三
明くる日の午後。
『な、難陀竜王』
「烏枢沙摩明王」
『う、また“う”か……宇賀神——あっ!』
私たちは現在、遠目から本堂を観察し、香水の依頼人—塩澤父に名前を確認したところ、青柳由貴さんというらしい—が現れるのを境内の隅でしりとりをしながら持っているところだ。
『さ、さ……三十三間堂!』
「宇治上神社」
『じゃ、寂光院!——ああっ!』
そして、ちょうど三戦目が終了したところで、カジュアルなパンツスーツ姿の女性が塩澤父と共に本堂から出て来た。
きっと、青柳さんに違いない。
彼女は塩澤父にお辞儀をしたあと、長い髪を風になびかせて一人で山門、つまりこちらの方に向かって歩いてきた。
肩にかけたブランド物のバッグを握りしめて、姿勢よく足早に歩く青柳さんは、都会のオフィス街を肩で風を切って歩いているような印象の女性だ。
そんな彼女がボーンという寺の鐘が鳴り響く中、年季の入った本堂を背に抹香臭い風に髪を煽られている姿は、昔ながらの和菓子屋にティラミスが陳列されているようなちぐはぐさがあり、少しおかしい。
そして、ティラミスの向かい側に陳列されている大福にでもなったような気分で、私が青柳さんをじっと注視していると。
こちらに近づいて来るのに従ってはっきりとしてきた彼女の顔には、明らかに憂鬱そうな表情が浮かんでいるのがわかった。
時折、手で鼻を覆い、顔を顰めたりしているのは幻臭による影響かもしれない。
彼女が私たちの前を二、三歩通り過ぎた時、塩澤君が声をかけた。
「すみません、青柳由貴さんですよね? この寺の寺族で、塩澤和臣という者ですが、少々お時間よろしいでしょうか?」
「——なにかしら?」
こちらに振り向いた顔は少し不審そうではあったものの、寺の関係者だと告げたのが彼女の警戒心を緩めたのか、とりあえず話は聞いてくれそうな感じだ。
「じつは、青柳さんがお持ちでいらっしゃる香水に、個人的にご縁がありまして、少しお話を伺いたいのですが」
塩澤がそう言うと、青柳さんは一瞬、表情を強ばらせる。が、それを取り繕うかのように横柄な態度—片手を腰にあてて首を傾げ、不機嫌そうな口調—で答えた。
「……縁って、何かお間違いでは? この香水は私が一から作ったものですから、あなたとは何の関係もないと思いますが」
うわっ、きつー。無関係だから話すことなんて何もないってこと?
でも、青柳さん、ツンツンした態度で誤摩化しているみたいだけど、かなり動揺しているとみた!
バッグの持ち手を握っている青柳さんの手、不自然に力が込もっているから指先が白くなってるもん。
「あれ、そうでしたか。じゃあ、僕の勘違いかな? 確かに橋本さんの香水だと思ったんですけど……」
軽く眉間に皺を寄せ、悩まし気な表情を意識的につくった塩澤君が橋本さんの名前を口にすると、今度こそ彼女の顔色がはっきりと変わった。
「は、橋本さんだかなんだか知らないけど、話がそれだけなら、これで失礼するわっ!」
「あ、待ってください。一つだけ訊いてもいいですか?」
そこで言葉を切ると、塩澤君は意味あり気にチラリとバッグへ視線をやり、再び青柳さんと目を合わせると——。
「あなたが一から作った香水だとすると、なぜ呪いがかかるようなことに?」
「なっ、……それ、はっ——」
彼女は口を戦慄かせて何かを言いかけ、しかし、思い直したように唇を噛み締めると無言で身を翻した。
その背中に向かって塩澤君は、
「青柳さん! 住職から浄石寺を紹介されたかと思いますが、万が一、そこでも思うような結果が得られなければ、僕の方にご相談ください」
