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魔法使いの騎士  作者: 炬燵蜜柑
4/7

第4話

長い話にお付き合いいただいてありがとうございます。

そろそろ佳境に入ってきます。面白く思ってくれればうれしいです。

豪腕一閃。

 結局、賞金首はこちらに踏み込む度胸すら持てず、恐怖から足がすくんだのか、無様にもその顔面で、振り下ろされた巨剣を受けた。

 直撃した感触も無く、破砕させた音もしない。それでも自身の勝利を確信したのは、視界に冗談みたいな量の血飛沫が映ったからだった。

 水たまりの表面に拳を叩き付けたかのように舞い散る飛沫は、同じ液体であるにもかかわらず、致命的なまでに醜悪に映った。

 大剣を投げ捨てる。血糊が付いた鉄塊は、それを振り払いながら風の壁を突き破り、『檻』の外に出た。まるでこんな扱い方をした俺から逃げ出すようだと感じたのは、それほど俺が目の前の状況を醜いと感じているからなのだろう。

 少し経って、『檻』が消えた。相手の命を奪った証。どうやら即死だったらしい。

 「はぁ」肺の中の空気をすべて外に出すような、重い溜息をついてその場に座った。情報ではこの男は単独犯。ここに来るまでも、この男以外の襲撃を受けても居ない。情報は確かな筋からの情報だし、もう安心してもいいだろう。

 腕が痛い。最後の最後まで相手はこちらに踏み込んでくることはしなかった。だからこそ、時間がかかった。こういう相手が一番困る。特に、こういう戦い方をしてくる相手で、かつ複数犯だと手に負えない。技術や戦い方云々よりもまず体力がもたない。

 時間にしてどれくらいだろう。自身の疲れ具合から、凡そ十分ほどだったと推測する。十分。そりゃ、あれだけのものを十分間も振り回してたら疲れるよな。

 普通、これだけの長時間の戦闘は珍しい。こちらが疲れる以上に、相手の疲れる度合いの方が上だからだ。一発当たる、もしくは、掠るだけでも即死しかねない代物を、延々と避け続けるのは、思った以上にプレッシャーになることは考えるまでもないし、モノがモノなだけに、紙一重で避ける、なんていうのは難しい。足下を薙ぐように振れば、自然、跳んで避けざるを得ないし、胴体を狙えばしゃがまざるを得ない。後ろに避けるのもあるにはあるが、スペースが少ないのでそれが出来ることは珍しい。

 自然、体を常に激しい運動に曝し続けなければならない。尤も、それは俺にも言えることではあったが。

 深呼吸をゆっくりと五回ほど。激しい運動の後だからだろう。体が熱い。このまま少し横になりたいと思ったが、しかしあのガキの事もあるし、元々ゆっくりしていられるほど時間に余裕があるわけでもなかった。この賞金首の賞金は、ランクで言っても最低レベル。ケチケチ使ったとしても、一ヶ月程の生活費にしかならない。あの女の言った対象は前に狩ってしまったし、生活費の足しにでもしようと、身近で手軽な賞金首を探した結果だった。

 この賞金首は、貴族の家に盗みに入った泥棒だった。本来なら懸賞など掛けられるレベルの犯罪者ではない。誰か傷つけたわけでもなかったし、このことによって被害を受けたのは当の貴族本人だけ。そんなことの為にギルドは動かない。それは国王の自宅に盗みが入ったとしても同じことだ。基本的に、ギルドは多数の人民に対して脅威、或いは被害を生み出した人間に対して懸賞を張る。

 だが、今回のように懸賞をかけるというのなら話は別になってくる。面目を保つために、盗みに入られた貴族が多額の賞金をかけることがある。その為、明らかにその犯人の力量に伴っていない賞金額が、その犯人には付与される。

 この男の悪かったところはそこだ。ただ一点。貴族の家に盗みに入り、そしてばれたことだ。やるのならば決して見つかってはいけない。それが出来ないのならば、ごく普通の、平民の家に入れば良かったのだ。それだったならばまだ、騎士団に捕まるだけで済んだかもしれないのにそれが叶わないのならば、普通に労働をして、その対価を貰うべきだった。

 尤も、それが出来ない状況だったのかもしれないが、それは俺にとって何の意味も無いので考えないことにする。

 まるで弱いもの虐めだ。だが、これで金が貰えるなら別に俺にとっては文句もない。可哀想だと思うことも無い。犯罪者は犯罪者だ。大方、調子に乗った馬鹿だったのだろうと勝手に結論付けて、俺はその場を後にする。

 犯罪者は疎ましい。この世から滅ぼしたいほどに。今すぐにでもこの世の全ての犯罪者が殺されたら良い。少しずつ、絶望を感じるような殺され方で。

 考えないように、考えないように。自分の中にある壺の蓋を決して開けないように。そう考えても、やはり少し遅かった。気持ち悪い。気色悪い。この世に生きているもの全てが鬱陶しくなるほどの嫌悪感。この嫌悪感が自分に向けられているものであって、だからこそ世界全てが嫌になるのだ。そんなことは分かっている。

 単純な話だ。俺は自分が嫌いなのだ。




 一歩、二歩、三歩………四歩、五歩、六歩……。

 少しずつ、噛み締めるように、けれど意識は別のところに押しやって、何も考えず何も行わないような自然さで、けれど確かに、少しずつ前に進むような『プログラム』を頭に組み込む。そのプログラム通りに動く自分を、まるで別のどこかから見ているかのように、自分の意識というものを外に置く。

 見ているようで、見ていない。歩いているようで、その実感も無い。それはまるで人という名の人形だ。

 だがそれで良い。人の体と意識で出来ないことならば、それ以外のものになって目的を完遂する。

 まるでそうであることが当然であるように。痒い所を掻くのと同じように、眠いときに眼を擦るのと同じような自然さで。ナイフを首元に添える。呼吸も乱れていない。意識もまだ外にある。音も立てていない。きっと気配も殆ど無い。

 いける。これはいける。後はこの手をそっと、静かに横に動かすだけ。それだけでこの男の首を裂くことが出来る。力も速度も必要ない。ただ動かす。それだけで事足りる。

 もう少し、もう少しだ。念願の殺しが成る。両親を卑怯な手段で殺し、その上で自分を殺さなかったこの男に、その報復をすることが出来る。殺さなかったことがこの男にとっては情けだったのかもしれないが、生き恥もいい所だった。人質になってしまった自分が許せなくて、その尻拭いを出来ない自分が悔しくてしょうがなかった。自分が生きていることが恥ずかしいことに思えて、常に周囲に嗤われている気がした。生きていることが苦痛で苦痛で仕方なくて、生きているのが嫌で嫌で仕方なくて、でもそれでも。

 許せない、そう思ったから。

 ――殺して、やる――。

 だが、何だろう。どこか、気色が、悪い。

 頭痛がした。この痛みはどこかで感じたことのある痛みだった。自分の何かが自分の行動の何かを極端に拒否している。やめろ、それ以上やるなと。この痛みを感じたのは、一体どこだったか。

 途端、自分の過ちに気づいた。自分の目が血走っているのを感じる。呼吸が荒い。意識が外から中に戻っていて、その様子は以前、襲ったときの自分のようだということに。

 これではダメだ。気づかれる。まずい、と思い腕に力を入れ、早々と刃を奔らせようと思った。が、その時には既に遅かった。既に両手を塞がれていた。

 「……よぉ」

 気づかれた。完全に両手を塞がれて、手にもつ刃はただの重い金属の塊に成り下がる。ここからはもう、無理だ。近接スキルで勝てないのは既に十分知っている。鍛錬を積みに積んだわけでもない。まだこの男に勝つには自分には圧倒的にモノが足りない。この男が本気で自分を殺しに来たならば、男の体勢も状況も関係ない。ある程度の距離をもった一対一。逃げ場のない檻の中へと、強制的に閉じ込められる。何度も見てきた。移動が恐らく、無理であろう体勢で矢を受けそうになったとき、この男の力が発動した瞬間を。その瞬間に直立、かつある程度距離があるところに、その力が発動した対象が移動したことを。

 言うなれば強制的な『仕切り直し』だ。奇襲をかけたところで必ず、きちんとした正々堂々の勝負をすることになってしまう。

 だからこそ、奇襲は気付かれずに完結する必要があったのに。

 「巧くなったな。けど、褒められる才能じゃない」

 降参の意図を込めて、刃を落とした。いつもこの時に怯える。この男が、自分に次回のチャンスを与える保障などどこにもないのだから。特に今回は、惜しいところまでいった。男が危機を感じて、自分を殺す状況が脳裏を掠め、額から冷たい汗が滴った。

 「さっさと寝ろ。今日の間はこの鉈、俺が預かっとくから」

 だが意外なことに、男は特に何の文句もなく、かつ躊躇もなくパッと手を離した。武器を持って立ち上がり、荷物置き場へと置いて、ただそれだけで、何事もなかったかのように、もう一度寝床に倒れこみ、薄い布団を被った。

 ――男は知っているのだろうか。この何でもないよというような態度が、自分にとってこれ以上にない苦痛になっていることを。

 悔しい。この男は、自分のことを、何でもないものだと感じているんだ。取るに足らない存在だと。歯牙にもかけない。別にお前が何しようが俺には何の脅威でもないし何の影響も与えられない。男はそう、態度で表している。

 この態度が、一番気に入らない。

 イライラする。拳が砕けそうな程に握っても、何の足しにもならない。体の中、そのもっと深い部分から、何かが弾けそうな気配を感じる。

 寝床に戻る。倒れこむように寝転び、拳を振り上げた。

 怒りのぶつけどころが分からず、振り上げた拳を、地面に向かって振り下ろした。奔る痛み。テント一枚を隔てた先は荒れた地面だ。叩けば痛いのは当たり前だ。

 もう一度振り上げる。痛みが足りない。いや、痛みを吐き出すのが足りない。何も無い空間にあの男の顔を想像し、それを叩く。虚しいただの八つ当たりと知りながら。

 このまま拳が砕けても構わない。ただこの内から来る怒りをどうにかしないと、身動きが取れない気がした。もう一度、拳を振り上げる。もう一度。もう一度。手が切れた。地が見える。だが構うものか。本当にこのまま手が壊れてしまったとしても、今の状況から脱せない方が断然苦しいに決まって――。

 『だが、あの男は殺せなくなるな』。

 頭のどこか冷静な部分が、冷たく言い放った気がした。

 拳が地面にあたるスレスレで止まった。止めた。血がぽたぽたと垂れている。雫の様にゆっくりと。幸い、傷口は深くは無いらしい。

 体が震えているのが分かる。頭では分かっている。この痛みはぶつけるものではない。その時まで、溜め込むものだということを。今日は惜しかった。きっと次ならもっと巧くやれる。我慢しろ。飲み込め。悔しいだろうがここは我慢する時だ。泣いたって何にもならない。誰も帰ってこない。誰も生き返らない。誰も殺せない。何も進展しない。悔しがる必要はない。お前はまだ死んでないんだから。やるのは今日の後悔と、そして反省だけだ。次に殺せば良い。だから、今は悔しがる必要何てない。

 分かっている。頭では分かっているのに。体が、心が言うことを聞いてくれない。

 両親を殺し、自分を生かしたままにして、そしてどんなに努力しても、まるで何でもないことのように接するあの男の態度が許せない。お前のことなど眼中にないとでも言うかのようなその態度が、余りに悔しくて。

 「うっ……ぐっ……っく……」

 声を押し殺して、涙した。



 昨日は結構やばかったなぁ……。

 そんなことを思い出しながら目を覚ました。眠い。体感だが、いつもより随分早い時間に眼が覚めたようだ。

 だが考えてみればそれも当たり前だった。起きた時に首にナイフ突き立てられてて危うく殺されそうだったんだ。その後で快適な眠りが出来るわけも無い。

 あいつどこであんなスキル学んできてるんだろ……はー。面倒臭い。明日からはもうちょっと警戒しておかないと、起きた時に視界が血の海になりかねない。

 とりあえず顔でも洗いに行くか。確か近くに川があったはずだ。昨日もそこで水を補給したんだから間違いない。などと、どうでも良い事を考えていくうちに、少しずつ嗜好がはっきりしてきた。多少眠くても、少しばかり頭を動かしているとすぐに活動できるようになるのは、日々の習慣の賜物だ。

 テントから出る。ふと、もう一方のテントの扉が開いているのに気付いた。どこかに行ってるのか。

 空を見上げると雲一つ無い青空。嫌になる。だがまだ今日で助かったかもしれない。今日は午後になるまでに街に着く。休もうと思えば、宿でゆっくりと休むことが出来る。幸い、金も入る。一ヶ月以上過ごそうと思えば多少節約しなければならないだろうが、一日や二日、贅沢するくらいの金はある。次の標的を見つけようと、努力することを続けるのが前提、だけれども。

 さて、ガキがどこだろう。そういえば、朝起きた時には見かけない事のほうが多かった。朝方に襲われた経験もないし、ここ三ヶ月ほど、一切襲撃が無かった。何か思うところがあって、自分の技術を磨いていたらしいことは、昨日の一件で分かったのだが。諦めたのかという淡い希望は、残念ながら打ち砕かれてしまった。

 さて、どこに居るんだろう?

