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よろず料理店 ほろほろ日乗  作者: 枕川うたた


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第48話 二代目よろず料理店

伊織が店を去ってから数週間が経過した。


「よろず料理店」は、見た目には何一つ変わっていない。

磨かれたカウンター、年代物の木戸、そして厨房から漂う穏やかな出汁の香り。

しかし、結にとっては、すべてが新しい重圧と責任に満ちていた。


伊織不在の厨房は広大で静かだった。

以前は伊織の低く響く声や、迷いのない包丁さばきの音が、結を導いていた。

今は、すべてを結自身が判断し、実行しなければならない。

結は毎日、師匠の教えを何度も反芻しながら、店を守り続けていた。


「この出汁の引き方で本当に良いのか?」「今日の太刀魚は少し身が薄いのではないか?」


かつては一瞬で決断できたことが、今ではいちいち立ち止まる原因となる。

結は、伊織がどれほど巨大な存在であったかを、一人になって初めて痛感していた。


そんなある日の昼下がり、店に一人の客が入ってきた。


細身で高身長。

仕立ての良いダークスーツに身を包み、まるで店の空気とは隔絶したかのように見える男だった。

年の頃は四十代前半だろうか。


結が「いらっしゃいませ」と声をかけても、男は何も答えず、一番奥のカウンター席に座った。


結は静かに尋ねた。

「当店は、おまかせのみでございます。本日の献立を始めさせていただきますが、何かお苦手なものはございますか?」


男は、一切の感情を乗せない平坦な声で、わずかに首を振った。

「構わない」


その声は驚くほど平坦で、まるで感情という名の波が一切立たない湖面のようだった。


結は彼の顔を見た。

目鼻立ちは整っているが、彼の表情は少しも動かない。

口元には微笑みもなく、眉間にシワが寄ることもない。

まるで、顔の筋肉が石膏で固められたかのように、完全に無表情だった。


結は思わず心の中で、彼を「鉄仮面てつかめん」と名付けた。


結は緊張した。

料理人にとって、客の表情は最大のフィードバックだ。

一口食べた瞬間の「ああ、美味い」という安堵の表情。熱い汁物に目を細める顔。

それが結の料理を次へと進めるエネルギーになる。


しかし、鉄仮面は何を食べても、一切表情を変えなかった。


結は最初に季節の揚げ出し豆腐を出した。

熱々の衣、そしてとろりとした餡。


男は一切の音を立てず、皿の上の豆腐を箸で丁寧に割り、出汁と共に口に運んだ。

その所作は完璧で、美しさすら感じるほどだ。

口に運ぶ速度、咀嚼の回数、すべてが冷徹な規律の下にあるかのように一定のリズムを保っている。

まるで、「食事を義務としてこなす機械」を見ているようだった。


結は次の料理、平目ひらめの薄造りを出す。

男は山葵を醤油に溶かず、わずかに切り身に乗せて食した。

その間も、彼の顔の角度も、目の瞬きすらも変わらない。

美味しさのサインも、不満の影も、全く判断できなかった。

ただひたすらに、孤独な遠い目で、皿の上の一点を静かに見つめているだけだ。


伊織なら、この客にどんな料理を出すだろう?