と言葉をかけた。が、カツカツという彼女のヒールが立てるの音が徐々に小さくなり、やがてほとんど聞こえなくなっても、青柳さんがこちらを振り返ることは一度もなかった。
『ねぇ、青柳さん、怒って行っちゃったけど……。カマをかけるにしても、もうちょっと何とかならなかったの?』
「いやー、それは無理な相談でしょ。人は疾しいことがある場合、相手がどう言おうが逆ギレすることが多いんだから。結果的に、青柳さんの限りなく黒に近い反応がよくわかって、よかったでしょ」
『まあ、確かにそうだけど……。それはそうと、あの最後の胡散臭い霊媒師のような発言はいったいなんなの? 塩澤君、お祓いなんて出来たの?』
「もちろん、僕は出来ないよ」
あれ、何か清々しい笑顔で答えてくれちゃってるけど、それって、つまり——
『……まさか、私にやれとか言うんじゃないでしょうね!? 前にも言ったけど、除霊とか無理ですからっ』
「いやさ、やりようはあると思うんだよね。神仏の力は多少なりともあるわけだし。それに千里さん、言ってたじゃない、『香水をあるべき状態に戻したい』って」
それは出来ればって話でしょ!
『下手に手を出して、逆に取り憑かれたりしたら、どうするのよ! 仏の加護があるとはいっても、私のは 加護(うっすら)だからねっ。私の装甲は神じゃなくて、紙よ!』
「まあまあ、落ち着いて。さすがに軽自動車でトラックへ突っ込むような真似はさせないよ。そもそも浄石寺でちゃんとお祓いできれば、何も問題はないわけだし」
ああ、そういえばそうだよね。
どうかお祓いが上手くいきますように!
レベル一桁のソロプレイヤー(掛詞)に、呪いの解呪とか無理ですからっ。
*****
翌朝。
「和臣、おはよー! あのさ、昨日の数学の宿題、全部解けた? 俺、問四の二ができなくてさー」
教室に入った瞬間、九条君から元気な挨拶と宿題の相談がとんできた。
「ああ。一応全部解いてはきたよ。答えが合っているかどうかは保証できないけど」
「いやいやいや、和臣のことだから、絶対合ってるって。 教えて教えてっ」
なぜか問題を解いた本人ではなく教えてもらう側の九条君がその解答に太鼓判を押して、ノートを抱えてちょこまかと駆け寄って来る。
その姿は私に、餌を持った飼育員にトトトッと二足歩行で近づいていくレッサーパンダのエイタ君を想起させた。
……どうかそのままの君でいてください。
九条君に男臭さとかいらないから。
九条君からヘルプコールを受けた塩澤君は鞄から数学のノートを取り出すと、彼の解けなかった問題を丁寧に解説していった。
ううっ、いいなー。
友人同士仲良く勉強を教え合うなんて、普通の学生にとってはどうってことのない日常の一部なんだろうけど、今の私にとっては天に瞬く星をつかむのに等しい行為だよ。
ハァー、早く元の体に戻りたいよー。
ああ、でもよかったよ。勉強会が《友情》バージョンで。目の前で《キャハハウフフ》バージョンなんて展開された日には、私は——
「和臣くーん。問四の二、私にも教えてもらえる?」
……………………。
——今夜は君に、とっておきの悪夢を見せて上げようか、塩澤君。ゴリラのようなオカマ百人に追いかけられる夢とか。
——そんなことをしては駄目よ、あずさ。塩澤君はあなたの大事な協力者なのよ。臍を曲げられたら自分が困ることになるんだから! ぐっと堪えるのよっ。
どいやら私の中で、堕天使阿厨叉と打算天使アズサが争いをはじめたようだ。
そして、彼らの楽しそうな声が聞こえてくる度に打算天使アズサのライフが削られていく!
