第44話 揺らぐ影と小さな温もり
休憩所の空気は、いつになく静かだった。
かすかに湯気を立てるスープの匂いが漂い、丸テーブルの上には食べかけのパンと金属のマグカップ。
さっきまでの戦闘の緊張がようやく抜け、誰もが少しだけ現実に戻っていた。
「……掲示板だと、六階層から敵の強さが一気に上がるって書いてあったな」
悠馬が腕を組み、テーブル越しにぼそりとつぶやいた。
その声には、かすかな震えがあった。
だが、それを隠そうとするように視線は真っ直ぐだった。
俺――遼はパンをちぎりながら、肩をすくめる。
「正直、あてにならないと思うけどな。あの掲示板、誰でも書き込めるし。トロールも“全滅注意”って書いてたけど、結局あっさり倒せたじゃん」
「いや……あれ、俺……正直、死ぬかと思った」
悠馬の言葉に、手が止まる。
その瞳は俺たちを見ていない。
まるで、戦闘中に見た“何か”をまだ見続けているようだった。
「悠馬……無理してない?」
優奈が心配そうに眉を寄せる。
「……別に。怖いとか、そういうんじゃない。ただ、現実味があったっていうか……」
言葉を探すように、悠馬はテーブルの木目をじっと見つめた。
俺は少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「まあ、無理に潜る必要はない。次は休んでてもいいんだぞ。俺と優奈だけでも探索は進められる」
悠馬が顔を上げる。
その瞳の奥に、わずかな苛立ちと自嘲が混ざっていた。
「……考えておく」
短いその一言のあと、場に沈黙が落ちた。
ダンジョンの奥から響く遠い風の音だけが、静かに流れていた。
けれどその重さを、優奈がふっと壊した。
「じゃ、今日はここまででいいんじゃない? もう十分頑張ったし!」
ぱっと明るい笑顔を向け、俺の方に身を乗り出す。
「帰り道、ご褒美に駅前でアイスでも食べよ? ほら、期間限定のやつ出てたし!」
「お前、完全にデート気分だろ」
思わず笑いが漏れた。
「えっ!? ち、違うよっ! ご褒美って言っただけで! 変な意味ないからねっ!」
真っ赤になって手をぶんぶん振る優奈。
その動きが面白くて、思わず悠馬の方を見ると――彼は小さくため息をついていた。
「……ほんと、お前ら見てると現実感なくなるわ」
「はは、褒め言葉として受け取っとく」
俺は笑いながら立ち上がり、剣を背負い直す。
「帰るか。外の空気、久々に吸いたいし」
「賛成!」
優奈も元気よく頷いた。
悠馬も遅れて立ち上がり、ポータルの前に立つ。
青白い光がゆらめき、石床に模様を描いていた。
「……じゃあ、行くか」
俺たちは光に包まれた。
――瞬間、世界が裏返るような感覚。
重力が一瞬だけ消え、次の瞬間、足元に地の感触が戻ってきた。
「……ふぅ、やっぱり外の空気は違うな」
遼は思わず深呼吸した。
夕焼けに染まる街並み、遠くの喧騒。
ダンジョンの冷たい空気とはまるで別世界だ。
「おつかれさま! 今日すごかったね!」
優奈が笑顔で手を振る。
その表情は太陽みたいに明るくて、見ているだけで疲れが抜けていく。
「お前、ほんと元気だな。戦闘のときより声出てるぞ」
「そ、そんなことないもん! あっ、悠馬くんもお疲れ!」
「……あぁ、お疲れ」
悠馬は苦笑しながら答えた。
けれどその目は、どこか遠い。
彼の中で何かが変わってしまったのかもしれない――そんな予感がした。
「悠馬、無理すんなよ。次、ほんとにきつそうなら抜けてもいい。俺らがフォローするから」
「……うん。考えとく」
またその言葉。
だが、その声にはほんの少し迷いが減っていた。
(こいつなりに、答えを出そうとしてるのか……)
夕風が通り抜ける。
街のビルの隙間から、夜の灯りがちらほらと点り始めていた。
悠馬「じゃ、また連絡するな。明日は学校あるし」
「うん、またね!」
優奈が元気に手を振る。
悠馬は軽く頷いて、反対方向へ歩き出した。
その背中は少しだけ重く見えたが、それでも前に進んでいた。
――残された俺と優奈。
「ねえ、遼くん」
「ん?」
「悠馬くん……大丈夫かな」
「正直、分からん。けど、あいつは弱くない。戦いに慣れてないだけだ。きっと自分で立ち直る」
「……そっか」
優奈は小さく頷き、空を見上げた。
夜の端に、最初の星が瞬いていた。
「それに――」
「それに?」
「俺らが支えりゃいい。チームって、そういうもんだろ」
「うん、そうだね」
その言葉に、優奈はふっと笑った。
少しの沈黙。
そして、彼女は照れくさそうに呟いた。
「……じゃあ、ほんとにアイス食べよっか」
「お前、まだ言うかよ」
「いいじゃん! 頑張ったご褒美!」
その笑顔に、俺も結局笑わされる。
たぶん、こういう小さな時間が――戦う理由のひとつなんだろう。
街の灯りの中、俺たちは並んで歩き出した。
ビルのガラスに映る二人の姿が、少しだけ眩しく見えた。
(《アビリティジャック》……)
遼の心の奥で、あの力の波が静かにうごめく。
敵から奪い取る力。
まだ全容は分からないが、確かに自分の中で何かが変わり始めていた。
それは進化か、それとも歪みか。
分からない。
ただ、この力が――この仲間との旅を、確実に変えていく。
そして夜風が頬を撫でたとき、遼は静かに呟いた。
「……次も、負けない」
誰に向けた言葉でもなく、ただ自分の中に刻み込むように。
「うん。私も、負けないよ」
その横で、優奈がにっこりと笑った。
二人の声が重なった瞬間、遠くで電車の音が響いた。
街の喧騒の中、小さな約束だけが確かに残った。




