第46話 最後の決断
「よろず料理店」の木戸をくぐったのは、一人の男だった。
黒いスーツに身を包んだその男、黒崎。
彼の顔は無表情というよりは、感情そのものを凍らせたような、硬い鉄仮面のような様相を呈していた。
結は息を呑む。
この男が、この店と、この街の未来を左右する再開発アドバイザーだ。
彼女が反射的に伊織を見上げると、伊織は静かに頷き、穏やかながらも、どこか張り詰めた目で黒崎に席を勧めた。
黒崎はカウンター席に座ると、視線を伊織に固定したまま、低く、押し殺したような声で言った。
「……親子丼を。貴方の、一番自信のある親子丼を」
それは挑戦状のようにも、最後の審判を求める願いのようにも聞こえた。
伊織は無言で頷き、奥の厨房へ入る。
結は緊張で手が震えるのを感じたが、伊織の背中には、一切の迷いが見られなかった。
伊織は丼をカウンター越しに差し出す。
「お待たせいたしました。『心』の親子丼です」
黒崎は箸を取る手がわずかに震えた。
彼は一口、ゆっくりと口に運ぶ。
瞬間、黒崎の鉄仮面が、かすかに、そして決定的に崩れた。
噛みしめるごとに、温かい出汁が口の中に広がる。
濃いモモ肉の旨味は彼が追い求めた「成功」の味であり、淡白な胸肉の優しい味わいは、彼が失って久しい「家庭」の温かさだった。
そして、このすべてを包み込む二層の卵は、彼自身が過去と現在を乗り越え、未来へ進むための「許し」の象徴のように感じられた。
黒崎の目から、一筋の涙が流れた。
彼は音もなく泣きながら、夢中で丼を掻き込んだ。
完食後、黒崎は静かに箸を置き、ハンカチで目元を拭った。
彼の顔には、もう硬い表情はなかった。
「……美味しかった。これほど、私の心を見透かし、私自身に語りかけてくる料理は、初めてだ」黒崎は静かに言った。
「貴方は、私が求めていたもの、そして失っていたものを、すべてこの丼に込めた」
彼は姿勢を正し、伊織に深く頭を下げた。
「再開発の提案は、私が責任をもって撤回し、店の存続を全面的に支援します。貴方の料理は、金や効率では測れない、この街に必要な『価値』です」
伊織は微笑み、深々と頭を下げた。
長年のわだかまりが、一つの親子丼で解消された瞬間だった。
「ありがとうございます、黒崎様」
そして、伊織は静かに立ち上がり、結に向き直った。
「結」
「はい、師匠」
「この店は、存続する。そして、この看板の重みは、お前に託す」
結は驚きで言葉を失った。
「わ、私に、ですか?」
伊織は、結の肩に優しく手を置いた。
「ああ。私は、この店主としての役目を終えた。だが、この店に留まる。ただし、この店の厨房に立つのは、今日限りで終わりだ」
伊織の瞳は、未来への自由な光に満ちていた。
「私は、お前の店の『裏方』となる。朝の仕入れや、店の運営で本当に困ったときだけ、そっと知恵を貸す『見守り役』だ。私は料理人としての道は続けるが、それはこの店とは別の場所で探求する」
結は安堵と緊張がないまぜになり、目から涙があふれた。
師匠が近くにいるという心強さと、それでも自分一人で店を回さなければならないという重圧。
「この街で、お前の隣人として見守らせてもらう。だが、厨房に立つのは、もうお前だ。『よろず料理店』の二代目として、お前の道を歩め」
結は力強く頷いた。
「はい、必ず、この看板を守り、師匠の助言を受けながら、私自身の味を探求していきます」
黒崎は静かに立ち上がると、伊織と二代目を務める結に、再び深く一礼した。
彼の背筋は伸びていたが、以前のような傲慢な固さはなく、むしろ柔らかな決意が感じられた。
「ごちそうさまでした。この味と、この店が、永遠にこの街に残ることを願っています」
彼はそう言い残し、ゆっくりと店の木戸を開けた。
夕日が差し込み、彼の後ろ姿を照らす。黒崎は振り返ることなく、そっと木戸を閉めた。
その音は、彼自身が過去と決別し、新たな一歩を踏み出した静かな宣言のようだった。
伊織は満足げに微笑む。
店主としての最後の決断を下し、最大の難題を乗り越えた伊織の心は、晴れやかだった。
彼にとって、店主としての主要な役目は、この黒崎との対話をもって、静かに幕を閉じたのだ。