「あ、なるほどー。ここの角度は、これから引けばいいのねっ」
「そう。あとはそれを使って面積をだせばいいだけだから」
「お、そうなると……——解けた解けた! ありがとう、和臣」
「私も解けた! 便乗させてもらっちゃってありがとね、和臣君」
アズサのゲージがいよいよレッドゾーンに突入しそうになった時、勉強会は終了。
ふー、危なかった。これ以上目の前で青春を謳歌されると、地蔵菩薩の顔が不動明王の顔に変化してしまったかもしれない。
それから、宿題を終えた後もその場に居残った九条君は、これが本当に聞きたかったことだと言わんばかりにわくわくした表情を浮かべて、
「ところでさ、和臣が警察から感謝状貰ったって聞いたんだけど、どういうこと?」
あの仏像(私)投擲事件のとこを口にした。
「え、なんで知ってるんだ?」
「近所のお肉屋さんの奥さんに、うちの母親が聞いたみたい。それで、どうして貰ったの?」
「……ひったくり犯を捕まえるのに協力したらくれた」
九条君からの問いかけに、功績を誇るでもなく、ただ事実だけを淡々と告げた塩澤君は。
うん、間違ってはいないよ。間違ってはいないけど、十五歳という若者らしさがまるで感じられないよっ。
ここはあの白昼の捕り物劇を滅多にない奇跡の武勇伝として、盛りに盛って語り聞かせるところではないの!? 私だったら絶対そうする。
ほら、見てみなよ。まったく期待はずれだといわんばかりの九条君の表情を。
二足歩行で二十歩も歩いたのに、ご褒美の餌を貰えなかった海君のような顔をしているじゃない。
でも、彼の立ち直りは早かった。
「す、すごいじゃん、和臣! 偶々(たまたま)鉢合わせた犯人を捕まえるなんて、なかなか出来ないことだよ!」
本人が冷めている分、海君、じゃない、九条君は自分が盛り上げ役になることにしたようだ。うん、そういう使命感に駆られる人っているよね。
「うーん、これも仏のお導きということじゃないかな」
九条君の賞賛に対して塩澤君は、鞄の外から私が潜伏している場所を指でトントン叩きながらそんな返事をしたけど、ちょっと待て。
いやいやいや、あれは導いてないよね? 腕力にものを言わせて無理矢理、導かせてたよね? またあの時の怒りが再燃しそうだわ。
「仏のお導きっ! やっぱり寺生まれのSさんは持ってるものが違うね!」
「S、さん? なんでイニシャル……?」
「あー、特に深い意味はないんだ。なんとなく口から出てきたというか」
顔の前で手をパタパタ振ると、九条君はそのまま弾むような足取りで自分の席へ帰っていった。
——もしかして九条君も、かけ声一つで悪霊を滅するあのオカルト界のヒーローのファン!?
じつは去年の夏に私、彼のヒーローにはとてもお世話になったんだよね。
友達と百物語をすることになったんだけど、恐い話とかあまり知らなかった私には一人十話のノルマは結構きつくて。それで恐い話をネットで検索したら、彼の話がお手軽な怪談のネタとしていくつか載ってて、非常に助かったのだ。
ただ、後半全部、彼関連の話にしたら、友人たちから「また彼の話なの?」と半目で見られたり、「それ、怪談?」と突っ込まれたりして最後はグダグダに。
まあ、今ではそれもいい思い出です。
九条君が立ち去った後、塩澤君は小首を傾げつつ鞄にノートをしまうと、換わりに文庫本を取り出してそれを読み始めた。そして、直前の些細な疑問などなかったかのように、すぐにその本に没頭しだした。
ほんと好きだよねー、読書。今日は何の本を読んでいるんだろ?
私、よく塩澤君が読書している時に、それがどんな本なのか当てようとしたりするんだけど、彼が乱読過ぎて当たった試しがないんだよね。
塩澤君が読んでいた本のタイトルをあとで確認したら、『ソバ麦畑でつかまえて』だった……。
どういう内容の本なのか、ちょっと気になる……。