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第7話 迷いを断ち切る、清々しいハーブティーとスコーン

 キノコのポタージュの一件以来、ゆうは料理の持つ力を、過去の傷を癒す薬としてだけでなく、未来の扉を開ける鍵としても捉え始めていた。

 伊織の即興料理は、単なる客の好物の再現ではなく、「今、客が下すべき決断」を指し示す羅針盤なのだ。


 ある雪のちらつく午後、店に現れたのは、20代後半の女性客だった。

 彼女は、明るい色のニットと濃いグレーのスカートを履いていたが、その服装はどこかちぐはぐで、配色に迷いがあるように見えた。

 カウンターに座るなり、彼女はすぐにスマートフォンを取り出し、何度も画面を開いては閉じ、特定のメッセージを消すか残すかを延々と迷っている様子だった。

 その指先には、小さなダイヤの指輪が光っているが、彼女の指はカウンターの下で、まるで自らの心の鼓動を数えるように、一秒ごとに軽く震えていた。


 恋愛の悩み。


 それは、彼女の顔に刻まれた疲弊と焦燥感となって、結の目にはっきり映った。


 伊織は、その指輪と、彼女が何度も開閉するスマートフォンの画面を一瞥し、静かに結に言った。


「結。今日のまかないは、迷いを断ち切るためのハーブティーとスコーンだ」


「ハーブティーとスコーン、ですか?」


 結は首を傾げた。

 温かい料理ではない。

「断ち切る」という行為に、なぜ素朴な焼き菓子と飲み物なのか。


「彼女は、関係の淀みに囚われている。過去の甘い記憶と、今の曖昧な現実が混ざり合い、身動きが取れなくなっている。必要なのは、重い食事で蓋をすることではなく、淀みを洗い流し、清々しい空気を入れることだ」


 伊織の言葉に従い、結はハーブとスコーンの準備に取り掛かった。


 ハーブティーに選ばれたのは、ペパーミントとレモングラス、そして清涼感を際立たせるために微量のジュニパーベリーだった。結は、ハーブを小さな茶葉入れに入れ、伊織の指示通り、沸騰直後の熱い湯を注いだ。


「熱は、決断の熱だ。ぬるい湯では、澱みは流せない。一瞬で、全てを引き出せ」


 熱湯がハーブに注がれると、ジュニパーベリーの硬質な香気とペパーミントの透明な清涼感が爆発的に立ち昇った。

 立ち昇る湯気は、一瞬にして店の空気を一変させた。

 それは、湿った感情の淀みを吹き飛ばし、脳の奥まで清らかにするような、鋭く、透明な香りだった。

 結は、ハーブを蒸らすわずか数分間、彼女の呼吸が、今までよりも深く、均一になっていることに気づいた。

 ハーブの鮮やかな緑が湯の色を黄金色に変え、その一滴一滴が、迷いを許さない純粋な透明感を放っていた。


 次にスコーン。

 結は、上質な薄力粉と、徹底的に冷やされた無塩バターを用意した。

 伊織は、その工程の最中に、結に指示を出した。


「混ぜる際、手の熱は禁物だ。あくまで冷たく、バターを溶かさず、粉とバターが細かく分断された、砂のような状態サブラージュを保つんだ。愛着を残すな。そして、形を作るときは、躊躇せず、一気に生地を押し固め、切り抜け」


 結は、伊織の言葉に従い、過去の失敗の影に怯えることなく、バターと粉をサクサクとした手つきで混ぜ合わせ、冷たい牛乳を加え、生地をまとめた。

 力を込めて、丸く、分厚い形に成形し、鋭利なカッターでためらいなく円形に切り出した。

 それは、過去と未来を明確に分ける、境界線のようだった。


 スコーンは、竈の遠火にかけられたオーブンの中で、ゆっくりと、しかし確実に焼かれていった。焼成の途中で、冷たいバターが溶け出し、生地の層を押し上げ、スコーン特有のクラック(狼の口)が優雅に開き始める。

