しっとり
職場には、理由のわからない決まりや、触れてはいけないものがあります。
それが何なのか、誰も教えてはくれません。
ただ、気づいた時には、もう遅いだけです。
経理課は、朝が早い。
始業の三十分前には全員が席に着き、誰も喋らない。電話も鳴らない。コピー機の起動音だけが、低く響く。
その理由を、新人の私は入社三日目に知った。
いちばん奥、窓際の席。
そこがお局様の定位置だった。
机の中央に、いつも食パンが一枚だけ置かれている。袋には入っていない。皿もない。むき出しのまま、白い机に直接乗っている。
しっとりしていた。
乾いているわけでも、濡れているわけでもない。触れば指に吸いつきそうな、妙な質感。
パンの端には、赤い「見切り」のシールが貼られていた。
「……あれ、何ですか?」
思わず声に出してしまい、周囲の空気が固まった。
先輩が、顔色を変えてこちらを見る。
「見ないで。触らないで。質問もしないで」
それだけ言って、視線を帳簿に戻した。
お局様は、まだ来ていなかった。
昼休み前になると、机の上の光景が変わる。
パンの横に、ミニトマトが二つ、三つと増えるのだ。
誰が置くのかは見たことがない。
気づいたら、そこにある。
新鮮そうな赤。
でも、なぜかヘタがない。
午後三時。
お局様が引き出しからキッチンペーパーを一枚取り出し、机を拭く。
トマトには触れない。
パンにも触れない。
拭くのは、何もない机の表面だけだ。
キッチンペーパーは、すぐに赤く染まる。
まるで、見えない何かがそこにあったかのように。
その日は、誰も定時で帰らなかった。
経理課の空気が、重く、湿っていた。
翌日、席が一つ空いた。
ベテランの男性社員だった。
昨日まで、確かにそこにいたはずなのに。
「異動ですか?」
誰かが聞くと、課長は曖昧に笑った。
「まあ……見切りだな」
その日から、パンが二枚になった。
机の上には、しっとりした食パンが二枚。
どちらにも、見切りのシール。
賞味期限は、どちらも「本日」。
私は、夜にこっそり調べた。
過去の在籍者名簿。異動履歴。退職理由。
経理課から消えた人間は、すべて「自己都合退職」になっていた。
日付は、消えた翌日。
理由欄は、空白。
三週間後、私の名前が帳簿から消えた。
それに気づいたのは、出社してすぐだった。
出勤簿に、私の名前がない。
「……あれ?」
声を上げると、全員が一斉にこちらを見た。
お局様だけが、ゆっくりと立ち上がる。
机の上には、食パンが一枚増えていた。
まだ温かい。
しっとりと、柔らかく。
ミニトマトが転がる。
四つ。
赤い。
どれも、どこか潰れている。
お局様は、私にキッチンペーパーを差し出した。
「拭いて」
机は、何も汚れていない。
それでも、ペーパーは赤く染まる。
「見切りだから」
お局様は、そう言った。
「今日までよ」
その瞬間、私は理解した。
この課で処理されているのは、数字だけじゃない。
経理課は、毎日、何かを精算している。
価値が下がったもの。
期限が切れたもの。
会社にとって、不要になったもの。
パンは、私だった。
しっとりとした感触が、背中に広がる。
言葉が、音にならない。
次の日。
経理課の机には、食パンが五枚並んでいた。
誰の名前も、もう残っていない。
この話は、「職場にある当たり前のものが、少しだけ意味を変えると怖い」という発想から書きました。
食パンも、見切り品も、経理課も、どれも現実ではごく身近な存在です。
だからこそ、それらが“人”として処理され始めた瞬間に、日常が静かに壊れる感覚を大切にしています。
怪異そのものは、はっきりとは描いていません。
何が起きているのか、どこまでが比喩なのかは、読む人の解釈に委ねています。
ただ一つ確かなのは、「切り捨てる側は、いつも事務的だ」ということだけです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
今日の職場の机の上が、少しだけ違って見えたなら幸いです。




