04.朧月が現れた日
なんだ、ここ。
それがこの建物に入った感想だ。
海が見える丘の上というめちゃめちゃいい場所にぽつんと一軒建っている真っ白い建物。
ていうよりただの直方体の箱と言ったほうがここには似合うかもしれない。
何故なら外が見える窓など一つもないからだ。白一色の壁。何も貼られてさえいない。
窓があればここから見える景色は最高だろうに、もったいねえ。と何度も思った。
しかし、その一つも染みのない白い壁は崩れかけた階段を上がり、
階が一つずつ上がって行くたびに壊れているものが多くなってきた。
ところどころ言葉にするのもおぞましい物や血で汚れているものもあった。
こういうのは仕事柄見慣れてるはずなんだけどな。正直、マジ勘弁してほしいんだけど。
とそんなことを俺の三、四メートル前を歩くボスには言えるはずもなく、
なるべくそういう恐ろしいものを見ないようにして歩いていた。
八階までくるとボスが唐突に俺に声をかけた。
「お前はここの階を調査しろ。何かあったらすぐ呼べ」
とそれだけ言い残して自分はさっさとさらに上の階まで行ってしまった。
おいおいおいおい、ボス勘弁してくれって。ひとりにしないでくれ……って俺は女かってんだ。
こうなったら行ってやる。なんでもきやがれ。血でも皮膚でも内臓でもきやがれ。
う、やべ。想像した。無理。やっぱり無理です。ごめんなさい、こないでください。
込み上げてきたものを唾を飲み込むことによって胃の中へ流し戻して、
廊下に散らばったガラスの破片を踏みしめながら歩いた。
ふとガラスの無い窓枠がついた八割がた崩壊している壁から中を除くと、人間がいた。
小さい人間だ。
ボス、すでに何かありましたけど。
と心の中で報告しつつ、恐る恐る人間に近づく。人間は壊れていない壁に背を預けて蹲っている。
生きているのか死んでいるのかはわからないが、
この建物に入って初めて自分と一緒に来たボス以外の人間を目にした。
さきほどから付きまとう恐怖を振り払うために、ズボンのポケットから煙草とライターを取り出して、煙草を銜えた。
抜き足差し足忍び足という泥棒の足運びの三原則を参考にしつつそれを実行し、
人間まであと一メートル弱のところまで来た。
もう手を伸ばせば届いてしまいそうだ。そのときだった。
「う、わああっ」
我ながら情けない声を出し、一瞬で数メートルを飛ぶように後退してしまった。
だって、生きてんのか死んでんのかもわからない人間が急に顔を上げて睨んできたら誰でもビビるって。
顔を上げた人間はたぶん、女。
綺麗な真っ黒い髪に夜闇のように暗いけれど、でも透きとおった目は猫のごとく釣り上がり気味だった。
その人間はまだ俺を虚ろな目で見ていた。
ごく、と一度生唾を飲み込んで顔に煙草の煙がかかっちゃいけないと思い、煙草を捨ててから再度接近を試みた。
そしてそのたぶん女の人間の前まで行って、視線を同じ高さにするためにしゃがみ込んだ。
「た、い……う……」
「は? なんて?」
余りにもその声が小さすぎたもので聞き取ることができなかった。
俺はその言葉を聞くために恐れを捨ててその人間の口にできるだけ耳を近づけた。
「た……いよ。う……」
タイヨウ。って言ったのか。
タイヨウ。たいよう。大洋。耐用。
この世界にはいろんな意味のタイヨウという言葉が存在するが、目の前の人間はまだ幼く見える。
恐らく十、十一才ぐらいだろう。その年で知っているタイヨウと言えば太陽が一番しっくりくる。
「太陽がどうかしたのか?」
「たいよう……」
「太陽はもうわかったって」
「たいよう……」
「だーっ、もう」
繰り返し繰り返しか細い声で太陽、と呟く少女に早くも痺れを切らし自分の頭を豪快に掻きまわし、
ゆっくりと深呼吸を二度してから子どもにでもわかりやすいようにゆっくり、
自分ができる限り最高に優しい口調でこう言った。
「きみのなまえはなんですか?」
「きみ、なまえですか」
若干自分が言った言葉とは違うものの、少女は俺の言葉を復唱した。
「あ、俺の名前言ってねえじゃん」
相手に名を訪ねる前にまずは自分から名乗れ、と昔ボスに言われたのを思い出した。
コホン、とわざとらしい咳払いをして
「おれのなまえは紫月です」
と自分を指さしながら言った。
「なまえ、しづき……」
「そう。おれは紫月。きみのなまえは?」
「きみのなまえはわたしのなまえはとおです」
言葉としては違和感を覚える喋り方なものの、なんとか名前を聞き出すことには成功した。
この少女の名前はトオというらしい。
「そうか。トオちゃんかあ。こんなところでなにしてたの?」
トオは口を開きかけて、辞めた。そして俺の目から視線を反らした。
不審に思って視線の先を追って見ると、ボスが入ってきたところだった。
「ボス。生存者いたぜ」
「ああ」
ボスは足早に近づいてきて、トオの前で紫月と同じように屈んだ。
「紫月。名前は聞いたのか?」
「うん。トオだってよ」
「トオ……」
ボスは低い声で少女の名を呟いたきり、眉間に深い縦皺を刻んで黙りこくってしまった。
トオは相変わらず焦点の定まらない目で虚空を見つめている。
そんなトオがひしと力を込めて抱いているものに今更ながら気づき、
それが何か考えながら見てみるとそれの正体は簡単にわかった。
三角形の耳が二つに尻尾と思われる部分の先端もトオの腕からはみ出している。
恐らく、猫だ。
黒い生地で作られた黒い猫のぬいぐるみだ。
それを見て、それからトオを見ると黒髪に釣り目のトオはまるで黒猫みたいだ、と思った。
「紫月。そいつを連れて帰る」
「は?」
「急げ。帰るぞ」
ボスは言うより早く立ち上がって早くも部屋を出て行った。
「ちょっ、さすがの俺でもこのこ抱きかかえられませんけど!」
子どもとは言え、さすがにこの大きさでは抱きかかえるのは大きすぎる。
だいたい俺もまだガキだっていうのはアンタだろうが!
と心の中で悪態をつきつつ、座りこむトオに手を差し出した。
「俺と一緒にこない?」
トオは最初きょとんとした表情で小首を傾げた。
ああ、てかこうして見るとこのこすっげえ美人なんじゃね。
「おれといっしょこない」
「そう。一緒にこない?」
「ひとりぼっち、ちがうの?」
「俺、こう見えてもシュッツァーなんだぜ。……って言ってもわかんねえか。
ま、とりあえず俺と一緒にこれば俺の仲間にも会えるよ。結構大勢いるんだ。ひとりぼっちにはなんねえよ」
そう言うと、トオが顔を綻ばせた。
「さ、いこ」
トオが無言で頷いて、細い左腕に黒猫のぬいぐるみを抱え右手で俺の手を掴んだ。
少しだけ力を入れて立ち上がらせ、歩くことを促すとゆっくりではあるものの、俺の半歩後ろあたりを着いてきた。
外見から推測できる年齢にしては細すぎるし小さすぎるこの腕を、
俺は守ってやりたいと何故か泣きそうになりながら思った。
The day when the hazy moon appeared.
それは、朧月が現れた日。