二十七日休まない夫を、いったい誰が働かせているのでしょう
「今日は、帰ってくる?」
朝食の席でそう尋ねると、夫のユリウスは困ったように笑った。
「帰ってくるよ」
「昨日もそう言ったわ」
「昨日は急な仕事が入ったんだ」
「一昨日も」
「一昨日も……急な仕事が入った」
私は黙ってユリウスを見る。
目の下には、うっすらと隈ができていた。
結婚した頃にはちょうどよかった上着も、今では少し余っている。
「今日は?」
「今日は大丈夫。殿下にも、今日は早く帰れと言われたから」
「何時?」
「夕食には間に合うよ」
「本当に?」
「本当に」
そう言って、ユリウスは笑った。
だから私は、その言葉を信じることにした。
その日の夕食には、彼の好きな鶏肉の香草焼きを用意した。
七時。
帰ってこなかった。
八時。
スープを温め直した。
九時。
鶏肉を厨房へ下げてもらった。
十時。
玄関の扉が叩かれた。
「夜分に失礼いたします」
立っていたのは、王城の制服を着た若い文官だった。
「ユリウス様から、こちらを」
渡された紙には、見慣れた夫の字で一言だけ書かれていた。
――すまない。今日も遅くなる。
私は紙から顔を上げた。
「夫は今、何をしているの?」
「明日の御前会議で使用する資料を確認しておられます」
「それは、夫でなければできない仕事?」
若い文官は困った顔をした。
「いえ。ただ、ユリウス様が確認すると仰いまして」
「確認が終われば帰れるのね」
「その後、南部の税収報告をまとめると」
「それは?」
「来週までの仕事です」
私は黙った。
「……来週?」
「はい」
「明日じゃなくて?」
「はい」
「夫が、今日やると言ったの?」
「はい」
若い文官は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ユリウス様は、本当に働き者でいらっしゃいますから」
私は手元の紙を見た。
――すまない。今日も遅くなる。
急な仕事が入った。
夫はそう言っていた。
でも。
今の話は、少し違わないだろうか。
---
翌朝、ユリウスは帰ってこなかった。
今週に入って三度目だった。
私は一人で朝食を食べた。
向かいの椅子は空いている。
以前なら、仕方がないと思った。
夫は王太子殿下に重用されている。
二年前、殿下から初めて、
「君が必要だ」
と言われた日のことを、私は覚えている。
ユリウスは本当に嬉しそうだった。
夫は優秀な人だ。
数字に強く、記憶力がよく、仕事が丁寧。
けれど、人付き合いは得意ではない。
華やかな場所ではいつも一歩後ろにいるような人だった。
そんな夫を、王太子殿下が見つけてくださった。
だから私も嬉しかった。
仕事が増えた。
役職が上がった。
給金も増えた。
帰宅が遅くなった。
休日が減った。
夕食を一緒に食べる日が減った。
そしてとうとう、帰ってこない日までできた。
私はずっと思っていた。
王太子殿下は、いったい夫にどれだけ仕事をさせるつもりなのだろう、と。
だから、その日の午後。
私は王城へ向かった。
夫をこんな働かせ方にした人間がいるなら、一度くらい顔を見てやろうと思った。
---
「二十七日?」
私は聞き返した。
「はい」
夫の直属の上司は、気まずそうに勤務記録をこちらへ向けた。
最後に休暇を取ってから、二十七日。
そのうち六日は王城に泊まっている。
「これを殿下はご存じなのですか?」
「……ご存じではないと思います」
「直属の上司であるあなたは?」
「勤務日数については把握していました」
私は上司を見た。
「では、なぜ休ませなかったのです?」
「休むようには言いました」
「え?」
思っていなかった答えだった。
「先週も?」
「はい」
「今週は?」
「一昨日、私から明日は休めと」
「休んでませんけど」
「ユリウス卿が、まだ仕事が残っているからと」
私は少し黙った。
「王太子殿下から仕事を大量に任されているのでは?」
「殿下から直接の仕事もあります。しかし――」
上司は机の上の書類を何枚かめくった。
「昨日、ユリウス卿が確認していた御前会議の資料ですが、担当は別の者です」
「……はい?」
「本人が確認すると申し出ました」
嫌な予感がした。
「南部の税収報告は?」
「来週が期限です」
それは昨夜聞いた。
「なぜ昨日?」
「本人が今日中に片づけると」
「他には?」
上司が黙った。
