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第11話 小さな豪腕

「たぁーっ!」

 外角低めにカーブが決まるよりかなり早く、一色はぷるんとバットを振り切る。ストレートを狙っていたのか、遅い変化球に全くタイミングが合わず、ガクッと体勢を崩しそのまま右膝を地面に着けた。

 一色のスピード感溢れる三球三振によって、2回裏の攻撃は三者凡退で終了した。

「あの子が打席に入った時の期待出来なさ、相変わらず尋常じゃないってカンジ」

 自身が左手に付けるグローブの中をばしばしと叩きながら、晴沢が悪態を吐いた。学年一の巧打者である晴沢が言うには、一色のバッティングは『お遊戯会レベル』とのことらしい。ちょっと酷い。

「その分お前には、尋常じゃない期待をしておくよ」

 当然じゃん、と軽薄に吐き捨てた晴沢はセカンドの守りに向かう。それに合わせて、他のみんなも守備に就いた。

 確かに一色はバッティングにおいて、あまり……

 かなり……

「……」

 あいつ、毎打席三球三振してないか?

 バットにかすらせたところすら、見たことない気がするぞ?

 ……まあ。

 バッティングに関して言えば、とてつもなく成績が奮わない面もあるが、なんにせよ。

「マウンドに立つあいつには__尋常じゃない期待を寄せずにはいられないな」


『投げる方は任せてよ!』


 一色がはつらつとした笑顔でそう意気込んでいたのが、ずいぶんと前のように思える。

 4月。

 入学式。

 お披露目会。

 あの日から__まだ、2ヶ月しか経っていないんだよな。

 凛子以外のみんなと出会ったのも。

 一色のストレートに惚れ込んだのも。

 一色と、この学校で天下を取りたい__そう思ったのも。

 ……2ヶ月、か。

 マウンド上の一色が大きく振りかぶり、背中を見せる。感傷的な気持ちを切り替えて、俺は彼女を見る。

 体重移動を経て、指先からボールが放たれる__そして唸りを上げた衝撃が、捕手の俺に伝わった。

 7番、8番、9番。

 E組の下位打線のバットが、揃って空を切る。

 8者連続奪三振。

「ぃよっしゃぁぁぁ!!」

 雄叫びを上げ、全身全霊で感情を発露させる一色。握った右腕の拳には、力がある。

 お遊戯会レベルとまで言われ、打席を終える度に小動物のようにしゅんと帰ってくる時とは、雲泥の差があった。


 ◯


 打順が一回りして、3回裏の攻撃。

 調子を上げたE組の先発が1番鴬谷、2番凛子をそれぞれ打ち取って、ツーアウトランナー無し。

 右打席に立つ晴沢が浮かべるゲスゲスしい得意気な顔が、A組のベンチからはよく見える。

 晴沢のお手本のように流麗なバッティングフォームが、球筋を捉える。

 キィン、という心地良い音と共に、打球はセンター前へ__


「甘え!」


 俺の尋常じゃない期待を乗せた晴沢の綺麗な当たりは__しかし、ヒットを記録することはなく。

「オレさまの時代、到来ってか!? うはははは!」

 横飛びした、ショートの栄が伸ばした手の中に収まった。砂埃が舞う。

 栄は捕球後の地面に寝そべった体勢のまま、グラブを掲げて塁審にアピールした。その顔は、今日一番のドヤ顔だった。

「アウト!」

 凡退した晴沢が、ぶすっとした表情を浮かべてベンチへ戻って来る。

「……あいつ、いけ好かないわ。あんなキンパツ、墨汁ぶっかけて黒染めしてやりゃいいのよ」

 オレンジがかった明るめのチャパツがよく似合う晴沢に八つ当たりされないよう、適度な距離を保ちつつ__俺たちは守備に向かった。

 そして打席には、噂のあいつ。

「オイオイオーイ!オレさま以外みんな三振しちゃってんじゃねーか!こりゃ走攻守顔四拍子揃ったチーム一の天才・ヒカルさまがかっ飛ばすしかねーなー!」

 試合開始数秒でキャッチャーフライを打ち上げたチーム一のお調子者の栄が、本日2度目の打席に立つ。

 セカンドを守る晴沢だけでなく、E組の味方(暗持とか)から憎々しげな視線を送られても、この男には特に気にする様子もなかった。

「ずいぶん張り切ってるな」

 俺が声を掛けると、栄は自信に満ちた顔を浮かべて言った。

