第五話:鍵
2167年3月22日18時20分 東京都新宿区市谷
本省の別棟にある宿舎の一室に磯谷はいた。
大きめの窓があるシングルのビジネスホテルといった風情の部屋。
ただ、そこにあるベッドを始め、ロッカーやデスクは武骨で不愛想だった。
ベッドに座り、前かがみの姿勢で下を向いている。
中西から伝えられた話は、磯谷の心を揺さぶった。
覚悟はしていたはずだ。
東京の惨状は情報として知っていた。
連絡も取れない状況だった。
だが、実際にそれが事実として突き付けられたときに、受けた衝撃は大きなものだった。
「こんなこともあるかもしれないとは覚悟していた。だが、骨を拾ってやることもできんとは…」
口に出して、ふと自問する。
覚悟をしていたはずだ?
一体何の覚悟だ?
妻や娘が死んだと思っていたのか?
そんなことはない。無事であることを願っていた。
願っていた?
願えば二人は死ななかったのか?
隊を預かる? 住民を助ける?
そのために家族が犠牲になっていいのか?
違うだろ。そんな訳はない。
無事であることを信じる、それは自分を正当化しただけだ。
痛みを感じないために…俺は現実から目をそらしたんだ。
初めて妻となる女性と会った時のこと。
プロポーズした夜。
娘が生まれたときのこと。
娘が風邪をこじらせて、慌てて病院まで走ったこと。
単身赴任を巡ってケンカしたこと。
多くの記憶が一気に沸き上がり、駆け巡る。
磯谷は笑みを浮かべながら泣いていた。
やがて笑みが消える。
「もう…思い出だけになってしまった」
絶望とは何か。
この時、彼はそれを身をもって知った。
2167年3月30日8時 東京都新宿区市谷
宿舎のデスクの上に置かれている、昔のビジネスホンのような通信端末が鳴った。
誰が出るでもなく、呼び出し音が2回鳴った後に、一方的に話し始めた。
「磯谷一佐、0900に統合幕僚本部にご出頭ください。これは正式な命令です。よろしくお願いします」
そう告げ終わると、室内は静かになる。
磯谷はこの期間、一歩も外に出ていなかった。
食事は2度ほど取った。
自暴自棄ではないが、生きていくことに意味を見出せない自分が、腹が減って物を食うのが滑稽で、一人笑ったくらいだ。
3日ほど前に、一度呼び出しがあったが、それは体調を理由に断った。
二回続けてというわけにはいかない。彼は現時点で自衛官だ。
磯谷は起き上がって身支度を始める。
手早く伸びた無精髭を剃り、顔を洗ってパンと一度頬を打つ。
この数日で少しやせたようだった。
着慣れたはずの制服が大きく感じる。
時刻が8時40分になると同時に磯谷は立ち上がり、部屋を出た。
8時55分
本省の地下にある統合幕僚本部前に磯谷の姿はあった。
本部付の士官に案内されて会議室に通される。
そこには統合幕僚長や陸幕長などの幕僚と、東部方面総監とその補佐官が待っていた。
磯谷は並んで座る面々の前へと進み、足を止めて敬礼した。
防衛省幹部の面々もそれに応え敬礼する。
中西が立ち上がり、一礼してから磯谷の前に進み出て、手にした紙を掲げ読み上げた。
「本日付で磯谷一佐を陸将補に任ずると同時に、東部方面総監の職に任ずる」
それに磯谷はすぐに応じた。
「恐れながら任官を辞退いたします。小官はその責務を全うできません」
中西は小さく、磯谷と名を呼ぶ。周囲は少しざわついた。
幕僚の一人が磯谷に話しかけた。
「我々は君の能力やこれまでの功績を高く評価し、それに応えてくれると思い、今回の人事を決定した。
貴官が自らそれを断るというのは、何か理由があるのか?」
磯谷は姿勢を正したまま、声を張ることなく淡々と答えた。
「小官は国民を、家族さえも守ることができませんでした。今の私に未来を描くことはできません」
「それは、ほとんどすべての人がそういう状態だ。貴殿だけが責任を感じる必要はないし、貴殿は最善を尽くしたはずだ」
「任務という意味では、小官は全力を尽くしたと自負しております。ですが、夫として、父親としてその行いが正しかったのか…
胸を張って正しかったと言うことができません。