 正直な話、昨日は本当に危なかった。もし、あいつが最後まで、何の感情も見せずに、何の気配も感じさせずに、事を完了させることにだけ尽力したのならば、もしかしたら俺はもう天に召されていたのかもしれない。

 それほどに、昨日のあいつの手口は、一般のレベルから抜きんでたものだった。

 俺だって、さすがにそんじょそこらの奴の奇襲にかかるほど間抜けではない。寝込みを襲われるなんて日常茶飯事だし、その手のプロと言っていい奴の襲撃を受けたこともある。勿論、そういった輩が標的になったことも少なくは無かった。

 その時にも手馴れている人間の襲撃を完全に察知していたとは、お世辞にもいえない。たまたま、相手が間抜けにもわざわざこちらを起こして、他に自分を狙っている協力者がいるか、情報を聞き出そうとしたところで、俺が力を使って撃退しただけなのだが――。

 あのガキが昨日やったのは、つまりそういうレベルの話だ。

 何人も殺してきた人間が、やっとたどり着く境地。奇襲などという生ぬるい単語ではなく、『暗殺』と呼ばれる、目標に気付かれずに殺すと言う単純な事項をひたすらに突き詰めた、職人めいた殺人行動。気付いた時には死んでいる。ただそれを達成するためだけに磨く、人を殺すだけためだけに生まれた、それ以外に何の使い道もない特殊な技巧。

 それをあのガキは、誰にも教わらずにやっていた。

 それは才能と言うには余りにも出来すぎたものだ。言うなれば天賦の才能。神が与えた才能に、個人としての性能がマッチし、更に努力を重ねた、他者を寄せ付けない圧倒的な天性。それをあのガキは、持っている気がした。ただ筋力が発達しているだけ、ただ知能が人より優れているだけ、ただ体格が優れているだけ。そんな些細な才能等とは比較にならないほど優秀で、圧倒的なものを有している。

 これ以上、そう、例えばことが完遂するまで自分と言うものを完全に抹消できる、自分を何かの歯車の一部とでも思い込み、その思い込みを最後まで実践できるほどの経験を積んだなら。

 俺は易々と、文字通り寝首を掻かれてしまうだろう。

 だがそれは、あのガキにとって良くないことだ。いや、人間としてよろしくない。暗殺に必要なのは、自分を只管に殺す作業なのだ。まともな神経があれば、寝ている無防備な人間を、何の躊躇もなく戸惑いもなく音もなく気配もなく殺すことなど、まず出来ない。それが出来るのは、とにかく、自分の感情や思いや感覚を、殺し尽くすことが出来る人間だ。自分は何かの作業をするためだけの人形だと。自分に言い聞かせなければならない。暗殺とは、他の誰かを殺す前に、自分の全てを殺し尽くすことから始まるのだ。

 それはどこか、人として壊れてしまっている。あんな幼いうちから、そんなスキルなんて学ばなくていい。

 だからそれを防ぐためにも、余り気乗りはしないが、相手のことを知る必要がある。どういう練習をしていて、どういう手口なのか。そしてその完成度はどこまでなのか。もし防ぐ手段が無いのなら、その際は、もうどうしようもない。今更預けるような場所は知らない。その時は、また借金が嵩むが、あの詐欺師のお世話にでもなるしかない。そんな自問自答をしながら森の中を歩いて行った。

 しかしどうだろう。頼むなら今頼んだ方が良いかも知れない。あの魔法使いの要求する報酬は、時価だ。その時その時、依頼したものと同等の報酬を要求するからだ。

 分かりやすい例え話で、あの女は以前、自分の仕事の内容を明確に教えてくれた。

 報酬が二百ゴールドの仕事があるとする。その仕事をこなすはずだったが、唐突に面倒になって、したくなくなった。それを依頼した場合、その二百ゴールドや、その人間にとってのその仕事の価値も考えに入れるが、最も重要視するのは、その仕事を頼む理由。『面倒になって』という度合いで、料金を選択するのだそうだ。

 元々、大して面倒でなくて、ちょっと我慢すれば仕事もするんだ、というような人間なら、それ相応に、金額は安くなる。だが、例えばちょっとした病気で、『どうしても仕事がしたくない』だとか、『これをやるくらいなら死にたい』などと、強い思い込みがあるのなら、最悪の場合、命を対価にその仕事を請け負うのだと。

 そして、その仕事を依頼した時の、その人間の考えに基づいて、報酬を決定するらしい。

 まとめてしまえば、あの女に何か頼んだところで、全く好転はしないのだ。、あの女に何か厄介ごとを頼むと、それに見合う対価は、やはりそれと同じくらい厄介なものになる。労働でも物でも金でも、支払う手段は時によるが、価値が同じになるまで対価を払わなければいけないのは共通だ。解決するわけでは決してない。

 まるで何でも解決してやるかのような口ぶりで依頼を受けるくせに、その実、何も解決しないのは、少なくとも俺の目には、詐欺師にしか映らない。

 だからこそ、別段、まだ大丈夫だろう、くらいの思いを抱いている、今の段階で頼んだ方が、もしかしたら安くつくかもしれない。本格的に危なくなったらそれこそ、命をとられかねないからだ。だが、勿論、これからも俺が対応できるのなら、別に頼まなくてもいい。用心に用心を重ねるなら、今から頼んだ方が良いが、さて。

 あいつの関係者で子供を育てれる奴が居るだろうか?

 居ないだろうな、多分。子供だろうがあいつは極端に容赦が無い。以前、あのガキがあの女に吹っ飛ばされたときのことを思うと、とてもじゃないが任せられる気がしない。

 そんなことを思ったときに、視界にガキの姿が映った。没収されたからだろう。ナイフではなく、そこらにある、自分で細工したのか、それとも自然のままがその姿だったのか、若干尖った木の棒を手に持っている。

 『視界に映った』という表現は、言葉として間違っているようで、間違っては居ない。『たまたま視界の中で、そこらの景色とは違う色を見つけた』という違和感で、あのガキの存在に気付いたのだった。俺の正面、約二十メートルほど先にあのガキはいるのだが、しかし、正面に居るというのに、ここまで近づかなければ気付かなかった。木々で見えなかっただとか、草の陰になっていたというのはあるかもしれないが、それほど大きな障害物はない。視界には捉えていたはずだったのに、それを知覚できなかった。

 それほどに、あのガキの存在自体が、非常に希薄だった。影が薄い人間というのは世の中には多々居るが、そういう感覚をとことんまで突き詰めれば、こういったことが出来るのかもしれない。人というより物だ。そこらにある石ころと何も変わらない。

 何も考えない、何も思わない、何も狙わない、何も望まない。

 あのガキが何をしようとしているのかすら、俺には理解できなかった。

 ふと、ガキが動き出した。ゆったりとした動き。ただゆっくりとした動きではない。風で木々が揺れるように。揺れた木々から葉が揺れ落ちるように。その動き一つ一つが、そんな、自然のありふれた風景をコマ送りしたかのよう。

 一匹の動物に向かっていく。観た覚えのある兎だった。確か記憶に寄るならば、あれは多くの同種の生き物と同じように、集団で動くはずの生き物で、そして音や気配に非常に敏感のはずだ。この大陸ならばどこでも生息しているはずだが、その身動きの速さと気配察知能力の高さで、狩りには向かない生き物のはずだ。罠にかけて、運が良かったら捕まえられる、といった具合の。

 その生き物が、ピクリとも動かない。

 一歩、二歩、三歩、どんどん歩みを進めていく。それほどゆっくりとした歩みではないが、それでも足を踏み出すごとに音が鳴るわけではない。随分訓練したのではないだろうか。そんなことを思っている間に、どんどん歩を進めていく。ついに、最後の一歩、完全にその生き物を射程距離に収めた。

 緩やかに、そして静かに、腕に持っていた木の棒を上げていく。

 まっすぐに、ピンと腕を伸ばしたところで一つ、呼吸を置いた。少し待って、意を決したようにその棒を、その動物めがけて勢いよく振り下ろす――!

 だがその棒が獲物に届くまでのわずかの間に、兎は文字通り、脱兎の如く、爆ぜるように逃げ出した。

 「くそっ」

 何か堪えていたものを吐き出したように、重く深いため息を吐きながら、ガキは座り込んだ。

 その様子を、少し、背筋が凍るような感覚を伴いながら、眺めた。このガキの才能に、ほんの少しだけ恐怖を覚えた。本当に殺される日が来るのかもしれないという予想は、遠くない未来に本当に起こりうる未来に変化した気がした。座り込んだガキの目の前に、血まみれで倒れている自分が目に浮かんだ。

 だが一方で、あのガキには、克服しようのない欠点があることに気づいた。そのことに少なからず安心したが、しかし、脅威であることに変わりはない。

 ガキがこちらに気づいたようだ。どうも、この訓練を気付かれて欲しくはなかったらしい。こちらと目が合った次の瞬間、目に見えて不機嫌そうに視線をそらした。

 気付かれたのにこのまま遠くで、生暖かく見守るというのも気持ちの悪い話だ。草木をかき分け、近づいていく。

 「朝早いんだな」

 「……」

 一応挨拶のつもりだったのだが、ガン無視だった。

 どうしよう。

 次に何て言葉をかけようか悩んでいる間に、沈黙が訪れる。

 「……」

 「……」

 どうしよう!?

 やばい、近寄ったはいいものの、かける言葉に困る。そういえば、基本的に、俺はこいつと会話をしたことがない。というか、無視されるのが分かっていたから滅多に声をかけない。反射的に近寄ったが、しかしこれはどう対処すればいいんだ!

 「惜しかったな」

 「……」

 とりあえず、(自分を殺す為らしい)訓練の成果を褒めてみた。

 やべぇ、すげえ微妙な気分。

 「……はぁ」

 溜め息つかれた。

 うわ何だこれ。何で俺こんな罰ゲーム受けてんの!?