「あぁん?当然だろ。不甲斐ねーチームメイトたちには、オレさまの特大ホームランで喝を入れてやるってもんよ!走攻守顔性格の五拍子揃ったこのオレさまがよー!」

 ……さっきより一個増えてる。

 それと、性格は絶対に揃ってない。

「さあ!きやがれ、ちみっこ!このヒカルさまが受けて立ってやるぜ!」

 そんな挑発をされながらも。

 マウンド上の一色は__まるで動じない。

 動じることなく、ただ一心に俺の構えたミットだけを見据えている。

 喜怒哀楽をころころと変える普段の彼女と違い、マウンドにいる時の彼女は、冴えているのだ。

 だからそんな挑発を受けた後も、堂々とした球を投げ込む。

 こんな風に。

「……はぁっ!?」

 この試合、すべてストレートの力押しで来た一色が投じた__スローボール。

 つい最近まで、ストレートしか持ち球がなかった一色__ゆえに、決して巧みとは言えない、経験不足と指摘されたら否めない、若干のぎこちない投球フォームから繰り出された遅い球ではあった。

 しかし栄はストレートを想定していたであろうし、実践で初めて試すということもあって意外性があり、栄の体勢を崩すには十分だった。

 コキン。

 バットの先に弱々しく当たり、力の抜けるような音を発したその打球は、ひょろひょろとした放物線を描いて一塁方向へ。

 ファーストの雨地が後退しつつ、長い腕を伸ばす。


 打ち取った__かに見えた。


 しかし、打球の落下地点に人はおらず、そのまま弱々しくフェアグラウンドに落ちる。

 ポテンヒット。

 捕球した雨地が一塁にカバーに入った一色にボールを投げるも、走攻守顔性格のうち少なくとも『走』には優れていた栄は、すでに一塁を駆け抜けていた。

「はっはー、見たか!見事な狙い打ち!圧巻のチーム初ヒット!走攻守顔性格、そしてスター性さえ兼ね備えた完璧な1番バッター!究極のリードオフマン!それがオレさま、栄ヒカルさまだぜ!!」

 両手を腰に当て、うはははは、と一塁でふんぞり返る栄。「いいぞ続けー!!」と、熱海先生の声が響く。打席へと歩みを進める次打者の暗持の眉が、時空の歪みみたいなねじれ方をした。

 ……絶対に、性格は揃ってない。


 ◯


 色々な考え方はあるが一般的に、バントなどの小技を得意とする器用な選手がセオリーとされる2番打者。

「……く!」

 暗持も例に漏れずそのタイプであったが、彼を持ってしても、一色のストレートの勢いを殺せないでいるようだった。

 2球続けて、バントの打球がファールゾーンへ転がる。

「ちっ……」

 バットを伝って衝撃を感じたのだろう、暗持は右手首をぶらぶらと振った。

「痺れるだろ?一色のストレート。暗持と言えど、決めるのは難しいんじゃないか」

「……うるせえ」

 俺の挑発に顔を歪めながらも、暗持は三度、送りバントの構えを取る。

「……眩しい奴には、眩しい奴の」

 マウンドの方向に向く暗持の表情は、俺からは窺えない。

 ギリギリ聞き取れるぐらいの、消え入るような声が聞こえるだけだ。

「……俺みたいな奴には俺みたいな奴の、役割ってもんがあんだよ。部外者がガタガタ言ってんじゃねえ」

 内角低めのストレート。

 膝元を狙う難しいコースだった。

 しかし暗持は構えたバットを巧みに当て、衝撃を吸収し__勢いを殺す。

 三塁方向へ転がる打球を捕ったサードが二塁を確認する頃にはすでに、栄は二塁に到達していた。

 一塁への送球で、暗持はアウトになる。


 眩しい奴には、眩しい奴の__


 暗持が苦々しく、まるで自分自身に言い聞かせるかのように発したその言葉を、頭の中で反芻する。ベンチへ帰る暗持と、一瞬だけ目が合った。

 不機嫌な眼差しが俺を突き刺す。


 ◯


「フォアボール!」

 この試合、初めて得点圏にランナーを進めたことで幾ばくか動揺したのか、次打者の松嶋に四球を与えてしまう一色。

 ワンナウト一塁二塁。

 そして打席には、4番打者。

「くくく…… 二度目の来店だ!」

 腹の肉を揺らし、太丸円が再び来店した。

「リピーターのお出ましか…… クーポン券は持って来たか?」

「ふふふ、見くびってもらっては困るな、シェフ西岐よ…… 俺は食には正当な対価を払うと決めているんだ。先ほどは食べ残し__三球三振という屈辱を受けたが、今回はそうはいかないぞ」

