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"港のねずみ" ティコ

作者: 一生坊主
掲載日:2026/07/17

 貝紫《かいむらさき》の工房から流れてくる臭い。慣れるまでに三年はかかると人々は言う。


 ティコはもう慣れていた。


 巻貝を潰し、腐らせ、煮て、あの退色しない深い紫を絞り出す——その過程で立ちのぼる悪臭は、風下の区画を『マゴラト』でいちばん安い家賃の土地に変えていた。だからこそ、身寄りのない子供たちが、そこに巣くう。

 臭いのする場所は貧しい場所だ。貧しい場所には大人の目が届かない。


 ティコは十四で、その臭い区画に群れる浮浪児たちの束ね役だった。


 束ね役といっても大した役ではない。荷運びの仕事が入れば、年少の子に回してやる。使い走りの依頼が来れば、足の速い子を選ぶ。ときには目こぼしの利く盗みもする。倉の隙間から荷の一つや二つ。

 ──港のどの倉に何が入っているか、どの船がいつ出るか、大人が見落とす細部をティコたちは誰よりもよく知っていた。それが、彼らの唯一の財産だった。


 その朝、ティコは桟橋の杭の上に座って湾を眺めていた。


 朝の光が、フレトゥム海の水面を鈍く光らせている。潮目のあたりに漁船が何艘か出ていた。

 マゴラトの漁師は、海峡で二つの海流がぶつかってできる"潮目"を読む。魚がそこに集まるからだ。その知識は古い漁師の家系が代々、口伝で守っている。

 ティコには縁のない世界だった。彼のような者は海の上ではなく、陸の縁の、いちばん汚れたところで生きるのだから。


 「よう、ティコ」


 声に振り返ると、"フェリオ"が立っていた。


 フェリオ・ドゥクス。十九の痩せた若者だ。赤毛の獣人の貧しい下級市民の生まれ。かつてはこの港のねずみの一人だった。

 だが、貝紫工房の下働きから身を起こし、去年冒険者ギルドに登録した。まだ大した稼ぎはないが、それでも港のねずみを卒業して、一人前の道を歩き始めた男だ。ティコにとっては兄貴分だった。港の底から這い上がれるのだと、その背中で示してくれる男だった。


 「フェリオの兄貴!」とティコは杭から飛び降りた。「久しぶりだなぁ。ギルドの仕事はどう?」


 「ぼちぼちだ」とフェリオは肩をすくめた。「隊商の護衛の口が一つ。それと、下水路のネズミ退治。──英雄にはまだ遠いな」


 彼は笑った。だが、その目は笑っていなかった。ティコはそれに気づいた。港のねずみは人の目を読むのがうまい。読めなければ生き延びられない、というのもある。


 「なぁ兄貴」とティコは言った。「何かあったのか?」


 フェリオは少しのあいだ黙っていた。それから声を落とした。


 「ティコ。お前、"オルペス"の名を知ってるか」


 その名を聞いて、ティコの背筋がかすかに冷えた。


 オルペス・ネクィア。元老院の最古参の一人。マゴラトでいちばん不気味な影響力を持つと噂される老人。──いや、老人という言葉が正しいのかどうか。

 オルペスは白鬼人《グロン》だった。白鬼人《グロン》は七十代の風貌に達すると、そこからほとんど老化しない。だから、オルペスの実年齢を正確に知る者はいない。

 ある者は言う。あの老翁は豊穣神セミルスがまだ人であった頃——およそ六百年前——にはすでにマゴラトで老翁として生きていた、と。


 「知ってるさ」とティコは慎重に答えた。「元老の一人だろ。会ったことはねえけど。俺みたいなのが、会える相手じゃねえ」


 「それが」とフェリオはさらに声を落とした。「会うことになったんだよ。俺が」


 ティコは目を見開いた。


* * *


 話はこうだった。


 フェリオはある夜、ギルドの帰りに路地で待ち伏せされた。フードを目深にかぶった男がフェリオの前に立ち塞がり、こう言った。「オルペス・ネクィアさまが、お前に用がある」

 フェリオは断ろうとした。元老の使いなど、ろくなことにならない。港のねずみだった頃からそれだけは身に染みて知っていた。上の世界に関わると、下の者はたいてい潰される。

 だが、断れなかった。


 男はフェリオが去年まで港のねずみだったことを知っていた。フェリオが今もその臭い区画にたまに顔を出すことを知っていた。フェリオがティコという名の束ね役の少年を弟のように思っていることを知っていた。


 「よい話ではないか」と男は言った。「元老さまのほんの使い走りだ。一度きり。報酬も悪くない。──断れば、お前の弟分がどうなるかな。"港のねずみ"など、桟橋の下からいくらでも死体が上がる。誰も気に留めん」


 それで、フェリオは頷くしかなかった。


 「俺は」とフェリオはティコに言った。「今夜、オルペスの屋敷に行く。何を頼まれるのかは知らない。だが、嫌な予感がする。──ティコ。もし、俺が三日経っても戻らなかったら」


 「兄貴」


 「聞け」フェリオはティコの肩を掴んだ。「三日経っても戻らなかったら、お前は俺のことを忘れろ。探すな。関わるな。──オルペスに関わった者はたいてい消える。お前まで巻き込まれるな。分かったか」


 ティコは答えなかった。


 答えられなかった。フェリオは彼にとって、ただ一人の兄貴分だった。港の底から上へ這い上がる道があるのだと示してくれた、ただ一人の男。その男を忘れろと言われて、頷けるはずがなかった。


 フェリオはティコの沈黙を承諾と受け取ったのだろう。あるいは、受け取ったふりをしたのだろう。彼はティコの肩をもう一度、軽く叩いて、路地の奥へと消えていった。


 その背中をティコは見送った。


 いつもの頼もしい背中ではなかった。


* * *


 三日は経たなかった。


 二日目の夜が明けても、フェリオは戻ってこなかった。


 ――そして、三日目の朝、桟橋の下から死体が上がった。


 ティコがそれを見に行ったのは他のねずみが、知らせてきたからだった。「桟橋の下に若いのが浮いてるらしい。獣人だ」と。ティコは走った。臭い区画から桟橋まで、息が切れるのも構わず走った。


 ――だが、それはフェリオではなかった。


 浮かんでいたのはフェリオと同じくらいの年頃の獣人の若者だったが、顔が違った。ティコの知らない男だった。おそらくどこかの水夫か、下働きか。港では若い者の死体など珍しくない。喧嘩、事故、酔って足を滑らせる。桟橋の下からいくらでも死体は上がる。──あのフードの男が言ったとおりだった。


 ティコはその死体をしばらく見ていた。


 "フェリオではなかった"。

 だが、フェリオも戻ってこなかった。あの朝、路地の奥に消えたきりだった。


 ティコは決めた。


 フェリオの言葉を破る。「忘れるな、探すな、関わるな」──その三つを全部破る。


* * *


 港のねずみは、生き延びるために大人の言うことを聞く。

 だが、ティコにはもう一つ港のねずみとして、譲れないものがあった。


 『家族を見捨てない』


 それだけは、この臭い区画のいちばんの掟だった。上の世界には通じない彼らの世界だけの掟。フェリオはその掟をティコに教えた男だった。その男を、掟に反して見捨てられるはずがなかった。


 ティコはまず、情報を集めた。


 それは彼の得意なことだった。

 "港のねずみ"たちは、荷だけでなく人の動きも読むことができる。


 まず、彼は臭い区画の子供たちを集めた。二十人ばかりの身寄りのない子供たち。

 人間の子が多かったが、それだけではない。片親が蛮族だったらしい、褐色の肌に鱗の混じった亜竜人《リザードマン》の血を引く少女。親に捨てられた小犬人《コボルト》の兄弟。──臭い区画には種族の別などなかった。飢えた腹には種族の別などない。誰もが同じ悪臭を吸い、同じ桟橋の下を覗いて暮らしていた。


 「いいか、みんな」とティコは子供たちに言った。「フェリオの兄貴が消えた。探すのを手伝ってくれ。金はねえ。でも見つけたら、次の荷運びのいい口をお前らに回してやる」


 子供たちは頷いた。

 フェリオは彼らにとっても憧れだった。港のねずみから上へ這い上がった、数少ない一人。その男が消えたと聞いて、子供たちの目に静かな怒りのようなものが宿った。


 港のねずみの目と耳は、この都市のいちばん低いところに張り巡らされている。

 誰も彼らを警戒しない。大人たちは路地の隅の痩せた子供を、風景の一部としか思わない。──だからこそ、ねずみは覗いている。大人が見られていると気づかない場所で、すべてを見ている。