私は勤務記録を見た。
「あるんですね?」
「……三日前の地方官吏の人事資料も、本来は別の者の担当でした」
「他には?」
「先週の予算案の確認も」
「他には?」
「隣の部署から頼まれた帳簿の照合も」
私は頭を抱えた。
「ちょっと待ってください」
何かがおかしい。
私はここへ来るまで、怒っていた。
夫をこんなに働かせている人間に。
王太子か。
上司か。
仕事を押し付ける同僚か。
ところが。
「……誰も夫に、そこまで働けと言ってないんですか?」
上司は答えなかった。
代わりに、非常に困った顔をした。
それが答えだった。
「むしろ」
上司が恐る恐る言った。
「最近は、我々も仕事を受けすぎないよう注意しているのですが」
「それでも?」
「ユリウス卿が拾ってしまいます」
「落とし物みたいに言わないでください」
「申し訳ありません」
私は大きく息を吐いた。
犯人を探しに来たはずだった。
なのに。
どこにもいなかった。
---
「勝手に僕の休暇を取ったのか?」
その日の夕方。
珍しく早く帰ってきたユリウスは、珍しく怒っていた。
「ええ」
「しかも三日も!」
「一週間欲しかったんだけど」
「一週間!?」
「負けたわ」
「勝ち負けの話じゃない!」
ユリウスが額を押さえた。
「今がどれだけ忙しい時期か、君には分からないだろう」
「分からないわ」
「だったら――」
「でも、来週までの仕事を昨日やる必要がないことくらいは分かる」
夫が止まった。
「御前会議の資料。あなたの担当じゃなかったそうね」
「……念のため確認しただけだ」
「人事資料も?」
「担当者が困っていたから」
「帳簿の照合」
「頼まれたから」
「予算案」
「僕が見た方が早い」
私は一つずつ指を折った。
「それで二十七日間、休んでない」
「今は忙しいんだ」
「上司から休めと言われたそうね」
黙った。
「殿下からも早く帰れと言われた」
さらに黙った。
「ユリウス」
私は夫を見る。
「誰があなたをこんなに働かせてるの?」
夫は答えなかった。
私は今日、王城で何度も考えた。
夫を使い潰そうとしているのは誰なのか。
答えは、とても近くにあった。
「……あなた自身じゃない」
ユリウスの顔が強張った。
「違う」
「何が?」
「僕は必要だからやってるんだ」
「誰に?」
「みんなにだよ」
即答だった。
「僕が確認すれば間違いが減る。僕が手伝えば仕事が早く終わる。殿下だって僕を頼ってくださっている」
「だから全部やるの?」
「できるんだから、やればいいだろう」
「いつまで?」
「何が」
「いつまでできるの?」
ユリウスは答えなかった。
「倒れるまで?」
「大げさだ」
「二十七日休んでない人が言わないで」
「僕は大丈夫だ!」
その声に、私は黙った。
ユリウス自身も驚いたようだった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて彼が、小さく言った。
「……僕には、これしかないんだ」
「これって?」
「仕事だよ」
夫は椅子に座った。
「兄上みたいに人付き合いが上手いわけじゃない。面白い話もできない。学生の頃だって、僕はいつも目立たなかった」
私は黙って聞いた。
「でも、仕事ならできた」
ユリウスは自分の手を見ていた。
「頼まれたことをやれば、ありがとうって言ってもらえた」
そこで私は、ようやく理解した。
夫は仕事が好きなのだと思っていた。
違った。
この人は、
必要とされることが好きだったのだ。
「殿下が僕を必要だと言ってくださったとき、本当に嬉しかった」
「そうね」
「あの方の役に立てる。みんなの役に立てる。僕にしかできないことがある」
「うん」
「それなのに、休めって……」
私は夫を見た。
そして思った。
たぶん、言葉で説明しても駄目だ。
「分かった」
「……何が?」
「三日間、好きにしていいわ」
ユリウスの顔が明るくなった。
「じゃあ、少しだけ家で書類を――」
「ただし」
私は人差し指を立てた。
「三日間、私の役に立つことは禁止します」
「……何?」
「仕事も禁止。家事も禁止。庭仕事も禁止。買い物も禁止」
「待ってくれ」
「誰かの手伝いも禁止」
「じゃあ僕は何をするんだ?」
「何もしない」
夫が固まった。
「三日間?」
「三日間」
「何も?」
「何も」
「それに何の意味があるんだ?」
「ないわよ」
私は笑った。
