第35話 夜更けの探索者、始動
寮の自室は夜更けの静けさに包まれていた。
窓の外を走る車のライトが、しばしば壁に揺れる。
藤堂遼は布団の端に座り、スマホを片手に掲示板の画面をスクロールしている。
指先が震えるのは寒さのせいだけではない。
内臓のどこかが冷たくなっていくような、説明のつかない生々しい恐怖が胸の奥を締めつけていた。
検索ワードは、どれも縁起の良いものではない。
「ダンジョン 初心者」「探索者 生存率」「初心者向けダンジョン 危険」――。
一つ一つを眺めるたび、彼の心は小さな嵐に揉まれていく。
(だってよ……昨日まで普通の大学生だった俺が、今や探索者だ。死んだら元も子もねえだろ)
そう呟きながら、彼は無意識に掲示板のスレタイをタップした。
――【探索者スレ】みんな結局2〜3発くらったら死ぬよな【紙装甲】――
見出しから既に諦念が滲んでいる。
遼は条件反射で一番上の書き込みを読み飛ばす。
「探索者ってさ、結局どんなビルドでも2〜3発くらったら死ぬよな」
続くレスには笑いも、皮肉も、悲しみも一緒に載っていた。
耐久に振っても変わらない。
庁の講習ですら「被弾は三回以内に収めろ」と平然と教えているらしい。
スマホ越しに伝わるその文言は、砂鉄のように遼の中の希望を削っていく。
(……うそだろ?) と彼は思った。
だが、読み進めるごとに事態の深刻さは増す。
誰かのリークだとされる一行が画面に浮かんだ。
「庁は内部的に探索者の生存率を『2〜3回被弾で戦闘不能』前提で計算してる。保険会社とも提携済み」
その瞬間、遼の胃のあたりがぞわりと寒くなった。
計算される命。
保険で補強される損失。
皮肉の効いた世界だ。
笑うべきか、泣くべきか、怒るべきか。
彼の中の感情が高速で往復する。
だが、次の行に目が止まると、不思議と身体の奥で違うものがこみ上げた。
「でもさ、格上相手でも2発食らったら死ぬけど、2発当てれば倒せるってのはフェアっちゃフェアじゃね?」
(……フェア?)
遼の口から思わず声が漏れる。
確かにそうだ。
もしこちらも「当てる」力を持てば、化け物だろうと倒せるチャンスが生まれる。
死亡のリスクはあるが、同じルールが双方にかかっているなら、努力と工夫でその均衡を傾けられるかもしれない。
思考は不思議なことに、静かな勇気へと変わっていった。
(来たな、俺の舞台だ。紙装甲? 上等だ。避ける、当てる、それでいい。よし、やるぞ)
拳をぎゅっと握る。
ディスプレイ越しの無責任な書き込み群が逆に彼の背中を押した。
闘争心がふつふつと湧き上がり、胸が高鳴る。
彼は訓練の机上理論だけでは埋まらない“実戦”という現場へ身を投じるべきだと、静かに決めた。
「訓練だけじゃダメだ。実戦で経験を積まないと、ホントに死ぬ」
そう口に出してみると、言葉には力が宿る気がした。
だが、実戦といっても一人で出て行くのは自殺行為だ。
掲示板に書かれているのは“傾向”であって、彼らがどうやって生き延びているかは書かれていなかった。
そこで必要になるのが、仲間と作る戦術だ。
彼はスマホの検索窓に手を伸ばし、懸命に情報を漁った。
初級ダンジョンの名称、かつての攻略ログ、死亡例の記録。
スライム洞、初心者の森、色とりどりの名前が並ぶが、どれも“初心者向け”という但し書きと現実が乖離している。
毒のスライムに一撃で行動不能になった例、油断した隙を突かれて多数の犠牲が出た例。
読み進めるたびに、自分の甘さを噛みしめる。
(初心者向けっていうだけで安全なわけじゃない。なら、仲間でカバーして、役割分担して、確率を少しでも上げるしかない)
仲間といえば、候補は何人かいる。
香坂真琴は、彼女に直接頼むにはまだ向き合い方がぎこちない。