 ティコは子供たちを都市のあちこちに放った。オルペスの屋敷の界隈へ。ギルドの周りへ。そして桟橋へ。


 ――断片が少しずつ集まってきた。


 オルペスの屋敷の界隈を張っていたある子は二日前の夜、屋敷から一台の荷車が出たのを見たらしい。御者は顔を隠しており、荷車には木箱が一つ積まれていた、と。木箱はそれほど大きくなかった。人が一人入るには小さすぎた、と。──だから、その木箱にフェリオが入れられて運び出された、というわけではなさそうだった。


 ギルドの周りを張っていた子は、フェリオが二日前の夜を最後にギルドに顔を出していないことを掴んできた。宿にも帰っていない。まるで、二日前の夜に都市から消えてしまったようだった。


 ――"荷車"を追っていた子供がいた。


 カルという十歳の少年だった。人間の子で、足だけは誰よりも速い。カルはその荷車が気になって、こっそり後をつけていたらしい。荷車は港のはずれのある倉庫の前で止まった。木箱は御者によってその倉庫に運び込まれた。そして、しばらく倉庫から御者は出てこなかった。

 当時のカルは、その変わらない状態に飽きて帰った。――だが、その荷運びの際、御者のフードの内側から特徴的な赤毛の獣耳が見えたらしい。


 赤毛の獣耳は、フェリオの特徴だ。赤毛は特段珍しい訳では無いが、フェリオが話していた『オルペスの"使い走り"』とも符合する。調べる価値は十分にあった。


 「その倉庫は」とティコはカルに訊いた。「どこの倉庫だ」


 カルは少し言い淀んだ。それから、声を落として言った。


 「タルペア家の倉庫だ」


 ティコの喉が鳴った。


 タルペア家。──マゴラト最大の金融氏族。当主のリウィア・タルペアは「世界一の大富豪」と呼ばれる女だった。海峡交易の資金の多くは彼女の一族を経由する。執政官ですら選挙資金の面で、彼女に頭が上がらない。二十年前のマゴラトの大火事。その復興事業で、彼女が得た富は他の誰も追随できないほどだった。


 オルペスの屋敷から出た木箱が、タルペア家の倉庫に運び込まれた。


 秘密を握る老翁と、金を握る女。この二人は「マゴラトを裏で回す二人」と呼ばれている。だが、その関係は冷ややかだとも言われている。"金を握る者"と"秘密を握る者"はいつも互いを牽制し合っているのだ、と。


 その二人のあいだで、何かが動いたのかもしれない。


 そして、フェリオは何かを運んだ。運んだ後で、消えてしまった。


* * *


 ティコはその夜、眠れなかった。


 臭い区画のあばら家の隅で、膝を抱えて考えた。


 フェリオを探す。それは決めた。だが、どうやって。オルペスの屋敷に、タルペア家の倉庫に忍び込むか。あの屋敷に"港のねずみ"ごときが忍び込んで、無事に済むはずがない。オルペスは六百年を生き延びてきた男だ。危険を徹底して避けて生きてきた男だ。その屋敷と荷の守りが甘いはずがなかった。


 ――タルペア家の倉庫。木箱が運び込まれた、あの倉庫。


 そこには木箱が運ばれた。恐らくフェリオが運んだ木箱だ。その中身は何だったんだろうか?――それが分かれば、フェリオがなぜ消えたのかも分かるかもしれない。


 危険だ、とティコは思った。あまりに危険だ。


 だが、フェリオはティコのために危険を冒したのだ。断れば弟分が桟橋の下から上がってくるぞと脅されて。フェリオはティコを守るために、あの屋敷に行ったのだ。──ならば、ティコもフェリオのために危険を冒さなくてはならない。それが、"港のねずみ"の掟だ。臭い区画のいちばんの底辺の掟。


 彼は決めた。


 タルペア家の倉庫に忍び込む。


 港のねずみは倉庫に忍び込むことにかけて、玄人ではある。どの倉庫にどんな錠がかかっているか。夜警がどの刻にどこを回るか。荷の隙間のどこに身を隠せるか。──ティコはそのすべてを知ることができる。それが、彼の唯一の財産であり、唯一の武器だった。


 その夜。


 ティコは動いた。


* * *


 タルペア家の倉庫は港のはずれの、他の倉庫から少し離れたところに建っていた。


 石造りの頑丈な倉庫だった。窓は高いところに小さいものがいくつか。扉は分厚い木で、鉄の錠がかかっている。夜警が二人、倉庫の周りを回っていた。


 ティコは倉庫の裏の暗がりに身をひそめて、夜警の動きを読んだ。

 二人の夜警は同じ刻に同じ道を回る。倉庫の四方をぐるりと。


 二人が倉庫の反対側に回ったその一瞬の隙に、高い窓から忍び込むのが良いだろう。窓は小さいが、ティコの痩せた体なら通れる。──港のねずみの痩せた体はこういうときに役に立つ。飢えの数少ない恩恵だった。


 夜警が反対側に回った。


 ティコは音もなく、倉庫の壁をよじ登った。石の継ぎ目に指と足の先をかけていき、高い窓にたどり着く。小さな窓の木の格子は古く、腐りかけていた。ティコはそれをそっと、自作の糸のこを使って外した。港のねずみはこういう仕事に慣れている。


 窓から倉庫の中へ滑り込む。


 中は暗かった。だが、ティコの目は暗がりに慣れていた。高い窓から差すわずかな月明かりで、倉庫の中が少しずつ見えてきた。


 荷が山のように積まれていた。木箱、樽、麻袋。海峡交易のあらゆる品がここに集まっているのだろう。タルペア家の富の一部が。


 ティコはあの"木箱"を探した。


 カルの話ではそれほど大きくない木箱。人が一人入るには小さすぎる、二日前の夜に運び込まれた、新しい木箱。──ティコは荷の間を音もなく、進みながら、新しい木箱を探した。埃をかぶっていない真新しい木箱を。


 あった。


 倉庫の奥のほうに他の荷とは少し離れて、一つの木箱が置かれていた。真新しい木で、埃もかぶっていない。二日前に運び込まれた、その木箱かもしれない。


 ティコはその木箱に近づいた。


 木箱の蓋は釘で打ちつけられていた。開けるには道具が要るだろう。ティコは腰に差した細い鉄の棒——港のねずみの七つ道具の一つ——を取り出し、蓋の隙間に差し込んだ。てこの要領で、少しずつ釘を浮かせる。港のねずみはこういう仕事にも慣れている。


 やがて、蓋が外れた。


 ティコは木箱の中を覗き込んだ。


 そして、息を呑んだ。


 木箱の中には書物が詰まっていた。


 古い羊皮紙の束がいくつも。革の表紙で綴じられた、台帳のようなものが何冊も。

 ――都市の正字《せいじ》はティコには読めなかった。

 港のねずみに字を教える者などいない。ティコを含め、読み書きできる"ねずみ"は数人はいるが、それは下町の看板に躍るようなくだけた"俗字"であって、正字ではなかった。だが、正字が読めなくてもこれが、ただの書物ではないことは分かった。


 なぜなら、その羊皮紙の束のいちばん上に一枚の羊皮紙が載っていて、そこに赤い封蝋が押されていたからだ。


 その封蝋の紋章をティコは知っていた。


 港のねずみは字は読めなくとも紋章は読める。どの氏族の紋章がどの荷につけられるか。それを知らなければ、盗む荷を選べないからだ。


 その封蝋の紋章はタルペア家のものではなかった。


 オルペス・ネクィアの紋章だった。


* * *


 ティコがその意味を考えるより先に倉庫の奥の暗がりから、声がした。


 「──ずいぶん、若い"ねずみ"だな」


 ティコは凍りついた。


 声のほうを見た。倉庫の奥の荷の陰から一つの大きな影がゆっくりと立ち上がった。


 大鬼人《オーガ》だった。


 巨躯の寡黙そうな、大鬼人《オーガ》。マゴラトでは蛮族が市井に暮らすのは珍しくない。大鬼人《オーガ》の用心棒も荷担ぎもそこら中にいる。だが、この大鬼人《オーガ》の静かな圧するような気配は、ただの荷担ぎのようなものではなかった。