 「まあ、あれだな。途中までは凄かった。お前ぐらいのガキであんなこと出来るもんなんだな」

 「殺せなきゃ何の意味もない」

 返事があった。返答から、どうやったら対象を殺すまで、気付かれることなく出来るのかを思案しているようだと感じた。

 教えるつもりはなかったが、教えたからと言って克服できるようなものではない。とにかく、この沈黙が続きすぎる会話に耐えれない。そう思って、俺は先ほど気づいたことを教えてやった。

 「お前は、殺すっていうことに対して、罪悪感を持ってるからだろ」

 「ざいあく、感?」

 単語の意味が分からないようだった。ここら辺は子供なんだなぁと、少し安心する。

 「簡単にいえば、悪いことっていうことだ」

 「……何が言いたいんだかわからない」

 「言葉の通りだよ。普通の人間って言うのはな、悪い事をする時に躊躇するものなんだ。自分が悪いって思う事にしか、こういう思いは働かないけどな」

 「……分からない。もっと分かり易く言ってくれよ」

 久しぶりに、応答らしい応答がある会話が、自分を殺すスキルを学ぶため、というのはあまりよろしくないよなぁ、などと、心の中で苦笑しつつも、俺は質問に答えてやる。

 「お前は生き物を殺すっていうのが悪いことだって思ってるんだよ。これは世間一般の常識とてらしても、何の違和感もない。普通は、そう思ってる。だからこそ、殺す前に躊躇してしまう。『これをやりきってしまったら、きっと自分は罪の意識で苦しむ』、要するに、悪い事をした悪い人間になってしまう。そうなることを恐れてるんだよ」

 「……」

 心当たりがあるのか、はっ、と、息を吸ったのが見えた。

 「じゃあ、どうすれば克服できるんだ」

 「荒療治とゆっくり克服してく手段が、あるといえばある。無いといえば無いけどな」

 「……あらりょうじ、っていうのは、早く出来る方法のことか」

 「頭いいな、お前。そうそう。てっとり早く克服する方法は、あるにはある」

 「教えろよ」

 「教えてくださいだろ……あぁ、睨むな。言わせようとかは思ってねぇよ」

 しかし、殺す相手である俺に、その方法を教わろうというこのガキは一体どんな気持ちなんだろう? 抵抗はないんだろうか。

 「簡単だ。誰でもいい。ろくでもない奴でもいいし、別にそうでない奴でもいい。人格についてはどうでもいい。ただ、悲しいほどに無力な奴を殺せば良いんだ」

 「誰のことなのか、さっぱりわからないが」

 「だから、そうだな。お前よりも大分年下、赤ん坊でもいい。逆に、年老いすぎて、抵抗する力も無いだろう老人でもいい。とにかく、自分が殺そうと思った時に、何の苦もなく殺せる人間を、まず殺してみれば良い」

 「反吐が出る」

 「全くだな。これは人間としての行動としては確実に間違ってる。極論しちまえば、別に無抵抗じゃなくても良いんだよ。とにかく一回、人を殺せば良い。そうすれば次は、大して苦もなく、殺すことができるもんさ。無抵抗な人間を殺すのが、一番良識としては外れてて、一番罪の意識を感じやすい。だから、それを殺せるなら、他の奴なんて、ましてや、誰かを殺した挙句、逃げ出した奴を殺すのに躊躇いなんて起きないだろ」

 「そういう問題じゃないだろ」

 「ああ。普通はな。だが、はっきりと言っておくぞ。お前が目指してるのは、その普通じゃない奴なんだ。常識とか、良識とか。そういう次元の『問題』っていうのとは、また別の次元の話になる……ああ、わかりやすく言うと、頭がおかしい奴には頭がおかしい奴なりの常識があって、お前がなろうとしてるのはそういうものだから、まともな奴の常識で考えてもしょうがないってこった」

 「……もう一つは」

 「もう一つは、少しずつ少しずつ、人間という生き物を嫌いになっていけばいい。これは年数を重ねれば重ねるほど難しくなくなる。注意するのは群れてはいけないってことだな。群れると人間の悪さも見えるけれど、良さも見えてくるもんだから」

 「……だから、よくわかんねえよ。アンタの言い方」

 「……要するに、そうだな。情がわく。友達とか仲間とか、そういう情が沸く。そうなると、人は殺しにくくなる。もしかしたらこいつにもそういう人間がいるかもしれない。なんてな。殺すのには邪魔になることを考えて考えて、判断を鈍らせ、詰めを誤らせる」

 丁度、今のお前みたいにな、と。俺は続けた。

 「お前は、そうだな、その事には、両親に感謝した方がいい。ああ、嫌味じゃない。睨むな。反省はきっと、しないだろうが、それでも、純粋にそう思うんだよ。たとえ犯罪者でも、自分の子供に、当り前の良識を教えてるんだからな」

 「何言ってるんだ?」

 「難しかったか? 簡潔に言うと――そうだな、お前が人として育つのに大切なことを教えてくれたのだから」

 だから――だから、何を言おうとしているんだ。

 感謝しろとでも、言うのか。

 俺が殺した相手なのに。

 俺は何を言おうとしているんだ。

 これは、まだ言うべきことじゃないのに。

 「それは、捨てずにいるべきだと、思うって、言いたいんだ」

 「良くわからない」

 そりゃそうだろう。俺も、なんでこんなことを言ったのか分かってないんだから。

 「あんたを殺してから、ゆっくり考える」

 「そうだな。それがいい」

 結局、俺を殺さないと、きっとこのガキは先に進めないのだ。

 だからこれは、きっとおいおい理解していくもので、今伝えたところでどうにもならない。それがわかっているのに、なぜこんなことを伝えてしまったのだろう。

 俺に見られているのが嫌なのか、ガキは奥へと向かって歩き出した。暗い暗い闇の中へ進もうとするその姿は、どこか見てて悲しくなってくる。

 「ああ、そうか」

 ぽつりと、思わずひとりごちた。

 なんでこんなことを言うのか。その理由が理解できた。意味不明にもとられかねないことを言って、一体何を言いたかったのか。

 「格好悪」

 まさか、それがどれだけ恵まれてるか、思い知らせてやりたかったなんて。

 そう。俺は、あのガキがうらやましかったのだ。

  


 

 いつものように、今回獲得した賞金を数え、ああ、また働いたものだなぁ、という、そんな自己満足に浸ったあと、金額の六割を入金する。今回の賞金は三十万。普通の金額ではあるが、相手が相手なだけにこの報酬は正直、美味しいものだった。ちょっとしたボーナスのようなものだ。運よく近くに居たし、巧い具合に隠れたのか、他の賞金首に先を越されることも無かった。

 しかし三十万の六割を入金だ。残金は十二万。それほどたいした額ではない。また、自分の寿命が一ヶ月は延びた程度。

 やれやれ。溜息をつきながら、自分の口座に入金する。元々、このシステムで裕福な暮らしなど出来るわけもない。火の車だったのはあのガキを引き取るまで変わらなかったが、しかしそれに拍車がかかり、より速く回り始めている。このままでは、やはりジリ貧だ。

 いい儲け話が無いか、あの魔法使いに聞くべきかなぁ……。

 そんなことを思いながらも、まず街の情報屋に話を聞いて回ることにした。まだ昼間だ。太陽は真上に輝いている。時間はあるのだから、また何か良い事を聞けるかも知れないと、そんな淡い期待を胸に抱いて。

 勿論、そんな都合のいいことはあるわけも無い。俺は一日、歩きに歩き、金を払うだけ払って、しかしそれほど嬉しい情報が得られたわけでもなく、全てを徒労に終えた後で、街に入ってすぐに取った、格安の宿に戻った。部屋に戻るとガキの姿は無い。大方、勝手に食堂で飯でも食ってるんだろう。あのガキのそういう順応性はかなり高い。単純に、俺と一緒には食事をしたくないということなんだろうが。

 荷物を置いて風呂に入る。万一の為にマントに仕込んである多くの短刀の内、一本を持っていく。いつもの慣習だ。

 蛇口を捻ると、シャワーからお湯が出てきた。原理は分からないが、近場の水の生産施設から、水を引いてくる水道というものと、そしてその水自体を温める特殊な石のようなものを、魔法使い三人で、三十年ほど前に開発したらしく、俺が生まれ、物心つくころにはもうこういった施設は普及していたと思う。そういう発明も、魔法使いの活動の中に含まれる。こういうことだけしていれば、素直に尊敬できなくも無いのだが。

 まあ、細かいことを言っても仕方が無い。とにかく大事なのは、あの魔法使いどもは確かにあまり好きではないけれど、こういうものを開発してくれたおかげで、俺はシャワーも浴びれるし、熱い風呂にも入れるし、疲れも取れるし、束の間の幸せも味わえるわけだ。魔法使い様ありがとう、合掌。

 体を一頻り洗った後、風呂に入る。ガキが入るとでも思い、気を利かせたのか、すでにお湯は入っていた。それでも熱い。さすが魔法使いの道具を使っているだけあって、いつでも熱々だ。

 ふー。と、大きな溜息をついた。疲れた。この瞬間が、俺の人生の中で大きな憩いのときになっているかもしれない。

 「邪魔するぞー」

 ガラッとドアが開いた。 

 全身が紺のローブ。胸元には三大陸、その代表者が平和条約を結んだ際使われた印であり、今の魔法使い達に愛用されている、太陽と月と星が、重なり合った特殊な金刺繍。肩からは黒のマントを羽織っており、首には金の、これまた、刺繍と同じ形のペンダント。

 どこに出ても恥ずかしくないほどの完璧な礼装の、銀髪の美しい魔法使い。

 ――が、男が風呂に入ってるのに堂々と入ってきた。

 「え」

 「よ!」

 びし! という効果音が聞こえそうなほどはっきりと、魔法使いは右の手のひらをこちらに向けて突き出した。

 「ぇぇええええええええええええええぇええええええええぇええぇええええええええええええええええ何でなんでおいなんでえぇぇえっていうかちょっとまておい閉めろおい早く!」

 「いやぁ、それが実は緊急を要する事情でなぁ」

 「おい何でニヤニヤしてるんだ! 明らかに急いでないだろ! っていうかお前、この前全裸見られたばっかだろうが! まさかその仕返しか!」

 「馬鹿を言うな。私がそんなことを、思う、わけが、な、ないではないか」

 「おいこっち向けよ! 視線そらすなよ!」

 「だが、安心しろ!」

 「何をだよ!」

 「私は見られるのは嫌いだが、見るのは大好きだ!」

 「何言ってんだああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 とりあえず石鹸投げて追い出そうとした。

 「慌てるな。全く、裸を見られるなんて今回が初めてではなかろうに」

 「てめぇに見られたのはそうはねえよ!」

 「え……」

 言って魔法使いは視線を上に泳がせながら右手の指を折り始めた。片方の指では収まらないのか、左手へ。それでも足りないのか、折った指を上げて数え始める。

 「少なく見積もっても、十や二十では利かないぞ?」

 「それ覗きだろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! お前馬鹿だろ変態だろいいからさっさと出てけよおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 今まで全く気付かなかった!

 もう嫌だ……もう、こいつに関わるのは嫌だ!!

 「もうお婿にいけない……!」

 「何だ、お前婿養子になるつもりか? やめとけやめとけ、苦労しかしないぞはっはっはっは」

 こいつぶっとばしてぇ。

 「それはともかく、仕事の依頼だ。出来るなら、早めに上がってくれよ」

 「仕事?」

 反応する。こいつがわざわざ俺の所まで訪ねてきてまで依頼するような仕事。その難度の高さ、そして報酬の高さを推測する。

 「やばいのか?」

 分かっていて、質問をする。魔法使いも、こちらがそれを分かっていて質問しているのだと理解していて、意地悪そうな笑みを浮かべながら、答えた。

 「ああ、はっきり言って、極悪だ」

 さも嬉しそうに。

 「このままいけば、世界を滅ぼしかねない奴が相手だ」

 スケールでけぇ。



ケリー=ブロウ。この男が、何故この世界を憎むようになったのか。

 正確にいえば、彼が憎んでいるのは、現段階では世界そのものではない。単一の国家を納めている富裕層であったり、貴族主義というシステム自体である。言ってしまえばその思想は、クーデターを目論むテロリストと何の変りもない。

 では、この男がなぜ、そういった思想に取り込まれたのか。

 ケリーは平民層の出身で、商売を営む男だった。確かな腕を持つ刀剣鍛冶をいくつか注文先に持ち、依頼人の要望に合わせて、注文先の鍛冶屋を選定したり、また、鍛冶屋の方から売って欲しい商品があるのなら、その営業をかけたりするのが仕事だった。

 人を信じすぎるのが弱点ではあったけれど、彼の鍛冶屋を見る目と、営業のセンスは大したものだった。加えて、人柄の良さや、苦境の中でも足掻く諦めの悪さ、そしてそれを克服するために努力を怠らない性格が良い具合に影響し合い、商売は巧く行っていた。腕を見込まれ、国の治安を守る『騎士団』の刀剣などの、大口の発注も抱えるようになり、はたから見れば彼の商売の遷移は、本で見るようなサクセスストーリーと変わらなかったらしい。次第に安定した収入が得られるようになり、家を構え、奴隷階級出身ではあるにしろ、働き者で人格者の妻を持った。関係も良好で、彼の人生に陰りは見えなかった。周囲からの評判は良かったし、是非自分の商品も扱ってほしいと、強い請願をするような鍛冶屋も稀ではあるが見えるほどに、順風満帆といえる人生を送っていた。

