第34話 夜の静寂と、ひとつの投稿
深夜一時。
時計の針が小さく音を立てるたび、部屋の空気が少しずつ冷えていく気がした。
シャワーを浴びたばかりの髪はまだ乾ききっておらず、首筋に触れるたびに冷たい。
水瀬 優奈はその感触を確かめるように髪をかき上げ、ため息を一つこぼした。
机の上には冷めた紅茶。
カップのふちに残る小さな輪が、時間の経過を静かに語っている。
(……眠れないや)
テレビを消したままの部屋には、音がほとんどなかった。
ただ、ベランダの外から風の音と、遠くで走る車のタイヤ音がかすかに届く。
戦いの翌日。
街は、何事もなかったかのように動き始めていた。
だけど彼女の中では、まだ“昨日”が終わっていなかった。
「……みんな、強かったな」
独り言のように口にした声が、薄闇の中に溶けていく。
目を閉じると、あの日の光景が蘇る。
閃光、爆風、叫び。
仲間の笑顔。
そして――沈黙。
(どうして、私だけ……)
その言葉は、口の中で形を作りながら、声にはならなかった。
戦いの最中、誰かが笑って言った。
「優奈、次はお前の番だぞ」
あの軽口が、いまになって胸の奥を締めつける。
(……ずるいよ。そんな風に笑って、いなくなるなんて)
机の端でスマホが震えた。
光る画面に、見慣れたアプリのアイコン。
SNSの通知がいくつも積み重なっている。
優奈はそれを開き、ぼんやりとタイムラインを眺めた。
ディスプレイに映るSNSのタイムラインは、まだ戦いの記録や噂で埋まっている。
「第八層の崩落」「ギルド隊壊滅」「英雄たちの最期」――どの言葉も、もう実感として胸に届かない。
優奈は指を止めたまま、画面を見つめていた。
カーソルが瞬くたびに、空白のコメント欄が小さく呼吸しているようだった。
――投稿、できない。
文字にした瞬間、すべてが終わってしまう気がした。
深呼吸をして、ベランダに出る。
夜風が肌を撫で、月光が静かに頬を照らした。
ここは地上。
あのダンジョンの、どこまでも続く闇とは違う。
けれど……なぜか息苦しかった。
【#再建作戦成功】
【#あの日の英雄たち】
【#優奈ちゃんありがとう】
無数の投稿が流れていく。
“感謝”“希望”“勇気”――そんな言葉が並ぶたびに、胸の奥で何かが軋んだ。
(……違うのに)
彼女の指が震える。
画面に映る自分の名前が、他人のように感じた。
「英雄、なんかじゃないよ……」 小さく呟いて、スマホを伏せた。
「……玲央、見てる?」
つぶやいた声は夜気に溶けた。
スマホの画面に残る、玲央との最後のメッセージ。
「帰ったら話そう」と送られたまま、未読のままだ。
思い出しただけで、胸が痛む。
彼女の声。
乾いた笑い方。
そして戦場で交わした、何気ない言葉。
「優奈。あんた、怖いくせに前に出るでしょ。」
「だって、後ろに玲央がいると安心するんだもん。」
「……はぁ。そういうの、ズルい。」
――あの時、笑っていたのに。
最後に見た玲央の顔は、血と灰に覆われていた。
彼女は崩れ落ちる瓦礫の中で、優奈を押し出した。
「行け」って、笑って。
あの笑顔が、まだ焼き付いて離れない。
優奈はベランダの手すりに指をかける。
冷たさが指先を刺した。
その感覚で、やっと“生きている”と分かる。
「……なんで、私だけ」
口に出すと、涙が落ちた。
泣くことすら久しく忘れていた。
仲間の死体を越えて進むことが“日常”だったから。
でも、玲央がいない世界は――空白のノイズみたいに静かすぎる。
スマホを開く。
トーク画面に指が伸びて、震えた。
優奈:ねぇ、起きてる?
