第41話 休憩所での真実
ゴブリンを倒してから、五時間が経った。
俺たちは三階層の中継地点――通称「休憩所」に到着していた。
転移陣に入った瞬間、空気が一変する。
重苦しい瘴気と湿った土の匂いが途切れ、目の前に広がったのは――まるで別世界のような光景だった。
白い天井、木目調の床、柔らかな照明。
観葉植物が置かれたその空間は、まるでビジネスホテルのラウンジそのものだ。
明るく清潔で、どこか落ち着く香りが漂っている。冷水機の音、パンの焼ける香ばしさ、カウンターに並んだ軽食。
ダンジョンの中とは思えないほど「日常」がそこにあった。
「……何度来ても、不思議な場所だよな」
俺は呟く。
「うん。でも、助かるね。ここに入っただけで、体の疲れがすっと抜けてく感じがする」
優奈がほっとしたように微笑む。頬に少し汗の跡が残っていて、それが逆にリアルだった。
「それに……あ、見て。クロワッサン、焼きたてだよ」
小さなトレーを手に、優奈は少女のように嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は少しだけ胸が温かくなる。ほんの数時間前まで、血と叫びに満ちた戦場にいたなんて信じられないほど、穏やかな時間だった。
――だが。
その空間の片隅で、ひとりだけ“現実”から戻れずにいる男がいた。
悠馬。
彼はテーブルに突っ伏し、深く俯いていた。
額にはうっすらと冷や汗。握った拳が震え、白くなっている。
「悠馬……大丈夫か?」
俺が声をかけると、彼はゆっくり顔を上げた。
その目には、戦闘中の光がまだ消えきっていない。
「……正直、まだ頭がぐるぐるしてる」
かすれた声だった。
『剣術強化』のスキルを持つ彼が、ゴブリンの一撃で致命傷を受けた――その事実が、彼の中でまだ整理できていないのだろう。
「……あの瞬間な。胸に刃が刺さったとき、心臓が凍ったみてぇだった」
悠馬は俯いたまま、手を見つめる。
「俺、本気で思ったんだ。あ、ここで終わるんだって」
静かな声。けれど、それが妙に重かった。
ラウンジの明るさが、かえって残酷に感じられる。
「……悠馬くん……」
優奈が小さく声を漏らす。
だが、悠馬はそれに微笑みで応えようとした。
口角を上げようとするが、うまく笑えない。まるで顔の筋肉の動かし方を忘れたみたいに。
「情けねぇよな。怖くてさ……死ぬのが。どんなにスキルがあっても、ああなったら……全部終わりだ」
俺は黙って聞いていた。
慰めの言葉を探そうとしても、どれも軽く聞こえそうで、口が動かなかった。
――俺が倒せたのは、偶然じゃない。
《アビリティジャック》の力。
敵の戦術を“奪い”自分のものにした結果だ。
けれど、それは同時に、悠馬との決定的な差を生み出してしまった。
「同じ人間のはずなのに」
その思いが、胸の奥で小さく刺さる。
沈黙を破ったのは、優奈だった。
「……でもね」
彼女はふっと笑った。
「遼くんは、本当にすごかったと思うよ。あんな状況で冷静に動けるなんて」
「すごいって……いや、俺、必死だっただけだよ」
「必死でも、それを結果にできたんでしょ?」
優奈はトレーを置き、ストローをくわえてアイスティーを一口。
「敵の技をそのままコピーして倒しちゃうなんて、もう“無双主人公”って感じだもん!」
「む、無双主人公って……」
苦笑しつつも、顔が熱くなる。
「そんな大げさなもんじゃ――」
「いやいや! 掲示板でも話題になってたじゃん。“下級ダンジョンでも死者続出”って。あの噂、きっとみんなびびって逃げただけだよ。遼くんがいたら……ほら、もはや“安全な冒険デート?」
「デ、デートって……!」
思わずむせた俺に、優奈は口元を押さえてくすくす笑う。
「ふふっ、冗談だってば。でも……そう思っちゃうくらい、安心したんだよ」
――その時だった。
「……」
悠馬の眉がわずかに動いた。
笑う優奈を、そして俺を交互に見て、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
小さな違和感が胸をかすめた。
ジュースの氷が、カラン、と音を立てる。
休憩所の空気は温かいはずなのに、妙に冷たく感じた。
「……ま、遼が強いのは認めるよ」
悠馬は無理に笑って言った。
「でもな、強いってのは、責任もついてくるってことだ。俺たちが頼る分、お前の負担も増える。わかってるのか?」
その言葉には、嫉妬でも皮肉でもない“本音”が滲んでいた。
だからこそ、痛かった。
「……わかってる。だからこそ、もっとちゃんと制御したい。この力……暴走したら、誰かを傷つける気がする」
俺の視線が、自然と手のひらに落ちる。
戦闘の最中、敵のスキルを奪った時――体の奥で何かが“軋んだ”感覚があった。
もしそれが人間相手だったら……?