 だがその人生も、たった一つの事柄で台無しになってしまった。

 彼と同じような業務を行い、かつ、貴族や騎士団などの大口の注文先に、非常に強いコネクションをもつ競争相手が現れたのだ。名をドルク商会。『安価で優秀な武具を世界に提供しよう』というお題目を掲げた、今もなお、鍛冶などの武具を扱うことにかけては世界でも最大手どころか、ほぼ独占している一大商会だ。

 ドルク商会は、持ち前のコネクションで、ケリーと同じような業務を持つあらゆる商売人を駆逐した。商品の質はあまり良くはなかった。だが、それに比例するように値段も安かった。質自体、傍目にはあまり見えるものではない。特に、兵士になりたての人間には見分けが着かないほどに精密に出来ており、質が高く、値段も高い武具を扱う商人は、悉くその取引先を失い、仕事を失ってしまった。

 ケリーも、その中の一人だった。だが、彼は商人の中では数少ない、ドルク商会の商品自体が、非常に悪質なものであることに気付いていた。有事の際に、唯一の頼りになるのが武具だと、彼はその道に携わる者として、強く感じていた。こんな粗悪品を使っていたら、使っている人が命を落とす確率が上がってしまう。彼は自分の商売の有無よりも、ただその一点だけを、強く気にしていたのだった。だからこそ、彼は自分で起こした商売を捨てるということに、何の不満ももたなかった。そう、彼はドルク商会所属の商売人として、働くことを決めたのだった。評判があり、かつ腕も確かな人間を、ドルク商会は歓迎した。だがよく考えれば、自分たちの商品が確かなものだと、周囲の者にアピールするチャンスだとでも思ったのかもしれない。

 だがそれが不幸の始まりだったともいえる。

 ドルク商会の商売方法は、『悪くてもいいから安く仕入れて、出来るだけ高く売る』。ただこれだけだった。それは彼の信条とはかけ離れていたものだった。

 それがドルク商会の信条である以上、出る杭は叩かれることになる。言わずもがな、ケリーは同じ部署の責任者に目をつけられ、日々暴言と侮蔑と嘲笑の的になる。

 もちろん、志を同じくした同志がいなかったわけではない。ケリーのような経緯を持って、やはり同じようなことを思った商人たちが、ドルク商会の中では、少数勢ではありながら、しかし無視できないほどにはいた。しかし彼ほどの情熱を持った人間はいなかった。知らずの内に、彼はその中でリーダー格として扱われることになる。

 彼がそうした勢力のリーダーとなって一年ほど経った時、事件が起こった。稀に見る魔物の大量発生。元からいた人員以上の人材を、騎士団の中から派遣することが決定し、その補充分の武具の発注を、ドルク商会が一手に引き受けた。ドルク商会は、常日頃売っている商品を、そのまま納入しようとしていた。

 だが、これに彼は猛反発した。魔物退治など、騎士団の業務の中の一割にも満たなかったからだ。経験者ならともかく、全く関係ない部署の騎士団の人間が加わるのだから、武具や防具だけは優秀なものにしなければならないと主張した。少なくとも、今現在ドルク商会で扱っている物品ときちんとしたものとでは、、騎士団の兵士の致死率に大きな差が出てしまうと、強く訴えかけた。

 その動きは内部で大きくなり、ドルク商会上層部も無視はできなかった。この動きが外部に働き、今回の発注が見送りになるのを恐れたのだった。数々の論争を経て、ついに彼は上層部を、会談の場へと引き摺りこむことに成功した。

 その会談に際し、自社で扱っている製品がどれだけ不良品なのかを、説得力を持って説明するために、彼はドルク商会が扱っている製品の詳しいデータを取ることにした。それも、より実践的なデータだ。だが、それは、ここをどの程度の力をかければ壊れる、一般的なそれよりも耐久性がどの程度落ちているか、等の、多くの耐久実験が必要なデータが必要だった。何もその実験は頭の中でやるわけではない。実験をする際には、当り前だが現物が必要になる。だが、その為の経費などは落ちるわけはない。そもそも、上層部は彼を毛嫌いしているのだから。

 その為、彼は自身の財産を投げ打って、ドルク商会の商品を大量に購入した。周囲の仲間が費用を寄付してくれたが、それは費用全体から見れば微々たるもので、結果、かなりの量の私財を失わなければならなかった。だが実験は順調で、最後の詰めの所まで来ていた。

 それは、実際にその商品を使ってもらい、必要になる部分を改善し、安価でありながら高性能な商品への開発コンセプトを提供することだった。商品を批判することは誰にでもできる。だがそれだけで上層部が動くなどという甘い考えは、彼は持っていなかった。ドルク商会が掲げる『安価で優秀な武具を提供する』というお題目は、彼は嫌っていたわけではなかった。それが現実に出来ていないことに憤りを感じていただけであり、もし自分のこの行為で、その姿勢を貫いていく商会へと変わるのなら、自分のこんな努力や犠牲など大したことではない。そんな、淡い期待を抱きながら、彼は日々、実験のデータ集めに奔走した。

 最後の詰めが最も、彼にとっては苦難だった。そもそも、必要になる部分を改善するためには、実際に使用してもらわなければならない。だが、名が売れている兵士ほど、ドルク商会の商品自体を毛嫌いする風習にあった。それも当り前のことではあるが、慈善事業で命をかけてその武具を使い、時間を使ってくれるような人間がいるわけはない。元々騎士団に卸す予定の商品を試してもらい、悪評が立ったならその後の取引に影響が出る。これら二つの理由から、最も試して貰いやすい、かつ安価で協力してくれる騎士団に協力を要請することはできなかった。

 仕方がないので、次点として、傭兵、賞金稼ぎに協力を頼むことにした。彼らは、基本的には金を積めば何でもやってくれる。恐らくこれくらいは出さねばならないだろうという値段よりふた回りほど上の額を提示したら、難色も示されずに協力してもらえた。だがこの時点で、彼は借金にまで手を出していた。

 この実験の中で、彼は自分の扱っていた商品の余りの出来そこないぶりに愕然とした。鉄剣を二振りほど、直撃ではないだろう当たり方をしただけでもへこんでしまう鎧、大振りの剣を掠らせるくらいはできるが、牙のような細かな刃は止めるどころか、そのまま突き刺さってしまう小手、換気性が非常に悪く、長時間どころか短時間すら動くことが危うい具足、大して補強されていない、薄っぺらな鉄で作られただけの、ただ暑さに苦しむだけの兜、五回ほど生き物を切り捨てただけで使い物にならなくなり、著名な鍛冶屋が作った刀剣とぶつかっただけで欠けてしまう剣。どれもが、実際にこれを戦いの場で着けたのなら、と、寒気を感じるような出来のものばかりだった。

 莫大な費用をかけて作ったそのデータと、そしてすべての改良点、それらを克服した際のコストも、納得してもらえるような値段に仕上げた。彼が行っていた商売のスキルが役に立っていた。

 満を持して臨んだ会談は、結果的に言えば成功だったと言える。

 そこでは反対派は彼以外の入室を認められず、完全に孤独な戦いではあったが、それでも彼は自分が調べ上げてきたものと、練り上げてきた自分の構想に自信を持っていたし、少なくとも、大層な理想を掲げている上層部なのだ。彼のアイディアに対して、肯定的な考えを示さざるを得ず、終始、彼のペースでその会談は終わった。会談というよりも、プレゼンテーションに近いその場が終わった後、彼は少なからず、手ごたえを感じていた。

 ――だが後に彼は知る。この時にはもう既に、全てが手遅れであったことを。

 その日以来、おかしな出来事に彼は遭遇する。今まで仲間だと思っていた人間が少しずつではあるが、反応が鈍くなる。会談が終わった後の達成感から、余りお金はかけられないが、皆と食事をしたいと思ったが、誘う度にお茶を濁され、日程を決めた予定はほとんど、直前になってキャンセルされる。実力を発揮できるだろう役目は与えられない。おかしいと思ったが、借金を重ねたことによって心労を溜めこんだ妻に、弱みは見せられないと、日々、誰が見ても分かりやすいほどに、誰よりも懸命に働いた。周りも忙しいだけで、自分の危惧など気のせいだと言い聞かせた。自分が、今まで進めていたはずの、騎士団への一大プロジェクトを弄ったせいかもしれないという、的外れの申し訳なさを抱きながら。

 だが、その日は来てしまう。いつも通り出社し、自分の机に物を置いたところで異変に気付いた。自分の荷物が全て箱に詰められていた。そして机の上に、一枚の薄っぺらい紙が置かれていた。嫌な予感を振り払いながら紙を手に取った。

 それは解雇通告だった。理由は『怠惰な勤務態度、周囲との協和を乱す性質の為、不適切な人材だと判断』したためだと。勤務態度も何も、成績を上げれないような位置に自分を据え置いたのは、後々、この為だったのかと理解した。さすがのドルク商会も、何の理由もなく解雇することは、周囲への評判もあるため、難しいからだ。

 ふざけるな、そう文句を言おうとした。だが一人ではただ騒ぐだけだ。誰かに相談して、集団で訴えなければ何も変わらない。今すぐに、解雇通告を見て怒りに震えている自分を見世物かのように愉しみ、嘲笑っていた自身の上司を殴り飛ばしたい感情に駆られたが、そんな事をしてはもう戻れなくなると思い、必死にその場は堪えた。自分が何度も相談を持ちかけた、『少数勢』の一人に声をかけた。だが、返ってきた答えは拒絶の言葉だった。

 「もう、かかわらないでくれ」

 だがそれでも食い下がった。頭によぎるのは自分の借金の額だった。まともに働いていけば少しずつではあるが、借金は完済できる。事実、月に幾らかずつ返済してく契約で金を借りていた。だが、それはここでつとめていられた場合の話だ。相談を持ちかけた相手は何度も自分を応援し、励ましてくれた人間であり、周囲に実験用のカンパを募ってくれた人物だった。そういう人間なら、もしかしたら何か力を貸してくれるかもしれない。そんな、藁をもつかむ思いだった。

 「無理だ」

 目を合わせようともしなかった。もう放っておいてくれと、お前とは元々、なんのかかわり合いもなかった、そういうことにしておいてくれ。そんな訴えを感じた。

 それまで彼は分かっていなかった。彼を応援してくれる人も、彼を支持してくれている人間も確かにいた。そういった人間の存在に、彼は何度か救われた。自分の信じている道は正しい、間違ってると感じているのは自分だけではない。だからこそ、今の体制は変えなければならない、と。彼の信念を支えるモノとして、彼を助けようとする人間の存在は非常に強い意義をもったものだった。彼はそれらの人を同志と思っていたし、仲間として信頼していた。

 だが違った。違うといっても、周りに裏切り者ばかりだったわけではない。彼は正しかった。少なくとも、人道という面からしてみれば彼の方が商会よりも優れていることはだれの目にも明らかだった。自分がドルク商会の商品を提供した後に何が待っているのか、そんなものは、分かりきった問いだった。――即ち、死体となった自分の客の姿だ。

 当たり前だが、そんな仕事などやりたいはずもない。だが逆らうわけにはいかない。例え、自分が以前、同じような事態に直面していて、もう二度と、こんな思いはさせない、しない、と、固く決意していたとしても、自身の生活があるのだ。それを壊すようなことなんてできない。

 だからこそ、彼の存在は格好の的だった。自分では怖くてできない。でも影から支えるようなポジションなら出来なくもない。リーダー格が派手に動けば自分が目に留まることも少ないし、罰せられる心配もない。罰せられる時には、確実にケリーから、見せしめのために、悪辣で陰惨な仕打ちを受けるからだ。

 特に何もしない。何か事があるときに、ちょっとだけ話を聞けばいい。金が必要なら、ひと月節約して捻出できる程度の金を分ければ良い。ただそれだけ。冷静に考えれば、違和感もあったろうに、彼は事が終わるまで気付かなかった。周囲の人間は、しかしたったそれだけのことをやるだけで――自分がしていることは、『正しい側の人間のやること』だと。自分の良心をごまかせるのだ。