 その割れ目からは、「犠牲にした過去」と「切り開くべき未来」の二つの道が顔を覗かせているようだった。

 店内に、芳醇なバターと小麦の香ばしさが広がる。外側は黄金色にサクッと固く焼き上がり、内側はしっとりとした柔らかさを保っている。

 伊織は、焼き上がったばかりの熱いスコーンを二つ、清潔な白皿に盛りつけた。


「どうぞ。迷いを断ち切るための、ハーブティーとスコーンです」


 伊織は皿を女性客の前に置いた。


 まず、女性客はハーブティーの湯気を深く吸い込んだ。

 ペパーミントの、肺の奥まで届く清々しい刺激が、彼女の顔の焦燥感を一瞬で吹き飛ばし、彼女の瞳に明確な光を灯した。

 彼女は一口飲むと、「あ……」と、深く息を吐き出した。

 喉を通り過ぎたハーブティーの苦味と、その後の清涼な甘みが、彼女の心を「明確なYESかNOか」に引き戻していく。


「頭の中が、すっきりしました。まるで、古い水を全部入れ替えたみたい」


 彼女は、長らく連絡を待っていたはずのスマートフォンを、テーブルの端に裏返して置いた。

 もう、相手の応答に自分の価値を見出す必要はないと、本能的に理解したのだ。


 そして、スコーンに手を伸ばす。

 スコーンは、「手で割る」か「ナイフで切る」かの選択を、食べる者に強いる。

 彼女は、皿の横に添えられたナイフを手に取ったが、ふと止まった。

 ナイフは分離を意味する。

 しかし、彼女は自らの意志で力の行使を選びたかった。

 そして、両手でその分厚いスコーンを掴み、躊躇なく、パキッという乾いた音を立てて、二つに割った。


 その音が、静かな店内に響き渡る。

 それは、長引く曖昧な関係の糸が、一瞬で断ち切られた音のように、結の耳には聞こえた。


 伊織は、割られたスコーンを見て、静かに言った。


「スコーンは、割らなければ、内側の温かさには辿り着けない。そして、割ったからといって、二つが完全に崩れるわけではない。清々しいハーブティーは、割った後、未来に淀みを残さないためのものだ。その温かい内側を、自分の判断で、噛み締めるんだ」


 女性客は、割れ目から覗く、焼けた小麦とバターの香ばしい内側に、濃厚なクロテッドクリームと甘酸っぱい苺ジャムを塗った。

 その瞬間、彼女の指先にある小さなダイヤの指輪が、クリームの光を反射してキラリと輝いたが、彼女はもうそれを撫でることはなかった。


 彼女はその一片を口に運び、目を閉じて、その味を深く味わった。


 外側のサクサクとした決断の固さと、内側のバターの優しい温もり。

 クロテッドクリームのなめらかで重厚なコクが、過去の愛の重みを象徴し、甘酸っぱい苺ジャムの鋭い酸味が、新しい一歩を踏み出すための痛みと爽快感を与えた。

 そして、ハーブティーの鋭い清涼感が、すべての甘さと重さを流し、思考をクリアにしていく。


 彼女は目を開けた。

 そこには、迷いも未練もない、未来を見据える清々しい表情があった。

 まるで、重いコートを脱ぎ捨てたように軽やかだった。

 彼女は、裏返して置いたスマートフォンを静かに手に取り、メッセージアプリを開いた。


 スコーンを割ったのと同じ勢いで、彼女は長文のメッセージを打ち始めた。

 そのメッセージは、「私はもう、あなたの曖昧さに付き合わない」という、自分の境界線を明確にする、短く、しかし決意に満ちた言葉で締めくくられていた。

 それは、関係を終わりにするか、あるいは明確な線引きを求める、彼女自身が主導する、新しい未来へのメッセージだった。


 結は、伊織の料理の真髄を初めて垣間見た。それは、過去を再現する「懐かしさ」の料理ではなく、客に「今、行動しろ」と指し示し、「新しい自分」を定義づけるための儀式**なのだ。


(伊織さんの料理は、客の過去の延長線上にある『未来』ではなく、客自身が勇気を出して掴み取るべき『未来への指針』なんだ……)


 結は、伊織の持つ錆びたフライパンが示す「過去の重さ」と、ハーブティーが示す「未来への軽やかさ」の間で、伊織が今も戦い続けていることを悟るのだった。

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