 俺がシェフかどうかはともかく__数字を見れば雨地に劣らぬ成績を残す太丸を相手に、一色はコースの角を突いて慎重にカウントを重ねていく。

 しかし、スリーボールツーストライク…… フルカウントの場面。


 高めに浮いた__甘い球。


「甘い!フォンダンショコラのように!」

 食通の太丸はその甘美なデザートを見逃さず、快音を響かせる。

 打球は一色の左を抜け、低弾道で二遊間に迫る。

「しゃあ、来たぜ!」

 勢いのあるその打球にヒットを確信し、走り出す俊足の栄に対し、失点を覚悟した__

 その時だ。

「よっ!」

 二遊間を抜けてヒットになるはずだったその痛烈な打球は__しかし、フェアグラウンド内に落ちることはなかった。

 打球の進路に、彼女が現れたからだ。


 ショートを守る__鉄壁の天使。


 翼でも生えているのかと見紛うほど軽快なフットワークで横飛びをした凛子の手中に、ボールは収まった。アウトが宣告されたことに気付いた栄が「はぁっ!?」と叫びながら、慌てて二塁に方向転換をする。

 凛子は左手のグローブに入ったボールを、手首のスナップで押し出す。カバーに入った晴沢がそれをキャッチして、二塁を踏んだ。

 ダブルプレー。

 凛子は、飛び込んだタイミングで落ちた野球帽を拾い上げ、被り直す。ユニフォームに付いた砂埃を払いながら、呆然と立ち尽くす栄に言った。

「凛子さまの時代、到来しちゃった感じかな?悪いね、栄くんの時代を終わらせちゃって」

 調子乗りの栄への意趣返しと言わんばかりの軽口を叩き、悠々とベンチに下がる凛子。その様子を間近で見ていた晴沢が「いよっ、凛子!あんたやっぱ最高!愛してるぅ!」と太鼓を叩いた。

 栄と熱海先生の悔しがる声がハーモニーを奏でる。


 ◯


 栄の時代を強引に終わらせた凛子によって、こちらに形勢が傾く。

 4回裏の攻撃。

 フォアボールで出塁した雨地を俺の戦略的進塁打(ボテボテの内野ゴロとも言う)で二塁に進め、その後1点を追加。

 4対0。

 5回表の守備。

 浅間の第2打席を迎える__も、ここでは見逃しの三振。

 一度もバットを振らず凡退する浅間は、まるで球筋を見極めることに徹していたようで、あまり気分よく打ち取った感じではなかったが__嵐が去った後のような安堵を一つ。

 5回裏の攻撃。

 一色から始まったその回は、じわじわと調子を上げるE組の先発投手の力投によって、三者凡退に倒れた。初回こそ3点を失ったものの、回を増すごとに安定性を増してゆく印象だった。


 しかし、一色もまた__加速してゆく。


 6回表の守備。

 第3打席を迎えた栄を、ピッチャーゴロに打ち取る。

 一色を相手に一度も三振をしていない器用なバッティングセンスに思わず感嘆するも__結果は三者凡退。その内、三球三振が二つ。

 マウンド上で咆哮を上げる一色が原動力となり、チームは歯車を噛み合わせてゆく。

 熱投が、野手陣の動きに直結する。

 勢いに呑まれまいと食らいつくE組だったが__そこで、学年屈指の3番4番が火を吹いた。

 晴沢へと投じられた第7球。

 遊び球を巧みに混ぜ、焦らし、晴沢を誘い込もうとスキを窺う球。

 しかし学年一の巧打者である晴沢は、その誘いに乗らなかった。

 内角低め…… 足元の近くに投じられたその球を、姿勢を崩しながらも揚々と打ち返す。目立ちたがり屋のショート・栄がこれでもかと手を伸ばして飛びつくも、打球はセンター前に抜けていった。


