第5話 怖さを乗り越えるためのシンプルなポテトサラダ
伊織の過去の断片に触れてからというもの、結の心の中は、店の奥に仕舞われた錆びたフライパンと同じように、得体の知れ ない不安で満たされていた。
伊織の隠された傷が、結自身の過去のトラウマを呼び起こし始めているように感じられた。
結の脳裏には、フレンチの有名店で犯した、たった一つの「不完全な塊」が、巨大な影となって張り付いていた。
その日の午前中、伊織は、結に翌日の仕込みを任せた。
「明日の仕込みは、このジャガイモを茹でて潰すところまで頼む。
あとは、適当に冷蔵庫で冷やしておいてくれ」
伊織がカウンターに置いたのは、土の香りが残る、ゴツゴツとした無骨な男爵イモだった。
結は、そのジャガイモを見た瞬間、体の芯が冷え込むのを感じた。
「ジャガイモ……」
結のフレンチのキャリアを打ち砕いた、決定的な失敗。
それは、完璧な火加減と滑らかさを要求されるジャガイモのピューレだった。
当時の結は、技術に驕り、客の評価を気にしすぎた結果、些細なミスを許容できず、すべてを台無しにした。
あの時のジャガイモの重さと冷たさが、結の失敗の象徴として、深く心に刻まれていた。
結は、ゴム手袋をはめ、ジャガイモを丁寧に洗い始めた。
濡れたジャガイモが手のひらでヌルリと滑るたび、結の胸に過去の師匠の冷たい嘲笑が蘇る。
結の耳の奥で、「この硬さは何だ!プロの仕事じゃない!」という怒声が響き渡る。
厨房の熱気、焦燥感、そして自分の未熟さが、ジャガイモの重さに凝縮されているようだった。
そして、皮を剥くための鋭い包丁を握った瞬間、結の手が微かに震え始めた。汗で滑る包丁が恐ろしい。
過去の光景がフラッシュバックする。客からのクレームが書かれた紙。
そして、結が作り上げたはずのピューレに残っていたわずかなジャガイモの塊。あの塊が、結のプライドとキャリアを粉々に砕いた。
結は、包丁の刃先が自分の指に向かうのを感じ、咄嗟に手を引いた。
包丁がカランと音を立ててまな板に落ち、その音は、静かな店内に響き渡る。
まるで、結の心の防波堤が崩れる音のようだった。
結は、その場に立ち尽くし、呼吸が浅くなるのを感じた。
「結」
伊織の静かな声がした。
伊織は、いつの間にか結の背後に立っていた。
伊織は、結の蒼白な顔、震える手、そしてまな板の上に転がるジャガイモを見て、全てを察したようだった。
「無理をするな。そのジャガイモの重さは、あんたの過去の重さだろう。だが、重いからといって逃げてはいけない。触れるんだ」
伊織はそう言うと、静かに包丁を拾い上げ、所定の位置に戻した。
「火にかけて、茹でるまでは私がやる。だが、その後の『潰す』工程は、あんたにやってもらう。今日のまかないは、シンプルなポテトサラダだ」
伊織が命じたのは、フレンチの繊細なピューレとは対極にある、庶民的で素朴な料理だった。
伊織は続けた。
「ポテトサラダには、あんたが求める『完璧な滑らかさ』は必要ない。むしろ、適度な粗さ、ジャガイモが持つ泥臭い温かさが命だ。必要なのは、テクニックではない。心を込めることと、自分の手で触れた感触を信じることだ」
伊織の言葉は、結の凝り固まった料理観を、根底から揺さぶった。
完璧でなければ、プロではない。
そう教え込まれてきた結にとって、「不完全さの容認」は、恐ろしいほど新鮮な概念だった。
伊織はそう言って、ジャガイモを茹で始めた。
竈の火は、均一で柔らかな熱を静かに伝え、ジャガイモは内側からゆっくりと、しかし確実にとろけていく。
しばらくすると、皮の一部がホウっと裂け、そこからジャガイモの白い粉質が微かに噴き出した。まさに「ホクホク」の証だ。
やがて、ホクホクに茹で上がったジャガイモが、熱い湯気を立てて結の目の前に置かれた。
その湯気は、湿気を含んだ過去の厨房の熱とは違い、純粋なジャガイモの生命力に満ちていた。
「ひとつだけ約束しろ。このジャガイモを、あんたの納得がいくまで、ただひたすらに丁寧に潰せ」
結は、熱さに指先を痺れさせながらジャガイモをボウルに入れ、マッシャーで押し潰し始める。