 「その木箱に」と大鬼人《オーガ》は低い声で言った。「手を出すな──それは"俺ら"のもんだ」


 ティコは木箱の蓋を掴んだまま、動けなかった。


 逃げるという考えが、まず頭をよぎった。港のねずみは逃げるのが得意だ。だが、この大鬼人《オーガ》の静かな構えを見れば、逃げ切れないことは明らかだった。窓までたどり着く前にあの太い腕に掴まれるだろう。


 「あんた」とティコは掠れた声で言った。「タルペア家の用心棒か」


 大鬼人《オーガ》は少しのあいだ黙っていた。それから、意外なことに首を横に振った。


 「それは違う」と彼は言った。「俺はカンパニアの盾だ。名はガルナ」


 カンパニア。──ティコはその名を聞いたことが、あった。


 クィント・カンパニア。マゴラトで金融業を営む、兎人《ラゴニア》の一族の当主。だが、タルペア家のような貴族の金融とは違う。カンパニア家は身分の後ろ盾を持たない異邦の一族だ。眠れる神レヒトの子孫を名乗る離散の民。金貸しという生業ゆえにどの土地でも疎まれ、憎まれる。カンパニア家はマゴラトで長く嫌われ者として生きてきた。


 その嫌われ者の一族が、生き延びるために抱えている用心棒。それが、このガルナだった。


 「カンパニアの盾が」とティコは混乱しながら、言った。「なんで、タルペア家の倉庫にいるんだ。それにどうやって......」


 ガルナはまた、少しのあいだ黙った。


 それから、彼は静かに言った。


 「その木箱を盗みに来たからだ。そんで、方法は教えられない。」


 ティコはその言葉の意味を量りかねて、身構えたままだった。


 カンパニアの盾がタルペア家の倉庫のこの木箱を盗みに来た。──ということはこの木箱はカンパニアにとっても価値がある。そして、この巨躯の大鬼人《オーガ》はティコが同じ木箱に手を出しているのを見た。競争相手として、ティコを始末しようとするかもしれない。港のねずみ一人桟橋の下に沈めるのはこの大鬼人《オーガ》には造作もないことだろう。


 ティコはじりじりと、窓のほうへ後ずさった。


 「落ち着け」とガルナが低く言った。「騒げば夜警に気づかれる。──そうすれば、俺もお前も両方捕まるぞ」


 ティコは足を止めた。確かにそれは道理だった。


 「あんた」とティコは掠れた声で言った。「俺をどうする気だ」


 ガルナはしばらくティコを見ていた。その静かな目が暗がりの中で、ティコを値踏みしていた。


 「お前は」とやがて、大鬼人《オーガ》は言った。「なぜこの木箱を狙う。金のためか」


 「違う」とティコは言った。「人を探してる。フェリオって獣人の若者だ。──こいつをこの倉庫に運んだ後で消えた。こいつの中身を確かめれば、フェリオがなぜ消えたのか分かるかもしれねえ」


 ガルナの目がわずかに動いた。


 「......フェリオ」と彼は繰り返した。「──その名は聞いたことがある。オルペスの使い走りをした、若者だな」


 「知ってるのか!」


 「詳しくは知らん」とガルナは言った。「だが、クィントさまがその名を口にしていた。この木箱を運んだのがその若者だと。──お前はその若者の身内か」


 「兄貴分だ」とティコは言った。


 二人はしばらく暗がりの中で、互いを見ていた。港のねずみと兎人《ラゴニア》の盾。それぞれ別の理由で、同じ木箱を狙ってこの倉庫に忍び込んだ二人。


 ――そのとき、倉庫の扉のほうで音がした。


 鍵の回る音だった。


 ティコとガルナは同時にそちらを見た。夜警の一人だろう。定刻の見回りとは違う。誰かが中に入ってこようとしている。


 「ここで鉢合わせれば」とガルナが素早く囁いた。「二人とも終わりだ。──お前、来た道分かるか?」


 ティコは一瞬で、腹を決めた。


 この大鬼人《オーガ》と手を組むか、それとも独りで逃げるか。

 独りで逃げれば、木箱は手に入ってもその後が見えない。それに敵《オルペス》の敵は味方ともいう。カンパニア家についていけば、フェリオの手がかりを得られるかもしれない。何より木箱の台帳を読めるものはカンパニア家にはいても、"港のねずみ"にはいない。──ならば。


 「分かる」とティコは囁き返した。「あんたがそれを運べ。俺が先導する。──夜警が二人。一人は今扉から入ってきてて、もう一人はたぶん外をまだ回ってる。裏の窓から出る。俺が出るべきタイミングを示すからついてこい」


 ガルナは迷わなかった。片腕で木箱を軽々と抱え上げた。人が一人入るには小さいほどの、その木箱を。


 扉の閂《かんぬき》が外れる音がした。


 ティコは荷の影を縫うように走った。夜警の足音が倉庫の中に入ってくる。ティコはその足音と逆の方向へガルナを導いた。

 荷の山のいちばん暗いところを通って行く。ティコの頭の中には、暗がりの地図が既に入っていた。どこに身を隠せるか、どこを通れば足音が響かないか、そのすべてを。


 裏の高い窓にたどり着いた。外の下を覗いた先には誰もいなかった。


 「ここから出ろ」とティコは囁いた。「木箱を先に外へ。あんたはその後だ。──窓の下は暗がりだ。もう一人の夜警は、今は下にいない。急げ」


 ガルナは木箱を窓の外へ投げた。

 ――勢いよく落ちたのにもかかわらず、しかし落ちた先には音がしなかった。それから、その巨躯を構成する骨肉が驚くほどに縮んだ。その縮んだ体を静かに窓枠へ通した。

 大鬼人《オーガ》とは思えぬ、身のこなしだった。──長年嫌われ者の一族を守ってきた盾は、こうした隠密の技......奇術も身につけているのだろう。


 最後にティコが窓を抜けた。


 二人が倉庫の外の暗がりに降り立ったとき、倉庫の中と周辺から夜警のいぶかしむ声が聞こえた。「おい、誰かいるのか!?」だが、それに答える声はなかった。


 夜警は荷の山をしばらく見回してから、やがて、扉を閉めて去っていった。


 ティコとガルナは暗がりで、息を殺していた。


 やがて、ガルナが低く言った。「──やるな、"ねずみ"」


 「あんたこそ」とティコは言った。「大鬼人《オーガ》のくせに、粘体生物《スライム》みたいだな」


 初めて、ガルナの厳めしい顔にかすかな、笑みのようなものが浮かんだ。


* * *


 ガルナが片腕で木箱を抱え、ティコが夜警の目を避ける道を示した。港のねずみの知恵と大鬼人《オーガ》の膂力。──奇妙な取り合わせだった。だが、それはうまく噛み合った。二人は人気のない裏道を選んで、港のはずれから都市の内側へと木箱を運んだ。


 カンパニア家は臭い区画からそう遠くない雑多な一角にあった。


 貝紫工房の悪臭がかすかに届く場所だ。嫌われ者の一族の家が、都市のいちばん快適な区画に建つことは許されない。カンパニア家の家は質素な、石造りの建物だった。だが、その扉にはいくつもの頑丈な錠がかかっていた。負債を踏み倒すためにこの一族を襲おうとする者が絶えないからだ。


 ガルナは木箱を抱えたまま、その裏手の扉を拳で六度、おかしなリズムで叩いた。


 扉が細く開いた。


 中から一人の男が顔を出した。


 四十がらみの痩せた兎人《ラゴニア》だった。目に疲れと警戒とが同時に宿っていた。──これが、眠れる神レヒトの血を誇りながら、その誇りは彼らを守ってはくれはしない、離散の民の素顔だった。


 「ガルナ」と男は言った。「"例のもの"を取ってきたか。──その子供は誰だ」


 「クィントさま」とガルナは静かに答えた。「倉庫で鉢合わせました。この子供も木箱を狙っていた」


 クィント・カンパニア。カンパニア家の当主。ティコは彼をまじまじと見た。


 「......"港のねずみ"、か」とクィントもティコを値踏みするように見た。「なぜ、お前があの木箱を狙う」


 ティコは答えるべきかどうか迷った。だが、ここで隠しても始まらない。彼は事情を簡潔に話そうとした。フェリオのこと。オルペスの使い走り。木箱がタルペア家の倉庫に運び込まれたこと。そして、フェリオが消えたこと。