 それは募金の心のありよう、その一端に近い。恵まれない人間に愛の手を。そんな事を掲げた募金箱に、何かの拍子でほんの少し気が向いて、自分の金を投げ入れる。たったそれだけで、良いことをした、自分が『良い人間』だと錯覚できる様に似ている。実際に事に当たっている人間の行為にしてみれば遥かに差があるのに、ただたまたま、目についた募金箱に金を入れるだけで満たされる充足感に近い心のありようだったのだ。

 彼の場合でも同じようなことが起こった。彼は信念と情熱とで事を成就しようと思っていたが、彼を支持する仲間はそうではなかったのだ。

 彼らを動かしていたのは、自分は出来ることをやって悪事を憂いている人間なのだと思い込みたい、そんな糞のような良心を救いたいだけの、傲慢で自分勝手な自己愛だったのだ。

 その事を理解して、彼は絶望した。ああ、こんな人間ばかりなのか、と。

 彼が自分の店を構えていた時、何度も客の死体を見てきた。自分が意気揚々とお勧めした品が粉々に打ち砕かれ、或いはひん曲り、或いはただの鉄くずになり下がっている様と、死んでしまった自分のお客様。

 死んだクレムの母親は泣いていた。父親は殴りかかろうとしたところを母に止められた。

 死んだカイブの母親は怒りに狂っていた。父親はそれを必死で止めていた。

 死んだミディオの母親は何も言わなかった。父親は既に死んでいて、一人この世に残された。

 死んだヤミスの父親は何も言えなかった。嫁に先立たれ、一人息子が死んで気がふれてしまったらしい。

 死んだブクトの親族は誰も来なかった。息子の死を知った両親が、自宅で首を吊っていた。死体は目を逸らさずに見た。まるで自分を責めているように思えて、今でも夢に出てくることがあった。

 死んだノーヴィスの親族もいなかった。既に独り身だったらしい。だが自分の目利きの腕を褒めてくれた、気のいい賞金稼ぎだった。

 死んだクィナの恋人は、その死を乗り越えることができずに、幼児退行してしまった。今もきっと、窓に添えてある花を見て、綺麗だねぇと嬉しそうに笑っているのだろう。今もお見舞いには欠かさず行っている。

 死んだケリスの母親は泣いてお礼を言った。貴方のことはいつも息子から聞いてると言ってくれた。一生懸命自分の武具選びに付き合ってくれたと言っていたと。そんな貴方の仕事なのだから、貴方に落ち度はない、誇って欲しいと、励ましてくれた。

 決して、一人も忘れない。

 人が一人死ぬ度に自分を責めた。これをやったのはお前だ、と。事実なのだから偽れない。お前が殺したも、同然だと。そんな人殺しの罪悪を、彼は被っていたのだった。

 だから必死に働いた。自分の仕事に慢心もしない。油断も無く、完璧にこなそうとした。それでも人は死ぬ。だから、そうならないように、客の声を聞いて、少しでも思うところがあれば鍛冶屋に相談し、その要望を応えられるような武具を作ってきた。

 もう悲しむ人を見たくなかった。いつも笑顔でいてほしかった。苦しんで欲しくなかった。偶に言われる、「あんたが勧めてくれたやつのおかげで命拾いした」。そんな言葉に、泣き叫びたくなるほど救われた。

 そう思っていたからこそ、ドルク商会のやり方だけは、認めるわけにはいかなかった。

 自分と同じような仕事をしていた人間は、何人もいた。むしろ、そうでない人間の方が少ない。急速に拡大していく商会は、彼のような、鍛冶に関わり合いがある人間を片っぱしから人材として取っていたのだから当たり前といえば、当り前だ。

 だからこそ。

 だからこそ、自分の思いは、当り前だと思っていた。

 自分が痛い思いをしても、それでも何とかしなければならないと。

 自分が働くのは、もう二度とあんな死体を、悲劇を、生みださないためなのだと。

 その思いはきっと誰もが持っているものだと、思っていたのに。

 今まで仲間だと思っていた人間も、自分を目の敵にしていた上層部の人間と、大して変わらないのではないかと思い、悔しくて涙が止まらなかった。

 お前らは、人が死んでもいいんだと、大手を振って言って回ってるようなものなのに。

 家に帰ると、様子がおかしかった。もう夕方にもなりそうなのに明かりがついていない。いつも妻はこの時間には、料理を作って待っているはずなのに。

 家に入る。家具が荒れていた。テーブルはなぎ倒され、椅子は半壊し、筆記用具とガラスが同じ割合で散らかっている。

 何事かと思い妻の名を呼ぶ。二階からすすり泣く声がした。

 慌てて行ってみると、妻が自室で泣いていた。

 「クビになったって」

 紙を握りしめていた。見たことのある紙。それが、今日、自分の机の上に貼られていた紙を同じものだと理解するのに、時間はかからなかった。

 「ああ。すまない。この家も、売り払わないといけない」

 「何で? あんなに頑張ってたのに。お店も、あんなのが来なければ」

 「それは言っても仕方ない。本当に、苦労ばかりかけるな。すまない」

 「あのお店が憎い」

 「……」

 「憎いよ……許せないよ……」

 このどうしようもない憎悪が、一階のあの惨状の原因なのだと、彼は理解した。自分の為にそこまで憤ってくれるのは、素直にうれしいと思ったし、正直、救われた。

 しかし、と。この先に思いを馳せた。

 まず住むところはない。彼も彼の妻の親類も、既に他界していた。頼める人間もいない。いくつか借りがある鍛冶屋やそれに関係する店はあるが、しかしそれも長くはもたないだろう。近辺の、同じ業界の店は殆どがドルク商会に牛耳られ始めているのは、勤めていた自分がよく知っている。元々、周りの評判を気にして、自分を首にしなかったのだ。自分を首にしたことは即ち、周りの評判など気にしなくても良いほどに力をつけたのだということに他ならない。誰かが評判を立てて崩れるような小さな物ではなくなった。誰が評判を下げようがあまり関係がない。それほどに巨大な組織になってしまった。だからこそ、この業界での自分の再起はあり得ない。真っ向から敵対してしまった人間を囲う人間がいるとも思えない。敵対してしまったものと、助けてくれる誰かの存在が自分には圧倒的に足りないことに、彼は気付いていた。

 だが新しい職を探すというのも、無理だ。まず住む家がないのに。泊まり込みで働けるところを探し、追い出されたらまた次、この繰り返しだ。それほど大きな額ではないが、借金もある。どうあがいても袋小路だ。もう三十になろうとしている人間が、他の分野で今から一から始めて、大成するとは思えない。

 「一緒に死のう」

 何よりも彼の心を苦しめたのは、彼を今まで励まし、奮い立たせていた、自分の客の最後の姿と、生涯を賭して自分の罪を償おうという、静かで強固な信念の意思を、遂げるのは無理だということに気付いた悲しみと――

 そして、その信念が世の中の大半が持っていないという現実を目の当たりにし、感じてしまった、周囲の人間の醜さに対する絶望と―ー

 目の前の、自分に今まで献身的なまでに尽くしてくれた妻を、これ以上苦しめたくたくないという、強い愛情故の諦めだった。

 「君と一緒に死ねるなら、怖くない」

 指輪を渡すとき、一生を二人で分かち合おうと、約束したから。

 いつものように、二つ返事で答えるだろうと、彼は確信めいたものを感じていた。

 「はい」

 彼は、人生の中で唯一、女を見る目はあったのだと、その返事に、密かに幸せを感じたのだった。

 妻の強い希望で、ドルク商会の構える店の屋上から飛び降りようということに決めた。自分としても同じ気持ちだった。遺書を家に残し、店の屋上から自殺することで、自分の無念と悔しさを、少しでも周囲に伝えたかった。もちろん、それで少しでも何かが変わってくれるなら、自分の生涯も何か意味のあるものになるかもしれない。もしかしたら自分のせいで亡くなった人たちも、許してくれるかもしれない。そんな、無為にしかならない思いもあったので、特に反対もしなかった。

 場所には心当たりがあった。ドルク商会は基本的に、高い利益を得るために多くのものに金をかけない。出店する場所も、建物も、基本的に安いものを選ぶ。なので、火事の際などに使う、一階から屋上まで繋がる非常階段の入り口が脆く、簡単に侵入できるような場所が多いのだ。その中で、とりわけ、人通りが多い店を選んだ。

 非常口の階段に入るのは簡単だった。店の入り口とはちょうど逆の位置に取り付けてある階段は、ドアがついていたが、軽く押しただけで入れた。鍵が錆びていたようで、この時ばかりは、ドルク商会のやり口に感謝した。

 屋上に辿り着き、二人、手を繋いで少しずつ歩いて行った。まっすぐに。腰ほどまでの高さの柵を乗り越えて、端に立つと人が見えた。今日は盛況してるのか、人通りが多かった。誰かにぶつかったらどうしようなどと、妻が言ってきた。それが、やめよう、本当は生きていたいのにという思いの表れだと理解していたけれど、敢えて気付かないふりをした。

 最後の一歩。さすがに踏み出すのが怖かった。好きな時で良いと妻が笑った。その笑顔で、震えが止まってくれた。

 柵から手を放す。呼吸を一つ。自分の今までを振り返る。懸命に生きてきたつもりだった。きっとここで死んでも、あの客達は自分を許してくれるだろうと思う。それほどに、懸命に、死んだ人間の死を無駄にしない為に、その死に報いるように生きてきた。

 だから、その事に関して、もう悔いはなくなっていた。

 惜しむらくは、隣で震えながらこちらに微笑む妻を、幸せに出来なかったことだ。

 せめて、もう少し、ゆっくりとした日常を過ごさせてやりたかった。

 でも謝るのは、嫌だった。きっと嬉しがってしまう。嬉しそうな顔で、照れながら、そんなことはありませんと。自分はいつも幸せだったとでも言うのが目に見えている。そんな顔を見ると、折角死ぬ覚悟が出来ているのに、その顔を見てはその覚悟が、きっと揺らいでしまう。

 だから最後の一瞬に、言うことにした。

 「楽させてやれなくて、ごめんな」

 何を言われたのかと、隣で戸惑ったのが分かった。同時に足を踏み出し、やや強引に、繋いだ手を前に引っ張った。下には人だかり。人、人、なるほど、確かに誰かにぶつかったら――

 ――それは見覚えのあるデザインの鎧。自分が幾度となく付き合った、苦しみと思考の結晶。

 ちょっと待て、今見たものは。そう思うのと同時に、咄嗟に手を後ろに伸ばし、柵を掴んだ。

 果たして、この時彼の一瞬はどれほどの長さに感じただろう。柵につかまり、姿勢を何とか堪えた自分の目の前を、引っ張られたことにより完全に態勢を崩した妻が下に落ちていく様子を、彼は瞬きも出来ずに見つめていた。

 まずいと思い、頭から落ちていこうとしている妻の体を掴もうと、慌てて身を乗り出すが、遅い。手を通り抜け、彼の妻の体は完全に中に投げ出された。

 彼は、彼の妻が地面に落ちるまでの様子を最後まで見続けていた。

 それは彼の妻が、落ちながらも彼の方を振り向いたからだった。その表情は三回ほど変化した。最初に見えたのが何が起こったのかわからないと言った、驚愕の表情。次に、状況を理解し、死にたくないと請う悲しみの表情。

 そして、自分を見捨てた夫への、怒りの表情へと。

 グシャ。

 惨い音を立てて、彼の妻は人から肉塊へと変わり果てた。絶叫が木霊する。

 「ぁ……」

 先に死んでしまった。否、自分が殺してしまった。一緒に死ぬと約束したのに、もう一緒に死ぬこともできない。否、きっと彼女が許さない。

 「ぁぁあぁ」

 網膜にこびりついている。こちらを見る彼女の顔を、驚愕を、悲しみを、そして怒りを。

 怒りに燃える妻の顔はとても恐ろしく、自分が今まで見たこともない顔だった。

 「ぁあああぁあああああああああぁあああああああああああああ!!!!!」

 震えが止まらない。全身がまともに動かない。怖い。とにかく怖い。そんな無条件に襲いかかる恐怖に体も、心も、全力で悲鳴を上げていた。

 降りよう、今、降りろ。彼女の後を追うんだ。頭のどこかでそんな思考が浮かんでいたが、体が動かない。本より、死にたかったわけではない。妻を苦しめたくない一心で、この死に方を選んだのだ。彼女が死んでしまった今、その理由も喪失している。何より、下にある死体を見て、思ってしまった。