 そして__


「……通算6本目、か」

 俺はそう呟きながら、本日2度目のホームランが描く放物線を、ネクストバッターズサークルから眺めていた。

 雨地響子。

 学年最強の4番打者。

 ホームインした雨地に手を出してみると、彼女は少しだけ眉を上げ、つまらなさそうに俺の手に触れた。

 その整った顔立ちが浮かべる《無》の無表情を見ていると、俺は思ってしまう。『彼女と渡り合うピッチャーなど、この世にいないのではないか』、と。

 そんな荒唐無稽な心境にさえ__陥ってしまう。


 7回表。

 3番の松嶋に、すっぽ抜けた球をレフト前に運ばれる。

 しかし__そんなものはどうだっていいとばかりに、一色の右腕が唸る。

 太丸、浅間という学年指折りの強打者を、ダブルプレーと三振で押さえ込む。

 力技で。

 強引に。

 吠える一色に、俺の心の奥底も揺さぶられる。

 じわりじわりと温度を上げ、感覚が研ぎ澄まされていくのが分かる。

 俺だけではない。

 彼女の気迫が、気力が、引力となって__チームメイトから力を引っ張りだした。

 鴬谷の内野安打から始まり、凛子のシングルヒット、晴沢の走者一掃のタイムリーツーベースヒット。 四球で出塁した雨地を、うちの6番打者が返し、3点。

 停滞したE組打線の息の根を止めるかのように、追加点がなだれ込む。

 大きく開いたその点差は、力強く強力に、一色の背中を押す。

 連鎖はもう止まらない。


 小さな豪腕は__止まらない。


 ◯


 1年E組。

 騒がしいクラス。

 そう言われているのは別に、元気が有り余っている奴らが多いから、という理由だけではない。

 とにかくよく打つ__切れ目のない打線。

 5点を与えてなお、6点取れる『打』のチーム。

 雨地と晴沢両名に、最多本塁打と最多安打のタイトルこそ譲るものの__1番から9番まで、その平均値は間違いなく学年トップである。

 他クラスの比ではない。

 そんなE組__9回表。

 ランナー無し、ツーアウト。

 ツーストライクで、2番暗持のバットが空を切る。

 プレッシャーから解放された一色が両手を掲げ、天を仰いだ。


 スコア、9対0。


 一色の投球内容__被安打2、四球2、奪三振14。


 終わってみれば、出来過ぎと言えるぐらいの完勝だった。


 ◯


「じゃーねー!おつかれさまでしたっ!」

 本日の立役者である一色は制服に身を包み、左手をぶんぶんと振って颯爽と帰路に就いた。その隣を、微笑ましいような表情を浮かべた鴬谷が並んで歩く。女子寮へと帰る彼女たちとは逆方向に、俺たちは歩き始めた。

「やー、練習試合は4戦4勝!もはや敵無し!このこなっちゃんに、本番もどーんと任せちゃってよ!」

 テンションの高い晴沢が、そんな大口を叩く。

 ……いや、彼女も今日の試合では十分な活躍をした功労者なのだから、大口が見合わないわけではないのだが。

「あまり調子に乗りすぎるなよ?」

「そんなのは、言われるまでもないんだけど…… 孝太郎って、今日なんか活躍してた?空気じゃなかったっけ」

 晴沢をたしなめたはずが、そっくりそのままたしなめ返されてしまった。

「……俺という存在がそこにいるだけで、みんなが笑顔になれる効能が」

「ないわね」

「ないね」

「きしょくわる~」

 2・3・4番打者から総攻撃を受ける5番打者がそこにはいた。

 何を隠そう、それが俺だった。

 全否定もいいところである。学年一の巧打者である晴沢からすれば、本日無安打の俺も『お遊戯会レベル』らしかった。

「自分の存在だけで他人に深い影響を与えられると思うなんて、おこがましいことこの上なくない?なくなくない?」

 心底呆れたように溜息を吐くこなっちゃん。つーかお前も以前『あたしがそこにいるだけで晴々とした気分になるってゆーか』みたいなこと言ってなかったっけか?なくなくなかったっけか?

