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二十七日休まない夫を、いったい誰が働かせているのでしょう

作者: よみなぎ
掲載日:2026/09/12

「今日は、帰ってくる?」


朝食の席でそう尋ねると、夫のユリウスは困ったように笑った。


「帰ってくるよ」


「昨日もそう言ったわ」


「昨日は急な仕事が入ったんだ」


「一昨日も」


「一昨日も……急な仕事が入った」


私は黙ってユリウスを見る。


目の下には、うっすらと隈ができていた。


結婚した頃にはちょうどよかった上着も、今では少し余っている。


「今日は?」


「今日は大丈夫。殿下にも、今日は早く帰れと言われたから」


「何時?」


「夕食には間に合うよ」


「本当に?」


「本当に」


そう言って、ユリウスは笑った。


だから私は、その言葉を信じることにした。


その日の夕食には、彼の好きな鶏肉の香草焼きを用意した。


七時。


帰ってこなかった。


八時。


スープを温め直した。


九時。


鶏肉を厨房へ下げてもらった。


十時。


玄関の扉が叩かれた。


「夜分に失礼いたします」


立っていたのは、王城の制服を着た若い文官だった。


「ユリウス様から、こちらを」


渡された紙には、見慣れた夫の字で一言だけ書かれていた。


――すまない。今日も遅くなる。


私は紙から顔を上げた。


「夫は今、何をしているの?」


「明日の御前会議で使用する資料を確認しておられます」


「それは、夫でなければできない仕事?」


若い文官は困った顔をした。


「いえ。ただ、ユリウス様が確認すると仰いまして」


「確認が終われば帰れるのね」


「その後、南部の税収報告をまとめると」


「それは?」


「来週までの仕事です」


私は黙った。


「……来週?」


「はい」


「明日じゃなくて?」


「はい」


「夫が、今日やると言ったの?」


「はい」


若い文官は申し訳なさそうに頭を下げた。


「ユリウス様は、本当に働き者でいらっしゃいますから」


私は手元の紙を見た。


――すまない。今日も遅くなる。


急な仕事が入った。


夫はそう言っていた。


でも。


今の話は、少し違わないだろうか。


---


翌朝、ユリウスは帰ってこなかった。


今週に入って三度目だった。


私は一人で朝食を食べた。


向かいの椅子は空いている。


以前なら、仕方がないと思った。


夫は王太子殿下に重用されている。


二年前、殿下から初めて、


「君が必要だ」


と言われた日のことを、私は覚えている。


ユリウスは本当に嬉しそうだった。


夫は優秀な人だ。


数字に強く、記憶力がよく、仕事が丁寧。


けれど、人付き合いは得意ではない。


華やかな場所ではいつも一歩後ろにいるような人だった。


そんな夫を、王太子殿下が見つけてくださった。


だから私も嬉しかった。


仕事が増えた。


役職が上がった。


給金も増えた。


帰宅が遅くなった。


休日が減った。


夕食を一緒に食べる日が減った。


そしてとうとう、帰ってこない日までできた。


私はずっと思っていた。


王太子殿下は、いったい夫にどれだけ仕事をさせるつもりなのだろう、と。


だから、その日の午後。


私は王城へ向かった。


夫をこんな働かせ方にした人間がいるなら、一度くらい顔を見てやろうと思った。


---


「二十七日?」


私は聞き返した。


「はい」


夫の直属の上司は、気まずそうに勤務記録をこちらへ向けた。


最後に休暇を取ってから、二十七日。


そのうち六日は王城に泊まっている。


「これを殿下はご存じなのですか?」


「……ご存じではないと思います」


「直属の上司であるあなたは?」


「勤務日数については把握していました」


私は上司を見た。


「では、なぜ休ませなかったのです?」


「休むようには言いました」


「え?」


思っていなかった答えだった。


「先週も?」


「はい」


「今週は?」


「一昨日、私から明日は休めと」


「休んでませんけど」


「ユリウス卿が、まだ仕事が残っているからと」


私は少し黙った。


「王太子殿下から仕事を大量に任されているのでは?」


「殿下から直接の仕事もあります。しかし――」


上司は机の上の書類を何枚かめくった。


「昨日、ユリウス卿が確認していた御前会議の資料ですが、担当は別の者です」


「……はい?」


「本人が確認すると申し出ました」


嫌な予感がした。


「南部の税収報告は?」


「来週が期限です」


それは昨夜聞いた。


「なぜ昨日?」


「本人が今日中に片づけると」


「他には?」


上司が黙った。


私は勤務記録を見た。


