか?」
俺は思い出す。
6月初旬のあの日。
一色が勝利の立役者となった、あの試合。
「この前は、思い切り行かせて頂きました。振って、振って、全力でバットを振りました。それで松嶋たちは、27のアウトのうち、14回も三振しています。一色さんはもちろん、孝太郎さんも気持ち良かったはずです。ご自分の球が、ご自分の配球が、E組を全く寄せ付けていない、と」
それはまさに、その通りだった。
あの時に感じていたのは、爽快感。
「そして、感じたはずです。ご自分の力が通用するという多幸感。力が認められた充実感。周りの人から褒められて、弛緩しない人ばかりではありません。人というのはそういうものです。褒められたら嬉しい。認められたら嬉しい。だからこそ一色さんは、あの練習試合でああもパフォーマンスを発揮出来たんです」
しかしその爽快感は__どうやら、人為的なものだったらしい。
一色が投じた第1球が、外に外れる。
「確かに、全てがこちらの手の上ではなかったです。一色さんのストレートは脅威で、実際に手が出せない球もたくさんありました。そこは認めざるを得ません。だからあの時は勝利を捨て、本番で勝つための分析に徹しました」
一色の第2球が、松嶋の内角に決まる。
松嶋は動かない。
「松嶋たちは、勝ち上がる自信があります。そしてA組の皆さんも、上に登るチームだと思います。いずれ戦うことになるだろうと、確信がありました。まあ、1回戦の第1試合に早々に当たることは、予想外でしたけど」
一色の第3球。
コースを狙ったその球は、ストライクゾーンを通らない。
「こちらのチームが待球を狙っていることは、言うまでもないでしょうね。誘い球に乗らない。微妙な球をカットする。安易に打ちに行かない__相手投手を少しでも消耗させたい気持ちは、攻撃側としては当然です」
第4球、力んでしまった一色が、高めにボールを外す。
「だからと言って、漫然とボールを見逃せばいいわけではありません。そんな無防備でいては、ストライクを取られてしまいますからね」
第5球。
やや真ん中寄りに投げられたストレートに、松嶋が反応する。引っ張られたその打球は、ファールゾーンへと転がる。
「でも、時として消極的と揶揄されてしまう待球作戦にだって、理想の形があります__ヒットを打てばいいんですよ。球数を稼いだ後にヒットを打てば、無為に球数だけが増えていきますから。もちろん、そのための下準備は欠かせませんでしたけどね」
第6球、意表を突く形で投じられたスローボールに、しかし松嶋は踊らされない。三塁方向へ強烈に引っ張り、ファールとなる。
「それに、こちらには幸いなことに、今日の一色さん__練習試合の時ほど、本調子ではないようですし」
そう言って、にこりと笑う松嶋。
その、人当たりがよさそうな、可愛らしい笑顔の下で。
どれほどの策略を__企てているのだろうか。
「……今日の松嶋は、ずいぶんと饒舌だ」
「うふふ。夏の暑さのせいですかね?」
「もしそうなら、夏ってのは罪深い奴だ」
先ほどのスローボールは、松嶋なら容易に打ち返せた球だっただろう。
しかし、しなかった。
一色のストレートを攻略することで、自らの力を示すためだろう。
「それにしても、本当に、一色さんの才能は凄いです。恐ろしいとさえ、思います。先輩方と対峙しても、そう簡単に打たれはしないでしょう__ええ、簡単ではありませんでした。一色さん対策は、松嶋たちが今日までで、一番時間を費やしたことでもあります。一色さんが4度の練習試合で投じた、全387球…… 全てを調べ、傾向を予測しました。次に来るコースも、おおよそ見当が付いています」
第7球。
松嶋は膝元に投じられた球に、器用にバットを合わせる。打球が後方へと飛んだ。
打球を目で追うついでに、松嶋が俺に微笑みかける。
『次こそは、打たせてもらいますね』
そんなことを、言いたそうな顔だった。
「そんな状況だからでしょうか、松嶋はとても高揚しています。今のこの状況が嬉しくて。やっと」
そこまで言いかけて、松嶋は口をつぐんだ。
「……いいえ。この言葉は、先送りします。ですから代わりに、松嶋個人の感想を述べさせていただきますね」
そして__第8球。
「待ち侘びました。今日の…… この瞬間を!」
外角低めに投じられたストレートに完璧にタイミングを合わせ、松嶋がコンパクトにバットを振り抜く。キィィン、という快音が響いた。打球はセンター・鴬谷の前方に落ちる。