考えた瞬間、背筋が冷たくなる。
「……ねえ」
優奈が静かに言った。
「ダンジョンは、階層を下りるほど精神に影響が出るって、知ってた?」
「え……?」
俺と悠馬が同時に顔を向ける。
「正式なデータじゃないけど、体験者の中には“幻聴が聞こえる”とか“自分の記憶が歪む”って話があるの。……遼くんのスキル、敵の思考や感覚を取り込むでしょ? たぶん、それも関係してる」
「……まじかよ、それ」
悠馬が眉をひそめる。
「つまり、遼が強くなるほど、精神的なリスクも上がるってことか?」
優奈は小さく頷いた。
「うん。でも――それでも、私は信じてるよ。遼くんなら、ちゃんと乗り越えられるって」
彼女の瞳は真っ直ぐで、曇りがなかった。
その視線を受けて、俺は何も言えなくなる。
信じてくれる人がいる。それだけで、怖さが少しだけ和らいだ。
――その一方で、悠馬は黙っていた。
表情は読めない。
ただ、手のひらに置いた剣の飾りを、じっと見つめていた。
「……なあ、俺たち、これからどうする?」
やがて悠馬が言う。
「このまま進むか、それとも一度帰還するか。三階層の先は“迷霧地帯”だろ。魔物のレベルも跳ね上がる」
優奈が俺を見る。
決断を、俺に委ねるように。
――こうして、いつの間にか俺が“中心”になっていた。
そのことに、少し戸惑いながらも、俺は言葉を探す。
「……行こう。今の俺たちなら、まだ進める」
言った瞬間、自分の声が少し震えていた。
だが、その震えを、優奈は優しく受け止めるように笑った。
「うん、遼くんがそう言うなら」
「はは……しゃーねぇな。次は俺がもっと前出る。お前に頼りっぱなしじゃ、男がすたる」
悠馬が笑い、空気が少しだけ和らぐ。
けれど、その笑みの奥に隠れた影を、俺は見逃さなかった。
休憩所の時計が、静かに時を刻む。
俺たちはそれぞれ、別々の思いを抱えながら、短い休息を過ごした。
優奈はスマホ端末をいじり、通信ログを確認している。
悠馬は剣を磨き、無言のまま呼吸を整える。
俺は、手のひらを見つめていた。
赤く淡い光が、まだ消えない。
それはまるで、俺に囁いているようだった。
――この力は、まだ“本当の姿”を見せていない。
気づかぬうちに、背筋が震える。
恐怖か、期待か、自分でもわからない。
「……よし」
俺は立ち上がる。
「もう少し休んだら、行こう」
「了解」悠馬が頷き、
「うん!」優奈が笑顔を見せる。
三人の声が重なった。
だがその響きの奥で、確かに何かが“ずれていく音”を、俺だけが聞いた気がした。
休憩所の扉をくぐる瞬間、俺は振り返った。
柔らかな照明の下、三つ並んだコップの氷が、同時に溶けていた。
その透明な水面に、三人の顔がぼやけて映っている。
けれどその像は、少しずつ形を変えていた。
(……この力が、俺たちをどう変えるのか。答えは、きっとすぐに出る)
心の奥でそう呟き、俺は前を向いた