 ティコがそれを話し始めると、クィントはため息をついた。


 「入れ」と彼は言った。「話は中でしよう。──路地とはいえ、こんなものを抱えてはいられない」


* * *


 カンパニア家の中は外の質素さに比べて、意外なほど、物が多かった。


 棚には帳簿がびっしりと並んでいた。壁にはいくつもの契約の書きつけが貼られていた。


 これが金貸しの家か。この家のあらゆるものが、貸し借りの記録といっても過言ではない。誰がいくら借り、期日はいつか。──それはこの一族の財産であり、命綱なのだろう。


 クィントは木箱を机の上に置かせた。そして、その蓋を開けた。

 中の書物を彼は一冊手に取った。革の表紙の台帳のようなそれを。


 彼はそれを開き、しばらく目を走らせた。

 やがて、彼の顔から血の気が引いた。


 「これはやはり」と彼は掠れた声で言った。「オルペスの……六百年の記録、その一部だ」


 台帳の正字はティコには読めなかった。だから、そこに何が書かれているのか分からなかった。


 「記録?」とティコは訊いた。「何の記録だ」


 クィントは台帳から目を離さずに答えた。


 「要人についての極秘の記録だ。──オルペス・ネクィアの頭の中には、千年分の人々の弱みが収められていると言われている。誰が何を隠しているか。誰の家系にどんな瑕疵があるか。それがあの老翁の権力の源泉だ。だが」


 彼は台帳を机に置いた。


 「頭の中だけではないのだ。あの老翁はそれを書きつけていた。──記憶はいつか、薄れる。白鬼人《グロン》の六百年の記憶とて、完全ではあるまい。だから、あの老翁は自らの記憶をこの台帳に写していた。誰にも知られぬように。──この台帳こそが、オルペスの本当の力の正体だ」


 ティコの背筋が冷えた。


 「じゃあ」と彼は言った。「この木箱はオルペスのいちばん大事なものじゃねえか。それがなんで、タルペア家の倉庫にあったんだ」


 クィントはしばらく答えなかった。


 「......それは」と彼はやがて、言った。「私にも分からん。──だが、推し量ることはできる」


 彼は机の前の椅子に腰を下ろした。疲れた仕草だった。


 「金を握るリウィア・タルペアと、秘密を握るオルペス・ネクィア。この二人はマゴラトを裏から回し、互いを牽制し合ってもいる。──だがもし、リウィアがオルペスの秘密の台帳を手に入れたらどうなると思う?そうだ。金と秘密の両方がリウィアのものになる。オルペスですらリウィアに頭が上がらなくなり──マゴラトはリウィア一人の手の中に落ちる」


 「じゃあ」とティコは言った。「リウィアがオルペスの台帳を盗ませたのか。フェリオに」


 「......それが分からんのだ」とクィントは首を振った。「もしリウィアが盗ませたのなら、なぜ、その台帳を自分の倉庫に無防備に置いておくのだ。ガルナがたやすく盗み出せるような場所に。──それに」


 彼はティコを見た。


 「なぁ、なぜ私がこの台帳を狙ったと、お前は思う」


* * *


 クィント・カンパニアがオルペスの台帳を狙った理由。

 ティコは突然のその問いに答えられず、ただ口を開閉させるだけだった。


 「......私の一族の名も」とクィントは静かに言った。「あの台帳に書かれているのだろう。──カンパニア家がこの百年で、誰にいくら貸したか。その中には貴族もいる。神官もいる。執政官の縁者もいる。......彼らの中には、身分を笠に着て、我らから低利で借りたが期日に返さず、あまつさえ返済を踏み倒すために我が一族を襲おうとするものもいた。......それだけではないだろうがな。知られてはならない我らカンパニアの後ろ暗い取り立て手法も含め、――恐らくそのすべてが、あの台帳に記されている」


 「それの何がまずいんだ」とティコは訊いた。「借りたのに返さねえ奴が、そもそも悪いんじゃねえのか?」


 クィントは乾いた笑みを浮かべた。


 「そうだ。借りて返さぬ者は悪い。だが、この都市ではそうはならん。嫌われ者の異邦の一族が貴族らに膨大な金を貸し、想像以上に強い影響力を持っている。それは彼らの秩序にとって、危険なことだ。我らカンパニアはこれまで、債務者のリストをひた隠しにしてきたが、オルペスはそれら情報を握っている。いつでも私を脅すことができる。『カンパニアがマゴラトの弱みを握っている』と貴族院に囁くだけで、私の一族は破滅する。返済を踏み倒そうとする者たちに都合のいい口実を与えることになる。──オルペスはその頭脳と台帳で、私を飼い慣らしているのだ。金貸しとして、都市に必要とされながらいつでも潰せる存在として」


 ティコは少しずつ、この都市の仕組みが見えてきた気がした。


 金を握る者。秘密を握る者。そして、その二人に飼い慣らされる嫌われ者。──マゴラトはそういう、幾重もの力の網でできている。港のねずみには見えない、海の底からは見えないような網で。


 「だから」とクィントは言った。「いつか私はあの台帳を手に入れて、オルペスに対抗できるとまではいかなくとも、マゴラトの連中に対抗できる力を得ようと思っていた。──だが、あの台帳はオルペスの屋敷の奥深くにあり、盗み出すことなど不可能だった。ところが数日前、ある情報が私に伝わった。オルペスの台帳が屋敷から運び出され、タルペア家の倉庫に移された、と。──なぜそんなことが起きたのか分からなかった。......単にリウィアが盗んだだけだったのかもしれないが。......とにかく、私にとっては、オルペスの屋敷の奥よりはタルペアの倉庫のほうが盗みやすい。ゆえに、私はガルナにそれを盗ませた。──そして、そこで、お前と鉢合わせた」


 ティコは頭の中で、断片を並べ替えた。


 オルペスの台帳が屋敷からタルペア家の倉庫へ移された。それを運んだのがフェリオ。運んだ後で、フェリオは消えた。そして、その台帳をクィントが盗み出そうとし、ティコも同じ木箱を覗きに来た。


 なぜ、オルペスは自分のいちばん大事な台帳をタルペア家の倉庫に移したのか。それとも、タルペア家がフェリオを使って盗ませたのか。


 その矛盾、相反した問いの答えがフェリオの消えた理由に繋がっている。──ティコにはそう、思えた。


 「クィントさま」とティコは言った。「一つ教えてくれ。──今晩誰かがこのオルペスの台帳を盗んだ、とタルペア家が知ったら。タルペアはこれからどうするんだ」


 クィントはしばらく考えた。


 「......リウィアは」と彼はやがて、言った。「この台帳の価値を知っているはずだ。オルペスの力の源泉だと。──リウィアがこれを自分の倉庫に置いていたなら――リウィアがオルペスから盗んだのなら、それはオルペスを脅すためだったのだろう。ならば......」


 「いやでも」とティコは言った。「あんたはさっき言ったぞ。リウィアが台帳を盗ませたのなら、なぜその成果を、無防備に倉庫に置いておくんだ、って」


 「......そうだ」クィントは頷いた。「そこが分からん。──もし、リウィアが本当にこれを握ろうとしていたのなら、こんな盗みやすい場所に置いておくはずがない。ガルナは優秀な忍びではあるが......だとしても、こんなたやすく盗み出せる場所に、なぜ......」


 三人はしばらく黙った。


 そして、ティコの頭の中で、一つの考えが形をなし始めた。


 港のねずみの勘だった。荷の動きを読み、人の動きを読む、その勘が彼に囁いた。

 ──これは"罠"だ、と。


* * *


 「クィントさま」とティコはゆっくりと言った。「もう一つ確かめたいことがある。あんた、この台帳が倉庫にあるって話、誰から聞いたんだ」


 クィントは怪訝な顔をした。


 「……タルペアの倉庫で帳付けをしている男だ。私に"借り"がある男でな。数日前の夜、受払帳に載らない箱が一つ運び込まれた。荷受けは番頭が自らやり、人払いまでした、と。──倉庫の人間のあいだでは、元老の台帳らしいと囁かれていたそうだ」


 「......受払帳に載らねえ箱を、番頭が自分で受け取った」とティコは繰り返した。「……なあ、それ、おかしくねえか。"港のねずみ"の俺だから思うことなんだろうが、盗品を隠すんなら、普通番頭は知らんぷりをするか、遠くで見てるもんじゃねぇのか?」