ましてや米軍麾下になるということは、自衛官ではなく、軍人となることを意味します。
自分はそれを胸を張って、娘に告げることができません」
「しかしだな。自衛官も軍人も、自国を防衛するという点において変わりはあるまい?」
「はい。ですが他国に対しての剣となるという点において、自衛隊と軍隊は異なります」
陸上幕僚長が、質問を続けた。
「君の言うことはもちろん理解できる。だが、この国がいずれ自らの力で立ち上がるための礎が必要だ。
我々はそれを君に期待している。その点は理解してほしい」
「理解しているからこそ拝命できないのです。先ほども申しました。私は未来を描けない。
私にとって失ったものが大きすぎたのです。人の上に立ち、それを正しく導くための先見を持てません」
「そうやって自らを省み、慎重になれる君だからこそ―」
陸幕長がそこまで言ったところで、統幕長が発言を遮る。
「意思は固いのだな?」
磯谷は明瞭に答えた。
「はい」
その場に沈黙が訪れる。
ふうと息を吐いてから統幕長は続けた。
「であれば、已むを得まい。本人の意思を無視したところで、良い結果にはつながらない」
「期待に沿えず申し訳ございません。小官から一つお願いがあります」
「なんだね?」
「はい。自衛隊が存続する限り、一隊員として在籍することを許可いただきたい。それが苦難を共にした隊員達へのせめてもの義務と考えます」
「明日、総理から通達が行われ、三月末日を以て、自衛隊は解散、米軍への編入が始まる。
あと1日と少々だ。それを望むというのなら…問題ないだろう」
「ありがとうございます」
「任官拒否により、二等陸佐に降格となるが、それでもいいか? 君の経歴に傷が付くことになるが」
「はい。自衛隊とともに私のキャリアも消えるのです。何の憂いもありません」
「そうか。ならこれ以上言うことはない。磯谷二佐、下がってよし」
「はい。失礼します」
磯谷は敬礼して向き直ると、会議室を後にした。
2167年3月31日12時ちょうど
日本政府が正式に、国家としての日本が今日で終わることを告げた。
それを嘆く声、今後の不安を憂う声もあったようだが、混乱には至らなかった。
ほとんどの生存者が、今の政府にできることがないのを理解していたのだ。
このひと月以上、アメリカからの物資が生きるための命綱となっていることを知っていたし、一向に進まない復旧に限界を感じていたのだ。
何よりも、国家という枠組みが、すでに自分たちの生活を守ることができないことを、身に染みて知っていたのだ。
首相からの短い演説を聞いてから、磯谷は身支度を始めた。
今日が終わるまで自分は自衛官だが、明日からはそうじゃない。
明日の朝、自分がここにいるのはおかしいと思っていた。
一応自分の所属は東部方面総監部付なので、総監部に除隊の手続きをしようとしたが、手続きは特に必要ないと言われた。
米軍に身分が移る際に、移行しないだけなのだそうだ。制服一式に関しても、回収はしないそうだ。
ただ、除隊に際して、通常支払われる恩給や一時金などは基本的に出ないことを告げられる。その代わりだろうか、二日分ほどの携行食を受け取った。
国がこの状況では、それもまたやむを得ない。
一応その場で敬礼をして立ち去る。
本省内を出口に向かい歩きながら、すれ違う隊員たちと敬礼を交わし、建物を出た。
西ゲートに向かっているところで、背後から不意に声をかけられる。
「磯谷二佐! 間に合った…」
息を切らしながら走ってきたのは高山二尉だった。
「もう行かれるんですよね。これをお持ちください」
彼から手渡されたのは9㎜拳銃とその予備弾倉2個。ウエストホルスター。あと銃剣だった。
「これを持てるのは今日一日だ。返却が面倒だ」
「いえ、明日以降もお持ちになってください。二佐もご覧になったでしょう? 治安状況は相当に悪化しています」
「いや、だから一般市民が拳銃を…」
「明日から米国法が適用になり、許可があれば民間人であっても銃器の所持が可能になります。
