第32話 断片の声と、オレンジの街
午後四時、大学キャンパスの廊下には、西日が長く差し込んでいた。
磨き上げられた床に三人の影が伸び、重なり、そして微妙にずれている。
遼はその中央で、汗をにじませながら立っていた。
向かって右、真琴。左、亜里沙。
二人の間に挟まれる形だ。空気が――張り詰めている。
「……えっと、その……」
声を絞り出すと、真琴がファイルを腕に抱えたまま、微笑を浮かべた。
だがその笑みには、どこか探るような冷たさがあった。
「別に深い話じゃないわ。探索庁の追加資料を渡したかっただけ。数分で済む」
「じゃあ私も一緒に行く」
即答する亜里沙。
「資料は探索者用。庁の認証が必要だから……関係者以外は立ち入り禁止よ」
真琴がやんわりと釘を刺す。
「っ……」
亜里沙の表情に悔しさが走る。
(……やめてくれ、俺に選ばせないでくれ)
遼は心の中で叫んだが、結局流れに押されるように真琴と歩き出してしまった。
背中に亜里沙の刺すような視線を感じながら。
キャンパスの北棟。
その一角に、探索庁と大学が共同運営する研究ラボがある。
金属製の扉の横には、庁の紋章が刻まれたパネル。
真琴がカードキーをかざすと、電子音とともにロックが外れた。
「入って」
真琴が言い、遼はおそるおそる足を踏み入れる。
室内はひんやりとしており、机の上には厚いファイルが積まれていた。
真琴はそのひとつを手に取り、遼に差し出す。
「これは最新の探索庁マニュアル。昨日の研修内容を補完してる。特に“異常反応”については必ず読んでおいたほうがいい」
「異常反応?」
「……ダンジョンの中で、説明のつかない現象が記録されているの。モンスターの異常進化、通信妨害、そして――」
言葉を切り、真琴は遼の目を真っ直ぐに見た。
「“声”を聞いた、って報告もある」
遼の胸がざわめく。
脳裏に、黒い穴の奥から響いた不快なノイズのような囁きが蘇る。
「……あれ、やっぱり俺だけじゃなかったのか」
「ええ。ただ、表向きはまだ“調査中”ってことにされてる」
真琴は低い声で続ける。
「遼。あなたは無関係じゃない。もしまた“声”を聞いたら、必ず私に伝えて」
彼女の眼差しは真剣そのものだった。
(……こんなふうに頼られるなんて)
遼は言葉を失ったまま、ファイルを受け取る。
資料室を出ると、そこには亜里沙が立っていた。
夕陽の逆光に包まれ、シルエットが炎のように揺れる。
両手を胸の前で組み、じっと二人を見ていた。
「……やっぱり一緒にいたんだ」
低く呟く声に、遼は背筋を凍らせた。
「亜里沙、これは探索庁の――」
「分かってるよ。私は関係ないんでしょ」
唇を噛む。悔しさと孤独が混じった顔だった。
「でもね、遼。関係ないって言われても……私、
あんたのこと放っておけない」
真琴がわずかに眉を寄せる。
「あなたが探索者登録した理由……それが彼を守るためなら、無謀すぎる」
「無謀でもいい!」
亜里沙の声が廊下に響いた。
「私は……遼と一緒にいたい。それだけ」
廊下に響く声が、静寂を切り裂いた。
真琴の視線が鋭くなる。
遼の胸が痛む。
(俺を守る? 逆だ……俺が、守らなきゃいけないのに)
遼は二人の間に立ち、息を吐いた。
「……やめてくれ、今は喧嘩する時じゃない」
「じゃあいつ話すの?」
亜里沙が詰め寄る。
「遼がどんどん遠くに行ってる。庁だの、共鳴者だの……。
ねぇ、何それ? 私にはもう、何も話してくれないの?」
「……ごめん」
その一言しか出なかった。
結局、その日は三人一緒に校門を出ることになった。
空は茜色に染まり、ビルの間に沈みゆく夕日が眩しい。
「……仲良しね」
真琴が少しだけ皮肉を込めて言う。
「そうだよ。私と遼はずっと一緒に育ったんだから」
亜里沙は胸を張る。
「……でも、これからはどうかしらね」
真琴の視線が遼に向く。
意味深な言葉に、亜里沙の顔が赤くなる。
「なっ……!」
亜里沙の顔が真っ赤になる。
「や、やめろって二人とも……!」
遼は慌てて手を振った。
だが二人の間に漂う火花は、夕暮れの風にかき消されることなく、確実に燃え広がっていた。
校門を出た三人は、それぞれの家へ向かう道を歩き出した。
沈みゆく夕日が街を橙色に染め、長い影がアスファルトに並ぶ。
だが、三人の歩調はどこかぎこちなかった。
「……今日はここまでね」
真琴が淡々と声を落とす。
「研修の復習は忘れないで。遼、あのファイルは本当に役立つはずだから」
「……ああ」
遼は頷き、肩に下げたバッグを握りしめた。
「それじゃ、また明日」
真琴は軽く手を振り、反対方向へと歩み去る。
黒髪のポニーテールが夕風に揺れ、すぐに人混みに紛れて見えなくなった。
亜里沙はそれを見送ってから、横目で遼をにらむ。
「……ねえ」
残された亜里沙が、ぽつりと呟いた。
「な、なんだよ」
「真琴さんと……二人で会ってたんでしょ。あの資料室で」
「違うって! いや、違わないけど……仕事の話だ。探索庁の追加資料で――」
「ふぅん……」
亜里沙はぷいっと顔を背けた。
唇をとがらせているが、どこか子どもっぽいその仕草に、遼は思わず苦笑する。
「本当にそれだけなんだって」
「……信じてるよ。でも、ちょっと心配なんだ。だって遼、変なことに巻き込まれがちだし」
「……お前に言われるとな」
遼は肩をすくめた。
二人は並んで住宅街を歩いた。
街灯が灯り始め、夜の気配が広がっていく。
「ねえ、アイス食べて帰らない?」
亜里沙が指差したのは、商店街の古びたコンビニだった。
「……子どもかよ」
「いいじゃん、たまには」
亜里沙は笑って走り出す。
仕方なく遼も後を追い、二人でアイスを買った。 ベンチに腰を下ろし、冷たい甘さを味わいながら、ふと遼は思う。
(……こういう時間が、一番落ち着くな)
ダンジョンの中で感じる恐怖も、“声”の記憶も、今だけは遠くに霞んでいく。
「ねぇ、遼」
亜里沙がアイスの棒をくわえながら、不意に言った。
「ん?」
「負けたくない。どっちが“彼を支える”か、ちゃんと分からせる」
その瞳はまっすぐで、涙を含んでいた。
遼は小さく笑い、肩をすくめた。
「……ほんと、お前は昔から負けず嫌いだな」
「でも……ありがとな」
遼は照れくさそうに笑う。
胸の奥が、妙に温かかった。
寮のベッドに倒れ込み、遼は深い息をついた。
机の上には真琴から渡されたファイル。
ページを開くと、そこには赤字でこう記されていた。
【異常反応:未確認音声】
内容:断片的な言語。日本語に類似するが意味不明。
報告者:探索者複数名。
状況:精神干渉の可能性あり。要注意。
(やっぱり……俺が聞いたのと同じだ)
ページを閉じ、天井を見上げる。
真琴の真剣な眼差し。
亜里沙の必死な言葉。
二人の姿が交互に浮かび、胸が締め付けられる。
「……どうすりゃいいんだ、俺」
窓の外には都会の夜景が広がり、遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。
その音が、日常と非日常の境界を曖昧にしていく。




