普通の幼馴染に戻りたいっ
人生って、本当に上手くいかないなって思う。全然、思うように事は運んでくれなくって、それどころかほら、またあの人が遠くなってしまった。
「ここはテストにも出すからね。ちゃんとノートにとっておくんだよ」
お腹も程よく満たされたばかりの午後一番、5時間目の授業で、物理の水原 楓先生の穏やかな声が教室に響く。
優しくて柔らかい声。それは心地よいぽかぽか陽気を浴びる窓際の生徒達のとどめとなるには十分で、隣の男子なんか先ほどから気持ちのよさそうな寝息をたてている。
私は、先生に言われた通り黒板の文字をノートに写しながらちらりとその隣の男子に視線を向けた。
気持ちが分からないことはないけれど……。やっぱり起こした方がいいかな?
もしかしたら余計なお節介かもしれない。そう思いもしたけれど それでも、と迷いの混じった右手をおずおずと隣の席に向けて伸ばす。
肩を一度、軽くたたけば起きてくれるかな? それともゆすった方がいいのかな?
そんな事を考えながら。
けれどその手が彼に触れきる直前に「森田くん、起きてください」とビシリと咎めるような先生の声が隣の席の森田くんにかけられた。まさか先生も気が付いているとは思っていなくて、そして手が届く直前と言うタイミングで声をかけられて吃驚して先生の方を見ると先生はいつもにこやかな口元をギュッと引き結んで森田くんを見ている。
あーぁ、森田くん、先生を怒らせちゃった。
そう思ったけれど、びくっと目を覚ました森田くんがぼんやりと先生を見た後、状況に気が付いたように慌てて「ごめんっ。楓ちゃん」と言いながら勢いよく目の前で両手を合わせ、苦く笑ってみせて、そんな森田くんに先生は「ちゃんと授業は聞いてくださいね」と一つ小さくため息を吐いて、授業に戻っていく。
私はそんな先生の姿を見ながら、ぎゅっと眉根を寄せた。
“楓ちゃん”
もう学校中で定着してしまっているその先生に対する呼び方。私はそれが面白くない。それを咎めない先生も嫌だ。
だって先生は男なのに。なんで“ちゃん”なのよ。
それは、決して一緒に“楓ちゃん”と呼ぶことのできない私のジレンマ。
――こんなはずじゃなかったのに。
授業中ではあるけれど、泣きたくなるような空しさと後悔を抱いて、教壇の上で教科書を片手に黒板へとチョークを走らせる先生の後姿を見た。かつては、こうやって眺めることを強く願っていた、その姿を。
*****
「桃花。君は本気でそんなこと言ってるのかな?」
三年前の夏、パパは信じられないといった強張った顔で意気込む私に恐る恐るそう訊ねてきた。
「もちろん本気に決まってるじゃない! 私、がんばる! 絶対に森園高校に合格してみせるわ!」
「いや、でも君の成績じゃ無理だとパパは思うんだ。この前のテストだって君、5教科の合計で200点行ってなかったよね? 一応森園は県下一の進学校なんだよ? 受験まであと半年しかないんだから今更どうあがいても……」
「親が娘の可能性を信じなくてどうするの!? 私がやると言ったら絶対にやって見せるんだから。とりあえず塾と家庭教師、お願いね! もう今日からでも勉強を始めないと。楓くんと同じ学校に行けないじゃない!」
ダンっ、と私は目の前のローテーブルを両手で勢いよく叩いた。
パパが怯えたようにソファの上でのけ反っている。それほどの気迫を私はこの時漂わせていた。
『森園でね、教師になることが決まったんだ。桃も今年受験だろ? 一緒に森園に行こう?』
お隣の家の息子さんで、私の年の離れた幼馴染が嬉しそうに携帯電話越しにそう報告してきたのは今からほんの数分前のこと。
楓くんが、教師になるのが夢だったって私はずっと前から知っていた。
だから、夢が叶ってよかったって、その報告をきいてとっても嬉しかった。その上、何? 桃も一緒に!?