 まるでこちらを誘うように、手をこちらに向けたまま、仰向けに死んでいる妻を見て。

 ああなりたくない、と。

 そして彼は逃げ出した。その場から、一目散に。別段、場所が決まっているわけではないが、この場にいると死んだ妻の幻影に捕まりそうで怖かった。

 非常階段を下りてそのまま路地裏へ。そしてそのまま走り続けた。とにかく走った。場所が決まっているわけではない。ただ、一刻も早くこの場から立ち去りたかった。少しでも遠ざかりたかった。

 腿が、足が、腕が、肩が、肺が、喉が、悲鳴を上げるのも聞こえない。止まってしまえばそこに妻が居る気がした。こちらに向かって手を伸ばしている彼女の影が、自分を追っているような気がしてならなかった。

 だがそれでも、いつまでも走れる人間などいない。もう走れない、そのまま酸欠で倒れてしまいそうなほどの臨界点。その限界近くで、彼は大通りへと出て行った。人が周りにいたなら、少しは気が紛れるだろうと、無意識に判断したためだった。

 適当な壁に肩を寄りかけ、崩れるようにしゃがみこんだ。必死に呼吸を整え、そしてまた立ち上がる。

 立ち上がったところで気付いた。そこはドルク商会の店舗の一つで。

 窓一つを挟んで、そこには、自分があの会談の場で提案した商品が、自分が提案したものの五倍近い値段で売られていたことを。

 「う……」

 誰も、何も助けてくれなかった。

 支えてくれる人は妻だけで、苦しいだけだった。

 それでも懸命に、人の為に頑張ろうと思った。犠牲になった人に顔向けできないから。

 なのに、こんな形で、自分の思いの結晶を使うなんて。

 こんな金稼ぎに使うために懸命になったわけではない。

 少しでも誰かを多く救えるために、ただその為だけに、必死になったのに。

 その絶望が、彼の信念を打ち砕いた。

 何が、誰でも気軽に買えるものなのか。そんなお題目、何の意味もなかった。ただのお題目だった。言っているだけだった。彼はもっと早く気付くべきだったのだ。所詮、『小遣い稼ぎ』で始めた仕事に、彼のように強い情熱があったわけではないのだ。その結果、誰が死ぬことになっても、誰が困ってもそんなのは関係がなかったのだ。

 「ぅぅうぅうううぅ」

 許せない。

 人が死ぬのが分かっているのにそれを食い物にするなんて許せない。自分が肥えたい為だけに全てを省みないなんて許せない。自分を利用したのが許せない。自分を不幸にしたのが許せない。自分の妻を不幸にしたのが許せない。

 妻というキーワードに思考が反応する。網膜に張り付いたシーンが、頭の中で次々とフラッシュバックするのを感じた。

 「ぅぅぅぅ……く……くくくくくくくけ」

 違う、自分のせいじゃない。

 自分は彼女を幸せにしたかった。否、幸せだった。お前らが来るまでは幸せだった。何もかもうまくいっていた。きっと彼女を楽にすることもできた。苦しませることもなかった。泣かせることもなかった。驚かせることも悲しませることも怒らせることもなかった。死ぬこともなかったんだ。

 口の中に、塩の味がした。鏡に映る自分の顔を見て、涙を流しているんだと知った。

 そうだ、お前らが殺したんだ。俺のせいじゃない、お前らが殺したんだ。俺じゃない。俺じゃない、俺じゃない、俺じゃない、俺じゃない俺のせいじゃ――

 嫌な気配を感じ、振り返った。

 彼女の伸ばした手が、もう目の前まで伸びてきて、首の横を通りまるで抱き寄せるような動きでこちらを絡め取った。

 目の前には/怒りに燃えた/苦しみに悶えた/最愛の人の/顔が/

 それは彼が、自身の恐怖で作り出した幻覚だと、気付く余裕は彼にはなかった。

 「ケ…はあははあはははははああはははああはははははははははははははははははははははははははははははははははあああははははあああっははははははははっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!」

 そうして彼は、完全に壊れてしまった。




 事の顛末を、最後まで、黙って聞いていた。

 「それが、今から一年前のことだ」

 座りにくいのか、椅子に座りなおしながら、ミリアは言う。机に肘をつき、手の甲に顎を乗っける仕草は女性らしいが、しかしその顔は、女性を感じさせないほど、感情が見えない。目も口も笑ってはいない、完全な無表情だった。少なくとも、ご機嫌ではないらしい。

 自分の顔がしかめているのが分かる。嫌な話だ。真面目で誠実に生きようと、懸命に努力するような人間が馬鹿を見て、豚の糞の様な人間が生き残り、得をする。それこそ寄生虫のように、吸われるだけ吸われて、そのまま、誰も止めることなく悲劇へと向かってしまう。

 「胸糞悪い話だ」

 「全くだ」

 二人で話しているのを尻目に、ガキがこちらの言葉を聞いているのが分かった。こちらに背中を向けてベッドで横になってはいるが、明らかに聞き耳を立てている。時折もぞもぞ動いているのを見逃すわけはない。あまり聞いてほしい話ではないな、と思った。

 「で、そいつが何をやったんだって?」

 「いや、まだやっていない」

 「……またかよ、そういうの」

 「今から一か月、或いは二十年先、ケリー=ブロウの手によってドルク商会は壊滅する。これは殆ど決定事項と言っていい。今でも、恐らく不可能ではないだろう。だがあの男は万全を期すために、今は計画の準備を始め、力を蓄えている。やるなら今しかないな」

 「別に、俺はドルク商会なんてどうでもいいんだが」

 「何言ってるんだ。どうでもよくなんかないぞ。全く持ってお前に直結してくる話だ」

 「どういうことだ?」

 「言ったろう、はじめに。彼は、『世界の敵だ』、と」

 世界の敵。

 この女が、そういったことを依頼してくることは初めてではない。世界の敵、というのは、こういった依頼がある度に聞く言葉だ。

 何でも、この世界というのは意思を持っているらしく、その時その時で力をつけるもの、力が衰えるものなどをコントロールしているらしい。現在は人間という生き物に力をつけさせているが、一時は魔物に力を貯えさせていたこともあったそうだ。で、そういった、『世界が力をつけさせている対象を滅ぼそうとする者』が世界の敵と呼ばれる存在らしい。今は人間が世界に選ばれているのだそうだから、言葉を換えれば、『人類の敵』ということになる。

 「ドルク商会を壊滅し、彼は国家反逆罪に課せられる。だが止まらない。この時から彼の目的は若干変わり始めたんだが、これは後回しにしておこう。とにかく、ドルク商会との繋がりから、彼は国家の要人、全員の殺害を目的とし、そして成功する。完全な国家転覆だよ。ごたごたに慌てる三か国は、しかしその再建が思うようにいかない。世界の九割近くの武具を取り扱う馬鹿みたいにデカイ組織が壊れたんだから、まあ当たり前だがな」

 「国家反逆罪……?」

 罪状が違わないか? 殺人罪ならともかく、何でそんな大袈裟な罪状がつくんだ、と、その言葉を続けなくてもミリアは察してくれたようだった。

 「お前、少しは新聞を読むなり、業界の著名な組織くらい調べておいた方がいいぞ」

 「って言われても、そうだ、最初、ドルク商会の話を聞いて疑問に思ったんだ。後から出たぱっと出の一商会が、何で強いコネクションを持ってたんだ?」

 「ドルク商会の上層部の、その頂点を極めているのは皇族なんだよ」

 皇族。その言葉を聞いた瞬間、俺はこれまでの筋書きを全て理解した。

 「確か、何年か前に経費の問題が上がってたな」

 「ああ、それは知ってるのか。なら話は早い。その通り、国家の税金の無駄遣いが指摘され始め、それが最盛期を極めたころだな。てっとり早く削減しようとしたのが武具の類だったんだよ。どうせ戦争は起こらない。各地での魔物の活動もそれほど多くない。だからこの削減案は当たり前といえば当たり前だった。だが問題は、皇族の税金の横領が出来る金が、減ってしまうということだったんだ」

 「……へぇ、そこまでは知らなかった」

 「言ったろ? どうせ戦争も起こらないし、魔物の活動も多くない。だから金を弄るのには最適だったんだ。だから、この経費の削減は、皇族に取って、それこそ小遣いを削られたという感覚だったんだろう」

 「つまり、ドルク商会っていうのは、経費の搾取とは別の方向で、小遣い稼ぎをしようっていう組織だったんだな」

 その通りだと、ミリアは頷いた。本当に嫌な話だ。皇族の小遣い稼ぎ。そんな下らないことの為に、ケリー=ブロウという男の、理想と思いは打ち砕かれることになったのだから。それでも、人として守らなければならない最低のラインを守るだろう、守ろうと思っているだろう、そんな、当り前の良心を求めようとしたケリーが馬鹿だったのだと言われれば、それまでだが。それでも、どこにも救いがない話だと、思った。

 「やり方は簡単だ。あらゆる皇族、他国の王族、元貴族や指導者に協力を募って、協力をしてくれた奴らには小遣いを与える。こいつらがもつコミュニティと強烈なコネクションはバカにならない……ああ、話が脱線しているな」

 話を戻そう、と言って、懐から長いキセルを取り出した。三十センチほどあるそれは、成人男性の人差し指くらいの太さはある。相当な重さがありそうだが、しかし、俺にこんな力を授けたようなやつだし、そもそもこいつには常識なんてまるで通じない。ので、重くないのかなどは考えないようにする。

 刻まれた、紙のような煙草の葉を丸めて、火皿という、先端の小さなお椀のような場所に詰め、火をつける。何度も見た光景だ。葉巻と違い、キセルで吸うこのやり方は、吸い終わるまでに時間はかからない。せいぜい三服ほどすれば終わる。焦らせる必要もないし、この休憩を邪魔すると、この女の機嫌は壮絶に悪くなる。俺は何もせずにただ黙っていた。

 しかしこの女、齢何百歳か分からないのに、やることなすこと一々絵になる。細くしなやかな四肢、それが生み出す流れるような動作はただそれだけで目を引き付ける。美しい銀髪はその美しさを更に際立たせる。濃紺のローブは、印象や雰囲気を引き締め、醸し出す雰囲気は、可愛い、綺麗を通り越した、別次元のものになっている。この女を見つめているだけでも、ちょっとした時間潰しになってしまう、そんな次元の話だ。もう人ではなく、美術品の美しさ。煙管を吹かすその姿は、格好良いとも言えるし綺麗だとも言える。だが、女相手に格好良いと感じてしまうのはさすがに悔しいので、余り考えないようにしようと、視線を少しずらした。

 未だに、その美しさから求婚されることもあるらしい。ババアの若作りもここまで来るとただの詐欺である。

 「何か失礼なことを考えている目つきだな?」

 キセルを吸い終わり、部屋に置いてあった灰皿に、トントン、と、軽く煙管を叩くだけで葉を出して、煙管はどこかにしまいこんだ。明らかに服にはあんな馬鹿みたいに長い煙管を提げる場所なんてないのだが、その辺りは気にしない。

 「何も考えてない」

 「そんな、私のことをあんな舐め回すような目つきで見てる癖に、何も考えてないわけないわ……」

 「うっわすげえ、気持ちが良いほど気持ち悪いな。しおらしくなるなよ、豚が美談を語るくらい似合わない」

 「きっと頭の中で○○○して私を×××せて●●●を吸いつくすように貪って▲▲▲を■■■しながら私の□□□を★★★しようなんて考えてるんだわー! いやー! 犯されるー!」

 「めんどくせえええええええええええええええええええええええ!!!!」

 ついでにうぜええええええええええええええええええええ!!!!

 「いやー、やはり仕返しをした後というのは気分が良いな」

 「お前、それはちょっとまずいと思うぞ」

 男の裸を見た後に気分が良くなる女ってどうなんだ。

 「何を言う。男も女の裸を見て興奮してるだろう? それと同じだ。ああ、もう、ほら。話が完全にずれてしまった。お前のせいだぞ」

 俺の責任なんだ……?