(送信)
数秒。
もちろん、既読はつかない。
わかってる。
それでも――送らずにいられなかった。
部屋の奥で、風鈴が小さく鳴った。
その音に合わせるように、記憶の底から声が浮かぶ。
「優奈、もしさ、私たちが全員消えたらどうする?」
「やだ、縁起でもないよ。」
「……でも考えとけ。残るのは、どっちか一人だけかも。」
「そんなの、考えたくない。」
「だよね。」
軽い口調。
でも本当は、彼女の方が一番現実的だった。
戦場を知っていた。
だからこそ、優奈を守った。
夜風が髪を揺らす。
星は少なく、曇り空の向こうでぼんやりと光っていた。
「玲央、あのとき……何を思ってたの?」
自問しても答えは返らない。
だけど、胸の奥のどこかで、彼女の声が聞こえる気がした。
「泣くな、優奈。ちゃんと生きろ。」
――そんな言葉を、本当に言われたように感じた。
優奈は目を閉じた。
まぶたの裏に、仲間たちの顔が浮かぶ。
笑っていた日々、休憩所での冗談、疲れた夜の小競り合い。
そして最後の戦闘。
炎と轟音の中で、みんなが一斉に散っていった。
「……ごめんね。私、守れなかった」
息が震えた。
謝罪は風に溶けて消えた。
けれどその代わりに、胸の奥で小さな灯がともる。
玲央の声が、微かに笑っていた気がした。
「謝るなって。次に行け。」
優奈はスマホの画面を開いたまま、投稿欄に指を置いた。
『――第八層戦闘終了。みんな、お疲れさま。
生き残ったのは私ひとりです。
でも、それは“奇跡”じゃなく、“約束”だと思っています。
あの子たちのために、まだ書く。まだ進む。』
カーソルが止まる。
迷いながら、最後にもう一文を足した。
『玲央。あなたがくれた“生きる理由”を、私は忘れない。』
投稿ボタンを押す。
画面が一瞬光り、タイムラインに文章が流れた。
たったそれだけの行為で、胸の中の何かが少しだけ軽くなる。
涙が頬を伝って、風に冷やされた。
ベランダから見上げると、雲の切れ間に星が一つだけ光っていた。
その星の名前を、優奈は知っていた。
――玲央が好きだった星。
「これ、冷たいけど綺麗だよな」って、よく言ってた。
「……あんたの言葉、ちゃんと届いたよ」
そうつぶやいて、優奈は両手を胸の前で重ねた。
指先にはまだ、玲央の手の温もりの幻が残っている。
それを確かめるように、ゆっくりと目を閉じた。
風が吹く。
夜がやさしく彼女を包む。
そしてそのまま、独白が祈りに変わっていく。
「――次は、私が守る番だよ」
夜が明け始める。
窓の外がうっすらと白み、ビルの影が輪郭を取り戻す。
世界は、まるで何事もなかったように動き出す。
けれど優奈の中では、確かに何かが変わった。
痛みは消えない。
けれど、もう“痛みを抱えている自分”を嫌いにはならなかった。
スマホの画面が光る。
メッセージ通知。
そこには、ギルドのシステムアカウントから届いた簡素な文面。
【メンバー:玲央=カミシロ 死亡確認ログ 削除完了】
優奈は一瞬、息を止めた。
けれど、やがて微笑んだ。
「ありがとう」って、そっと呟いた。
玲央のログが消えても――
記憶は、彼女の中に生き続ける。
夜明けの光が部屋を照らす。
机の上のノートには、書きかけの言葉が並んでいた。
『今日も、生きる。彼女たちのぶんまで。』
優奈はペンを握り、静かに微笑んだ。
風がカーテンを揺らす。
遠くで鳥の声が聞こえる。
世界がもう一度、息を吹き返すように。
――そして、彼女は再び“現実”へ歩き出す。
それが、亡き仲間たちへの最初の贈り物だった。




