第6話 初雪の頃のキノコのポタージュ
ポテトサラダでの経験を経て、結の厨房での動きは格段に変わった。
以前は完璧主義に囚われて全てを冷徹に処理しようとしていたが、今は食材の持つ「不完全さ」を活かすことを学んでいた。
季節は駆け足で進み、店の外の街路樹は最後の葉を落としきっていた。
空気はキンと冷え、冬の訪れを予感させる。結は、この静かな冷気が心地よいと感じ始めていた。
それは、伊織の教えによって、自分の心にも「土台」ができたからだろう。
その日、午前十時過ぎ、カウンターの奥の席に一人の女性客が座った。彼女は三十代後半だろうか。
上質なウールのコートを着ているが、その瞳の奥には、どこか未練のような迷いの色が滲んでいた。
手に持った封筒を、時折ぎゅっと握りしめている。それは、人生の大きな決断を記した書類のように見えた。
彼女の周囲には、冷たい外気とは別の、感情の「冷え」が漂っているようだった。
伊織は、彼女の微かな震えと、封筒を握る手の力を見て、静かに結に声をかけた。
「結。今日のまかないは、キノコのポタージュだ」
「キノコのポタージュ、ですか。寒い日には温まりますね」
「単に温めるのではない。今日は、『旬』とは何かを、あんたに体で覚えてもらう。キノコが最も香りを蓄えるのは、初雪の頃だ」
伊織は、棚から取り出した籠の中のキノコを指した。
それは、舞茸、しめじ、エリンギなど数種類。
「夏の雨に育ったキノコは瑞々しいが、この時期、地中に深く潜り、最後の力を振り絞って香りだけを凝縮させる。自然が冬眠に入る前の、深い決意の香りだ。この香りが、彼女の心の迷いを、静かに『決意』へと変えるだろう」
結は、その言葉にハッとした。
フレンチのレシピ本には、キノコの旬は載っていても、「自然の決意」などという情緒的な記述はない。
伊織にとって「旬」とは、ただの最盛期ではなく、生命の物語が最も濃密になる瞬間なのだった。
結は、伊織の指示に従い、キノコのポタージュを作り始めた。
まず、キノコを丁寧に掃除し、粗めに刻む。
今日のキノコは、伊織が山から仕入れた舞茸、平茸に加え、香りの深みを出すためのトランペット茸(黒ラッパ)が少量入っていた。
包丁がキノコの傘に触れるたび、森の湿った土と、晩秋の枯葉の混ざったような、深く、複雑な香りが立ち昇った。
さらに、伊織が乾燥させておいたポルチーニ茸を熱湯で戻した濃密な戻し汁を、静かに漉して横に控えた。
これこそが、香りに奥行きを与える「土台」となる。
次に、竈の弱火にかけた厚手の鍋に発酵バターをたっぷりと溶かす。
「火は、極めて弱く。キノコに焦りを覚えさせてはならない。バターは香りを運ぶ媒体、そしてキノコの水分を完璧に引き出すための、静かな熱源だ」
伊織の言葉に、結は慎重に火加減を調整した。
溶けたバターが黄金色の海になったところにキノコが投じられると、「ジュッ」という激しい音ではなく、バターの泡がキノコの表面で優しく弾ける「シュワ、シュワ」という、囁くような穏やかな音がした。
結は、木製のヘラを手に、キノコを優しく炒め始めた。
キノコが持つ水分がゆっくりと鍋底に滲み出し、鍋全体が霧がかったような湯気に包まれる。
やがてその水分が完全に蒸発すると、キノコは一気に旨みと香りを閉じ込める。これは、香りをベールのように幾重にも纏わせる作業だ。
鍋全体が、濃厚なトリュフのようなキノコの香りの湯気に包まれる。
結は、キノコが「汗をかき、そしてその汗が乾く」タイミング、つまりキノコの表面にわずかな焼き色がつく直前を見極めた。
この香りが、まさしく伊織の言う「凝縮された決意」の匂いだと、結は深く理解した。
タマネギを加えてさらに炒め、キノコが完全に柔らかくなったところで、ポルチーニの戻し汁と、伊織が引いた鶏のブイヨンを静かに注ぎ込む。