「あるんですね?」


「……三日前の地方官吏の人事資料も、本来は別の者の担当でした」


「他には?」


「先週の予算案の確認も」


「他には?」


「隣の部署から頼まれた帳簿の照合も」


私は頭を抱えた。


「ちょっと待ってください」


何かがおかしい。


私はここへ来るまで、怒っていた。


夫をこんなに働かせている人間に。


王太子か。


上司か。


仕事を押し付ける同僚か。


ところが。


「……誰も夫に、そこまで働けと言ってないんですか?」


上司は答えなかった。


代わりに、非常に困った顔をした。


それが答えだった。


「むしろ」


上司が恐る恐る言った。


「最近は、我々も仕事を受けすぎないよう注意しているのですが」


「それでも?」


「ユリウス卿が拾ってしまいます」


「落とし物みたいに言わないでください」


「申し訳ありません」


私は大きく息を吐いた。


犯人を探しに来たはずだった。


なのに。


どこにもいなかった。


---


「勝手に僕の休暇を取ったのか?」


その日の夕方。


珍しく早く帰ってきたユリウスは、珍しく怒っていた。


「ええ」


「しかも三日も!」


「一週間欲しかったんだけど」


「一週間!?」


「負けたわ」


「勝ち負けの話じゃない!」


ユリウスが額を押さえた。


「今がどれだけ忙しい時期か、君には分からないだろう」


「分からないわ」


「だったら――」


「でも、来週までの仕事を昨日やる必要がないことくらいは分かる」


夫が止まった。


「御前会議の資料。あなたの担当じゃなかったそうね」


「……念のため確認しただけだ」


「人事資料も?」


「担当者が困っていたから」


「帳簿の照合」


「頼まれたから」


「予算案」


「僕が見た方が早い」


私は一つずつ指を折った。


「それで二十七日間、休んでない」


「今は忙しいんだ」


「上司から休めと言われたそうね」


黙った。


「殿下からも早く帰れと言われた」


さらに黙った。


「ユリウス」


私は夫を見る。


「誰があなたをこんなに働かせてるの?」


夫は答えなかった。


私は今日、王城で何度も考えた。


夫を使い潰そうとしているのは誰なのか。


答えは、とても近くにあった。


「……あなた自身じゃない」


ユリウスの顔が強張った。


「違う」


「何が?」


「僕は必要だからやってるんだ」


「誰に?」


「みんなにだよ」


即答だった。


「僕が確認すれば間違いが減る。僕が手伝えば仕事が早く終わる。殿下だって僕を頼ってくださっている」


「だから全部やるの?」


「できるんだから、やればいいだろう」


「いつまで?」


「何が」


「いつまでできるの?」


ユリウスは答えなかった。


「倒れるまで?」


「大げさだ」


「二十七日休んでない人が言わないで」


「僕は大丈夫だ!」


その声に、私は黙った。


ユリウス自身も驚いたようだった。


しばらく沈黙が続いた。


やがて彼が、小さく言った。


「……僕には、これしかないんだ」


「これって?」


「仕事だよ」


夫は椅子に座った。


「兄上みたいに人付き合いが上手いわけじゃない。面白い話もできない。学生の頃だって、僕はいつも目立たなかった」


私は黙って聞いた。


「でも、仕事ならできた」


ユリウスは自分の手を見ていた。


「頼まれたことをやれば、ありがとうって言ってもらえた」


そこで私は、ようやく理解した。


夫は仕事が好きなのだと思っていた。


違った。


この人は、


必要とされることが好きだったのだ。


「殿下が僕を必要だと言ってくださったとき、本当に嬉しかった」


「そうね」


「あの方の役に立てる。みんなの役に立てる。僕にしかできないことがある」


「うん」


「それなのに、休めって……」


私は夫を見た。


そして思った。


たぶん、言葉で説明しても駄目だ。


「分かった」


「……何が?」


「三日間、好きにしていいわ」


ユリウスの顔が明るくなった。


「じゃあ、少しだけ家で書類を――」


「ただし」


私は人差し指を立てた。


「三日間、私の役に立つことは禁止します」


「……何?」


「仕事も禁止。家事も禁止。庭仕事も禁止。買い物も禁止」


「待ってくれ」


「誰かの手伝いも禁止」


「じゃあ僕は何をするんだ?」


「何もしない」


夫が固まった。


「三日間?」


「三日間」


「何も?」


「何も」


「それに何の意味があるんだ?」


「ないわよ」


私は笑った。


「意味がないことをするの」


---


一日目。


ユリウスは昼まで寝た。


昼食の後、私が本を読んでいると横に立った。


「何か手伝おうか」


「駄目」