 口答えしても始まらないので、とりあえず黙っておく。

 「とにかくだ」

 「うん」

 「私の性癖を聞きだした料金として後で金額を請求するからな」

 「話を戻せええええええええええええええええええ!!!!」

 知りたくもなかったのに!

 「どこからだったか。そうそう、国家の要人を全員殺害したところだった。その後、世界の武器供給元がなくなり、ドルク商会がなかった時期の武具業界が復興する。だが皇族、王族が悉く死んだ状況で、国の内政は、それぞれがばらばらになる」

 「きな臭いな」

 「恐らく、お前の読み通りだ。このどさくさにまぎれ、他国を支配しようという好戦派が裏で動いてくる。どこの国でもな。そうなれば後は野となろうが山となろうが、行き着く先は一つだけだ」

 「戦争、ねぇ」

 話がでかくなってきたな……。

 「それだけじゃない。その中でも、ケリー=ブロウは止まらない。手当たり次第の人間を悉く殺していく。主に国家の組織が中心だがな。その中でも、特に騎士団への狙いが激しい。それだけでなく、とにかく目に付いて、殺したいと思った相手を手当たり次第。言葉を探して言うのなら、殺人鬼、ってところか」

 「ちょっと待て、待て。頭の中が混乱しそうだ」

 それでなくても、ケリー=ブロウの経緯だけでも複雑だったんだ。話をこれ以上複雑にされても、正直着いていけない。

 「おかしいだろ。ケリー=ブロウの目的って言うのはドルク商会だろ。どれだけ行き過ぎても、皇族までが目的のはずだ」

 「ああ、その認識は、完全にではないが、ある程度正解だ。言ったろう? 『目的が変わった』と。ドルク商会の一件でな」

 一拍置いて、ミリアは嫌そうな顔をして、続けた。

 「元々、土台自体が壊れてるんだ。曖昧な精神で、それでも自分をこれ以上壊さないために、ぎりぎりのところで憎悪の対象をドルク商会に定めていた。彼の力は、それこそ圧倒的でね。易々とドルク商会を壊滅に追い込むんだが、その時に、以前自分を支持していた連中に会ってしまうのさ」

 「ああ……」

 それは嫌な予感しかしない展開だ。

 「余計なことに、奴らはまるで彼の味方だというような振る舞いをした。自分の上司を差しだしたり、旧友のように挨拶をしたりな。それが彼の憎悪に火を点けることになる」

 「自分を裏切った人間、だけじゃないな。そういう精神を持つ人間に対しての怒りか」

 「聡明だな。その通り。要するに、『人を利用する、裏切る、自分の為に誰かを見捨てる、悪を見て見ぬふりをする人間』。だが、そんなの見て判断できることじゃない。だが、過去の経験から、彼には見る人全てがそう見えた。余程ショックだったんだろう。トラウマになっていたんだな」

 「で、『人間の敵』ってことか」

 「ああ。最後の一人を打ち滅ぼすまで、彼は止まらない。勿論、最後の一人とは、彼自身のことだがね」

 それに最後まで、彼は気付かなかった。荒れ果てた荒野の果てで、我々三人に看取られながら自身の首を切るところで、彼の暴走は止まらなかったと、ミリアは続けた。

 「……おい、戦争だけじゃなく、人類滅亡かよ」

 「ああ。まさしく、読んで字の如く、人類の滅亡だよ。違った可能性を考えてはみたが、彼がこれ以上生存しているなら、それが三十年以内に達せられる。確率としては三割と言ったところだが」

 「なんてこった……」

 まるで現実感がないが、どうも人類は滅んでしまうらしい。

 ただ問題なのは、それを告げているのがこの女だということだ。

 以前にも、こうして『未来に起こること』を予測したことがあった。本来、そういった予知も魔法使いの仕事には含まれる。そして、悲しいことに、魔法使いの予知というのは、悲しいくらいの確率で当たってしまう。

 だからこその『魔法使い』。そこらにいる俄かの魔術師とも賢者とも違う。万物を超越する、何でもあり、常識知らずの能力者。

 「それならお前が手を下せば良いだろう」

 「相手が魔物なら、それも考えれるんだがな。残念ながら相手が人間ではそれは無理だ。私は、世界の意思の範疇から外れては動けない」

 「力を貸せても処断は出来ないのか」

 溜め息をつく。それは何度も、こいつに聞いたことだ。魔法使いは『世界』の下僕なのだと。意思をもった世界が選んだ存在には手を貸す。だが、同時に選ばれている存在には手を出せないのだと。

 要するに、今現在のこいつは、手を出したくても、人間には手を出せないのだ。

 「まさかと思うけど、ケリー=ブロウが世界を滅ぼすほどの力を手にしたのって」

 「勿論。魔法使いが力を貸した。そんな目で見るな。私ではない。私ではないが……たまたま遭遇したのが私ではなかったというだけだが」

 それは、例えその人間が人類を滅ぼすと分かっていても、請われれば力を貸すということだ。

 こういう時に、感じてしまう。この女は、自分たちとは違う次元の生き物だということを。人間の皮を被った、中身が何もない空っぽの生き物。相手に力を貸すつもりも助けるつもりも毛頭ない。ただ自動的に、請われたことを、乞われた分の犠牲を持って、それを叶えるだけの道具。

 そのあり方は、まるで道具のようだ。包丁が調理道具という人間に必要な道具になるときもあれば、人を殺すための道具になるように。

 「でも、三割だろ?」

 「彼に肉親を殺された者が、自身を顧みずに彼を打倒する力を私たちに懇願したならば、防がれる。それでもいいなら、それでも別に良いが」

 「駄目だろ……」

 結局、ケリー=ブロウの暴走は、少なくともある程度まで確定的だということだ。被害が少ない今のうちに手を下すべきだというこいつの判断は何も間違っていない。本当にそれがこいつの判断なのかは分からないが。

 「それに、その人間が彼を打倒するかどうかは、やはり時の運の要素が強い。彼の力は成長する類のものでね。今は脅威でない……と言っても、十分強力ではあるが、それでも、問題となるだろう時期のものに比べれば可愛いものだ。強力になればなるほど、私たちに払わねばならない物も増えてくる。だからこそ、今の時点から手を打っておくのがベストなんだ」

 「お前らが問題をややこしくしてる癖にな……」

 「何を言う。私達はお前らの要望を満たしてやっているだけだ。それを私たちが操っているように言われるのは心外だが?」 

 確かに、問題を起こしたのも、問題となったのも、原因と結果はそもそもが全て、普通の人間の手によるものなのは確かだ。魔法使いという存在が無かろうが、ケリー=ブロウはやはり悲惨な目に遭っただろう。一連の悲劇に、魔法使いの手が入らなかったのは明白なのだから。そして、彼が何かしらの形で自身の憎悪を爆発させたのも、恐らく、確かなのだろう。それのスケールが大きいか、小さいかという違いはあるにしろ。

 だけどなぁ……ちょっと話でかすぎるし、その尻拭いをする身としてはやはり文句の一つも言いたくなるんだよなぁ……。

 「期限は?」

 「一か月。その間でないと、お前の手に負えるか分からない」

 「随分急なんだな」

 「ああ。彼に与えた力の進化は、個人の感情によるものが大きくてね。それがいつ爆発するのかは、正直、選択肢がありすぎて予測がつかない。短くて一か月。長くて三十年。ま放っておけば開花に三十年はかかる、刺激したら予測がつかない。確かなのはそれだけだ」

 「俺の言動一つで、それが爆発することも有り得るってことだな」

 「その通りだな。だが安心しろ。その確率は、極めて低い。天文学的と言っていいほどにね」

 「……話は分かった。敵の能力は?」

 「相手の装備を重くする力。現段階ではね。それが武器を意のままにする力に変わる。その前に、決着を付けなくてはならない」

 「装備を重くする力に、意のままにする力、ねぇ」

 そんなの、武器を持たなければ良いんじゃないのか?

 「お前は武器の定義を知るべきだな。良いか? 武器というのは、相手と闘う為の道具だ。想像してみろ。あらゆる武器をはぎ取られ身一つになった人間が、己が肉体を武器にした時の状況を」

 「……なるほど、確かに、恐ろしい」

 どころか、敵がない、と言っていい。最終的に、彼に抵抗できる人間はいなくなる。

 「だが、現段階ではお前の敵ではない。いや、お前こそが天敵と言っていい。お前の力なら、武器を重くする程度の力なんて大したことないだろう? あの力は、現段階ではまだ、その眼には及ばない。気をつけるのは身に着けている装備だが、それが幾ら重くなろうが、お前には関係のない話だ」

 「と言われても、重くするんだろ? さすがにそれは」

 「あの力は乗数が働いているものでね。何倍にもできるが、ゼロに何を掛けたところで何も変わらない。お前が相性がいいのはその部分だ」

 なるほど。そうであるなら確かに、その通りだ。この依頼に限っては、俺がやるのが一番確率が高いだろう。持ち物の重量をゼロに出来る力を持つであれば、あの男に対抗できる。どれだけ重くされようが、元がゼロなら何の意味もなさないわけだ。

 「能力の射程距離は?」

 「お前と同じだ。見える範囲。お前が着くまで、恐らくその範囲は変わらないだろう」

 つまり、この先、その範囲はどんどん広がっていくということなのだろう。随分と恐ろしい能力をつけさせたものだ。

 「『檻』の外から相手の攻撃は届くか?」

 「『檻』……? ああ、あれか。ははっ。私の仕事を舐めるなよ。あの能力は有象無象、全ての妨害から隔離した、いわば別の次元と言ってもいいフィールドだぞ。魔術だろうが魔法だろうが砲弾だろうが天災だろうが、あの壁を越えて中に入ってくることはあり得ない」

 ならば、いざという時の防御手段は、いつもと同じやり方でいいわけか。

 「報酬は?」

 「過去最高、と言いたいが、確実にそれ以上だな。借金は全額チャラ。加えて、お前が生涯、質素な暮らしが出来る程度の金は用意してやる」

 法外だな。と思った。だが、それはこの要件の危険の度合いを示している。

 例え、武器を重くするだけの力だとしても、それは俺にとって、命を賭けることと同義だということだ。生涯背負わなければいけない借金がチャラになるという時点で、それが推し量れる。

 「場所は?」

 「ここから南西に三十キロほど行ったところにどでかい森があってな。その、丁度中央辺りに、戦時中に使われた洞窟がある。そこに、彼は陣を取ってる」

 「他に取られることはないな?」

 「ああ。今はまだこいつは賞金首になっていない。誰も動いてるわけもない」

 「美味しいな……」

 美味しい。これ以上にないくらい。確かに、命を賭ける意義はある。命を賭けるなんて言ったら、いつも同じなのだ。いつだって死ぬ覚悟はしている。それが、今回は特別高いというだけ。最近はもうジリ貧で、稼いでも稼いでも金が減っていく。

 だがそれは覚悟していたことだった。あのガキを自分で育てようと思った時に。

 だからこそ、高いランクの賞金首を狙うべきだと思い、動こうとした矢先に、これだ。降って沸いたこの話に、飛びつかない道理はない。

 「受ける。明後日、発つことにする」

 「それはありがたいな」

 心にもないことを。そう口にしようと思ったところで、やめた。こいつに何か言っても何の意味もない。話が一段落したところで、腹が減ったので、食堂まで食べに行こうと思い、立ち上がった。

 「お前、飯は良いのか?」

 「ああ。宮廷で食べてきたばかりだ。お気遣いなく」

 別に気遣ったのではなく、このままだとこいつはあのガキと二人っきりで過ごすことになるわけで、それはあまり宜しくないと思ったからなのだが。

 だが出て行けとも言えない。一応、事情は話してあるから、余計なことは言わないだろうし、それなりに接してくれるとは思うのだが……。

 ここでいちゃもんをつけても仕方がない。俺はドアを開け、二人をとり残すことにした。やはり多少心配ではある。尤も、それよりも、これから先の自分の心配をした方がいいのだろうが。