フレンチでは必ずフォン・ド・ヴォーを使うが、伊織のブイヨンは、鶏ガラだけでなく、土の恵みである根菜の皮や端材も一緒に煮込まれた、温かい故郷の味を感じさせる、透明感のある深みがあった。
ブイヨンの中でキノコが再び煮込まれ、香りが液体に完全に溶け込む。十分煮込んだ後、いよいよポタージュを滑らかにする工程だ。
結は丁寧にミキサーにかけ、ブイヨンとキノコが完全に一体となるのを見届けた。
ポタージュにおいては「舌の上で溶け合う温かさ」が重要だ。
ミキサーにかけた後、結はさらに、目の細かい漉し器を使い、木製のヘラで押し付けながら、繊維の一本一本まで徹底的に丁寧に濾していく。
こうすることで、舌触りがまるでベルベットのように滑らかになり、キノコの純粋な香りの粒子だけが残る。
鍋に戻し、最後に低温殺菌された上質な生クリームを少量加える。
クリームが加わると、ポタージュの色は薄い土色から、温かみのある象牙色へと劇的に変化し、とろりとした深みのある艶が生まれた。
塩、胡椒で味を調える際、結は初めて、客の顔を思い浮かべた。
(このポタージュは、彼女の心の冷たさを、キノコの深い決意で温める。)
完成したポタージュは、深いクリーム色のスープ皿に盛り付けられた。
ポタージュは皿の縁からとろりと優雅に広がり、重すぎない完 璧な粘度を保っている。
中央には、炒めたキノコとパセリの葉が散らされ、湯気は、まるで静かな秋の霧のように立ち昇り、キノコの奥深い香りを放っていた。
「どうぞ。初雪の頃のキノコのポタージュです」
伊織がカウンターにそっと皿を置いた。
女性客は、まず目の前に置かれた器から立ち昇る、晩秋の森のような芳醇な香りを深く吸い込んだ。
彼女は、握りしめていた封筒を、ようやく手放せる場所を見つけたかのようにテーブルの隅にそっと置いた。
スプーンを手に取り、ポタージュを一口含むと、彼女の瞳が一瞬大きく開いた。
それは、舌の上を滑り、喉を優しく通り過ぎるベルベットのような滑らかさだった。
キノコの深い土の香りと、それを優しく包み込む生クリームの温かさが、口の中のすべての感覚器を覚醒させる。
一口飲むごとに、冷え切っていた体の芯からじんわりと熱が広がり、硬くこわばっていた彼女の表情筋が、緊張から解き放たれるように、少しずつ緩んでいく。
彼女は次のスプーンを口に運ぶ前に、ゆっくりと目を閉じた。湯気から立ち昇るキノコの香りが、彼女の鼻腔と脳裏を満たし、迷いを許さない、一本の静かな意志を灯す。
「こんなに……キノコの味が深いなんて」
彼女はそうつぶやくと、スプーンを置いた。そして、封筒を再び握りしめるのではなく、手のひらを広げ、ポタージュの器の温かさを両手で包み込んだ。
その手のひらの熱は、まさに彼女自身が今、新しい人生の温もりを掴み始めた証のようだった。
「私、今朝、会社に辞表を出してきたんです。二十年勤めた会社です。怖くて、怖くて、これで良かったのか、ずっと迷っていて」
彼女は語り始めた。
伊織も結も、静かに耳を傾ける。
「でも、このスープを飲んだら……。このキノコの味、冬の準備をする、静かで力強い味がする。私も、もう迷わないで、次の季節の準備をしようって。そう思えました」
キノコのポタージュは、彼女の心に巣食っていた「変化への恐怖」を追い出し、「自然な移行」へと導いた。
結は、この日のポタージュを通して、伊織の言う「旬」の本当の意味を理解した。
それは、単に味の良い時期を指すのではなく、食材が持つ生命のドラマを抽出し、その物語を食べる人の心に届けること。
季節の変わり目とは、寒さではなく、新しい生命への準備期間であり、料理はその「準備」を始める勇気を与えるのだと、結は深く悟ったのだった。