治安の安定化を目的に、このタイミングで除隊する士官に関しては、所持許可と拳銃が支給される予定です」
「滅茶苦茶だな。それで治安が安定化するとは思えないが…」
「自衛官、しかも士官です。それを持つ資格があるというのが、政府の見解です。
一方では退職金も恩給もないから、何か持たせてやれという話もあったようで…」
「何にしてもだ。俺は民間人が武装する状況は望ましくないと思う。いらん」
「いえ、そこを曲げてでも持って行ってください。
小官は二佐が、間違った使い方をしない方だと信じております。そして今の状況では必要になる時が来るかもしれません。
いわばお守りです。所持許可の手続きも完了しておりますので、明日からシームレスに許可は続きます。
大きい声では言えませんが、中西東部方面総監のご命令でもあります。小官が二佐に渡すように命令を受けております。受領していただけないと困ります」
「総監が?」
「はい。それが二佐を守ると。ですので、これをお渡しします。あと、これも預かっております」
そう言って一枚のカードを渡された。
現金と同様に使えるマネーカード。それはドル建てになっている。
「これも中西総監からか?」
「いえ。これは練馬と朝霞の第一機械兵団の連中から集めたものです。大した金額ではありませんが、米軍商店で使えるかもしれません」
かつて所属した部隊の連中の顔が思い浮かぶ。
少し胸が熱くなるのを感じた。
「そうか。有難くもらっていく。みんなによろしく伝えてくれ。高山。世話になったな」
磯谷はそう言って敬礼すると、薬王寺門に向かって歩く。
高山はその後ろ姿を、敬礼の姿勢で見送った。
2167年4月1日17時 東京都中野区
崩壊を免れた中規模のオフィスビルの五階部分。
その下の階には先客があり、ここまで登ってきたのだ。
建物の窓や扉などは残っていない。
建物内に残るものはほとんどなかった。
風に飛ばされたのか、誰かに持ち出されたのか。
落ち着ける場所が見つからず、やっと見つけたここに磯谷は腰を下ろしていた。
今日中には練馬まで行くつもりだったのだが、思いのほか時間がかかっている。
更にはこの2週間ほどでかなり体力が落ちているようだった。
コートを広げて壁から出ている鉄筋にかけ、座ったまま上着を脱ぐ。
右の脇腹を見ると、青黒く腫れている。
特殊警棒の一撃が痛くないわけがない。
患部を確認すると、どうも肋骨の一本が折れているようだ。
詳細までは分からないが、亀裂で済んだか、完全に折れたかの際どいところという感じで、大きく動かさなければひどい痛みはなかった。
担いでいた荷物からアルミにパッドが張られたロールを取り出して、形を整え脇に当て、さらにその上から包帯を巻く。
治療になるとは思わないが、放置するよりも動きやすい気がした。
荷物の中から比較的綺麗な状態のアンダーシャツを取り出して袖を通し、その上からジャンバーを羽織る。
雨で濡れた制服の上着は崩れた壁の出っ張りに引っ掛けた。
ホルスターをズボンのベルトに通しなおし、再び腰を下ろす。
抱えているダッフルバッグの中は、わずかばかりの携行食料と、簡易医療キット。あとは着替えの類だけだ。
鹿児島を出る時に最低限の荷物しか持ってこなかった。それで足りるはずだった。
こんなものが欲しいならくれてやってもよかったが…それにしても命の値段が安くなったもんだ。
ホルスターから銃を抜いて、手にする。
受け取った時、中西総監が「楽になりたければ介錯する」という意味で渡したのだと思っていた。
だが、その意味が違ったことを実感する。
これが俺を守る。
俺が死んだあと、この銃がどうなるのかを考えろという意味だった。
誰が使うかわからない状態でそこらに投げ出すわけにはいかない。
お前が死ねば、見知らぬ誰かが死ぬぞ。
平たく言えばそういった脅しの類。
そしてそれは効果的でもあった。
予備弾倉まである。
磯谷が手にしているのは、見慣れた9㎜拳銃ではなかった。
自衛隊では伝統的に一列弾倉の拳銃が採用されているが、これは弾倉が二列になっている。