 ティコは指を折り始めた。

 「箱はオルペスの屋敷から出た。それは俺の弟分が見てる。御者は赤毛の獣耳──フェリオの兄貴だ。兄貴いわく、兄貴を雇ったのは『オルペスさまの用だ』と名乗る男。箱の中身の封蝋はオルペスの紋章。そんで、受け取ったのはタルペアの番頭。......もしかして、リウィアはオルペスから盗んだわけじゃないんじゃないか?最初から最後まで、オルペスからリウィアへの引き渡しに見えるぞ」


 「あり得ぬ」とクィントが呻いた。「オルペスが自分の命綱を、よりにもよってリウィアに渡すだと? そんなことをすれば、金と秘密の両方があの女のものになる。オルペス自身がそれをいちばんよく知っているはずだ」


 そのとき、壁際のガルナが低い声で言った。


 「クィントさま。──その台帳、本当に本物なのか」


 クィントが、はっとした。

 彼は机の上の台帳をもう一度手に取った。今度はじっくりと、紙を、革を、綴じ糸を検《あらた》めた。彼は偽物を見抜くのに長けていた。偽の契約書や偽の証文、偽の貨幣など、商売をする中でそれを見抜く能力が磨かれていったのだ。

 やがて、クィントの指が止まった。


 「……違う」と彼は呻くように言った。「これは写しだ。古びて見えるように仕立ててあるが、この羊皮紙はせいぜい二、三年前のものだろう。表面のインクの染みも少し濃い。六百年、書き継がれてきた台帳の紙としては不自然だ」


 「二、三年前って」とティコは言った。「──慌てて作った偽物じゃねえってことじゃんか。何年も前から、この日のために仕込んであってことか......?」


 三人は互いの顔を見合わせた。


 全容が少しずつ見えてきた。


 オルペスは何かの理由で、リウィアに台帳を渡すことになった。だが彼女に渡したのは──前々から用意してあった精巧な偽物。そして、その引き渡しの荷を運んだのがフェリオだった。


 ――リウィアは、倉庫に置いたその台帳が偽物だと知っていたのだろうか。


* * *


 その夜、カンパニア家にもう一人の客が来た。

 扉を叩く音がした。三度、そして間を置いて二度。──決まった合図だったのだろう。ガルナが扉を開けた。


 入ってきたのは、香草と乾物の匂いをまとった小柄な目立たない男だった。だが、その静かな佇まいの奥に、ティコは何かぞくりとするものを感じた。ティコの勘が囁いた。──この男はただ者ではない、と。


 「ヴェスク」とクィントが言った。「よく来てくれた」


 ヴェスク・ロンダル。──後にティコはその名を知ることになる。

 マゴラトの雑多な区画で香草と乾物を商う、小さな店の主人。だがその正体は、忌み嫌われる呪い師の蜥蜴人《ラケルタ》だった。呪詛を生業とするがゆえにどの土地でも蔑まれ、追われる高位種族。

 だからヴェスクは、蛮族すら市井に暮らす大都市マゴラトの雑踏に紛れ、正体を隠してひっそりと商っていた。主に恨みを晴らしたい者などが、噂を頼りに彼の店の裏口を叩く。──そして、彼の店には依頼主の恨みと一緒に、この都市の底暗い噂が集まってくるのだった。


 「クィントよ」とヴェスクは静かに言った。「お前がタルペア家の倉庫から"木箱"を盗んだという噂が、夜更けにもかかわらずもう街を流れ始めているぞ。『カンパニアが、"タルペア家の商品"を盗んだ』と。──盗んだその夜のうちに、だ」


 途端に、クィントの顔が青ざめた。「な、何を.......言っている」


 「ここまで早く回っているのは、あちら側がすぐに気づき、その上で意図して流しているからだ」とヴェスクは続けた。「流しているのは、タルペア家の手の者だろう。クィント、お前ぬかったな。リウィアは数ヶ月前、北方の白肌人《アルビアン》の呪詛師を大金をかけて雇った。大方、奴の妖術でお前らが今晩やったことが割れたのだろう。......タルペア家はこの夜明けに、カンパニアへの襲撃を計画しているそうだ。貴族院と自警の連中を焚きつけて、朝いちばんにこの家を検めさせ、"その木箱"を『取り戻す』つもりだ。......"台帳"と言ったほうがお前らには分かりやすかったか?」ヴェスクが不気味に口角を上げた。「──あの"台帳"はオルペスの命綱そのものだからなぁ。」


 「……お前は」クィントが唇を噛み締めた。「どこまで知っている」


 ヴェスクは口の端を吊り上げて、机の上に掌を出した。


 「ここから先は、"まずは"金貨七枚だ。買うか、クィントよ」


 クィントは苦い顔で懐から出した金貨を数えた。金貸しが情報屋からたかられているこの状況に、ティコは同情に近いものを感じた。


 「この春の話だ」と、金貨をしまいながらヴェスクは言った。「リウィアが、オルペスの密偵網の糸を、何本か手繰り当てた。あの老翁が市井に飼っていた目と耳──間諜《エージェント》、その内の何人かを金で割り出し、寝返らせたのだ。そのついでに、オルペス派の元老どもの"弱み"も密かに買い集めた。それによって一時期、オルペスの情報網はかつてないほどに縮んだ。──リウィアはこの六百年で初めて、あの老翁の急所に指をかけたのだ。そして、大事《おおごと》になる前の手打ちの代価として、オルペスにこう要求したそうだ。『あなたの台帳をこちらで預からせていただきますよ』と」


 「それで、オルペスは」とティコは言った。「渡したのか。──偽物を」


 「ほう」ヴェスクの目が、初めてティコをまともに見た。「それが割れていたのか、お前らには。……良かったなクィント、これは金貨20枚に値していたぞ。」ヴェスクは残念だというように、ため息をついた。「......そう、台帳は偽物だった。あの老翁は脅されて屈したふりをした。何年も前から仕込んであった写し――ほとんどの些末な部分はそのまま残し、僅かな重要な部分を改変した贋物――を、本物として差し出した。世界一の大富豪ともあろう女が、まんまと紙の束を掴まされたのだ。──オルペスの命綱を握ったと信じ込んだままな」


 「じゃあ、なんで」とガルナが口を挟んだ。「そんな大事な箱の守りが、あんなに薄かった」


 「引き渡しが決まってから運ばれるまでの展開が、あまりに急だったのだ。それに、守りを固めるために人員を動員するほど、『ここに何かある』市内に巣食う情報屋どもに教えるようなものだからだ」とヴェスクは言った。「考えてもみよ。この引き渡しは双方にとって、あってはならない取引なのだ。元老を脅して台帳を出させた。しかもその台帳の中身は多くの貴族の弱みが書かれてある──それが公になれば、リウィアとて無事では済まん。だから倉庫の受払帳にも載せず、夜警も増やさず、ただの荷に紛れさせて、保管場所をこしらえる時間稼ぎをしていた。......もっとも、この計画におけるリウィアの誤算はカンパニアの実行能力。オルペスにとっての誤算は、『カンパニアが台帳を"贋物"と気づいたこと』だっただろうがな。」


 ティコの背筋が凍えた。


 「なら、まずくないか」とティコは言った。「リウィアとオルペス、両方の地雷を俺らは踏んじまったってことだよな」


 「そうだ。だが、それは強みにもなり得る」とヴェスクは頷いた。「クィント、黙ってないでなにか言ったらどうだ?」


 「……オルペスとの交渉、か」とクィントが掠れた声で言った。「リウィアとの交渉は難しい。たしかに"オルペスの台帳"の取引が明るみになれば、リウィアの危険性がマゴラト中に知れ渡るのは間違いないだろう。だが、それ以上に本物の"台帳"だと信じ、その力を疑わないリウィアにとっては、カンパニアに対して弱気に出る理由はない。例え私が台帳を燃やすと脅しても、それはリウィアにとって"超えてはならない一線(レッドライン)"であり、むしろ火に油を注ぐだけだろう。それにリウィアの力は元々、カンパニアを守るには向いていない。......だが、オルペスに『"台帳"は本物であるとしたままで、リウィアに台帳を明け渡す。その代わりとしてカンパニアを守らねば、リウィアに台帳が贋物であることを伝える』として脅せばどうだろう。そもそも、これまで我らカンパニアを殺さず生かさず飼っていたのはやつなのだ。この話に乗ることは、オルペスにとって事件前の状態に戻すことに他ならない、悪くない"取引《ディール》"だろう」