(潰す。ただ、潰す。滑らかさなんて、今はどうでもいい。求められているのは、温かい泥だ。)
マッシャーが熱いジャガイモの繊維を押し切るたび、「ホク、ホク」という心地よい音が静かな店内に響く。
グイ、グイ、と力を込めるたび、湯気が立ち昇り、ジャガイモの素朴で甘い香りが結を包んだ。
熱い塊が、マッシャーの圧力によって、形を失い、温かい泥のようになっていく。
結は、この単純な作業に集中することで、過去の失敗の幻影から少しずつ解放されていくのを感じた。
彼は、あえてマッシャーを完全に下まで押し付けなかった。指先に伝わる微かな抵抗感。
それは、潰しきれずに残った小さなジャガイモの塊だった。
フレンチ時代なら、それこそが失敗の証であり、恐怖の対象だった。
しかし今、結はそれを「ジャガイモの存在の証」として受け入れた。
この塊があるからこそ、ポテトサラダはホクホクとした食感と、素朴な優しさを保てるのだ。
結がマッシャーに込める力は、過去の失敗で凝り固まった自分の心臓を、もう一度動かそうとする力に変わっていった。
潰し終えたジャガイモは、フレンチのピューレのような「冷徹な均一さ」とは無縁の、素朴で表情豊かなテクスチャを保っていた。
次に、具材の準備。玉ねぎは繊維を断つように極薄くスライスされ、氷水にしばらくさらして丁寧に辛味が抜かれる。
キュウリは薄い輪切りにされ、塩で揉まれた後、結が手のひらでギュッと握りしめて水気を絞る。
水気を絞り切ったキュウリは、パリッとした食感を保ち、サラダの水分量を完璧にコントロールする。
そして、ハムは均一な拍子木切りにされた。
それらを潰したジャガイモに混ぜ合わせる。
そして、伊織から渡された自家製のマヨネーズ。
それは、市販品とは一線を画す深い黄金色をしており、酸味は控えめで、卵黄と良質なオイルの深いコクと、微かなマスタードの風味が香る。
すべてを手作業で作られた温かみがあった。
結は、ゴムベラで、まだ熱を帯びたジャガイモと冷たいマヨネーズが優しく混ざり合う様子を見つめた。
ジャガイモの熱がマヨネーズのコクを少しだけ引き出し、全体に馴染ませていく。
その瞬間、結の心の中で、過去の冷たさと今の温かさが混ざり合い、新しい「基本の味」が生まれるのを感じた。
塩、胡椒で味を調える作業は、初めて心が震えることなく、冷静に行えた。
結は、味見のための小さなスプーンを手に取り、恐る恐る口に運んだ。
「……!」
それは、何の衒いもない、正直な味だった。
ジャガイモの素朴な甘みが主役となり、マヨネーズがそれを優しく包んでいる。
そして、所々に残されたジャガイモの小さな塊が、不意にホクッと口の中で崩れる。その不完全さが、結に安心感を与えた。
過去の失敗に囚われ、複雑な味付けで完璧を求めようとしていた結にとって、このシンプルな味は、料理の「土台」の温かさを思い出させた。
「できたか」
伊織が尋ねた。
結は、涙腺が緩むのを感じながら、初めて伊織に正直な言葉を返した。
「はい。……あの、あの時、俺はジャガイモの塊一つで、全てが怖くなったんです。完璧じゃないと、料理じゃないと……」
伊織は、結が作り上げたポテトサラダを一匙掬い、静かに味わった。
「そうか。だがな、結。完璧さなんて、この世のどこにもない。料理はな、誰かの失敗や傷を、そっと隠す役割も担っている。だが、時には、傷を隠さず、そのままの形で受け止めることも必要だ。このポテトサラダのように、泥臭く、しかし温かい。ジャガイモの塊は、あんたの失敗の証ではない。この料理に深みと愛を与える、あんた自身の『基本』の塊だ」
伊織は、結の心のトラウマを「克服しろ」とは言わなかった。ただ、「受け入れろ」と語った。
結は、このシンプルなポテトサラダを口に運びながら、自分の過去の失敗は、消し去るべき汚点ではなく、この店の土台となるジャガイモの優しいデンプンなのだと、初めて理解するのだった。
彼にとって、ポテトサラダはもう、恐怖の対象ではなかった。
それは、再出発を誓う、温かい決意の味に変わっていた。