「そこにいるだけでみんなを笑顔にする奴は、お笑いの劇場にでも寄贈しとくとして……」

 辛辣なことを言いながら、晴沢は左を向き__俺の前を歩く凛子に擦り寄った。

「相変わらず凛子の守備にはホレボレしちゃう!ちゅーしちゃおーっと」

 んー、っとわざとらしく唇を寄せる晴沢の顔面を左手でわしづかみにすることで回避する凛子。右手をポケットに突っ込んだまま「はいはい、また今度ね」とクールにあしらう。

「やめろ晴沢。凛子が困ってるだろ」

 お前にちゅーなんかされたら凛子までゲスになるだろう__と言いかけたが、それを口に出せばどうなるか分からないほど無知ではない。すんでのところで、言葉は引っ込んだ。

 わしづかみから解放された晴沢は八つ当たりとばかりに、俺に不満げに突っかかってくる。

「いーのよ、あたしと凛子は愛し合ってるんだから」

「ふざけるな。凛子は俺と愛し合ってるんだ。そこにあるのは、もはや家族の域さえ超えた、本物の愛だ」

「え~っ、きも……」

 俺の場を和ます見事なユーモアを受け、晴沢は一歩身を遠ざけた。素で引きやがった、こいつ。

 晴沢は凛子の肩を抱き寄せ、まるで犯罪者でも見るかのような怪訝な目付きで俺を睨んだ。誰が犯罪者じゃ。

「ゴリラになんて、凛子は譲ってやんないし~。それに第一、あんたたち兄妹でしょ? フィクションでもあるまいし、そこに家族愛以上の愛なんて生まれないってゆーか」

「そっちこそ。俺は女同士の愛を許容しないほど狭量ではないが、晴沢と義理の家族になるのはゴメンだ」

 晴沢と俺がギャーギャー騒ぐ中、凛子はぽつりと呟く。

「二人の気持ちはうれしーけど、私は雨地さんと愛し合ってるから。ごめんね」

 その言葉を受け、俺は右を__晴沢は後方の、雨地響子を見た。

 彼女はクールな無表情で応答する。

「そうね、ラブラブよ。今だって孝太郎と小夏が邪魔で邪魔で仕方ないわ」

 いつも通り、無駄にノリが良い雨地だった。

 学年最強のノリの良さ。

「響子なんてやめといた方がいいから! 涼しい顔して何も考えてない単なるアホだから!」

 晴沢が声高にネガキャンを繰り広げるが、当の雨地は全く気にする様子もなく水筒のお茶を飲んでいる。豪放磊落(ごうほうらいらく)だ。

「何も考えてない、と言うと語弊があるわね。私は常日頃から、何かは考えているわ」

「……ちなみに今は、何を考えてたんだ?」

「今日の晩ご飯何かなあって」

「模範解答もいいところだよ」

「今日はカレーの気分ね」

 どこかの家から漂うカレーの香りに、雨地はそう呟く。香りを乗せたその風に、雨地の長い髪が揺れた。

「カレーといえば__華麗なホームラン、お見事でした! 雨地さん」

 凛子は話を先の試合に戻し、そんなことを言った。

 ホームランなんてまるでどうでもいいかのような試合中の様子を知っている俺は、雨地の表情を窺う。

 またあの冷たい顔__《無》の無表情をしているのでは、と思ったのも束の間。

 雨地は両手で自信の顔を覆い、小刻みに震えていた。

「……どうした?」

 顔を覆ったまま、雨地は答える。

「いや、ね…… 『カレー』と『華麗』をかけた、文字通り華麗な言葉遊びに歪んだ顔を見られたくないだけよ」

 めちゃめちゃ笑いのツボが浅い天才打者がそこにはいた。言葉遊びとしては大昔からある古典のような部類だぞ、その駄洒落。

「そこにさらにお魚の『カレイ』がかかっていたとしたら、私のお腹は螺旋状にねじ切れていたわ」

「そうか、無事で良かったな……」

 顔を覆ったままの雨地を見て、普段無表情の彼女は表情が崩れると顔を隠すという事実を知った。その手の下がどのような状況なのか大変気になる所ではあったが、雨地は落ち着いたようで、両手を顔から外した。