「お茶くらい淹れるよ」


「駄目」


「それくらい役に立つとかじゃ」


「駄目」


ユリウスは不満そうにソファへ座った。


十分後。


寝ていた。


---


二日目。


「庭の枝が伸びてるな」


「庭師がやります」


「少しくらい」


「駄目」


「買い物は?」


「侍女が行きました」


「帳簿の整理」


「私が昨日やりました」


ユリウスは黙った。


「……暇だ」


「でしょうね」


「君は毎日、こんなにのんびりしているのか?」


「失礼ね。私は仕事してます」


「僕だけ?」


「あなたは休暇中」


午後。


二人で散歩をした。


何の役にも立たない散歩だった。


パン屋で焼き菓子を買った。


何の役にも立たなかった。


家に帰って二人で食べた。


やっぱり何の役にも立たなかった。


でもユリウスは少し笑っていた。


---


三日目。


朝食を食べたあと、ユリウスが言った。


「今日は何をする?」


私は少し驚いた。


「何かしたい?」


「役に立たないことなら」


「難しい注文ね」


「君が言ったんだろう」


二人で考えた。


結局、町外れの湖へ行くことにした。


馬車で半刻。


湖を眺めた。


昼食を食べた。


帰ってきた。


本当に、それだけだった。


夕方。


ユリウスがぽつりと言った。


「三日終わったな」


「そうね」


「僕、何もしなかった」


「見事だったわ」


「褒められることなのか?」


「今回だけは」


ユリウスは笑った。


それから、少し黙った。


「……なあ」


「何?」


「僕、三日間、君の役に立った?」


私は考えるふりをした。


「全然」


「そこは少しくらい考えてくれ」


「だって禁止したもの」


「そうだけど」


また沈黙。


ユリウスは私を見た。


「楽しかった?」


「何が?」


「僕といて」


私は夫の顔を見た。


本当に分からないらしい。


だから笑ってしまった。


「楽しかったわよ」


「何もしてないのに?」


「あなた、私が毎日何かの役に立ってるから結婚したと思ってたの?」


ユリウスが黙った。


「あ」


小さく声を出した。


たぶん。


ようやく気づいたのだ。


私は三日間、ずっと同じことをしていた。


夫に何もさせなかった。


何の役にも立たせなかった。


それでも一緒にご飯を食べた。


散歩をした。


笑った。


明日も一緒にいたいと思った。


「……そっか」


ユリウスが言った。


「うん」


「僕、何もしなくてもいいのか」


「毎日は困るわよ」


「そこは困るのか」


「働いてもらわないと」


二人で笑った。


私は夫の肩に頭を預けた。


「でもね」


「うん」


「仕事ができなくなっても、帰ってきていいのよ」


しばらく返事はなかった。


やがて。


「……うん」


それだけ返ってきた。


---


休暇が終わって、ユリウスは王城へ戻った。


仕事を辞めたわけではない。


王太子殿下の信頼を失ったわけでもない。


相変わらず忙しい。


ただ。


「これは明日に回します」


そう言えるようになった。


最初に言ったときは、ものすごく緊張したらしい。


相手は王太子殿下だった。


「それで?」


私が聞くと、ユリウスは何とも言えない顔をした。


「分かった、と」


「それだけ?」


「それだけ」


「怒られなかった?」


「全然」


「困られた?」


「別の仕事をしていた」


私は吹き出した。


ユリウスも笑った。


夫が今日やらなかった仕事は、明日になった。


夫が引き受けなかった仕事は、別の誰かがやった。


世界は滅びなかった。


王国も滅びなかった。


夫の居場所もなくならなかった。


そして今夜。


玄関の扉が開いた。


「ただいま」


時計を見る。


七時十二分。


今度は本当に、夫だった。


「遅い」


「十二分だけだろう?」


「夕食は七時です」


「申し訳ありません、奥様」


ユリウスは上着を脱いだ。


「今日は何?」


「鶏肉の香草焼き」


「ああ、好きなやつだ」


「知ってる」


私は温かい皿を夫の前に置いた。


ユリウスが食卓の向かい側に座る。


そこに夫がいる。


ただ、それだけ。


王城では明日も、きっと誰かが夫を必要とする。


それでいい。


必要とされるのは、嬉しいことだから。


でも、ここでは。


何の役にも立たない日があってもいい。


「いただきましょうか」


「ああ」


向かい側から、夫の声が返ってきた。


私は自分の席に座る。


今日の夕食は、まだ温かかった。


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