装弾数15発。推測だが、トライアルで用意されたものを本省の倉庫から引っ張り出したのだろう。
ご丁寧に、銃のスライド部分に桜のマークが刻印されていた。
ずっしりと重みを感じる。
それでも命の重さに比べれば、かなり軽いと思った。
銃をホルスターに戻し、少し眠ることにする。
痛み止めを飲むことも考えたが、それは止めた。
まだ夜の風は冷たい。
乾ききらないレインコートを体に巻き付けて、しばらくしてから眠りについた。
2167年4月2日午前7時 東京都練馬区
早い時間から動き始めて、ようやく明るくなり始めた。
練馬に入ってから周囲の空気感が随分と変わったように感じる。駐屯地が近く、第一師団が憲兵隊として機能するという話があるくらいだ。
この辺の治安状況はかなり安定しているように感じる。
空は相変わらず濃く濁っていて、雲が低いわけでもないのに、朝日は見えなかった。
磯谷は大きく崩れた建築物のがれきの前に立ち尽くす。
かなり大きな建物が崩れたことを物語る瓦礫の山だ。
それ自体には何も感じない。
客観的な事実でしかない。
だが、この下に妻と娘が眠っていると思うと、自然と涙がこぼれ、足の力が抜けた。
その場に膝をつき、涙が頬を伝う。
こらえ切れず漏れる嗚咽。
その時、後方から近寄ってくる足音が聞こえた。
磯谷は声を殺し、涙をぬぐう。
「あんたも、ここで身内を亡くされたんだね」
ぶっきらぼうな女性の声。
磯谷は警戒を緩め、ゆっくりと振り返る。
少し離れたところに、初老の女性が立っていた。
女性は磯谷を見ずに、瓦礫の山を見つめたまま、話し続ける。
「あたしの息子もここに眠っているんだ。自慢の息子だったよ。
当日あたしを心配して電話をかけてきた。
母さん、大丈夫だね? 怪我人が大勢出ていて、そっちには行けない。本当にごめんってさ。
あたしは言ったんだ。
気にすることはないって。精いっぱいやれって。お前は人を助けることができるんだからって…」
そこまで語り、彼女はその場に崩れ落ちた。
嗚咽が響く。
磯谷には彼女の苦悩が理解できた。
それと同時にひどく胸が痛んだ。
彼女の息子がしたことを、自分はできなかった。そうすべきであったのに。
そう思うと、再び涙があふれた。
磯谷は声を殺したまま、泣いた。
少しして、無言のまま女性に一礼して、磯谷はその場を立ち去った。
いたたまれなくなったのだ。
30分ほど過ぎ、磯谷の姿は住宅地の一角にあった。
小さな集合住宅のあった場所。
彼の自宅の跡地だった。
病院跡よりも駐屯地に近いこともあり、積極的に片付けが行われている様子だ。
道路の状況も周囲のがれきの撤去状況も、他より進んでいるように感じた。
この建物の瓦礫も、片づけられようとしている痕跡が見える。
駐屯地を中心に復興を行おうとしているのだろう。施設大隊の重機も使えるはずだ。理にかなっている。
だが、磯谷はそれを認めたくなかった。
家族の気配が、痕跡が消えてゆく。
妻の匂いが、娘の影が薄れていく。
立ったまま動けなくなった。
どれくらいの時間が過ぎただろうか?
遠くから重機の走行音と、人々のざわめきが聞こえ始める。
磯谷は我に返り、その場を立ち去ろうとした。
その時、瓦礫の中で何かが光る。
日の光もない、曇り空の下で、何かが光るわけがない。
だが、磯谷はそこに駆け寄ると、いくつかの瓦礫を動かす。
そこにあったのは、キーホルダーのついた鍵。
磯谷の見覚えのあるものだった。
それを拾い上げ、その場を立ち去った。
14時20分
磯谷は少し離れた廃墟の一角に座っていた。
荷物から取り出した、革のキーケースを取り出す。
彼が持っていた自宅の鍵。
先ほど拾ったキーホルダーに、その鍵を足した。
複雑にディンプルと溝が掘られた2本の鍵。
まったく同じものだった。
キーホルダーは素朴な木製のプレート。
そこには、立体的に「お母さん」と彫られていた。
よく覚えている。
娘が学校で作ったものだった。
磯谷はそのキーホルダーを握りしめ、膝を抱えた。
そのまま顔は伏せている。
その表情をうかがい知ることはできなかった。