 いつもの無表情。

「久しぶりにこんなに笑ったわ」

「そうか…… よかったな」

「昨日、ザ☆らべんだぁズの単独ライブDVDを観た時以来ね」

「めちゃめちゃ最近かよ」

 お笑い好きの雨地に聞くまで俺も知らなかったようなマイナーな芸人の名が飛び出て、凛子と晴沢の頭上に揃ってクエスチョンマークが浮かんだところで、雨地が横断歩道の前で足を止めた。雨地と同じく駅に向かう晴沢も、彼女の隣に並ぶ。

「じゃあ、ここで。また明日ね」

「おう」

 信号が青になって歩き始めた彼女たちが何やら言い合いをしていた(一方的に晴沢が絡んでいるだけで、雨地はどうでもよさげに受け流している)のを耳で拾いながら__俺は凛子と並んで歩く。

「はぁーっ、疲れた疲れた。帰ったらすぐお風呂入っちゃうね」

「俺も一緒にか?」

「もちろんそんなわけないじゃん…… 二人きりの時にそう言われるとガチっぽいからやめてよ…… 小さい子ならともかくさ」

 何で俺はこんなにも大きい子なんだと、凛子が思い浮かべる架空の小さい子に嫉妬心を覚えつつ__試合後の疲れから来る眠気を払拭するため、伸びをした。並んで歩く二つの影のうち大きい方が、さらに大きくなった。

「まあ、なんにせよ…… お疲れ」

「ういうい」

 間の抜けたようなカラスの鳴き声が、沈みかけた夕日に溶けてゆく。

 緊張感から解き放たれた爽快感。

 隣に凛子がいることも相成って、心地が良かった。吹き付ける風がいい気持ちだ。

「出来ることならこのまま『そして、大会当日__』なんてモノローグでも挿入して、本番を迎えたいものだけどな」

「そうそう都合良くはいかないよねー? なんたって、すぐに期末試験があるわけですから」

 可愛く無邪気な笑顔で、俺の願望を叩き割る凛子だった。

 涼しげな顔が憎い。

 中間試験で鴬谷に次いでA組第2位の成績を収めただけあって、余裕綽々である。

「……2週間ちょい、か。今からでも鴬谷に助力を乞うべきかな……」

「いやいや、お兄ちゃん!ここに頼りになるお方がいらっしゃいますじゃないですか!良く出来たキュートな双子の妹こと、凛子ちゃんが!唯一無二にして一蓮托生であるところのお兄ちゃんのためなら、いくらでもお力お貸ししまっせ!」

 凛子がわざとらしく、もみ手をしながら擦り寄ってくる。「げっへっへ」などと、普段生活していて絶対使わない笑い声を添えて。

「怪しい口調はやめろ。謝礼を払う余裕はうちにはない」

「同じ額のお小遣いもらってるくせにね」

「それに、お前と勉強してると自然にゲームする流れになるんだよ。何度も何度も無敵状態で俺をひき逃げして行くな」

「あっはー、じゃあテトリスにする?」

 お兄ちゃんは何やっても弱いからボコり甲斐があるぜー、などと双子の兄をおちょくりまくる双子の妹。そういえば、ゲーム類で凛子を相手に一度でも勝った記憶がない。同じ環境で育って、どうしてこいつはこうも器用なのだろう。それとも俺が不器用過ぎなのか。

「ま、人生なるようにしかならないよー。苦労を避けて甘い汁すすること考えてても、どっかで綻んじゃうだけだって!」

 ばしばしと俺の背中を叩き、凛子は上機嫌に鼻歌を口ずさみ始めた。

「……そうだよなあ」

 唯一無二にして一蓮托生であるところの凛子については、またしてもたかられてしまいそうなので、まあ置いておくとして…… また、鴬谷に頼んでみよう。

 今度は試験直前ではなく、もう少し早く。

 彼女なら俺にたかったりしないだろう。

「今日の晩ご飯は何かな? 賭けよっか」

 道を一本折れ、我が家が見えたところで、凛子がそんな提案をしてきた。

「……いい加減お前は、俺にたかるのをやめろ」

「えー、いいじゃん。私、今日はカレーな気がする」

「俺もカレーが食いたかったところだ」

「それじゃあ賭けになんないよー」

 ぶーぶーと文句を垂れる凛子の先を行き、鞄から取り出した鍵を、玄関の鍵穴に差し込んだ。開けた扉の先から漂う香りが、俺たちの鼻腔をくすぐる。

 引き分けだね、と凛子がおかしそうに笑った。

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