頭によぎったのは伊織の言葉だった。


「客を尊重しろ。だが、客の機嫌を窺うな。お前の心で客の魂を読め」


結は、鉄仮面を改めて観察した。

彼の目は疲れている。

食事中も、時折遠くを見つめ、何かに深く集中しているように見えた。

彼は空腹を満たしたいのではない。心を休ませたいのだ。

しかし、彼の立場がそれを許さない。

誰にも弱みを見せられず、強靭な鎧をまとっている。

彼の「遠い目」は、外の世界から自分を守るための、自己防衛の檻なのだ。


そのとき、結の心の中で、出すべき一皿が決まった。


結は、今日の料理の総決算として、椀物を作ることに集中した。


伊織が得意とした力強く複雑な出汁ではなく、結が今朝引いたばかりの一番出汁を用いる。

その出汁は、上質な真昆布と枯節かれぶしを控えめに使い、まるで研ぎ澄まされた水のように透き通り、ほのかな海の香りをまとう。

これが、結の料理の根幹となる優しく繊細な静けさの味だった。


具材には、走り(旬の始まり)に入ったばかりの松茸まつたけを選んだ。

まだ強い主張はないが、その清らかな香りは、疲れた心をそっと包み込む力がある。

結は松茸を手に取り、神経を集中させて、光が透けるほど極限まで薄くスライスしていく。

その断面は滑らかで、皿の上に置くと、宝石のように輝いた。


次に、椀の主役となるのは、透き通るような白身の真鯛だ。

鯛の切り身を椀に丁寧に盛り付け、その上に薄造りの松茸をそっと重ねる。

そして、秋の深まりを感じさせる鮮やかな翡翠色の銀杏と、すがすがしい香りの三つ葉の緑を添えた。

すべての具材が、漆黒の椀の中に、計算され尽くした一つの静謐な景色を描き出す。


結は出汁を静かに火にかけ、温度計ではなく、指先の感覚でその温度を探った。

沸騰直前の八十五度前後―――この繊細な温度こそが、結のこだわりだった。熱すぎれば鯛の身は固くなり、松茸の香りは急激に揮発してしまう。

冷たすぎれば、客の体が求める温もりが伝わらない。

体の中を静かに流れ、優しく染み込むような、魂を緩める温度。


結は、出来上がった「松茸の薄造りと鯛の椀物」を鉄仮面の前に置いた。


「どうぞ、季節の椀物です」


男は、初めてわずかに視線を動かし、椀に注目した。

椀の蓋を開ける手も、これまでの機械的な動きではなく、どこか期待と緊張が入り混じった、人間らしい遅さだった。

立ち上る湯気は少なく、代わりに松茸の清冽な香りが静かに広がる。


男はまず、透き通った出汁を、小さな音を立てて一口飲んだ。


そして、その瞬間。


結は、彼の顔の頬の筋肉が、ほんのわずかに、しかし確実に緩むのを見た。

それは瞬きほどの短さだったが、結には永遠のように感じられた。

彼は目を閉じることなく、ただ、体の中の緊張の糸が、一本だけ解かれたように見えた。


彼の喉を通り過ぎた出汁は、単なる熱い液体ではなかった。

それは、彼が何年も意識的に遠ざけていた、「優しさ」の記憶を揺り起こすものだった。

昆布の静かな旨味、枯節の清らかな香りが、彼の舌の上で何の抵抗もなく溶け合い、そのまま胸の奥へと流れ込んだ。


(ああ、許されるのか。この一瞬だけ、すべてを忘れ、鎧を脱ぐことを)


鉄仮面の心臓が、まるで長い冬眠から覚めたかのように、かすかに、しかし確実に脈動した。

彼は重圧と義務感で固められていた体の中から、初めて自分自身に戻れた感覚を覚えた。


男は、箸を上げ、薄造りの松茸と鯛を一緒に口に運んだ。

松茸の極上の歯触り、そしてその後に来る清らかな香りが、疲弊した彼の嗅覚と味覚を優しく呼び起こす。

鯛の身は出汁の熱でふっくらと柔らかくなり、噛むたびに淡い甘みが広がった。

彼は食べる速度をわずかに緩め、初めて「味わう」という行為に集中した。


男は静かに椀を空にした。


会計の際、男は財布をしまいながら、一瞬の沈黙の後、ほとんど聞こえないほどの小さな声で言った。


「……美味かった。この椀物には、静けさがあった」


それは、今まで彼が発した言葉の中で、最も感情が込められたものだった。


「静けさ」


それは、彼が何よりも渇望していた、心の休息そのものを表していた。


男はそのまま勘定を済ませて、街の雑踏へと消えていった。


結はカウンターにもたれかかり、大きく息を吐いた。

初めて、師匠のいない店で、客の心を読み、自分の料理で応えることができたのだ。


師匠の伝統を受け継ぎつつも、結は師匠のような力強い味ではなく、細やかで、そっと客の心に寄り添うような、自身の料理のスタイルを確立した。


結は、誰もいない厨房を見渡し、小さく呟いた。


「師匠。私、やりましたよ」


新しい季節の風が、よろず料理店の木戸をそっと揺らした。

それは、二代目店主、結の確かな自立の音だった。

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