第47話 継承、味の門出
一夜明けても、「よろず料理店」の空気は昨日とは違っていた。
再開発の危機は去り、そして、伊織が店主の座を退いたのだ。
朝の光が差し込むカウンターで、伊織は静かに、磨き上げられた木の看板を差し出した。
看板には、長年この街を見守ってきた「よろず料理店」の文字が刻まれている。
「結。この看板と、この鍵。今日からお前のものだ」
結は両手で看板と鍵を受け取った。
重い。
木の重さだけではない、この店が積み重ねてきた歴史と、伊織の料理人人生、そしてこの街の人々の記憶の重さだった。
「伊織さん……」
「余計なことは言うな。もう、私に遠慮する必要はない」伊織は微笑んだ。
その日、二人は開店準備のために厨房に立った。
しかし、伊織はいつもの定位置であるコンロの前には立たず、カウンターの仕込みや、朝の仕入れの確認といった裏方に徹した。
結は慣れない場所で、少し戸惑いながらも、いつものように味噌汁の出汁を取り始めた。
伊織は結の手元をちらりとも見ない。
結は意を決して伊織に尋ねた。
「あの、この出汁の香り、少し薄いでしょうか。もう少し鰹を足すべきでしょうか?」
伊織は手に持った拭きんを動かす手を止めずに、言った。
「私がアドバイザーとしてここにいるのは、お前が本当に困り果て、店の経営や、お前の命に関わるような大きな問題に直面したときだけだ。料理については、一切口を出さない」
伊織は振り返り、結の目を見た。
その瞳は優しく、そして厳しかった。
「この店の味は、昨日で一度途切れた。そして今日から、お前の味が、これからのこの店の味だ。私の助言を求めるな。お前の舌と、お前の心に従え。それが、店主としての第一歩だ」
結は息を呑んだ。
伊織は、最後まで自分を試しているのではない。
心から、自分の独立を尊重し、信じてくれているのだ。
「はい、師匠」
それ以降、結は伊織に何も尋ねなかった。
自身の感覚と、過去の膨大な経験を頼りに、今日一日の仕込みを、一人でやり遂げた。
すべての仕込みが終わり、開店前の静寂が店を包む。
伊織はコンロの前に戻った。
今日、この厨房で火を使うのは、これが本当に最後だ。
彼は結のために、旅立ちの賄い飯を作り始めた。
その一皿は、「二代目の旅立ちの鯛茶漬け」だった。
まず、伊織は、結が好む上質な真鯛を扱う。
その身は鮮やかな桜色に輝き、包丁の刃が触れるたびに「シャクッ」と小気味よい音が響いた。
一切れ一切れ、厚すぎず薄すぎず、熱い出汁をかけたときに最も美味しく花開くよう、神業的な精度で切り分けられていく。
次に、鯛を和えるごま味噌を作る。
香ばしく煎った白ごまを丹念に擦り、少量の醤油と合わせる。
このとき、伊織は代々受け継いできた秘伝*煎り酒を、わずか一滴だけ加えた。
梅の爽やかな酸味と日本酒の深みが、ごま味噌のコクに加わる。
それは、伊織の伝統と歴史の味。鯛の切り身は優しくこのごま味噌に絡められ、艶やかに輝きを放った。
そして、熱々の出汁。
伊織が使うのは、結が今朝引いたばかりの、少し控えめな鰹節と昆布の出汁を、あえてそのまま使った。
伊織は寸胴の出汁を火にかけ、沸騰直前の八十度前後の絶妙な温度で火を止める。
「お前にしか出せない、素直で優しい出汁だ。これを、お前の門出の味とする」
白いご飯の上に、ごま味噌に和えられた鯛の身が丁寧に盛り付けられ、刻み海苔と少量の山葵が添えられた。
伊織がカウンターに置いたのは、純白の鯛の刺身と、香ばしいごま味噌、そして澄んだ琥珀色の出汁。
伊織の精緻な職人技と、結の個性が融合した、未来への融合の味だった。
結は茶碗を手に取り、出汁を鯛の上からゆっくりと注ぐ。
湯気が立ち上り、一瞬で鯛の身の表面が白く変化する。
ごま味噌と煎り酒の香りが、優しくも力強い出汁の香りと共に、結の鼻腔をくすぐった。
結は一口食べた。
「……!」
優しい出汁が、伊織の伝統の深みを包み込んでいる。
それは、別々の味がぶつかり合うのではなく、お互いを尊重し、高め合うような、完璧な調和だった。
結は涙をこらえながら、最後の一滴まで飲み干した。
「ごちそうさまでした。一生忘れません」
伊織は立ち上がった。
「もう行くぞ、結」
「師匠。本当に、ありがとうございました」
結は深く頭を下げた。
顔を上げると、伊織はすでに木戸の前に立っていた。
「感謝は、料理で返せ。お前の作る料理は、すべてこの街への感謝となる。私は陰ながら見ている」
伊織はそう言い残すと、木戸を開け、静かに外へ出た。
朝のざわめきに紛れて、彼の後ろ姿はすぐに消えていった。
店主としての彼の人生は、静かに、幕を閉じたのだった。
結は一人、厨房に立つ。
手元には、重い鍵と、師匠の温もりが残る賄い飯の茶碗。
結は深く息を吸い込み、決意の表情でエプロンの紐を強く結び直した。
「よーし。二代目、よろず料理店、結。開店だ」