「意味がないことをするの」
---
一日目。
ユリウスは昼まで寝た。
昼食の後、私が本を読んでいると横に立った。
「何か手伝おうか」
「駄目」
「お茶くらい淹れるよ」
「駄目」
「それくらい役に立つとかじゃ」
「駄目」
ユリウスは不満そうにソファへ座った。
十分後。
寝ていた。
---
二日目。
「庭の枝が伸びてるな」
「庭師がやります」
「少しくらい」
「駄目」
「買い物は?」
「侍女が行きました」
「帳簿の整理」
「私が昨日やりました」
ユリウスは黙った。
「……暇だ」
「でしょうね」
「君は毎日、こんなにのんびりしているのか?」
「失礼ね。私は仕事してます」
「僕だけ?」
「あなたは休暇中」
午後。
二人で散歩をした。
何の役にも立たない散歩だった。
パン屋で焼き菓子を買った。
何の役にも立たなかった。
家に帰って二人で食べた。
やっぱり何の役にも立たなかった。
でもユリウスは少し笑っていた。
---
三日目。
朝食を食べたあと、ユリウスが言った。
「今日は何をする?」
私は少し驚いた。
「何かしたい?」
「役に立たないことなら」
「難しい注文ね」
「君が言ったんだろう」
二人で考えた。
結局、町外れの湖へ行くことにした。
馬車で半刻。
湖を眺めた。
昼食を食べた。
帰ってきた。
本当に、それだけだった。
夕方。
ユリウスがぽつりと言った。
「三日終わったな」
「そうね」
「僕、何もしなかった」
「見事だったわ」
「褒められることなのか?」
「今回だけは」
ユリウスは笑った。
それから、少し黙った。
「……なあ」
「何?」
「僕、三日間、君の役に立った?」
私は考えるふりをした。
「全然」
「そこは少しくらい考えてくれ」
「だって禁止したもの」
「そうだけど」
また沈黙。
ユリウスは私を見た。
「楽しかった?」
「何が?」
「僕といて」
私は夫の顔を見た。
本当に分からないらしい。
だから笑ってしまった。
「楽しかったわよ」
「何もしてないのに?」
「あなた、私が毎日何かの役に立ってるから結婚したと思ってたの?」
ユリウスが黙った。
「あ」
小さく声を出した。
たぶん。
ようやく気づいたのだ。
私は三日間、ずっと同じことをしていた。
夫に何もさせなかった。
何の役にも立たせなかった。
それでも一緒にご飯を食べた。
散歩をした。
笑った。
明日も一緒にいたいと思った。
「……そっか」
ユリウスが言った。
「うん」
「僕、何もしなくてもいいのか」
「毎日は困るわよ」
「そこは困るのか」
「働いてもらわないと」
二人で笑った。
私は夫の肩に頭を預けた。
「でもね」
「うん」
「仕事ができなくなっても、帰ってきていいのよ」
しばらく返事はなかった。
やがて。
「……うん」
それだけ返ってきた。
---
休暇が終わって、ユリウスは王城へ戻った。
仕事を辞めたわけではない。
王太子殿下の信頼を失ったわけでもない。
相変わらず忙しい。
ただ。
「これは明日に回します」
そう言えるようになった。
最初に言ったときは、ものすごく緊張したらしい。
相手は王太子殿下だった。
「それで?」
私が聞くと、ユリウスは何とも言えない顔をした。
「分かった、と」
「それだけ?」
「それだけ」
「怒られなかった?」
「全然」
「困られた?」
「別の仕事をしていた」
私は吹き出した。
ユリウスも笑った。
夫が今日やらなかった仕事は、明日になった。
夫が引き受けなかった仕事は、別の誰かがやった。
世界は滅びなかった。
王国も滅びなかった。
夫の居場所もなくならなかった。
そして今夜。
玄関の扉が開いた。
「ただいま」
時計を見る。
七時十二分。
今度は本当に、夫だった。
「遅い」
「十二分だけだろう?」
「夕食は七時です」
「申し訳ありません、奥様」
ユリウスは上着を脱いだ。
「今日は何?」
「鶏肉の香草焼き」
「ああ、好きなやつだ」
「知ってる」
私は温かい皿を夫の前に置いた。
ユリウスが食卓の向かい側に座る。
そこに夫がいる。
ただ、それだけ。
王城では明日も、きっと誰かが夫を必要とする。
それでいい。
必要とされるのは、嬉しいことだから。
でも、ここでは。
何の役にも立たない日があってもいい。
「いただきましょうか」
「ああ」
向かい側から、夫の声が返ってきた。
私は自分の席に座る。
今日の夕食は、まだ温かかった。