今まで考えたこともなかったことを提案されて、私は驚きと共に胸をときめかせた。
楓くんが先生で、私が生徒。
楓くんの先生をしている姿を見れる! 今は大学生と中学生でなかなか顔を合わせることもままならないのに、同じ場所で毎日過ごすことが出来る。
なんて素敵なんだろう!!
私は一も二もなく頷いて、すぐにパパを説得に行った。
確かに私の成績はとてもよろしいとは言えない……、というか悪いとしか言えないものだったけれど、それからの私は寝る間も惜しみ、血を吐くくらい勉強に打ち込み、そしてめでたく森園高校に合格してみせた。パパが驚愕して顎を地面に落とさんばかりだったけれど、私だってやれば出来るのだ。
「楓くん! 合格した。一緒に森園に行くよ」
合格通知を片手に、お隣の家の楓くんの部屋に駆け入って、そう報告すると楓くんは満面の笑みで「桃、おめでとう。よくやった」って私の頭をぐりぐりと撫でてくれた。
今、思い返せばなんて幸せな時間だったのだろう。
まさか、こんな未来が待っていようとは思いもしなかった。
だって、私はこの時すっかり忘れていたから。教師と生徒の正しい距離と言うものを。
入学してすぐ、もう家に来ちゃダメだって楓くんに言われた。一緒に遊びにも行けないって言われた。学校で“楓くん”と呼んではダメだって、あからさまに親しげに話しかけてこないでとも言われた。
僕たちは、教師と生徒だ、いいね? って。
まるで、当然のことだというように。なんてことないように。
確かに楓くんは間違ったことを言っていないと思った。だからしぶしぶ頷いた。
だけど。
だけど、私は楓くんの傍に居たかったから頑張って森園に行くことにしたのに。これなら、意味がなかったんじゃない? なんだか森園に入学する前よりも楓くんがずっと遠くなってしまったような気がする。
こんなことになるなら、私、ここに来たくなかった。
こうなると分かっていた楓くんは何で私に、ここに一緒に来ようって誘ったの? 楓くんはそれでもいいと思ったの? 別にどうでもいいことなの?
そんな不満のような疑問が次から次へと湧いてくる。
転校、したいなぁ。
そしたらまた、ただの幼馴染に戻れるのかな?
そんな想いすら抱いてしまう。
それでも、あれだけ努力をしてせっかく入れた高校を辞めるのはやっぱりもったいないし、きっとパパもママも許してくれないって分かっているからそのまま3年生になる今日までやってきた。
この2年ちょっとで、もう、楓くんのこと“先生”って呼ぶことにも慣れた。
皆は“楓ちゃん”って呼ぶけれど、これは最後の反抗だ。だって“楓くん”と“楓ちゃん”は違うもの。
“楓くん”のほうが先なのに、“楓ちゃん”になんて染まりたくないもの。私はその他大勢なんかじゃない。だからこれがプライドをかけた最後の反抗。
「それでね、英語の瀬戸もね楓ちゃん狙ってるんだって」
とある日の昼休み。食後のおやつを食べながらそんな話題を提供したのは仲良しの明子。
「え? だって、古典の裕子ちゃんも楓ちゃん狙ってたよね?」
同じく仲良しの理恵子がそんな興味津々な声を上げた。
「うーん。でもね、楓ちゃん優しいし、イケメンだし、若い女教師たちはそりゃあ狙うよね。仕方がないさ。そう言えばこの前C組の秋元さんも告ったって話。それはちょっとやばいよねー」
はははと明子が乾いた笑いを浮かべる。
私はこの2年ちょっと、楓くんに近づくことを許されなかったのに。偶に携帯で話すくらいしか許されなかったのに、どんどん他の女たちが楓くんに接近している。
ずるい。
私だって傍に行きたいのに。もっともっと話をしたいのに。好きだって言いたいのに。
何で、私だけそれが許されないんだろう? 私は本当にここに何をしに来たんだろう?
