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第9話 心に問いかける、静寂の月見うどん

 天童教授の件を経て、ゆうの修行は次の段階へ進んだ。

 伊織の料理は、単なる栄養や満足ではなく、客の「魂の定義」を書き換える力を持っている。

 しかし、その力はどこから来るのか。結には、最も根本的な疑問が残っていた。


 その日の賄いを終え、結は思い切って伊織に尋ねた。


「伊織さん。すみません、ずっと気になっていたことです。なぜ、この店にはメニューがないのですか? 料理の道筋を示す設計図がなければ、どうやってその日の『正解』にたどり着くんですか?」


 結の問いは、フレンチの厨房で徹底的に叩き込まれた「計画とロジック」に基づいていた。

 メニューは、客との約束であり、料理人の技術を保証するものだ。

 それが存在しないことは、結にとって、航海図のない船に乗るのと同じくらい不安だった。


 伊織は、湯飲みを静かに持ち上げ、一口すする。

 その視線は、結ではなく、店内のどこか遠くを見つめているようだった。


「メニューか…それは、答えをあらかじめ用意しておくということだ」


「はい。客はそれを求めています」


「客が求めているもの、とな?…結よ。あんたは、誰かの過去の答えを客に与えたいのか? それとも、客自身の未来の問いを、自ら見つけ出してほしいのか?」


 伊織はそこで結の目を見つめ、静かに答えた。


「メニューは、客の心を『選択肢』で縛る。この店には、客の心と向き合うこと以外、一切の障壁は不要だ。あんたの心に訊け。客の心に訊け。『今日、あんたが本当に食べるべきものは何だ?』と」


 その言葉は、まるで禅問答のようだった。

 結は、この「心に訊け」という曖昧で、しかし重い宿題をどう受け止めるべきか分からなかった。


 伊織は、その日の賄いとして、「静寂の月見うどん」を準備し始めた。


 うどんは、伊織が早朝から打っていたものだった。

 小麦粉と塩水を混ぜた生地を、布に包んで体重をかけながら丁寧に踏み込み、その沈黙の圧力で麺のコシを育む。

 麺棒で延ばす際は、手のひらの熱が伝わらないよう細心の注意が払われ、切り出された麺は、角が立ち、断面が整った均一な美しさを誇っていた。


 出汁の準備は、その静寂の核心だった。

 伊織は、最高級の利尻昆布を水に浸す時間を秒単位で調整し、火を入れるか入れないかの瀬戸際で旨味を静かに抽出した。

 追い鰹には、その場で削りたての薄い鰹節が使われた。

 それを煮立たせるのではなく、熱湯に一瞬だけ潜らせ、すぐに引き上げる。

 こうすることで、鰹節の持つ雑味や酸味を排し、清澄で雑味のない、透明な琥珀色の出汁が生まれた。

 その香りは力強い旨味ではなく、静かに、しかし深く、意識の奥底に語りかける透明感を追求していた。


 伊織は、茹で上がったうどんを、素早く氷水で締め、麺の表面に残るぬめりを完全に洗い流した。

 その結果、表面は艶やかに、芯は引き締まった強いコシを持つ。


 結は、伊織に尋ねた。

「具材は、ネギと、卵だけですか? 揚げ玉や肉は?」


「客の心には、時に『余白』が必要だ。揚げ玉は、余計なざわめき。肉は、強すぎる主張だ。今日、あんたに必要なのは、静かに自分と向き合う時間だ」


 伊織は、少し深さのある陶器の鉢に、うどんを均一な渦を巻くように美しく盛り付け、温めた出汁を静かに注ぐ。

 出汁は、うどんの表面を優しく覆い、湯気は、まるで心を落ち着かせるもやのように立ち上る。


 そして、新鮮な卵の黄身だけを、箸で丁寧に白身から分離し、うどんの中心の最も静かな場所にそっと、静かに落とした。

 鮮やかな黄色の円は、漆黒の夜空に浮かぶ満月のようだった。

 その黄身の周囲には、細く繊細に刻まれた青ネギと、海苔の糸が、夜の山の輪郭のように、わずかな色彩と香りを添えるだけだった。


 結は、その月見うどんを見た。それは、完璧な円と、澄んだ透明な空間で構成された、一つの「小宇宙」のようだった。


「召し上がれ」伊織が言った。


 結は、箸を静かに持ち、まず出汁を一口飲んだ。


(……静かだ)


 出汁は、舌の上で主張しすぎることなく、しかし、全身の細胞に深く浸透していくような、滋味深い味わいだった。

 それは、雑念を洗い流し、思考を無色透明にする力を持っていた。


 次に、うどんをすする。

 つるりとした表面は舌を滑り、噛むと力強くも優しい弾力を返す。

 そして、生卵の黄身を崩し、うどんに絡めた。黄身の濃厚なまろやかさが、それまで静寂だった出汁にわずかなざわめきを与える。

 それは、結自身の心に、かすかに芽生え始めた希望のようだった。


 結は、月見うどんを食べ進めるうちに、伊織の言葉の真意を悟り始めた。


 このメニューのない店で、伊織が毎回客に出す料理は、客自身が心の奥底で無意識に求めている「答え」を、伊織が食材と調理を通じて「翻訳」しているのではないか。


 メニューは、その翻訳の過程を邪魔する「既成の概念」だ。

 伊織は、結に、技術やレシピではなく、客の心という「原典」を、メニューというフィルターを通さずに読み解く力をつけさせようとしているのだ。


 結は、全てを食べ終え、器に残った最後の出汁を飲み干した。


「伊織さん。私……分かりました。この店は、客の『心』をメニューにする店なんですね」

 伊織は、静かに頷いた。

 その笑顔は、結の成長を認める、師の優しい笑みだった。

 結は、再び、フレンチの完璧主義という重い鎖から、一つ解放されたのを感じた。

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