02.破壊を知った日
エリイがいなくなってから正確には分からないけれど、
――朝昼晩の食事がそれぞれ七回ずつ運ばれてきたからおそらく七日が経った。
だんだん何も考えられなくなってきたことを透は実感していた。
何か考えようと思っても、それは頭の中で完全な形を成す前に脆く崩れ落ちてしまう。
食欲も湧かなかったから、エリイが戻ってくるまでは口にしないと決め、その通りにしたら案外何も食べなくても平気だということがわかった。
黒猫のぬいぐるみに顔を埋めて、真っ黒に染まる世界の中で私は、暗い世界を絶えず照らすたった一つの太陽だけを思い浮かべていた。
子どもたちの部屋のドアが開いて、見慣れた白衣の男が入ってくる。
それをぼんやり眺めていると、その男と目が合い、私が呼ばれるのだと言われなくても気がついた。
白衣もそれを察したのか頷くだけだった。
黒猫のぬいぐるみを置いて立ち上がる。
本当は離したくなかったけれど、持っていけば奪われ、そして捨てられるだけだ。
足取り重く、白衣の二、三歩後ろをついて行った。
連れて行かれたのは白いドアに金色で三文字の感じが書かれた部屋だ。
その三つの漢字は学校で習っていないから読むことはできない。
ドアを開けると、相変わらず白い部屋にベッド。
それから天井からぶら下がっている無数の管。
何に使うのか分からない無数の機器。
昔、高熱を出した時に病院へ連れて行かれ、そしてやった点滴。
注射などその他諸々が目に入った。もう、これらは見慣れている。 白衣の男に顎で促されてベッドに横になる。すぐに黒い眼隠しと手足に枷を嵌められる。
もう、身体に自由は無い。右腕にチクリと小さな痛みが奔ると、頭の奥がぼうっとした。
それから、ウィーンともキーンともつかない何か機械の音がしたけれど、私の中でそれらは意味をなさなかった。
また、身体を切られる。削られる。その類の感覚が身体の中を這いずりまわるのを、目を閉じて耐えた。
それらが終わって眼隠しや枷を外されると、今まで入ったことのない、隣の部屋に移された。
そこにも同じようにベッドが置かれていたが、機械や管などは一切なかった。
ただ、代わりに木製のテーブルとその上に見ただけで重そうだ、と感じる鈍い青味がかった灰色の金属のようなもの出てきた立方体が置かれていた。
不思議に思って白衣を見上げると
「じゃあ、透。あれを壊してくれるかな?」
微笑みながらそう言われた。
「こわす? どうやってですか?」
「それは透のほうが知っているんじゃないのかな」
答えになっていなかった。
だけど、言われたとおりあの金属の四角を壊さなければまた何をされるかわからない。
だからとりあえず、それに近づいた。
なんだか恐ろしくなって怖々手を伸ばして触れてみた。冷たい。
それにはPb、82とだけ彫られていた。相変わらず何かわからない。でも壊す方法はこうだ。
私は、解放した。
それはなんと言えば一番上手く説明できるのかわからない。
ただ、解放する。
身体のどこかで塞き止められている流れを解放する。こう言うのが一番近いのかもしれない。
四角に触れている右手から明るい火花のような光が生まれて、それは四角を包み込んだ。
そして、音はほとんどしなかった。ただ、四角はもはや四角ではなく粉微塵となっていた。
これが壊すということでいいのだろうか、振り向いて白衣に問おうとしたとき、急に胃の中から何かが込み上げてきて、吐きそうになった。というよりは吐いた。
白衣が慌てて駆け寄ってきて背中を擦った。ゼェゼェゼェゼェ。みっともない音を立てながら息を吸う。吐く。
なんだか身体中の骨がすべてギシギシいっているような気がした。
苦しい。息がしづらい。
あれ、息ってどうやって吸うんだっけ、と思った瞬間私の身体は重力に従ってその場に倒れた。
ゆっくりゆっくり音が遠のいていく中で白衣たちが、まずい。なんとしてでも死なせるなとか、やっとできた一番完成に近いやつなんだぞ、とか。
そんな声が聞こえた。私はふと、このまま意識を失って二度と目が覚めなければいいのに。と思った。
あ、ダメ。
白衣の一人が私の腕に注射を刺した瞬間、身体が火照り始めた。
アブナイ。私の中にある流れがその速度を増した。塞き止めている何かではもう抑えきれそうにもない。
アブナイ。しきりにそう感じた。ああ、もう溢れ出しそう。私の意志とは関係なく勝手に解放されてしまいそう。
アブナイ。今まで味わったことのない感覚に、恐怖を覚えた。
――危ない。
ドンッというような短い爆発音が複数起こった。それからぎゃああ、とかぐああとか白衣たちが低く叫び、呻く声もした。
身体の中の流れが溢れ出して止まらなかった。
ドクドクドク。まるでそんな音が聞こえるかのように止まることをしらず、溢れ続けた。
バタバタと廊下を走る音がして白衣たちが複数やってくるのがわかった。そしてそれらはこの部屋のドアを開けた瞬間、悲鳴に変わった。
横たわっている身体を無理やり起すと、背骨が軋んだ。部屋を見回すと、また吐き気がするような光景が目に入った。
さっきまでいたはずの白衣の人間がいない。そこにあるのは焦げたようにまっ黒になった布きれと肉片と夥しい量の血液のみだった。
それを見て悟った。これは私の流れが暴走しているせいなのだと。
ズキンズキンと一定のペースで頭痛が襲ってくる。それは回を重ねるに激しさを増していった。
「いた、いよお……」
視界がぼやけた。たぶんもうすぐ真っ暗になる。
そしたら思い浮かべるのはただ一つだけ。私の太陽だ。
はっきりしない視界の隅でドアがゆっくり開けられた。
入ってきたのは鏡で見たことのある私とそっくりだった。
漆黒の髪はまっすぐで長く、どこか猫を思わせる釣り目。
あ、でも目の色が違う。私の目の色は真っ黒だけど、あの人の目はまるで炎みたいな、赤だ。
激しく痛む頭ではそれが誰なのか、考えることさえできなかった。遠のいていく意識の中で私は、太陽の名を呼んだ。
「エリイ……」
The day when I knew destruction.
それは、破壊を知った日。