白石玲奈は優しくて頼れるが、彼女を頼れば真琴との距離に問題が出るかもしれない。
そこで遼は自然に、水瀬優奈の名を口に出していた。
「水瀬優奈……」
彼女はほんわかした雰囲気と天性の気遣いがあり、パーティの潤滑油になってくれる。
遼は連絡先を探し、緊張を抑えながら通話ボタンを押す。
コール音が数回鳴り、受話口から柔らかな声が返ってきた。
「もしもし、藤堂くん? どうしたの?」
(ああ、声だけで回復するタイプ……)
遼は思わず笑ってしまい、気まずい。
だがすぐに本題へ戻る。
訓練の話、ダンジョン攻略の話、リスクの話。
優奈は最初、何かと勘違いをしていた。
彼の誘いは、電話の向こうで“デート”とのコンボに転がっていってしまう。
遼の「ス〇バで話さない?」は、不可避に可愛い勘違いを生んだ。
「ス〇バ、行く!」
優奈の返事はやや慌てつつも快諾だった。
遼は驚きながらも胸の隅がふわりと温かくなるのを感じる。
作戦会議が、いつの間にかデート風に見えるのは彼らしくてしょうがない。
この世界は常にギャグと死の恐怖を同居させる。遼は笑ってしまった。
通話を切った後の静けさの中で、彼は息をつき、次にかける相手を思う。
神田悠馬。
彼は頼りになる筋肉担当で、ノリが良く、戦闘の最前線で動ける。
遼はスマホを再び手に取り、連絡先の「神田」をタップしようとした瞬間、あらためて胸の中で小さな誓いを呟く。
「……よし、次は神田悠馬に電話だ」
声に出してみると不思議と気分が引き締まる。
彼はこれからパーティ全員を集め、作戦を練る。
訓練と情報収集だけでなく、役割分担、回避の練習、救助行動の想定、そして“当たらなければ死なない”ための連携だ。
掲示板は冷酷だが、そこから教訓を引き出し、実践に繋げれば、生き残る確率は上がるはずだ。
「待っていてくれ、みんな。俺がなんとかする。まずは訓練で動けるようになって、真琴先輩に頼めるくらいまで成長する」
その言葉は自分への宣言でもあり、仲間への誓いでもある。
彼の声は静かだが、硬い意思が滲んでいた。
スマホのスクリーンに映る自分の顔は、寝不足と緊張でやつれていたが、それでもどこか亮とした光が差しているように見えた。
窓の外、街灯がぼんやりとしたオレンジの輪郭を描いている。
遼はその光景をしばらく眺めながら、ルナストーンを取り出して掌に置いた。
冷たい石の重みは、現実の象徴だ。
金で買った武器も、名を成すことも、自分の命を犠牲にしてまではいけない。
まずは自分が頼りにされる存在になること。
真琴先輩に「この子なら」と言わせられるだけの腕を身につけること。
彼は息を吐き、スマホをテーブルに置いた。
部屋の時計は深夜を指している。
明日は長い一日になるだろう。
遼の目には、眠気よりも興奮が勝っていた。
恐怖と希望は紙一重だ。
掲示板の無情な真理は彼を震えさせたが、同時に燃えるような挑戦心を与えた。
「よし、次は神田悠馬に電話だ」
彼は自分に向けてもう一度言葉を繰り返した。
はっきりとした口調で、確実に。
これが彼の“主人公補正”の発動条件であるならば、今日という日はそのボタンを押す前の深呼吸になる。
ベッドに倒れ込み、遼は目を閉じた。
部屋の天井に、掲示板の文字列がちらつく。
そこには恐怖も絶望もあったが、同時に“何とかなるかもしれない”という妙な可能性もあった。
彼は小さく笑って、自分の胸に手を当てた。
「待っていてくれ、香坂真琴。俺、強くなって、もう一度——いい武器屋を紹介してもらえるくらいにして、またお願いしに行くから」
その言葉を心の中で三度繰り返すと、遼はようやく安らかな呼吸を迎えた。
深夜の静寂が、彼の決意を柔らかく包み込む。
外の世界はまだ騒がしいままだが、彼の内面には新しい小さな灯がともっていた。