 部屋の中が、しんとなった。


 「……フェリオは」ティコは絞り出すように言った。「フェリオの兄貴は、どうなる」


 ヴェスクはティコを見た。その静かな目に、値踏みするような色が宿った。


 「今朝の桟橋の死体は、お前の兄貴分ではなかったのだろう?」と彼は言った。「あれは、ただの恨みを買って落とされた水夫にすぎん。桟橋とは、そういう場所だ。──だが考えてもみよ。お前の兄貴分は、あの箱がオルペスの屋敷から出たことを知るただ一人の外の人間だろう。リウィアにとっては、消えてほしいがどうでも良くもある人間の一人だ。──だが、オルペスにとってはどうだろうか?」


 「……台帳を引き渡した証人として、もしもの際のリウィアへの手札として使える」とティコは言った。「もしかして、いるのか!?オルペスの屋敷に!」


 「見込みはそこまで高くない」とヴェスクは言った。「人を一人抱えておくというのは、それなりの費用がかかるものだ。その費用をかけるほどの利があると、オルペスが考えているかどうかまでは分からんぞ」ヴェスクはそう言うと邪悪な笑みを浮かべた。


 ティコは、頭の中で盤面を並べた。

 夜明けまでに箱がこの家にあれば、カンパニアは終わる。だから、リウィアには夜明け前には"台帳"を引き渡さなければならない。さらにその前にはオルペスにカンパニア家保護を約束させる必要があり、オルペスがリウィアにカンパニア襲撃をしないよう通達する時間も必要だろう。時間は極めて限られており、あと数時間ほどしかない。

 この交渉は恐らくクィントかガルナ、もしくはその両方が行うだろう。今すぐにでも出発するだろう。


 ――さらに、ティコは思った。その交渉内容の中に、フェリオの解放を混ぜることはできないかと。そしてもう一つの疑問。――自分はこの交渉に同行させてくれるのだろうか、と。


 「クィントさま」とティコは言った。「俺がオルペスのところへ交渉へ行く」


* * *


 部屋が静まり返った。


 「ならん」とクィントは首を振った。「お前に交渉ができるわけがない。門前で払われて終いだ。──それに何より信用できん。お前は交渉の席で、カンパニアの保護よりもそのフェリオとかいう仲間の解放を優先しかねん」


 「そんなの、そっちだって同じだろ」とティコは言い返した。「あんただって、フェリオよりカンパニア家の保護を優先するに決まってる。交渉の荷が重くなったら、真っ先に切り捨てるのは俺の兄貴だ。──違うか」


 クィントは答えなかった。答えないことは、時に十分な答えになる。


 「だから、俺が行くんだ」とティコは言った。「あんたらの交渉に、フェリオの名前を混ぜさせるために」


 「ならん、と言っている」クィントの声が硬くなった。「これはカンパニアの存亡の話だ。"港のねずみ"の兄弟ごっこを混ぜる余地は──」


 その言葉が終わるより先に、ティコは動いていた。

 音もなかった。気がつけば、痩せた少年の体は扉のそばにあった。閂に手をかけ、いつでも夜の路地へ滑り出せる姿勢で。──港のねずみは逃げるのが得意だ。そして夜の路地で港のねずみを追い切れる者は、ガルナを含めてもいない。


 「なら、俺は独りで行くぞ」とティコは静かに言った。「今すぐ走って、あんたらより先にあの屋敷の門を叩く。──手土産はある。箱のありか、盗んだのが誰か、台帳が偽物だと見抜いたお前らの名前。それだけ差し出せばフェリオ一人と釣り合うだろ。あとはあのジジイが、始末屋をこの家に寄越して終いだ」


 部屋の空気が、凍った。

 ガルナが壁から離れた。巨躯から立ちのぼる気配が変わっていた。倉庫で会ったときの静かな圧ではない。明確な殺気だった。この場でその口を塞ぐ──盾として、それが唯一の正しい手だとその体が言っていた。


 「やめておけ、大鬼人《オーガ》」とヴェスクが言った。その声は笑っていた。「捕まえられんよ、あの足は。──それに見ろ、クィント。この子供、たった今自分の持ち札の正体に気づきおった。情報というものは荷物にせずとも身体で運べる。……ふふ、末恐ろしいねずみだ」


 「……ティコ、自分の言っていることが分かっているのか」とクィントは低く唸った。「カンパニアを売ると、お前は言っているのだぞ」


 「できれば売りたかねえよ」とティコは言った。閂にかけた手は、離さなかった。「あんたらは俺に良くしてくれた。だからこんな脅しは使いたくねえ。──でもフェリオの兄貴は、俺にとっての家族なんだ。"家族は見捨てねえ"。それを守るためなら、俺は何だって天秤に載せる。あんたらのことも、な。……あんたが俺を信用できねえのは正しいよ。だからこそ、俺を交渉の席に置いとくしかねえんだ。目の届かねえところに放すより、よっぽど安全だろ」


 長い沈黙があった。


 やがて、クィントが深い、深いため息をついた。

 「……座れ、ねずみ。閂から手を離せ。──ガルナも下がれ」

 ガルナはしばらく動かなかった。しかし、やがて主の言葉に従って、壁際に戻った。だがその目は、扉のそばの少年から離れなかった。


 「一つだけ憶えておけ」とクィントは言った。「オルペスは六百年を生きた男だ。あの老翁がお前に何かを与えるとすれば、それは必ず代償を伴う。この都市に恩情などはない。──気をつけろ、ティコ」


* * *


 オルペスの屋敷へは、四人で向かった。

 クィント、ガルナ、ヴェスク、そしてティコ。月のない裏道を、四つの影が黙って歩いた。金貸しとその盾、呪い師と港のねずみ。──この都市でいちばん奇妙な使節団だろう、とティコは思った。


 道中、雑多な区画の角を曲がるとき、ティコは一度だけ列の後ろに下がった。

 誰にも気づかれなかった。ガルナにさえも。港のねずみは隠すのが得意だった。ほんの十歩ぶんの間、彼は暗がりの杭の裏に屈み込み、懐から出したものを杭の根元の隙間に押し込んだ。──炭書きの布切れと、結び目をこしらえた細縄。カンパニア家で大人たちが交渉の段取りを言い争っているあいだに、部屋の隅でこっそり作っておいたものだった。


 港のねずみは、都市の正字は読めない。彼らに字を教える者などいない。だが、彼らの内の数人はマゴラトの俗字《ぞくじ》を読むことができる。

 "港のねずみ"は、それを使った情報の受け渡し場所を、市内にいくつも用意している。縄の結び目が矢印の、杭に埋まった布切れ。それには大抵、荷の内容、危険の兆し、集合の合図が書かれており、夜明けごとに当番の子が回る。布が挟まっていれば、当番は文字が読める"ねずみ"のところに持って行き、なければそのまま通り過ぎる。


 ――ティコが残したのは、この三日の経緯のすべてだった。『タルペアの倉庫から盗まれたのは、オルペスの台帳の贋物』そして、『俺がこの夜明けまでにこれを回収しなければ、この話を、金で情報を買う連中のところへ持っていけ』という指示だ。

 効くかどうかは分からない保険だ。


 ヴェスクが一瞬だけ、鼻をひくつかせてティコを見た気がした。だが、蜥蜴人《ラケルタ》の呪い師は何も言わなかった。


* * *


 オルペス・ネクィアの屋敷は、都市の古い一角に建っていた。

 貝紫の臭いは届かない。古く堅牢で、静かな屋敷だった。派手さはないが、その静けさそのものが、威圧的な雰囲気を持っていた。

 六百年。この屋敷の主が、六百年間人々の弱みを溜めつづけてきたのだ。


 門の脇の通用口をクィントが叩いた。

 しばらくして、扉が開いた。中から、一人の女が顔を出した。若い女のようにも、歳のいった女のようにも見えた。歳が読めなかった。そして、その静かな無表情の目を見て、ティコの港のねずみの勘が悲鳴を上げた。──この女は危険だ。


