第8話 固定観念を壊す「失敗」の色彩
ハーブティーとスコーンの一件以来、結は伊織の料理を、単なる味覚の充足ではなく、客の人生における「定義」を書き換える行為だと捉えるようになった。
客の迷いを断ち切らせ、新しい一歩を踏み出す勇気を与える。それは、フレンチの世界で結が追い求めていた「完璧な皿」よりも、はるかに大きく、尊い力だった。
その日の正午、店の扉を開けて入ってきたのは、常連客の一人である老教授・天童だった。
天童は、近隣の大学で長年、厳格な論理哲学を教えている。
彼は、黒いスーツに身を包み、常に背筋を伸ばし、その存在自体が「固定観念」と「秩序」の権化のようだった。
彼は、常にカウンターの隅の席に座り、結が出す水一つにも「この水の温度は、胃の蠕動運動を妨げる。論理的ではない」と、常に批判的な視線を向けていた。
彼の注文はいつも決まっていた。
「鯛の塩焼きと、味噌汁、白米。一切の副菜は不要」
それは、彼自身の哲学のようで、「純粋で、無駄がなく、本質的なものだけ」を求める、厳格な構成だった。
彼は食事中も、分厚い哲学の専門書を広げ、常にその体系の論理的整合性を確かめている。
彼の世界には、曖昧さや感情が入り込む隙は微塵もなかった。
この日も天童はいつもの席に座り、結に出されたお冷に「水の粒子構造が……」と文句をつけ始めた。
伊織は、天童が広げた哲学書に一瞥をくれ、結に静かに声をかけた。
「結。今日の料理は、固定観念を壊すための、奇妙な色彩の野菜炒めだ」
結は驚いた。
「野菜炒めですか。彩りが良いものを選びましょうか?」
「いいや。彼の哲学は、あまりに色彩が美しい。まるで、完璧に配置された絵画のようだ。だが、その美しさゆえに、『異端な色』や『論理の外側』にあるものを、全て排除している。今日は、その完璧な色彩の調和を、あえて破壊する」
伊織が用意したのは、パプリカの鮮やかな赤と黄、ピーマンの緑、そして紫キャベツの紫という、一見すると完璧なコントラストを成すはずの野菜たちだった。
結は、これらをどう調理して「固定観念」を壊すのか、見当もつかなかった。
「今日の課題は、『失敗の色』を恐れるな、だ」
伊織は、通常ではありえない手順で調理を始めた。
まず、中華鍋を極限まで熱し、油が煙を上げ、金属が悲鳴を上げるような高温にした。
最初に、千切りにした紫キャベツが投じられる。
勢いよく跳ねるキャベツに、伊織は調理用アルコールではなく少量の重曹を溶かした水を振りかける。
紫キャベツは、アルカリ性の重曹に触れた瞬間、本来の鮮やかで高貴な紫を瞬時に失い、どぎつく、濁った「青緑色」に激変した。
それは、料理人にとって「失敗」を意味する、異様な、食欲を減退させる色だった。
その色に反して、立ち上る湯気からは、キャベツの持つ力強い生命力のような、甘く香ばしい匂いが漂っていた。
結は、その視覚と嗅覚の矛盾に思わず息を飲んだ。
「その青緑こそが、彼が論文から排除してきた『説明のつかない例外』の色だ。定義から外れるが、生命はそこにある」
次に、分厚く切られたパプリカが投入される。
伊織は、鮮やかな赤と黄色のパプリカを、通常よりもはるかに長い時間、強火で炒めた。
シャキシャキ感を残すべき野菜が、熱に負けてフニャリとし始め、細胞壁が崩壊していく。
鮮やかな赤は、加熱によるメイラード反応によってくすんだ濃い茶色へと近付いた。
その色には、論理的な美しさは一切なかったが、熱によって糖分が極限まで凝縮され、粘り気を持つほどの濃厚な甘みが生まれていた。
さらに伊織は、ピーマンの半分はサッと表面を撫でる程度で火を止め、青々とした苦味とパリッとした食感を残す。
一方、もう半分は、わざと中華鍋の鍋肌に押し付け、黒い焦げ目を深くつけ、強烈な苦味とクタッとした柔らかさを生じさせた。