そんな苛立ちが私に襲いかかってきて、でも、明子にも理恵子にも私のそんな感情を悟られたくなくて「ごめん、私、ちょっとトイレ」といって席を外した。
昼休みは教室も廊下も人が多くて落ち着けないから、特別教室棟を目指して歩く。
きっとそこになら誰もいないから。
少しだけ、静かな場所に言って、深呼吸して気持ちを落ち着かせよう。そう考えながら淡々と歩を進める。
その時、
「江崎さん」
私の名を呼ぶそんな声が聞こえて私は足を止め、顔を上げた。
そこには見覚えがあるようなないような、男子生徒が一人立っていて、私は彼に「何?」と問いかける。
「あの、さ。ちょっと今いいかな?」
言いづらそうにその人は言ってきて、「なんで?」と首を傾げて問いかけると「ここじゃちょっと」と言われてしまった。
「わかった。どこで話聞けばいいの?」
「えっと、裏庭なんてどうかな?」
「……うん」
まだ、苛立ちを消化しきれていないけれど仕方がない。私は短くそれだけ頷いて、その人について行く。
そこから靴に履きかえて裏庭に出た。
私だって、そこまで鈍感じゃない。この男子が何のために私をここに連れてきたのか大体予想はついている。
やきを入れるか、告白か。
この場所は大体そのどちらかだろうと思うけど、私はこの人の恨みを買った覚えもないし、後者かな? でも、思い返せば中学のころはたまにあったそれもこの高校に入ってからぴたりとなくなっていたから断定はできない。
「それで?」
そんなことを考えながら問いかければ、男子生徒はやっぱり言いづらそうに、でも意を決したように私を見据え勢いよく口を開いた。
「江崎桃花さん。俺とッ……」
けれど、それは遮られて、私は横から自分の体が何か強い力に引き寄せられた感覚に驚いて目を見開いた。
「ダメだよ。桃に手を出しちゃ」
頭上からよく知った、穏やかな、声。
「……楓、くん!?」
私を引き寄せたのは楓くんの腕で、私のすぐ近くには楓くんが居て、驚いた私は口をパクパクさせながら楓くんを見上げた。
「な、な、何で!?」
桃って言った。
学校で親しげにしないでって言った張本人が、なぜか私を抱き寄せている。
何? これ。何が起こったの!?
私は頭をぐるぐると回転させて、必死に何が起こっているのか理解しようとしたけれど、でもやっぱり分からなくって。久しぶりの楓くんとの接触にドキドキ心臓が暴れだす。
「楓ちゃん? 何で?」
そんなこんなですっかり存在を忘れていた男子生徒の声が聞こえてはっと彼の方を見てみれば、彼もやっぱり動揺していて、一人だけ飄々としている楓くんが私を抱き寄せたまま彼に、
「桃に手を出したら許さないよ? 折角桃に変な虫が付かないよう監視するためにこの学校に誘ったんだからさ」
と、とても綺麗に微笑んでみせる。
いや、言っている意味がさっぱり分からないんだけど?
けれど、どうやら身の危険を感じたらしい男子生徒は「うん、わかった」とかなんとか言いながら青い顔で去って行ってしまった。
「はぁ、危なかった」
「ねぇ、楓くん?」
「ん?」
私は楓くんから離れて、彼と向かい合う。
何がどうなってこうなっているのかをしっかり説明してもらうために。
「監視って何? 私を何のためにこの学校に誘ったって?」
「それは、もちろん可愛い桃に変な男が寄らないようにって意味に決まっているでしょ? 他の学校に行かれたら見張れないじゃないか。でもやっぱり正解だったね。この2年間害虫駆除が大変だったし」
楓くんが穏やかな声で、満足そうに微笑みながらそう言って一人頷いている。
「え? でも楓くん、ただの教師と生徒として振る舞えって私に言った」
「うん、そうだよ。卒業までは、ね。あと数か月もすれば、君は僕のものだよ、桃?」
「え、えっと???」
「長いよね。僕ももう桃不足で死んじゃいそうだけど、でもしばらくの辛抱だ。だからね、他の男になんて目移りしちゃダメだからね」
去り際に、私の顎を持ち上げて楓くんが私に掠めるようなキスをしてきた。
裏庭に取り残されたのは私一人。
私は、足の力が抜けてしまってそのままそこにへなへなと座り込んでしまった。それでも、
『君は僕のものだよ』
楓くんの思いがけないその言葉がとっても嬉しくて、やっぱり普通の幼馴染になんて戻りたくなんかないって、そう思った。