 女は四人を順に見た。クィント、ヴェスク、ガルナ。そして最後に、いちばん小さい影に目を止めた。


 「入るのは、まずそこの"ねずみ"だけだと、オルペスは言っている」


 クィントが眉を寄せた。「待て。話があるのは私だ。この子供は──」


 「二度は言わない」と女は言った。

 クィントはティコを見た。その目には苛立ちと警告、そしてほんのわずかな──案じるような色があった。ティコは頷いて、独りで敷居をまたいだ。


 後で、ティコはその女の名を知る。"始末屋クレア"。三眼人《セルヴィアン》。この都市の裏で厄介事の「始末」を請け負う女。──その女に案内されて、ティコは屋敷のいちばん奥の部屋へとたどり着いた。


* * *


 部屋は暗かった。


 窓は厚い布で覆われ、わずかな蝋燭の光だけが部屋を照らしていた。その揺れる光の中に、一人の老人が座っていた。

 枯れた老人だった。八十代の風貌の、皺だらけの痩せた体。──だが、その静かな佇まいの奥に六百年の重みがあった。ティコは一目見て悟った。やはりこの男はただの老人ではない。老人の姿をした、途方もなく古い妖怪だ。


 「──驚いた」


 老人の第一声は、それだった。しわがれている、しかし奇妙に澄んだ声。


 「世辞ではないぞ、ねずみ。私は六百年、この都市を見てきた。執政官の裏切りも、神官の醜聞も、氏族の没落も、飽きるほど見た。この歳になると、たいていのことは起きる前から見えている。──だが、これは見えなかった。貝紫の臭い区画の浮浪児が、三日で箱にたどり着き、台帳の細工を見抜き、そして私の部屋の敷居をまたぐ。……心底驚いた。この驚きだけでも、お前を通した甲斐があった」


 説明せずとも全てを把握しているようだった。ティコの背筋が凍った。


 「フェリオは」と彼は言った。「どこだ」


 「生きている」とオルペスは言った。「この屋敷にいる。あの若者は箱の出どころを知る、ただ一人の外の人間だ。リウィアに掴まれる前に手元に置いた。いざというとき、あの女を泥沼に引き込む札としてな。──価値がある限り、生かしておく」


 「返してくれ」とティコは言った。


 「断る」とオルペスは言った。静かな声だった。「外の三人はまぁよい。使えるからな。それに彼らの弱みも、私は既に握っている。彼らには、初めから選択肢などあってないようなものなのだ。──だが、お前はどうだ、ねずみ。名もない。家もない。商いもない。お前を縛れる鎖はあるにはあるが、それに費やす資源が、少しでも惜しい。……そして、鎖の値がかかる者の口を塞ぐ方法は、一つしかないのだ。......お前の地盤はあまりに浅い。お前一人が桟橋の下から上がったところで、この都市の誰も気に留めないだろう」


 部屋の空気が冷える。背後の扉のあたりで、クレアの気配がわずかに動いた気がした。


 だが、ティコはこの瞬間のために、既に"保険"を残してきた。


 「あんたの言うとおりだ、爺さん」とティコは言った。声が掠れないよう、舐められないように、精一杯腹に力を入れた。「──だから、保険を置いてきた」


 オルペスの目が、わずかに細くなった。


 「ここへ来る道の途中に、この三日のことを全部、書いて隠してきた。台帳が贋物なこともな。──ああ、言わなくていいぜ。港のねずみは字が読めねえはずだって、思ってるんだろ。そうだ。正字《せいじ》は読めねぇ。でも俺たちには俺たちの文字がある。大人には荷縄の切れ端と落書きにしか見えねぇだろうよ。受け渡しの場所は都市中にあって、夜明けごとに当番の子が検めて回るんだ。──俺が朝までに回収しなけりゃ、あれは仲間の手から手へ渡って、金で話を買う連中のところまで流れる。この都市にそういう情報屋がどれだけいるか、あんたがいちばんよく知ってるはずだ」

 ティコは息を吸った。

 「あんたがフェリオを返してくれりゃ、俺は帰り道にあれを回収する。――なあ、それでお互い一件落着じゃねぇかよ」


 沈黙があった。蝋燭の炎が、揺れた。


 やがて、オルペスは言った。

 「──ならば、この一晩のうちに、港のねずみを皆殺しにすればよい」


 あまりに静かな声だった。天気の話でもするような。


 「臭い区画の浮浪児が二十人。一晩で消えたところで、この都市の誰が数える。土の中だろうと壁の落書きだろうと、読む者が残らねば符丁はただの縄と炭だ。──それに、ねずみよ。仮に幾らか漏れたとしてどうなる。浮浪児の言うことだぞ。浮浪児発の噂を、誰が信じる。金で話を買う連中とて、売り物になるのは信の置ける話だけだ。出どころが桟橋では、値がつかん」


 老翁は、枯れた指を組んだ。

 「お前の保険は、保険になっておらん。──話は、終わりか」


 ティコは、答えられなかった。

 全身から血の気が引いていくのが分かった。読み違えた。この老翁は六百年、こういう脅しを幾万と受けて、その全部を潰して生き延びてきたのだ。港のねずみの浅知恵が通じる相手ではなかった。仲間を、二十人の子供たちを、自分は今天秤に載せてしまった──。


 悔しかった。

 怖さよりも先に、悔しさが来た。何もかも見透かされて、値踏みされて、「話は終わりか」と言われて、このまま黙って始末されるのか。それとも命乞いをするのか。


 ──どちらも嫌だった。せめて一矢、この六百年の化け物に何か一つでも報いてやりたかった。


 だから、ティコの口から出たのは、さらなる脅し(ハッタリ)でも命乞いでもなかった。


 「……なあ、爺さん。あんた、本当に六百年も生きてんのかよ」


 オルペスは答えなかった。


 「嘘なんじゃねえのか。ハッタリなんじゃねえのか。六百年前っていやあ、セミルスさまがまだ人だった頃って聞くぜ。──じゃああんた、セミルスさまの顔、覚えてんのかよ」


 それは負け惜しみだった。ただの、路地の子供の減らず口だった。


 だが、"セミルス"の名を出した時、オルペスのまぶたが動いた。


 長い、長い沈黙があった。蝋燭の炎だけが揺れていた。ティコは、自分が何か踏んではならないものを踏んだのかとも思った。クレアの気配を背中に感じた。


 「……あぁ、覚えているとも」


 やがて、老翁は言った。ティコに答えるというより、独り言のようだった。


 「やつがマゴラトにはじめて訪れた若き姿から、二百年の冒険から戻った老いた姿までな。......そうだな。やつは最後、民とともに豆《キケル》を育てていた。畑の土に膝をついて。――やつは決して神のような者ではなかった。魔剣"アスモデウス"を有し、なおもさらなる冒険を渇望しながら、寿命には勝てず、自身の老いた体に癇癪を起こしては、長命の仲間に看取られていく──そんな憐れな老人だった。人望などより、冒険のほうを欲しがっていた男だ。神殿の荘厳な像を見るたびに思う。あれは"違う"、と。あの男はもっと土くさく、もっと俗なやつであった、と」


 彼はそこで、言葉を切った。そして、初めて、まっすぐにティコを見た。


 「──分かるか、ねずみ。今の話を、私は公の場では決して口にできん。神殿から睨まれるのもある。セミルスの威光に連なる氏族どもとの仲も悪くなる。そして何より、人々の関心が私の六百年そのものへ向く。私が何者で、その六百年に何をしてきたのか、と。……言うことの益は一つもなく、害だけがある。だから言わなかった。言えなかった。この数百年間誰にも」


 蝋燭の炎が、揺れた。


 「私が今これを話したのは、お前が港の"ねずみごとき"だからだ。名もなく、家もなく、お前の言葉を誰も信じぬ──そんなお前だからこそ、今、数百年ぶりに、これを口にすることができた。……妙なものだな。鎖のかからぬことが、お前の弱みであり、同時に私がお前にだけ話せた理由でもある」


 老いた顔に何か人間らしい影が差していた。悲しみか、疲れか、あるいは六百年分の途方もない孤独か。──ティコには読めなかった。だが、この瞬間だけ、目の前にいるのが"途方もなく古い妖怪"ではなく、ただの"途方もなく長く独りでいた老人"に見えた。