最後に、これらを一つの皿に盛り付ける。
完成した野菜炒めは、まさに「色彩の不協和音」だった。
青緑色のキャベツ、くすんだ茶色のパプリカ、そして、食感と火の通りがバラバラのピーマン。
視覚的な美しさは完全に失われ、まるで調理途中で投げ出されたかのような、極めて「不完全」な一皿だった。
伊織は、その野菜炒めを、いつもの鯛の塩焼き定食の代わりに、天童教授のカウンターに静かに置いた。
「本日の料理です。固定観念を壊すための、野菜炒め」
天童教授は、広げていた哲学書から顔を上げた。
皿を見た瞬間、彼の厳格な表情が激しく歪んだ。眉間の皺が、これ以上ないほど深く刻まれた。
「これは……何だ? この色彩の崩壊は!調理の定義を満たさない!私の知る『調和』も『論理』も、この皿には存在しない!」
彼は激昂し、黒いスーツの袖が汚れるのを恐れながら、箸を掴んだ手を微かに震わせた。
論理的な世界に生きる彼にとって、この皿は無秩序な混沌であり、生理的な拒絶反応すら覚えていた。
しかし、伊織の静かな、全てを見透かすような目に射抜かれ、彼は箸を置くことができなかった。
教授は、まるで毒見をするかのように、一番異様な色をした青緑色のキャベツを恐る恐る口に運んだ。
その瞬間、彼の顔が一変した。
口の中で、青緑色のキャベツは、フニャリとした予想外の柔らかさと共に、微かな重曹の苦味を感じさせた。
それは、彼が嫌悪する「不確定性」の味だった。
論理のフレームワークから弾き出される、説明不能な苦さ。
だが、その直後、焦げ目がついたピーマンの強い苦味が、その不確定な苦味を包み込み、そして次に口にしたくすんだ茶色のパプリカの、熱で極限まで凝縮された濃厚な甘みが、すべての苦味を「生命の滋味」へと昇華させた。
この甘さは、計算されたものではなく、熱という偶然の力が生み出した、理屈を超えた豊かさだった。
教授は、次の瞬間、食感の矛盾に襲われた。舌の上で、半分はシャキシャキとした「活きている」食感。
半分はクタッと柔らかい「命が尽きた」食感。
この同時に存在する矛盾こそが、彼が半生をかけて排除しようとしてきた世界の不完全性そのものだった。
(論理が崩壊している……!だが、不快ではない……!)
天童教授の脳裏に、自身の学問的体系で「異端」として切り捨てた、説明のつかない哲学的な事例や、論理的整合性を欠く「感情」の領域が、フラッシュバックのように蘇った。
彼は長年、完璧な体系を愛し、その外側の混沌を拒否してきた。
しかし、この視覚的には「失敗」したはずの料理は、味覚においては、論理の枠を超えた、力強い「本質」を訴えかけてくる。
天童教授は、もはや箸を止めなかった。もはや論理的な分析は不可能だった。
彼は、矛盾と混沌を受け入れるように、無言で野菜炒めを食べ進めた。
この一皿は、彼にとって「論理の敗北」であり、「生命の勝利」だった。
彼は、皿に残った最後の青緑色のキャベツの破片を、まるで新しい真理の断片を拾い上げるかのように、丁寧に箸で拾い上げ、口に含んだ。
食べ終えた後、彼は静かにグラスを置いた。
そして、伊織と結に向かって、深く、しかし静かな声で問いかけた。
「料理とは……定義を覆すものか」
伊織は、いつもの穏やかな笑みで答えた。
「料理は、生きている間は、常に作りかけですよ。先生の思想も、また」
天童教授は、ゆっくりと頷き、小さな、しかし確固たる決意の息を吐いた。
彼は、いつもはテーブルに広げたままにする哲学書を、両手で静かに閉じ、鞄の奥底にしまった。
彼の固定観念という名の「鎧」が、この奇妙な色彩の野菜炒めによって、音を立てて崩れ始めた瞬間だった。
結は、伊織の料理が、人の哲学さえも塗り替えるその圧倒的な力に、改めて畏敬の念を抱くのだった。