一塁上でヘルメットを脱ぎ、にこりと微笑む松嶋。
「適切な甘味とは言えないな…… 糖分過剰だ!」
続くE組4番・太丸に投じられた球は、高めに浮いた甘い球。太丸がそんなものを見逃すはずもなく、打球は左中間を破り、フェンス際まで転がった。
一塁ランナーの松嶋が生還するためには、それで十分だった。
「ね、孝太郎さん」
松嶋朧は、柔和に笑う。
嫌になるほど__本当によく笑う。
「いくら凄い力があっても、工夫ひとつで、ころっと戦況はひっくり返るんですよ」
◯
「待ち侘びたぜ__今日のこの瞬間をなぁ!!!」
番長を目指す、勝気な女__浅間いつきは、松嶋と同じ言葉で不敵な笑みを放つ。
肝が冷えるスイングスピードで放ったその打球は左中間を破り、フェンスにダイレクトでぶつかる。
見た目通り鈍足な太丸も、生還するには十分な打球だった。
2者連続タイムリーツーベース。
2対0。
そのリードに、今日一番の歓声が湧く。
2度目だ。
一色のストレートが、ここまで完璧に弾き飛ばされるのを見るのは。
今年の4月、お披露目会以来だった。
一色は、それで動揺してしまったことで6番の猿谷に四球を与えるも、続く湾野を辛くも打ち取り、悪い流れは一旦途絶える。
ベンチに帰るなり、一色はドカッとベンチに座り込んだ。自らを落ち着かせるために、天を仰ぎ、大きく深呼吸を繰り返していた。
球数もすでに__95球。
4回裏の攻撃。
晴沢と雨地が連続四球で塁に出る。マウンドの桃山田を見ると、帽子を脱ぎ、額の汗を拭っている。
表情の変化はそこまで顕著ではないが、疲労の色を浮かべていた。今までのようなハイペースで投げていては、9回までは持たないだろう。
この暑さの中で投げているのは、一色だけではない__桃山田だって、条件は同じだ。
何としても、ここでランナーを還す。
そんな決意を固め、打席に立ったところで。
E組正捕手の松嶋は、俺の心を折りに来る。
「切り札っていうのは、本番まで取っておくものですよ」
そこで、E組担任の熱海先生がベンチから飛び出し、俺と松嶋の後方にいる主審の方へ駆け寄る。
「A組さんたちを一巡抑えれば、大したものですよ」
場内にアナウンスが響く。
「先ほどの続き、言っちゃいますね」
それは、選手交代の合図。
「やっと、やっと__いつきちゃんが輝けます」
ピッチャー、浅間。
それがコールされた名前だった。
先発の桃山田が降板し、サードを守っていた浅間がマウンドに立つ。サードへは、ベンチから控えの選手が守備に就いた。
浅間が投球練習を開始する。リラックスした様子で5球ほど投げたところで、試合が再開された。
俺は再び打席に立ち、浅間を見る。
彼女がマウンド上で目を瞑り、両手を広げて息を吸い、お辞儀のように頭と両手を前方に倒しながら、大きく息を吐く。そのように呼吸を一往復させ、上体を起こし、目を見開いたところで__空気が変わる。
獲物を狙うような、鋭い眼光。
威圧感。
怖い__率直に、そう思った。
「いつきちゃんは打てるし、投げれます」
松嶋はとうとうと語り出す。
「『打つのも投げるのも楽しいから、両方で上り詰めてやらぁ』…… いつきちゃんは過去にそう言って、それを高いレベルで実践していました。それに、いつきちゃんは打つ魅力より__投げる魅力の方に、早く気付いたそうです。彼女は打つ方より、投げる方が得意です」
サインの交換がされ、浅間が首肯する。
セットポジションから、投球モーションが始動した。
「まだこの高校で、実戦で登板していないからって、油断しないでくださいね?いつきちゃんは、ピッチャーとして身を潜めている間も…… 毎日毎日、松嶋を相手に投げ込んでいたんですから」
右足を軸として、左足が上がる。
左足を踏み込み、前に伸ばした左手を胸元に引き寄せる動作と連動し、ムチのようにしなる右手からボールが放たれた。
「松嶋たちのクラスにも、怪獣がいた__それだけのことです」
俺はその伸びのあるストレートに、全く反応出来なかった。
「いつきちゃんが納めた勝利には、完投勝利も少なくありません。中学時代のマラソンではいつも1位を取っていたぐらい、体力もあります。桃山田さんに、打者一巡分も休ませてもらって…… 待球で疲弊させられるとは、思わないで下さいね?」
晴沢と雨地を塁に置き、ノーアウトで迎えたこのチャンスは、しかしそこから広がることはなく、終わりを迎える。
歓声の中でも__浅間の咆哮は、よく通る。