 「取引《ディール》を結ぼう」とやがて、オルペスは言った。

 ティコは顔を上げた。


 「フェリオは返す。それからリウィアには、今後港の臭い区画のねずみどもに手を出させぬよう、私から手を打っておく。あの女への手綱は、まだ幾本も私の手に残っておるのでな。──外の金貸しどもとの話は、この後別にする。箱の始末も、噂の始末も彼らの取引だ。お前の知るところではない」


 「……なんで、だ」とティコは訊いた。訊かずにはいられなかった。「あんたは、俺の保険を潰した。俺を消せば終わりだったのに、なんで」


 「秘密には秘密を。借りには貸しを」とオルペスは言った。「それがこの大都市、マゴラトの仕組みだ。──お前は今夜、私の秘密を一つ、私からの借りを一つ預かったのだ。......その秘密は、誰も預かろうとしなかった"懐かしい"秘密だった。だから私も、その対価を払っただけのことよ。」


 一体何が本音なのか、ティコには分からなかった。


 「ただし」と老翁の声が、不意に鋭く響いた。「一つだけ憶えておけ、ねずみ。──二度とこのような真似はするな」

 枯れて痩せた体が、蝋燭の光の中でゆっくりと立ち上がった。

 「今夜のお前は、"港のねずみごとき"だった。だから見逃せた。だから"話せた"。だが、お前が今後も上の世界に関わるなら──二度、三度も私の網に指をかけるなら、私はもう、お前を"ねずみごとき"としては扱えなくなる。名もなき浮浪児ではなく、盤の上の駒として数えねばならなくなる。……盤の上の駒がどう扱われるかは、お前のフェリオが身をもって知ったとおりだ。分かったな」


 ティコは、その言葉の重さを、腹の底で受け止めた。

 「……分かった」と彼は言った。「──約束だぞ、爺さん」


 六百年の老翁の口の端に、ほんのかすかな、笑みのようなものが浮かんだ。それがどんな笑みだったのか、ティコには最後まで読めなかった。


 「帰れ」とオルペスは言った。「帰り道の、杭の裏のものを忘れるなよ」

 ──杭を使ったことまで、全部知られていた。


 ティコはクレアに導かれて、来た廊下を戻った。玄関の間で、三人が待っていた。クィントが素早く目でティコを検め、無事を確かめると、小さく息を吐いた。ガルナは無言で、だがその厳めしい顔がわずかに緩んだ。ヴェスクだけが面白くてたまらないという顔で、口の端を吊り上げていた。


 「次は、金貸し。──お前だ」とクレアが言った。

 入れ違いに奥へ向かうクィントの背を、ティコは横目に見送った。大人たちの取引の中身をティコが知ることはない。それでいいと思った。この都市では、話せないことを互いに持つほうがいいのかもしれない。

 ティコは独り夜明け前の路地へ出た。杭の裏から、布と縄を回収するために。


* * *


 その夜のうちに、オルペスの台帳は倉庫へ戻った。

 大人たちの取引がどう転んだのか、ティコは知らない。だが夜明け前、ガルナが片腕で箱を抱え、ティコが夜警の目を避ける道を示した。来たときと同じ高い窓からだ。


 外した格子は元通りに嵌め、浮かせた釘はガルナの太い指が一本ずつ静かに押し戻した。──盗んだ者がいちばんうまく戻せる。港のねずみの知恵と、大鬼人《オーガ》の膂力。奇妙な取り合わせは、二度目もうまく噛み合った。


 夜明け。

 タルペア家の者が、私兵を引き連れて倉庫を検めたそうだ。商品は全て元の場所にあったという。――「盗まれた」と騒いだ夜警と番頭は、荷の数え違いを叱責され、解雇されたらしい。


 『カンパニアが、"タルペア家の商品"を盗んだ』という噂は、昼を待たずに立ち消えた。誰が流したのかも分からぬまま、誰が消したのかも分からぬまま。──だが、ティコは知っていた。情報を商いとする例の老翁が、あの暗い部屋で糸を引いたのだろう。


 その日の夕暮れ、港のはずれで、クレアがフェリオを引き渡した。

 フェリオは痩せて憔悴していたが、生きていた。無事だった。


 「ティコ」とフェリオは掠れた声で言った。「お前……なんで……忘れろって、言ったのに……」

 「兄貴」とティコはフェリオの痩せた肩を掴んだ。「港のねずみは、"家族"を見捨てねえ。──あんたが俺にそう教えたんだろ」


 フェリオは何か言おうとして、言葉に詰まった。

 そして、涙を流した。


* * *


 すべては、元の静けさに戻った。

 リウィア・タルペアはオルペスの命綱を握ったと信じたまま、自分の倉庫の奥に紙の束を眠らせている。世界一の大富豪が知らない真実を、臭い区画の浮浪児が知っているのは皮肉なことだ。


 カンパニア家は無事だった。嫌われ者の金貸しは、また都市の底で人々に金を貸し、憎まれながら生き続けた。

 だが、クィントは、以前より少しだけ、臭い区画の子供たちに低い利率で小銭を貸すようになった。──『綺麗な金で返すんだぞ』と彼は言った。

 呪い師のヴェスクは、また香草と乾物の店の奥に引っ込んだ。

 始末屋のクレアを、ティコは二度と見なかった。


 ティコは約束どおり、カルを含めた二十人の子供に、次のいい荷運びの口を回した。カルは荷賃より一連の話をせがんだが、ティコは笑って首を振った。──話せないことが多すぎた。


* * *


 その夜、ティコは桟橋の杭の上に座って湾を眺めていた。

 無数の星がフレトゥム海の水面に映って揺れ、潮目のあたりに漁火がいくつか灯っていた。今日も潮を読む古い漁師の家系が、闇の中の魚を追っているのだろう。


 フェリオが、隣に座った。

 「ティコ」とフェリオは静かに言った。「俺、一度は冒険者を辞めようかと思った」

 ティコは彼を見た。

 「上に行けば、何かが変わると思ってたんだ。港の底から這い上がれば、まっとうな暮らしができると。──だが、上には上の、もっと汚れた網があった。俺はその網の、いちばん小さな駒として使われてさ。……本当に、怖かったよ」


 「でもよ、兄貴」とティコは言った。「上の道が汚れてるからって、下の道がきれいなわけじゃねえ。ここだって十分汚れてる。慣れるまでに三年かかる"貝紫《かいむらさき》"の臭いも、日に日に強くなってる。──この都市は、どこに行っても汚えし臭えんだと思うよ」


 フェリオは笑った。だが、乾いたような笑いではなかった。

 「俺も同じことを思ったよ」と彼は言った。「……だから、続けることにした。網がどれだけ汚れてるか知らねえで歩くより、知ってて歩くほうがいい。それに──今度、元老の使いが路地で待ち伏せてやがった時の断り方も覚えたしな」


 「へえ?どんなの?」


 「弟分《ティコ》に言いつけるぞ、だ」とフェリオは言った。「うちの弟分《ティコ》は、元老と取引した男だからな」


 ティコは吹き出した。二人はしばらく、声を殺して笑った。


 湾の向こうで、都市の明かりが瞬いていた。貴族院の灯り。元老たちの屋敷の灯り。そのどこかに、六百年を生きる老翁がいる。他人の秘密を握り、自身の千年の生に囚われながら、暗い部屋の蝋燭の光の中に座っている老翁が。──その老翁が数百年ぶりに口にした秘密を、桟橋の上の少年が独りで抱えていることを、人々は知らない。


 「なあ、フェリオの兄貴」とティコは言った。「一つ憶えててくれ。港のねずみはいちばん小さくて弱い。でも、小さいからこそ、いちばんどこにでも行けるんだ。倉庫の隙間にも、屋敷のいちばん奥にも。──俺たちはこの都市のどこにでも行ける、唯一の生き物なんだ」


 フェリオはティコを見た。かつて自分を慕ったティコに、頼もしさを超えた何かが映った──弟がいつの間にか、自分の知らない場所へ行ってしまったような、寂しさと誇らしさの混じった色が宿っていた。


 「そうだな」とフェリオは静かに言った。「そうかもしれねえ」


 二人はそれから、長いあいだ、杭の上に座って、星と漁火と都市の明かりを眺めていた。

 貝紫の悪臭が、風に乗って二人を包んでいた。

 慣れるまでに三年かかるその臭いは、いまやティコにとって、この都市そのものの匂いだった。金と秘密と貸し借りと──そして、貝紫《かいむらさき》の匂い。それが天下の大都市"マゴラト"だった。

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