表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

しっとり

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/02/01

職場には、理由のわからない決まりや、触れてはいけないものがあります。

それが何なのか、誰も教えてはくれません。

ただ、気づいた時には、もう遅いだけです。

 経理課は、朝が早い。

 始業の三十分前には全員が席に着き、誰も喋らない。電話も鳴らない。コピー機の起動音だけが、低く響く。


 その理由を、新人の私は入社三日目に知った。


 いちばん奥、窓際の席。

 そこがお局様の定位置だった。


 机の中央に、いつも食パンが一枚だけ置かれている。袋には入っていない。皿もない。むき出しのまま、白い机に直接乗っている。


 しっとりしていた。


 乾いているわけでも、濡れているわけでもない。触れば指に吸いつきそうな、妙な質感。

 パンの端には、赤い「見切り」のシールが貼られていた。


「……あれ、何ですか?」


 思わず声に出してしまい、周囲の空気が固まった。

 先輩が、顔色を変えてこちらを見る。


「見ないで。触らないで。質問もしないで」


 それだけ言って、視線を帳簿に戻した。


 お局様は、まだ来ていなかった。


 昼休み前になると、机の上の光景が変わる。

 パンの横に、ミニトマトが二つ、三つと増えるのだ。


 誰が置くのかは見たことがない。

 気づいたら、そこにある。


 新鮮そうな赤。

 でも、なぜかヘタがない。


 午後三時。

 お局様が引き出しからキッチンペーパーを一枚取り出し、机を拭く。


 トマトには触れない。

 パンにも触れない。


 拭くのは、何もない机の表面だけだ。


 キッチンペーパーは、すぐに赤く染まる。

 まるで、見えない何かがそこにあったかのように。


 その日は、誰も定時で帰らなかった。

 経理課の空気が、重く、湿っていた。


 翌日、席が一つ空いた。


 ベテランの男性社員だった。

 昨日まで、確かにそこにいたはずなのに。


「異動ですか?」


 誰かが聞くと、課長は曖昧に笑った。


「まあ……見切りだな」


 その日から、パンが二枚になった。


 机の上には、しっとりした食パンが二枚。

 どちらにも、見切りのシール。


 賞味期限は、どちらも「本日」。


 私は、夜にこっそり調べた。

 過去の在籍者名簿。異動履歴。退職理由。


 経理課から消えた人間は、すべて「自己都合退職」になっていた。

 日付は、消えた翌日。


 理由欄は、空白。


 三週間後、私の名前が帳簿から消えた。


 それに気づいたのは、出社してすぐだった。

 出勤簿に、私の名前がない。


「……あれ?」


 声を上げると、全員が一斉にこちらを見た。


 お局様だけが、ゆっくりと立ち上がる。


 机の上には、食パンが一枚増えていた。

 まだ温かい。

 しっとりと、柔らかく。


 ミニトマトが転がる。

 四つ。

 赤い。

 どれも、どこか潰れている。


 お局様は、私にキッチンペーパーを差し出した。


「拭いて」


 机は、何も汚れていない。


 それでも、ペーパーは赤く染まる。


「見切りだから」


 お局様は、そう言った。


「今日までよ」


 その瞬間、私は理解した。

 この課で処理されているのは、数字だけじゃない。


 経理課は、毎日、何かを精算している。

 価値が下がったもの。

 期限が切れたもの。

 会社にとって、不要になったもの。


 パンは、私だった。


 しっとりとした感触が、背中に広がる。

 言葉が、音にならない。


 次の日。

 経理課の机には、食パンが五枚並んでいた。


 誰の名前も、もう残っていない。

この話は、「職場にある当たり前のものが、少しだけ意味を変えると怖い」という発想から書きました。

食パンも、見切り品も、経理課も、どれも現実ではごく身近な存在です。

だからこそ、それらが“人”として処理され始めた瞬間に、日常が静かに壊れる感覚を大切にしています。


怪異そのものは、はっきりとは描いていません。

何が起きているのか、どこまでが比喩なのかは、読む人の解釈に委ねています。

ただ一つ確かなのは、「切り捨てる側は、いつも事務的だ」ということだけです。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

今日の職場の机の上が、少しだけ違って見えたなら幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