 と、扉を閉めるところで、ふと疑問が沸いた。

 「なあ。ミリア」

 「何だ」

 「お前、魔法使いがケリー=ブロウに力を貸したって言ったよな」

 「ああ、そうだ」

 こちらをバカにするような笑み。どうやら、次にどういった質問が来るか、この女はもう察しているらしい。

 「じゃあ一体、その代償として、何をそいつは支払ったんだ?」

 魔法使いは慈善家ではない。何かを頼むのなら、それに見合うだけの報酬を必要とする。

 ならば。

 人類を滅ぼすほどの力を与えられた男は一体、どんな代償を支払ったのか。

 「彼の望みはこうだ。自分が憎んでいる奴らを殺したい」

 「前置きは良い」

 「そうか。なら結論だけ言おう。彼の差し出したものはね。彼の妻の記憶だよ」

 「……なるほど」

 「勿論、顔、名前、そして幸せだったものから順に、彼の中から消した。彼は、自分の妻がどういった人間だったか、もう覚えていない。例外として、妻を殺した時の記憶だけは、残しているがね」

 あぁ。

 それは、本当に、救いがない。

 もう彼は、安らかに死ぬことすら、許されない。

 「これは前々から思っていたことだが」

 「何だ、言ってみろ」

 「お前らは、人間じゃない」

 扉を閉めた。もうあの女の顔を見ることすら嫌だった。

 

 

 人間じゃない。

 なるほど、確かにその通りだ。魔法使いは器官であって生き物でなく、道具であって意思を持たない。請われたことに従うことしかできない、中身は空っぽ。確たる自己がないがらんどうの存在。勿論、その言葉にそれ以上の意味が込められていたことも理解できる。分かりやすい奴だ。要するに、『このクソ野郎』と、怒り罵られている。嫌われたものだ。

 それも仕方のないことだ。農家が重宝する虫が、一般人には煙たがれるのと同じだ。自分はそういった存在なのだということを理解しているためか、別段、ショックだとも感じなかった。

 「よう、ガキ。起きてるんだろう?」

 とりあえず、用件を済ませようと思い、ベッドでこちらに背を向けて、寝たふりをしている子供に話しかける。起きているのは明白だ。それはテラも気づいていたらしい。だからこそ、二人きりにするのに抵抗があったようだが、こちらも要件があるので、その思惑に乗ってやることはできない。

 「少し話をしないか?」

 「お前と話すことはない」

 「私があの男の側の人間だからか? だとしたら、それはお前の誤解だ。私は誰の味方でもあるし、誰の味方もしない」

 それは嘘偽りない真実なのだが、しかしこの子供に理解できるとは思えない。なので、別方向から攻めようと、言葉を続ける。

 「あの男について、お前はどれくらい知っている?」

 「知る必要なんてない」

 殺すだけだから、か。この子供の思想は徹底しているが、それだと少し、私が困る。

 「敵を知り、己を知れば百戦危うからず、というではないか。ああ、知らないか。しかし、相手のことを知っておくのは無駄ではない。そこから弱点も見えてくることもある」

 「弱、点?」

 所詮子供だ。簡単な餌を撒いてやれば、苦もなく釣れる。

 「まあ、それが見つかるかはお前次第だがな」

 「話せ」

 偉そうだなぁ。このガキ。くびり殺してやろうか。

 いやいやいかん、それでは目的が達せない。

 「まずは、そうだな。あの男の出生についてでも話そうか」

 口元が何かを欲している。そういえば、ずっと喋り続けだった。だが、キセルを取り出すわけにもいかない。十分ほどではあるが、あの男が帰ってくる前に用事を済ませたい。

 仕方がないので、コーヒーを飲むことにした。イメージする。自分の手元に望むものがある様子を。使い慣れた自分のコップの中にあるアイスコーヒー。金属を伝い、冷やされた外面温度、触感、匂い、色、全てを限りなくリアルに。

 イメージしたコップを掴み、口元に運ぶ。味がした。いつも飲んでいる、安物のコーヒーの味。

 「あの男は貴族の家系だ。貴族、って知ってるか?」

 「分からない。けど、あんたみたいのだろ」

 「それだけ分かっていれば十分だ。その通り、普通なら、あいつはこんなところでこんなことをやっている人間じゃないんだよ。私のような礼服を着て、出るところに出て、同じような出生のやつらと、次はどうやって利益を得ようとか、香水はどこのだとか、その服特注の服なの? わぁ素敵、凄いのね、とか、どうでもいい会話を繰り広げながら、踊ったり音楽を聴いたり、或いは、政治にその身を投じて国をどう動かそうか思案するような、そんな人間なんだ」

 「遊んでるのか?」

 「大概はな。基本的に、貴族は政治に関わる。幼いころからその事を他のどんな身分の人間よりも学んできたからな。だが、政治なんてそんなに大規模な人数はいらない。優秀な人間が何百人も居れば、それ以上は、優秀な部下で十分だ」

 部下として働くなら、別段、政治に聡い人間でなくても構わない。さすがに一般的なことは知っていないと困るが、それは貴族だからこそ知っている、というわけでもない。そんな軽口を挟みながらも説明しつつ、続けた。

 「元々の席の数が少ないんだ。必死に働いている人間よりも、席からあぶれてその脛をかじって遊んでいる人間の方が圧倒的に多い。あの男は、どうだろうな。場合によってはそうなったかもしれないし、必死に働く側の人間になっていたかもしれない」

 恐らく後者だろう、とは思うが、それは今更どうでもいいことだ。

 「話がそれたが、あの男は、そういう立場の人間だったということだ。それがなぜ、賞金稼ぎなんてやっているのか、疑問には思わないか?」

 「……思うけど、それは弱点に繋がるのか?」

 「さぁな。別に聞かなくてもいいぞ?」

 本当は言わない事には始まらない、が。こういった方が相手の好奇心を刺激しやすい。

 「言えよ」

 そしてこの作戦は大成功だった。思わず口元が緩んでいるのが分かる。

 「あの男は大層大切に育てられたんだそうだ。貴族の家の一人息子としてね。幼いころから様々な教育が施された。こと学問に関しては、お前と比べればそれこそ天と地ほどにも差があるほどにね。きちんとした愛情も与えられていた。少なくとも、彼は両親を愛していたし、両親からも愛されていると感じていた」

 ガキの反応を見ながら、聞き取れるようにゆっくりと、続ける。以前のようにフラフラになられては、後で私が怒られる羽目になる。

 勿論、だからと言ってやめはしないけれど。

 「そうしてすくすくと育ち、十か否か。そんな時の事件だ。家族で旅行に行った帰り道。ある賞金首に襲われてな。運悪く、幼いあいつは人質となってしまう。さて、ここで問題だ少年。自分の子供が人質になったのをみて、あいつの両親はどういう行動を取ったと思う?」

 人質、という言葉に、反応するようだ。頭を押さえながら、こちらの話を聞く少年の反応を待つ。煙草の煙が恋しくて恋しくて、我慢がきかずに懐に手を入れるのを必死でこらえた。早くしろ。早く、早く! えぇい、この際全てをぶちまけてやろうか!

 「自分が、代わるとか、言ったんじゃないのか」

 その我慢が限界を迎えたあたりで、ようやっと、ガキが答えた。よほど調子が悪いらしい。顔色が真っ青だ。

 このままでは話も出来ない。イメージする。少しずつ、あのガキの顔色が良くなっていく様を。目の前にモデルがある分、コーヒーよりも楽だ。イメージし終えたところで目をいったん閉じ、網膜に焼きついたそのイメージを持ち続けたまま、パチン、と右手の指で音を鳴らす。その音を契機に、目の前のリアルと、そのイメージとが入れ替わることを強く念じた。

 「残念だな。外れだ」

 まだ軽く、頭を抑えてはいたが、顔色は確実に良くなっていた。どうやら、持続的に続くものではなく、何かのワードや状況に反応する、突発的なものらしい。なら、気を利かせて話す必要なんてない。要は地雷を踏まなければ良い話。それで充分、あの男が秘密にしておきたい事項は守られる。

 「答えは、一目散に逃げ出した、だ。奴が捕まるのを見た瞬間、何の躊躇もなく、奴の両親は逃げた。なぁ、お前なら、どう感じる? 自分が愛していて、きっと愛してくれていると思っていた両親が、命の危機に、子供を見捨てて全力で逃げる様を見て」

 何が起こったのか分からないままに、空しく手を、逃げていく両親の背中に伸ばす子供の姿。

 あの男は、あの時、大事な何かを無くしてしまった。

 「どう、って」

 「分からなければそれでもいい。あの男はね、その姿を見て感じてしまったのさ。自分に多くのことを教えてくれる父親。自分を無制限に甘やかしてくれる母親。しかし、彼らは、自分を愛してくれてはいなかった、とね。自分が思うよりも、自分は愛されていなかったことに気付いてしまった。こちらの方を少しも振り向かずに逃げたのだから、そう感じても無理はないな。自分のことを一番大切に思っているだろう人間がそうでなかったことを知って、奴は本質的に、愛情というものの存在を信じれなくなったのさ」

 「……へぇ」

 「結局、後に騎士団によって助けられはしたが、その後も両親への不信は消えることはなかった。いや、これは人間に対しての、と、言った方が正解かもしれない。その後、彼は家を脱走し、名を変え、自分と同じ境遇の人間を出したくないという理由で騎士団に入団する。あぁ、騎士団っていうのは、悪い奴を捕まえたり、困っている人の悩みを解決するような仕事だ。お前も見たことあるだろ? 星のマークの旗」

 「それくらい知ってる」

 「可愛くないガキだな。教え甲斐もない。利口ではあることは何よりだが――奴は騎士団に入ったが、しかし巧くいかなかった。当然だな。愛情を知らない、本能的に信じられない人間が、誰かの役に立ったり人付き合いが出来るわけがない。それ以外の業務に何の楽しみも見出せず、中での人間関係も巧く行かない……結局、一年でやめてしまい、賞金稼ぎとして働くようになった」

 「それのどこに弱点があるんだ」

 「まぁ聞け。問題なのは、何故あの男が『犯罪者を捕まえたい』と、そもそも願ったのかが問題なんだ。自分と同じ目に遭う人を減らしたいと、あいつは語っていたが、それは本当だと思うか?」

 ここがあの男の歪な部分の、最も重要な部分なのだ。しかし、その矛盾に本人は気付いていない。

 「違う。簡単なことだろ」

 ガキは答えを口にした。そしてその答えは、私が考えているそれと、殆ど違いがなかった。同時に、何故本人は気付かないのだろうと。少し、哀れみを感じた。

 「私も同じ考えだ。そうであるならば、あの男は賞金稼ぎになってはいけないんだ」

 子供にも分かるその図式に、気付かないあの男が哀れだなと、ほんの少し同情した。

 「だから、それのどこが弱点になるんだよ」

 「分からないか? やはり、まだまだ子供だな」

 あいつの弱点なんて、本当に簡単なものなのに。

 「あの男が、一体何を望んでいるのか、考えてみると良い。いや、違うな。あの男には、何が必要なのか、ということだな。それを考えれば、あの男の弱点なんてすぐに浮かんでくるさ」

 席を立つ。これ以上はまずい。あと数分ほどでテラが戻ってきてしまう。この場を見られてしまったり、この会話に混ぜてしまうことはルール違反であるし、魔法使いとしてやりすぎてしまうことになる。

 「じゃあなクソガキ。出来るなら、もう二度と会わないことを祈るよ」

 要領は先ほどと同じ。使い慣れた私室に、自分が存在するイメージ。瞳を閉じ、目の前の光景が、指の音と共に入れ替わるよう強く念じる。

 目をあけると、そこにはもう小憎らしい子どもの姿はなかった。

 「さて」

 溜め息をついた。これから先の行く末がどうなるのか。その確率が最も高いものは、出来れば起こらなければ良いと思った。

 だが、所詮、それは人の望みが描いた現実にすぎない。誰かが望んだはずのものがいくつも実現し、一つのリアルを作り出したとしても、それが万人に幸せなものになるとは限らない。

 せめてそれが、救いのあるものであって欲しい。

 念願の煙を吹かしながら、私は願わざるを得なかった。

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